* * * * * * *
ここは、西洋より西に位置する、東は海に面しながら、三方を大陸と境を接している、堅実な女王の支配している王国だ。
春になれば色とりどりの花が咲き乱れて、夏は若葉が生い茂って、あらゆる小さな生命達が、黄金色の陽射しに照りつけられた大地のあちらこちらで、その鳴き声を交わす。秋は町が活気づく。芸術家達は競って祭りに貢献して、商人達は人々の暮らしをより潤わせる。冬は、こまやかな粉雪の舞う中で、恋人達がそっと寄り添う。
町はさしあたり絵画だった。自然と調和した明るい景色を彩る家々、屋敷、教会、店屋は、腕のある建築家達が、各々の技術とセンスを惜しみなく注ぎ込んだ傑作ばかりだ。
瞬く間に、全て壊れた。
五年前、南方の隣国との間で諍いが起きて、水面下で冷戦となって脹んでいった。それがとうとう表面化したのだ。
両国は、互いに軍を動かして、敵国へ攻め入った。さしずめ芸術品の建物は、爆弾や鉄砲の的になって、瓦礫の山に変わり果てた。
残ったのは、悲しみに暮れる人々の顔と、かつては栄華を極めた町の廃墟だ。
アンジェは、この国の王家と親密な関係にある侯爵家の一人娘だ。
生まれ育った家こそ王家と親しい間柄にある。アンジェは、さりとて両親みたいな忠臣ではない。アンジェは、両国の破滅を願っていた。
この戦に不満がある。敵国ではない、戦そのものに不満があった。隣国、つまりここが戦を交えている国こそ、恋人の故郷だからだ。
アンジェは煙たいような漆黒の天幕に月が昇る頃、祖国と、そして南方にある隣国の境目にいた。
森林に囲まれた獣道である所以か、ここだけは、夜になると警備が緩む。
身なりは今宵も完璧だ。アンジェは赤錆色の巻き毛を下ろした頭に、それより濃厚な真紅の薔薇の造花とリボンのあしらってあるボンネットを被って、同系色のドレスをとりあわせていた。ドレスの、ローブアラフランセーズの前身頃は、縦に並んだ全てのリボンの結び目にガラスの薔薇が留めてあって、翼に見まがおうほど大きな腰リボンの影がふんわり被さったスカートに、二段のバッスルが施してある。やはり赤い花びらを聯想するフリルの裾から、白いドットチュールのパニエのレースがちらちら覗く。レース編みの風呂敷にくるんだ荷物だけが、やたらと大きくて、不格好だ。
もっとも、今、アンジェと肩を並べて同じ岩石に腰を落ち着けている少女ほど、まばゆい佇まいの令嬢はいまい。少女、つまりシエラこそ、アンジェの最愛の恋人だ。
シエラはたおやかな顔立ちに小さな肩、すらりとした肢体をしていて、色素の薄い金髪に、白い肌、鈴を転がすようなその声は、まるで天使だ。その可憐な風貌に、苺ミルクを更に淡くした色彩のドレスが、よく似合う。
「アンジェと一緒の国で暮らして、アンジェが女王で、あたしも女王。あたし達の気に入った女の子を後継者に任命して、徴兵制度や税金はなし。あたし達は果物を育てて生活して、民が皆、いつも笑顔で暮らせる国。……途方もない夢だったのかな」
シエラの口調は、お伽噺でも暗唱しているみたいなそれだった。
いつか、シエラが話していた理想(ゆめ)だ。
アンジェはあの時、シエラの突拍子もない夢物語に苦笑しながら、本当にそうなればどんなに良いかと、胸奥では焦がれて仕方なかったものだ。
あの頃は、戦が今ほど深刻ではなく、互いの国を往き来していた。確か、今夜のように月が綺麗な、アンジェがシエラの屋敷を訪ねていた夜のことだった。
「シエラとこうしているようになって、七年。戦が起きたのは五年前ね。六年前に、君をお嫁にもらっておけば良かったかしら」
「あれから国籍を移すのも禁じられるようになって……そうね。二度と故郷に戻れなくても、早くアンジェと一緒になっておけば、警備の目を眩ませて、皆に内緒で合ったり、こそこそしなくて済んでいたでしょう。恨むわ、貴女を」
シエラの唇から、悪戯っぽい笑みがこぼれた。言葉とはよそに、その声音はどこまでも優しくて、胸が迫る。
これが最後の密会だ。二人が今夜、会っているのは、ある約束を叶えるためだ。こんな、国同士の事情に巻き込まれてばかりの、馬鹿げた日々を終わらせたい。
アンジェは、シエラの折れそうに細いウエストを引き寄せる。
