ここは、俗に地獄と呼ばれている世界の深淵だ。

 通常の地獄から、この、地獄より深い地獄に差しかかる境界に、罪人達が一発逆転を試みるためのホールがある。身体中の神経を毒にでも侵されんばかりのおどろおどろしい空気が立ち込めている一画だ。
 ホールを抜けると、それまでの雰囲気とは一変して、柔らかな風の吹き抜ける、爽やかな青と優しい緑の織りなす草原が広がっている。色とりどりの花が咲き乱れて、甘く清々しい匂いを含んだそよ風が、たなびいている。
 艶やかな果実の実った果樹園は、一本、ひときわ大きな樹が聳えていた。それは虹色の艶を帯びた奇跡みたいに美しい実をつけていた。果樹園のすぐ側に屋敷があって、そこは、屋根も壁も、全てが白で出来ていた。

 杏樹(あんじゅ)は、この屋敷に住んでいた。

 いつからここにいたのだとか、何故、ここに居を構えたのだとかは分からない。ただ気が付けばここにいて、何故愛したかは分からない、されど最愛と呼べるパートナーと一緒に、地獄の総監督の職務を日々こなしていた。

 その日、杏樹が目覚めると、この屋敷のもう一人の住人が、珍しく隣にいなかった。

 杏樹は、昨夜パートナーと一緒に眠ったダブルベッドを降りると、天蓋から垂れ下がったレースの天幕から抜け出して、身支度をした。

 今日の装いは、桜の形のゼリーが裾にプリントしてあるワンピースをメインに選んだ。レースペーパーを敷いたガラスの器に濃淡のついたピンクのゼリーが盛ってあって、リボンの結んであるスプーンに、ジュエリーにもガラスにも見えるしずくやパールが散りばめてある。それらの絵柄が、明るいネイビーのバーバリー生地にくっきり映えていた。黒い姫袖ボレロを羽織って、赤錆色の巻き毛には、紺と青の巻き薔薇があしらってあるキャノティエを飾った。

 杏樹がリビングに入っていくと、しいらが朝食を準備してくれていた。

 しいらは、たおやかな顔立ちにきめこまやかな真珠肌、夜空に浮かんだ月の光を吸ったみたいに淡い金髪をした少女だ。小さな肩すらりとした肢体、鈴を転がすようなその声は、まるで天使だ。しいらは、そしていつもパステルカラーの洋服に身を包んでいた。今日は、白い丸襟ブラウスに、銀色の格子の入った白いシフォンに淡いピンク色の苺が散りばめてある柄の、ハイウエストのベビードール風ワンピースがとり合わせてあった。

 しいらこそ、杏樹の同居人にして生涯を共にしようと約束した恋人だ。

 「おはよう、杏樹。飲み物はハーブティー?それとも紅茶?」

 「紅茶が良いわ。アッサムに、ミルクは温めるの大変だろうし、クリームで」

 「杏樹のためなら手間はいくらでもかけたいわ。ミルクにしましょう。あたしも同じものが良いから」

 恋人の手料理の並んだテーブルは、この陰気な世界に相応しからぬ眺めだ。

 まもなく、しいらが二人分のティーカップを置いてくれた。

 ミルクジャーを満たしたミルクからも、優しい湯気が昇っていた。

 「有り難う。しいら、今日、早起きじゃない?何かあったの?」

 杏樹はアッサムティーにミルクを注ぐ。

 透明だった鼈甲色の水面が、みるみる白みを帯びていった。

 「ちょっと、おかしな夢を見たものだから」

 「夢?」

 「ええ。それで落ち着かなくて、起きてしまったの」

 「怖い夢?」

 杏樹は紅茶に息を吹きかけながら、ちらちら、しいらの顔を覗く。

 しいらの垂れ目がちな目許を飾った睫毛が、ふっと、そのミルク色の頬に影を落とした。

 「怖くないと言えば、嘘になるわ。……戦争の夢」

 「もしかして、この前やってきた罪人が、兵士だったから?しいらってば意外と影響されやすいんだ」

 「ええ。それもあるかも知れない。ただ、……」

 杏樹はスクランブルエッグを掬いながら、恋人の、まるでどこを見つめているのか分からない色の双眸を見つめていた。

 杏樹は、それまでにも屡々、しいらの自分の知らな表情を垣間見てきたことがあった。杏樹自身、自分の中に、もう一人の未知の自分が息を潜めている感じがあった。そして、それがしいらとの共通点である気がしては、胸騒ぎを喜びに変えていようと努めてきたものだ。