残暑のしつこい葉月の暮れでも、夜は、まだ少し蒸し暑い。それでもこのぬくもりは別格だ。どんな季節(とき)でも感じていたい。
「クーデターの方法は、見付からなかったわ」
やっぱり、と、涼しげな甘いソプラノの声がした。
「代わりに、シエラの国と私の国、この程度の範囲なら沈没させられる魔術を預かってきた。この水晶には、国一番の魔術師の霊気が吸い込ませてある。それからこれは、私達みたいな素人にも術が使えるよう、魔境の鳥から採取した骨。あとはここに、術の方法が書いてある」
「魔術師の人、よくこんなものをくれたわね」
「国一番の長寿なの。色々、もう満足しているのですって。それに、彼女には自分の来世をコントロールする力がある。私が事情を話したら、顔色一つ変えないで、頼みを聞いてくれたわ」
アンジェは、風呂敷から出したものを見つめていた。
これで何もかも滅ぼせる。
本来なら、シエラを連れて、安全な場所へ避難してからこの魔術を行いたい。だが、二つの国を脱け出すルートはない。自爆の覚悟はやむを得ない。
「シエラ」
アンジェが首を動かすと、シエラの、うっとりするほど綺麗な黒曜石の瞳が、間近にあった。
「──……」
「…………」
アンジェの右手に、シエラの左手が重なってくる。
アンジェはシエラの頬を撫でて、二人、今にも唇が触れ合おうほど近付いたところで、本当にその甘い花びらをそっと啄む。
この世で交わす最後のキスは、夢のように甘くてかなしい。
時が止まってしまえば良いのに。
そんな、陳腐な恋愛小説にしたためてあるようなフレーズが、頭を掠める。されど時は動き続ける。愛慾も、同様だ。子供じみたキスだけではとどまらない。
夜が明けるまでに壊せば良い。アンジェの国とシエラの国の滅亡は、決して、この愛の終わりではない。
「ん……、アンジェ……」
二人、楽園こそつくれなかった。それでもアンジェは、たった一人、戦の荒波に呑まれて花と散るより、この美しい人と地獄へ一緒に行く方が、ずっと良い。
「シエラ……」
世界が無にも等しい闇の静けさに包まれていった頃、二人、禁断の儀式にとりかかった。
* * * * * * *
端坂ほなつ(はなさかほなつ)は、この世のものならざるところらしい場所にいた。恋人の槻浦かずな(つきうらかずな)も一緒だ。
三方を樹海に阻まれていて、振り向けば、どんより濁った海が広がっていた。
ここがどこか、今がいつか、分からない。
暫しの間、眠っていたことは覚えている。その間に迷い込んできたようだ。
空も、海と同様、汚れた絵の具で塗りたくったみたいな色をしていた。
ほなつ達が脱出方法を探っていると、先住民がやってきた。それから二人、彼の屋敷に招かれた。
屋敷の中は、裁判所だった。もっとも、その構造は、現世では見かけられないへんてこなものだ。
ほなつは、わけの分からない審議が繰り広げられてゆく内に、屋敷の主が、冥界の閻魔大王だと分かった。それと同時に、ここがその、俗に言うあの世であることも分かった。
裁判中、ほなつとかずなは、全く蚊帳の外に置かれていた。審議の中身は、二人に関わるものなのに、その判決すら初めから決まっているムードだ。
ややあって、案の定と言うべきか、裁決が下された。
貴女達は地獄行きに決定しました。
ほなつは、そこで抜け落ちていた記憶を取り戻した。
昨夜、今隣にいるかずなと一緒に、ヒ素を仰いだのだ。こんな裁判所ではない、それでいて、やはりこんな風に物事の善悪が審査される施設にいて、その一角で、懐に潜ませておいた方舟(はこぶね)を解禁したのだ。
一人の女が、裁判所に呼び出されてきた。
ほなつとかずな、二人の身柄は、その女に引き渡された。
女は、地獄の総監督の一人だという。その風采は、よく見るととてもあどけない。
むしろ少女の姿をした彼女は、名前を、しいらといった。
しいらは月の光を吸い込んだようにまばゆい金髪に白い肌がよく映える、パステルピンクのドレスに身を包んでいて、その見目だけなら天使だ。頭に乗った大きなリボンもさることながら、その出で立ちは、全く地獄の幹部と信じ難い。
しいらに付いて樹海を抜けると、草原が見えてきた。