 「争い合う二つの国のお嬢さん達が、報われない恋をした。引き裂かれるのがいやで、お互いの国を滅ぼそうとしたんだけれど……結局、地獄に落ちてその記憶は消えちゃった」

 「──……」

 「大好きな人と一緒にいても、二人で過ごした記憶がないの。それって、とても怖いと思わない?」

 ただの夢だけれど、と、しいらの笑う声がした。

* * * * * * *

 貴女は地獄行きに決定しました、と宣告された。

 エリコが九十五年の生涯を閉じた、翌日のことだ。

 現世で息を引き取ってすぐ、冥界に迷い込んできた。エリコが生前、主として仕えていた、ミコトという名の女性も一緒だ。

 エリコとミコトは二人揃って、閻魔大王を自称する中年の男に審判されて、二人揃って地獄行きを下された。それから、迎えが来るから裁判所前のベンチに座って待っているよう言いつけられて、今に至る。

 エリコは、隣で背筋を伸ばしている女性を、ちらと見た。

 女性、ミコトの腰に届くほどの長さのある栗色の髪は緩やかなウェーブを描いていて、その真珠肌は奇跡みたいにきめ細やかだ。垂れ目がちな目許に浮かんだ端然とした眼差しも、シャープでありながらふっくらした頬にほんのり浮かんだ薔薇色も、天然物だ。その胸元はシフォンのドレスがはち切れんばかりに瑞々しくて、引き締まったウエスト、レースの裾から伸びた足首は、華奢でありながら肉感的な肢体の曲線を実現していた。

 ミコトは、四十年前まで、一国の皇帝の位に就いていた人物だ。

 エリコ達の暮らした祖国は、地図の隅っこにちょこんと載っているだけの、ごく慎ましい国だった。ところが、ミコトの活躍が効をなして、みるみる発展していった。ミコトはその美貌と人柄で、誰からも慕われていた。何より外交に長けていたのだ。

 エリコも、この女帝に心酔していた一人だ。ミコト彼女が隠居を決めるまで、宮廷の軍事職に就いていた。そしてミコトが政を離れてからは、互いに良い話し相手なって、彼女が崩御した昨夜、殉葬された。

 「ねぇ」

 エリコが曖昧な色の空を眺めていると、甘く凛とした声が耳に触れてきた。

 「地獄のルールがあんな酷いものだったなんて、私、初めから知っていたら、皇帝なんてやらなかったわ。貴女はどう思う?エリコ」

 「僕は……」

 エリコは口を開きかけて、はっとした。

 メゾより少し低いくらいのこの声は、昨日までの自分に備わっていたものではない。

 エリコもミコトも、六十年前の肉体に戻っていた。

 エリコの生涯伸ばすことのなかった髪は、見事な黒色を取り戻していて、顔かたちは、一重の目許に濃い睫毛、愛想は薄い唇という、一目見ただけでは男にも見紛うと評価されていた頃のそれになっていた。鍛練していた肉体も、舞踏会では女性をリードしてばかりいた背丈も、今、久しくここにある。

 死後の世界に実体はない。さればこそ、魂が、生前、最も快適だった時代の記憶を、意識体として再生させるらしかったのだ。

 ここは、殺人やら窃盗やらを犯した人間の魂が集わされる地獄より、深い地獄だ。ここに落とされる条件は、生前、十人以上の人間を殺しているか、複数のパートナーを持って、十人以上の子孫を残しているかだ。

 エリコは戦で十人以上の敵を殺めた。ミコトは同盟国を増やすために、十二ヶ国の王達と婚姻関係を結んで、十一人の子孫を残した。

 この状況をどうかと問われて、ことに答えようもない。

 ややあって、少女が一人、向こうから歩いてくるのが見えた。

 少女は赤錆色の髪をしていて、淡いピンク色の桜柄の入った、夜空の色をしたドレスをまとっていた。








 エリコとミコトは、杏樹と名乗る少女に案内されて、彼女の暮らす屋敷に向かった。そうして全てが白で出来た屋敷に着くと、そのリビングに通された。

 リビングに、もう一人、少女がいた。少女は杏樹に「しいら」と呼ばれていた。

 エリコとミコトが並んで座って、杏樹としいらが向かい側に並んで座った。

 「さて、本題に入るわ。お二人には、じきにここの掟に則って、さっきのホールで任務をこなしてもらうのだけれど。その前に、言いたいことがあるならどうぞ?」

 「あるわ」

 ミコトの毅然とした眼差しが、杏樹を捉えた。

 「まず、エリコは無罪になさい。うちは同盟を結んで従えさせてきた国もある一方で、武力でねじ伏せなければならない国もあった。エリコみたいな軍人は、なくてはならない人材だったの。私は私の国を愛していたわ。エリコは、そんな私のために戦ってくれた」