ほなつはかずなと、しいらの後に従って、瑞々しい緑の風がそよぐ草原に踏み入る。
草原は、色とりどりの花を咲かせた芝生のあちこちに、大樹が聳えていた。木々はどれも、無数の果実を実らせていた。果実は、一つ一つが、うっすら七色の艶を放っていた。青空から降り注いでくる陽の光が反射して、きらきら輝いている。
これでは神話でまみえるエデンだ。ただ、違うのは、この果樹園の向こうの方に、やけに近代的な屋敷があるのと、果実から、呻き声と思しきものが聞こえてくるところだ。
「ここが地獄?」
「あたしのパートナーとあたしの領地です。地獄の隅っこ。そして、地獄の中でも特に重たい罪を背負った魂達の集まるところです」
ほなつの隣で、かずなのしいらより健康的な血色のあるかんばせが、一瞬、蒼白になった。
「ご心配なさらないで下さい。かずなさん」
「心配するなって言われても……」
「まずはお茶をして、ゆっくり話し合いましょう。パートナーが美味しいクッキーを焼いてくれていますから、ご馳走させて下さいな」
しいらが天使みたいに笑った。
ほなつはかずなと、もう脱出の希望も手放して、しいらの背を追っていった。
しいらの屋敷は、その外観も内装も、全てが白で成り立っていた。花や額縁、竿にかかった洗濯物や食器棚の中身だけが、色づいていた。
ほなつとかずなは、しいらのパートナーと名乗る少女と対面した。
件の少女も、やはり地獄の総監督らしくない風采だ。
しいらとは対照的なその顔立ちは、凛としていて、気高い貴族的なものがある。赤錆色の巻き髪が、ネイビーのドレスとよく合っていた。彼女は、名前を杏樹(あんじゅ)といった。
ほなつは、約束通り、しいら達に茶を馳走になっていた。こんな地獄のどこから材料を入手するのか、茶葉は極上の香りをしていて、クッキーも、沙娑で口にしていたものと同等か、或いはそれ以上の味をしていた。
「というか、今回のお客も地味ね」
ふっと、杏樹が、彼女のカップの中に二杯目の紅茶を注ぎながら呟いた。
「貴女達、日本人でしょ。日本にはロリィタっていう女がたくさんいると、聞いたことがあるのだけれど」
「あ……、ああ。──……」
ほなつは、杏樹の突拍子もない疑問に答えあぐねて、クッキーをかじっていたかずなと顔を見合わせる。
杏樹の見解は、合っているようで合っていない。
日本は、確かに、しいらや杏樹のような姿をした乙女達が数多いる。しかしながら、ただでさえ堕ちる可能性は少なかろう地獄に、そうしょっちゅう堕ちてくるほどの数はいない。
「二人は日本人ではないの?日本語上手いし」
かずなのくっきりした丸い双眸が、しいらと杏樹、二人を見回す。
その風采は娑婆を離れた昨夜のままだ。かずなの栗色の髪は緩いウェーブがかかっていて、生前と同じく、肩にすれすれ触れるくらいだ。こまやかなサーモンピンクの花柄の入った白いカッターシャツにアイボリーのレース編みのカーディガンがとりあわせてあって、むら染めの青いスカパンは、フレアスカートにも見える。木彫りの十字架のネックレスは、昨年、ほなつがクリスマスに贈ったものだ。
かくいうほなつも、昨夜から変わったところはない。かずなよりビビットな焦げ茶の髪は、片方の耳の辺りで結んだままで、ミントグリーンの七分袖の開襟シャツに黒いジーンズをとりあわせている。スピリチュアル研究者の知人にもらった天然石のピアスまで、ちゃんと耳についていた。
「日本人ではありません」
しいらがやんわり首を横に振った。
「あたし達の言語は、日本人の方には日本語に、英語圏の方には英語が、それぞれ通じるよう自動的に変換されるだけです」
「じゃあ、韓国?顔からして」
「お洋服的に、西洋?」
「秘密です」
「覚えてないわ」
杏樹がむすっと言い捨てた。
「さて。それではお茶も減ってきたことですから、本題に入りましょう」
しいらがカップをソーサーごとテーブルに置いた。その物腰は、やはりやんわりしたもので、少し口調が畏まっても、まさか地獄に関する話を切り出すそれとは思い難い。
「ほなつさん。かずなさん。お二人がこちらにいらっしたのは、人間界における重罪を犯されたからです」
「──……」