 「それは人間界のルールです。ミコトさんのご希望には添えません。……エリコさんは?」

 「ミコトは有罪で良いと思います。僕も決まったなら仕方ないと思うので」

 「はっ……?!」

 エリコの隣で、がしゃん、と、ソーサーの底とテーブルの、乱暴にぶつかった音がした。

 「エリコっ、貴女、私との友情はその程度のものだったの?私は、ダメ元でも、エリコだけは助けようって努力してるのに!」

 「ミコトはどう考えても有罪じゃん。あちこちの国の王に色目を使って、同盟国を増やしていった。おまけに王のお母さんやお父さんの抗議には、「息子さんが勝手に私に惚れたんだから仕方ないでしょ」の一点張り。ミコト、後世に悪女大全に載るよ」

 「はぁぁ?!昨日まではミコトが大事ー、生まれ変わっても逢いたいー、生まれ変わったらご近所さんかな姉妹かなーって、言ってたじゃない!」

 「それは、昨日までは、ミコトは仮にも大御所だったし。僕も、話し相手として宮廷に出入りしていたわけだし」

 「貴女の忠誠心は嘘だったの?!うぅぅ……うぅぅ……」

 エリコは、ミコトががつがつクッキーを頬張り出すのを横目にして、紅茶を味わう。

 この期に及んで、まだ、友情だの主従だの抜かしている。このようにくだらない口なら、いっそのこと、生涯クッキーで塞がれてしまえば良いと思う。

 「エリコさん」

 「なぁに?しいらちゃん」

 「はいっ、あっ、かっ、あっ、かっ──」

 「しいら。別れるわよ」

 「あたしは杏樹が一番だもん!」

 「だったら今すぐそのたるんだ顔を正しなさい。そしてしっかり喋りなさい」

 「杏樹のためなら!」

 エリコは、改めて、しいらにしかと見据えられた。

 「ミコトさんを、お嫌いだったんですか?ずっとお側にいらっしゃったのに」

 「姫を……、恨んでた」

 「そうですか。ここは地獄です。すぐに転生出来るチャンスはありますが、失敗すれば、地獄行き。大失敗すれば、魂は業火に焼かれて消えます。運良く生まれ変われたとしても、記憶は消えます。今の内に溜まったものは吐き出しておくべきではありませんか?あたし達は地獄の総監督ですが、ここに招かれてきた愚痴や鬱憤、辞世の思いを受けとめることも使命です」

 「──……」

 そんな理屈を説かれても、こんな、得体の知れない初対面の人間に、否、人間かも疑わしいような少女達に、胸の内を開けっ広げにして話せるものか?

 エリコは、今日までここに招かれてきた魂達の面影を探す。

 地獄より深い地獄(ここ)の理が確かだとする。それなら、エリコがかつて頼りにしていた部下達も、ここを訪ねてきたはずだ。されど彼女達の姿も、ましてや顔も名前も知らない罪人達の姿もない。

 「分かったわ」

 ことん、と、クッキーの半分以上減った皿が、隣で小さな音を立てた。

 「杏樹、しいら。貴女達に迷える魂の愚痴を聞く義務があるなら、まず私の愚痴をお聞きなさい」

 「お姫様にも、愚痴ってあるものなんですか?」

 「……お姫様だから、あるのよ」

 ミコトの甘いソプラノが、しっとりした色を含んで、顫えていた。








 ミコトの昔話が終わった。

 エリコは、杏樹と、しいらにまで、犯罪者でも見ているような目を向けられていた。もとより罪人としてここにいるのだが、二人の目は、明らかにさっまでと違っていた。

 「今の話、本当ですか?」

 「別に、良いんですよ。人間が誰を好きになろうと、誰だって好きなものは好きなんですから、良いんですよ。でも……」

 「お付き合いもしていない妹さんの初めてを摘んだばかりか、その後も交際なし結婚なしって、どういうことなんですか?!」

 「交際はともかく、妹だから結婚は無理。それにどういうことって訊かれても、そういうことだとしか言えない。ミキも、この美貌に惚れていたんじゃないかな」

 エリコは杏樹としいらが喚き散らしているのをものともしない顔をして、紅茶を啜る。

 実妹、ミキは、典型的な令嬢だった。流行のドレスをこよなく好んで、週末は、オペラや舞踏会に入り浸っていたものだ。その風貌は垢抜けていた。気質も人懐っこかったのに、恋愛にだけは奥手だった。

 エリコは、そんな妹に付き添って、よく華やかな場所に出入りしていた。姉妹似ていなかったからか、初対面の人間に、大抵、恋人同士だと誤解されていたものだ。
 二人が二十代半ばの頃、ベッドを共にするようになった。ミコトが他国の王を婿養子に迎え出した頃のことだ。
 エリコは、ミキが初めて誘ってきた時、ただ暗闇が怖くて一緒に眠って欲しいと求められたのだと受け取った。それなのに、ミキの寝室で、彼女の意外に巧みな誘いに絡め捕られていって、気付けばその身体に夢中になっていた。

 「私はエリコを信頼していた。家柄も功績も文句なかったし、国のためによくやってくれたわ。だけど、そこだけが許せなかったの。不道徳的だわ」

 「そんなにダメなら、法を変えれば良かったんじゃない?」

 「身内の姦通を禁じれば、文句を言ってくる貴族がいたのよ。例えば鈴麩侯爵家ね。あすこは純粋な血筋を保ちたがって、血縁関係のある人間同士で婚姻を繰り返していたから」

 「そういうことなら、僕に否はない。ミキは癒しだったから、法が変われば鈴麩さんの肩を持っていただろう」

 「何ですってぇぇ?!」

 「エリコさん」

 エリコがミコトが二皿目のクッキーをかき入れるのを横目で盗み見ていると、しいらの甘い声に呼ばれた。

 「お聞きしている以上、近親間での恋愛は、法的に問題なかったようですね。ミキさんと仰る方が癒しなら、そういうことを理由に、お付き合いくらいなさっては良かったのではありませんか?」

 「──……」

 ここの総監督というものは、こんなにも、いちいち他人のプライベートに土足で入ってくるものなのか。

 もっともエリコは、ミコトに自分のプライベートを曝されたのだ。ここで黙っていては成仏出来る気がしない。

 「分かった」

 「え……」

 「王家への忠誠心も、ミコトへの友情も。そういうのが嘘になった経緯を話すよ」

 そこに、ミキとは恋人になれなかった想いがある。

 エリコはソーサーごとカップを戻して、花瓶の一輪挿しを見つめた。

 一輪挿しは、色のない空間で、とても鮮やかな存在だ。







 「そんな……に……嫌だったの?」

 エリコが昔話を終えると、今度は、ミコトの顔色が変わっていた。

 「ああ、周りはミコトの顔に騙されていたんだろうけど、僕みたいに近くにいると、君のがめつい本性が見えてたんだ。色仕掛けで他国を落として、夜な夜な相手を取っ替え引っ替え。別段、土地や資源に困ってる国でもなかったのに、そこまでして何で外交に力を入れていたのか理解出来ない。ミコトの後継者だって、次男以外が皆、父親の国を継ぐって言ったから良かったものの、ミコトの国を欲しがってたら、ひと騒動起きてたぜ」

 「年の功で、長女のノギクに継がせるつもりでいたわ」

 「ま、あの子達も皆、ミコトの信者だったし。ミコトが言ったら納得しただろうね。けど、神の掟に反してる。ミコトさ、人間を道具としてしか見てなかっただろ。だからああいう粗い外交が出来たんだ」

 「仕方ないわ。国を大きくしたかったんだもの。大体、今更、エリコに言われたくない。ずっと側にいて、一言だって私に反対しなかったじゃない」

 「反対しても、ミコトは聞かなかったと思う。それともミコトとあいつらの寝室に押しかけていって、割り込んで邪魔でもすれば良かった?婚約発表パーティーで、メロドラマみたくさらえば良かった?」

 「…──っ、……」

 「……ミコトの真剣な顔を見ていたら、反対なんて、出来なかったよ」

 「──……」

 エリコが黒目を動かすと、そこにミコトの、彼女らしからぬ表情(かお)があった。

 どんな時でも真剣だった。ミコトは、修道女が神に仕えるように、彼女の国に仕えていた。その姿はいにしえの聖母にも優る崇高な光に包まれていて、眼差しは、声は、いつでも孤独なものを孕んでいながら、どこまでも優しくてあたたかかった。
 ミコトが人間を道具としか見ていなかったところがあったのは、事実だ。ミコトの伴侶になった王達は、その重婚を咎めないのを前提に、婿養子として国に籍を移させられていた。それでも、ミコトは、国民達に優しかった。同盟国を見下していたこともなくて、姉妹国と呼んでいた。