「十人以上の人間を殺した魂と、不特定多数の殿方との間に十人以上の人間を生んだ魂。それが、ここに来ることを余儀なくされる条件です。身に覚えはありますね?」
「ちょっ……と、待って」
かずなの声が、長いようで短い沈黙を破った。
その顔色は相変わらず芳しくない。それでも、かずながいかに気を確かに持っていようと努めているかは、瞭然だ。
「異議がありますか?かずなさん」
「あります。さっきの裁判でも、閻魔大王さんの仰っていた通り、十人以上の人間を殺したのは私一人の故意です。ほなつは共犯の疑いをかけられて、この世で、いえ、生前の世で最後の夜、私と一緒に警視庁にいただけです」
「ええ、その通り。神様は全てをご存じです。かずなさんは生前、大学病院で体外受精の施術、研究に携っていらっしゃいました。ほなつさんも。ただ、かずなさんは、クライアントにわざと誤った施術をして、十人以上の胎児を殺していた。それがバレた。ほなつさんは、かずなさんと交際されてる仲ですから、周囲が、日頃から親密な二人をグルだと疑ったんですね。従って、ほなつさんは、殺人の罪でここにいらっしたのではありません。不特定多数の殿方との間に十人以上の人間を産まれた罪で、地獄行きに決まりました」
「そんな理屈、とんちだわ!!」
「かずな」
ほなつはかずなの袖を引いた。
かずなの今の剣幕では、しいらか杏樹のどちらかに噛みついていきかねない。
ほなつは、普段は温厚で少々気の弱い恋人に、自分が原因で初対面の他人と争わせたくない。
もっとも、かずなが怒るのは当然だ。ほなつだって、たった一人ここにいたなら、しいらや杏樹、閻魔大王の理屈を、撤回させる努力をしたろう。
否、ほなつの場合、自分だけの問題ではない。それでなくても、ここでの道徳観念がこんなものでは、この先の人間界が思いやられる。
何せ、ほなつは不特定多数の男との間に子供を設けた心当たりがない。
ほなつは生前、やはりかずなと同じ大学病院の研究室にいた。そこで、体外受精を希望する同性のカップルや不妊の相談に訪ねてきた異性カップルに、診察なり治療なりをしていた。そうして、状況に応じて精子バンクを提供していた。
ここでは、それが、例の二通りある重罪の内一方に当てはまったらしかったのだ。
「人間界の医学は進化している。かずなや私みたいな職についている人間は、皆、亡くなったらこれから地獄(ここ)に来なくちゃいけないの?」
「そういうお仕事をされているなら、それなりの覚悟を持っていて下さらなければ」
「神様は、故意に人間を増やしてはいけないと?」
「では、人間は何故、故意に人間を増やしたがるの?」
「それは……」
考えたこともなかった。ほなつが大学病院に勤務するようになったのは、なりゆきだ。
昔から、ほなつは文系より理数系が得意で、気が付けばこの道を極めていただけだった。医療そのものに興味はなかった。人助けをしたかったわけでもない。大学院を出る間際、恩師の計らいで研究室に残ることになって、かずなと出逢った。
ほなつが今の仕事を続けていたのは、ひとえにかずなと一緒にいたかったからだ。
「…………」
「あたしは、かずなさんが何故、わざと医療ミスをされていたのかお訊きしたいです」
ほなつのすっきりしない思考に、しいらの鈴を鳴らすような声が差し入ってきた。
「人が人を殺す理由……。杏樹とあたしは色んな人を見てきました。神への供物、生け贄にするための人間をさらってきて惨殺した人、戦争で人を殺した人や、死刑執行の役人だった人、快楽殺人の虜になった人、近親間の恋を反対されて身内を殺した人もいました。かずなさんにとって、医療ミスとは、どんな意味があったのでしょうか?」
「──……」
「あ……、あの……私は……」
かずなが見せかけみたいな逡巡の末、しいらを見据えた。
「人間に問いかけたかったの。私も、さっきの杏樹さんと全くおんなじ疑問を持っていたから」
「かずな」
「ほなつ……」
ほなつはかずなに瞥見されると、その、ぱっちりした目許の奥で煌めく澄んだ色に圧倒された。
かずなが何故、故意に誤った施術を繰り返していたか。
ほなつは、一昨日、かずなからその心中を初めて聞いた。かずながそのようなことをしていたのを知ったのも、その所業が明らかになった後だ。