 エリコは、ミコトの迷いのない双眸しか知らない。隠居して、主従の関係を断とうと持ちかけられてきた時も、そこに迷いは見られなかった。

 それなのに、今、ミコトが初めて泣きそうな顔をしている。ミコトの十二人の伴侶達が、次々と天寿を全うしていった時でさえ、彼女がこんな顔を見せたことはなかったのに、だ。

 「嫉妬ですね」

 「──……」

 「エリコさん、ミコトさんに道具として使われていった王達に妬いてたでしょう。ミコトさんも、ミキさんに妬いていたでしょ」

 「…………」

 エリコの耳に、杏樹としいらの無遠慮な声が、やけに大きく響いてきた。

 胸に、血肉を抉られるような痛みが滲む。

 ミコトと、八十年近く、ずっと一緒に過ごしてきた。
 誰よりもミコトの近くにいたかった。どんな戦士より強くありたくて、その努力は惜しまなかった。報われなくても構わなかった。側にいられればあらゆる理不尽にも目を瞑れた。どれだけ高貴に生きたところで、貴族の令嬢らしい魅力など、一国の皇帝の側にいるための、何の力にもならない。

 エリコは、国に仕えてきたのではない。いつだって全ての選択肢は、この美しい主のためにあった。

 「正解」

 「エリコっ?」

 「ミキは、確かに癒しだった。あいつを抱いてる時だけは、ミコトを忘れていられた。……つもりになれてた。どれだけ埋めようとしたって、埋められないのに、あの頃、足りないものを足らせたくて、必死だった。ミキは姉想いな子だったから、貴女ならって、言ってくれた」

 「うっ……」

 「ミコトが好き。ずっとずっと好きだった。親友としてじゃない。主としてでもない。ミコトのいない世界に生きていたら、もっと幸せだったと思う。生きていた間、あんな地獄を見せられて、地獄に行けって……思った。けど、ミコトのいない世界は、きっと」

 色のない、ただただ無意味なものでしかない。

 エリコは、しいらが半巾で目を抑えているところから、ミコトに視線を戻す。

 とてもとても美しい、否、愛おしい顔が、そこにはあった。

* * * * * * *

 地獄の責め苦を免れるためのミッションは、現世にいる死相の出ている人間から、その災いを遠ざけるというものだった。

 エリコやミコトのように、地獄より深い地獄行きが決定した魂は、裁判所の近くにあったホールの個室に入れられる。個室の中にモニターがあって、そこに映し出される人間を、一人につき十人助けたところで、転生出来る。或いは十人に満たなくても、五人以上を助けたところで、地獄で五百年の罰を受けた後、転生が約束される。

 ホールの個室は現世とリンクしているようだった。モニターにパネルが接続してあって、魂は、それを使って、助ける人間を操作する。現世にいた時、屡々、直感やら勘やらが働いたものだが、もしかすれば、それは誰かにこうして操られていた所以の感覚だったのかも知れない。

 エリコもミコトも、三人目までは順調だった。四人目から、雲ゆきが怪しくなっていった。

 十人全ての結果が出た時、エリコは三人、ミコトは四人の死相が消せていただけだった。

 個室を出ると、ホールの外で、杏樹としいらが待っていた。

 「残念でしたね」

 「そうでもないわ」

 ミコトの顔は、あっけらかんとしていた。いっそ晴々しくさえあった。

 「千年後、エリコも私も、消えてしまう。けれど、もし転生が成功していたら、彼女が……私の記憶から、今消えていた。私はあと千年、エリコと一緒にいられる。私は生前、既にあれだけの地獄と引き換えに、力を蓄えていた。ずっと自分を偽ってきた人間に課せられる罰にしては、こんなものは優しいわ」

 「ミコト……」

 「エリコ、貴女の言う通り、私は人間を道具にしてきたわ。王達のくれるどんな愛の言葉も、私は私自身の器を測る、国の利益を測るものさしでしかなかった。……だからこそ」

 エリコの片手に、夢みたいに優しい指先が、絡みついてきた。

 「貴女だけは、あの宮廷でパートナーと呼べる人にしたくなかった。貴女は私の道具じゃないし、ましてや貴女を、口汚い貴族達に、皇帝のお気に入りだなんて呼ばせたくなかったの。エリコは、私の、最初で最後の本命だから」