「私は、人が子孫を残したがるのは気の迷いだと思うの。もしくは自信不足故の逃避。精神医学的に解釈するなら、人間の生存本能が、そういう道徳を捏造してきたのね。たまに、根っからの子供好きだとか、家の跡継ぎが必要だとか、老いた親に孫の顔を見せたいのだとかで、相談にくるクライアントもいた。だけど、ほぼ稀だったわ。皆、自分達の愛の証が欲しいのですって。指輪を交換して、一緒に暮らして、更に二人の絆を守ってくれるものを望むのですって。二人で育んでゆけるものを」
「微笑ましいじゃありませんか。カップルにイベントは必要です。杏樹とあたしも、お揃いのお洋服を色違いで着たりしますよ」
「お揃いは……、それは、二人の問題だし。私にしてみれば、好きだの愛してるだのさんざん言っておきながら、戸籍や子供を必要とするのが許せないの。そんなもので愛する人を縛りつけて、それを盾に裏切りを取り締まる。束縛するのもされるのも、相手のためにならないわ。もっとも、歴史をつくってゆくには犠牲が必要。それでなくても、心からの愛があるパートナー達だってたくさん見てきた。私は、担当になったクライアント全員に誤った施術をしたわけじゃない。そういうクライアント達には、誠意を持って尽くしたわ。だけど、やっぱり気になる。だからこの目で確かめたかった」
「──……」
「…………」
「…………」
「…………」
しいらと杏樹が顔を見合わせていた。気の所為か、二人、それから酷く苦しそうに、互いからその目を離した。
ほなつは、かずなの知られざるこんな一面を知った時、驚いた。それでいて、ずっと対等の立場にあったはずの彼女に劣等感を覚えたものだ。
かたちに頼らねばならない愛はいらない。それはほなつも同様だ。人間の生存本能などどうでも良い。それが道徳に反すると咎められる思いでも、改めるくらいなら、地獄でもどこにでも堕ちた方が幸いだ。
だのに、ほなつは、ずっとおとなしく日々を過ごしていただけだ。二人、同じように腑に落ちないものを抱えていながら、かずなだけが行動に出た。
ここが地獄より深い地獄でも、最後、辿り着いたところが一番いたかった場所で良かった。かずなの隣にいられるなら、楽園でも地獄でも、同じくらい世界はまばゆい。
「もっとも、ここは地獄でもありますが、転生のチャンスを与えられるところでもあります」
「転生のチャンス?」
「あの果実から聞こえてくる呻き声。あれは、皆、ここにいる魂達の奏でるものです。果実は地獄に堕ちた魂の存在を証しているもの、貴女達の果実もあすこにあります。一個一個の魂は、あの果実と連帯しています。実際の魂は、つまり貴女達のように肉体を失った意識体は、ここから少し離れたところにいます。そこで首尾良く任務をこなせば、転生出来ます」
「任務?」
「まず、貴女達に、ある個室に入ってもらいます。そこにはモニターがあって、死相の出ている人間が映し出されています。けれど、本来、その人間達が天から定められていた死期は、もっと先です。貴女達は、彼らの死相を払い除ければ、転生出来ます。怪我や病気、或いは人為的な事故で亡くなるかも知れない彼らを五人救えば、貴女達は地獄で五百年の責め苦を受けた後、転生出来ます。出来なければ、つまり六人失敗した時点で、貴女達は地獄で終身刑。その場合、千年の責め苦を受けた後、魂は業火に焼かれます」
「…──っ!!」
「貴女達が担当する人間は、全部で十人。十人全ての命を救えば、翌日、貴女達は元いた世界で新しい生を授かります」
「あ……そん、な……」
「もっとも」
しいらが相変わらず起伏の乏しいかんばせを伏せて、ティーカップを両手に包んだ。
「任務を受け入れるか受け入れないかは、貴女達の判断にお任せします。但し、後者の場合、貴女達がその意思を表明した瞬間、あの魂の果実は割れます」
「魂が、地獄にも来世にも行かないということ?」
「消えてなくなりますから」
「──……」
それでも、金輪際、二人は離れる心配なくなる。
しいらの憂いのほの見える双眸が、暗にそんなことをほのめかしていた。
* * * * * * *