 「…──っ」

 「魂が消えたって、またどこかで新しいものになれる。記憶はなくしても、きっと、欲にまみれた私(ミコト)にだって、貴女を見付けられたんだもの。今度だって、何世紀先になったって、エリコを見付ける」

 それはまるで根拠もないのに、無条件に信じられる力があった。

 エリコは、ミコトの片手を握り返す。

 生前の色んなことが脳裏を駆け巡っていって、思わず笑いそうになる。

 柔らかな頬に指先を添えた。それから、まるで薄いガラスに触れるみたいに、しっとりした艶を帯びた唇を、自分のそれで塞いだ。

 「ん……」

 「──……」

 「…………」

 「ミコトがいるなら、どこに生きても楽園だ。昨日までも、結局、僕が誰より君との時間を過ごせた。今度こそどんなやつにも君を渡さない」

 「私がブスになってもそう言ってくれる?」

 「ミコトの顔だけで好きになったんじゃないからね」

 「私が性悪で、胸が小さくなっていたら?それでも私だって分かる?」

 「ミコトこそ、もし生まれ変わって、僕が女でさえなくなっていたら?それでも好きになれる?」

 「意地悪!」

 エリコの唇に、今度はミコトからキスが押しつけられてきた。腕と腕とを絡つかせて、二人、鼻先が触れ合わんばかりに顔を合わせて、笑い合う。

 「ねぇ、しいら」

 「なぁに?」

 「私も、もし目覚めて全ての記憶が消えていても、君のことだけは覚えていると思うわ」

 「あたし、も」

 「──……」

 「きっとどんなかたちで新しい生を歩み出しても、美しいものに惹かれるし、人間なら、杏樹の魂を求めなくてはならなくなるわ」

 エリコとミコトが振り向くと、杏樹としいらが静かに見つめ合っていた。

* * * * * * *

 ゴールデンウィークも近いある日、某所のとあるダイニングバーで、男子禁制の合コンが開かれていた。

 少女は、その日、妹の誘いでこの浮き立った席にいた。

 自己紹介の時間も終わって、料理もメインまで運ばれてきた。そろそろ定位置も崩れてきて、今、各々、好き勝手に席替えをして談笑しているところだ。

 「お隣、良いですか?」

 それは、甘く凛としたソプラノだった。

 少女は、今しがた近づいてきた気配と声に顔を上げた。

 すると、そこに、気の強そうな眼差しに、精巧なドールよろしく端正のとれたかんばせをした少女がいた。
 その緩やかなウェーブを描いた髪は腰に届く長さがあって、匂やかな首筋にたおやかな腕、折れそうに細いウエストから伸びた太ももは、短めのスカートとニーハイソックスが絶妙なバランスをとっていて、絶対領域が出来ていた。

 「どうぞ」

 「ねぇ、貴女も、付き添いで参加したんでしょ?」

 「はい、まぁ」

 「私もなんです。あすこにいる、職場の先輩に誘ってもらって」

 少女が少女の視線の先を追う。

 妹がはにかみながら幸せそうに笑っている姿と、さっき彼女に声をかけてきた女性の姿があった。

 「同じですね。実は自己紹介の時、フリー歴イコール年齢っていうのも一緒だなって、思ってました」

 「私の自己紹介、覚えていて下さっていたんですね、嬉しい。私は恋愛に興味がないんです」

 「綺麗なのにもったいない」

 「ただ、金持ちの玉の輿を狙うなら、たまにこういうところに出入りするのも悪くないと思っていました。さっきまで」

 「さっき、まで?」

 「もし良かったら、二人で場所を移しませんか?」

 「僕はセレブではありませんけど」

 「だーかーらー、さっきまで、って、言いましたでしょ?」

 「え……」

 「貴女と恋愛についてお話ししてみたいんです。お互い長い間一人身で、通じるところがある気がします。利害関係のない、純粋な関係について。下心はありません。いけませんか?」

 「──……」

 少女は目前の謎めいた少女に手を伸ばす。

 その容姿を気に入ったのではない。中身に興味をそそられたのでもない。この生まれて初めて覚えたはずの感覚は、そんな単純な根拠からくるものではない。

 二つの手が重なった。

 ぎゅっと結び目が出来ると、二人、まるで何千年もの時を早く埋め合わせたがらんばかりに、夜風を求めて、賑やかな個室を抜け出した。







──fin.
妖精カテドラル