漆黒の夜空にほんの少し欠けた月が浮かんでいた。向こう側が覗けないほど葉の繁った灌木は、さしずめ地獄から迷い混んで来た魔物の如く、黒いシルエットをしていた。
ここは、ある郊外、山の麓にある女子校に付属している寄宿舎だ。
草木も眠る丑三つ時、エントランス近くの小さなサロンで、女が二人、寄り添っていた。
女の一人は、胸元まである焦げ茶の髪を一つに結んで、簡素な部屋着を身にまとっていた。年のほどは二十半ばで、甘やかでありながら凛とした顔つきをしている。もう一人の女の方は、緩いウェーブのかかった肩にすれすれ触れるくらいの茶髪に、ぱっちり大きな目許をしていて、花柄のネグリジェを着ていた。
二人の女の手許に、一冊の本があった。表紙に、ありきたりな幻想文学のタイトルが記してあった。
「何というわけでもない話だったわ。穂夏(ほなつ)が面白い本を図書室で見付けたっていうから、寝る時間を割いて、楽しみに部屋を抜け出してきたのに」
花柄のネグリジェを身につけた女が、焦げ茶の髪の、「穂夏」という名の女の肩に頬を預けた。
「敵対している二つの国にいた乙女達が、戦争を嘆いて、魔術の力で国を滅ぼす。その罪で、乙女達は地獄に堕ちて、そこの総監督の仕事をさせられる。彼女達の任務は、地獄より深い地獄に行くことを余儀なくされた魂達を導くこと。魂には色んなタイプがあって、大きく分けて、二通り。転生のチャンスを望んでそこでの任務を励むタイプと、魂の消滅を望むタイプ。……どうなるのか、初めは読むの止まらなかったんだけどな。最後は、やっぱり、千菜(かずな)も物足りなかった?」
穂夏が、たった今「千菜」と呼んだ女の手の甲に自分の手のひらを重ねた。その眼差しは愛おしそうで、ともすれば、さっきまで二人が件の物語の中でその運命を追っていた、愛のために地獄に堕ちた乙女達のそれを聯想する。
千菜が薄い唇から、くすりという息をこぼれた。
「ねぇ、千菜。何で、千菜は教師になったの?」
千菜の指が、閉じた本の表紙を示した。否、表紙ではない。千菜の示したかったのは、おそらく、その中身のある一節だ。
「貴女と一緒にいたかったから」
「…………」
千菜の口調は、たおやかで、それでいて強い意思が垣間見られた。
前にも、どこかでこんな科白を耳にしたことがある。
穂夏はそんな気がしながら、あまりに漠然とした記憶は夢かどうかも曖昧で、無理に思い出そうという気になれない。千菜の膝から本を取り上げて、真ん前のテーブルに置いた。
「あーあ、つまんない。本当に」
千菜の無邪気な笑い声が、かなしいほど懐かしい。
「最後の章、体外受精の研究者達の話……これはないわ。いくら恋人と一緒にいたくて選んだお仕事でも、嫌気が差した時点で、私なら引退するわ。パートナーとの子供を得ることで、愛を守る。第一、この二人だって、一緒にいたくて同じ職場にいたんでしょ。それで安心しているんなら、そういうクライアント達に疑問があるって言ってるにしては、おんなじじゃない。殺しまで働かなくたって、良いじゃない。作者は最後にネタがなくなって、こんな動機の殺人犯を描いたのかしら」
「おまけに、生前、共犯の疑いをかけられた女も、その件は結局おざなりにしちゃってるし」
「お気楽な時代に生きてる私達には、理解出来ない話だわ」
けれど、と、千菜の薄い唇から、吐息にも似た囁きがこぼれる。
「最終章の「かずな」って、それだけ恋人を信じていたのね。任務中、一度も隣を見なかったのが、十人全てを救うっていう成功に繋がったんだわ」
きっとそうだ、と、穂夏は思った。
架空の地獄の最後の章でまみえる二人は、転生を賭けた任務を果たした。互いに互いを心配しないで、ただただ担当になった人間達を救うことに専念していた。相手を見捨てていたのではない。きっと運命を共に出来ると、確たる自信があったのだ。
「千菜」
穂夏は千菜の肩に腕を回して、その柔らかな髪の質感を頬に得る。
甘くて瑞々しい、花みたいな匂いが鼻を掠めた。
「それでも、貴女のここに、指輪くらい嵌めさせて欲しい。私は」
穂夏が千菜の左手の薬指の根本を、とんとん、と、軽く指先で叩くと、小さな笑い声が返ってきた。
──fin.
妖精カテドラル