夕まぐれに見上げる梅雨明けの空は、トパーズを砕いて散りばめた煌めきを聯想する、黄金色の粒子が輝いている。
昼間のうだるような熱気はいずこ、地上は穏やかな大気こそ満ちていても、時折、心地良い風さえ吹き抜けていく。植え込みの葉がさわさわこすれる音に重なって、ひぐらしの声が響いていた。
ここは、摂津国の上町台地、その北側位置する錦城、大阪城だ。
煌月蘰(こうづきかずら)が今日この城を訪ねてきたのは、自ら仕える主に預かってきた文を届けるためだ。
慣れ親しんだ城郭は、門番も、使用人達も、挨拶もそこそこに済ませると、さっさと仕事に戻っていく。
清流の堀からこぼれてくる涼としたせせらぎを縫っていくと、すぐ先に、侍女達の生活している櫓がある。そこは、いつでも絵物語から切り取ってきたものの如くの眺めに囲まれていた。
蘰は、今日も、低木の隙間から眺められる美しいその一角を横目にして、殿堂を目指す。
今まさに蘰の視界から件の櫓が消えようとした時のことだ。
二人の少女らが、白い花を背にした鹿威しの側に出てきた。
少女達は、格好からして使用人と思われる。但し、小袖の色柄もそれにとり合わせてある帯も、得も言われぬ上品なセンスが窺えて、その佇まいは、ともすれば裕福な家庭で生まれ育ってきた娘達にも優る艶やかさが備わっていた。
二人の内一方は十代半ば、そしてもう一方は、二十歳前後といったところか。後者の少女は、どこかで見かけたことがある。
「お疲れ様です、みおこ様。今日も暑うございますね。あ……」
年下の少女の扇子を握った華奢な右手が、今しがた「みおこ」と呼ばれた少女の右手に制された。
「姫晴。お勤めの最中ではないのだから、そういう態度は感心しません。お姉様と、お呼びなさい」
「っ……、はい……」
「姫晴」と呼ばれた少女の双眸がたゆたって、しずしず、その小さな顔が俯いた。
とても匂いやかな雰囲気が、美しい少女達をとり巻いていた。
姫晴は、稀に見る感じの少女だ。長い黒髪は大きなリボンで一つに束ねてあって、その額にかかる部分は眉の辺りでまっすぐ切り揃えてある。あどけない、それでいて玲瓏たる顔立ちは、みおこの前で、おどおどしたり輝いたり、色んな色を浮かばせる。
薄紅色の小袖の裾に描いてある水色の波に乗った金魚が、華奢な腕やら腰が動く度、ひらひらたゆたう。
「ここの生活には、慣れた?」
「はい。みお……お姉様が、内気な私に仲良く接して下さいますし、奉公の先輩方は優しい方ばかりです。淀の方様は、格好良くて、噂にお聞きしていた以上にお優しくて、お美しい御方です。毎日楽しく働かせていただいております」
「そう。皆、前の庭師が辞めてから、お庭のお世話をして下さる方を首を長くして待っていた。姫晴は望まれてここにいらしたの。されど、庭師なら誰でも良いわけではなかったわ。まごころを込めて、草花に接して下さる方でなくては」
「それでは、私……」
「姫晴は、適任だわ」
「…──!!」
みおこの腕が姫晴のうなじに巻きついて、その指先が、柔らかな黒髪を撫でるようにして、儚い背中をなぞっていった。
凛々しくまっすぐな目と甘ったるい黒目がつな目とが求め合って、とろけんばかりの眼差しが、交差する。
「この、白い花は」
「あ、そちらは」
姫晴の赤い唇が、春風にそよぐ花びらの如く柔らかに綻ぶ。
「梔子です。私、この花の匂いが好きなんです。甘くて綺麗で、花籠の中にいるみたいな心地になります」
「まあ、偶然。私も好きよ」
「本当ですか?!」
「さしずめ天鵞絨のように深い白。異国で好まれていると云われる、媚薬を彷彿とする香り。この清らかさ、妖艶さ、あの御方そのものだもの」
みおこの濡れた眼差しが、夕陽に染まった緑に散らばる純白の花を捉えていた。
姫晴の顫える唇が、また、ふわりと開く。
「淀の方様ですか?」
「──……」
「お姉様は、淀の方様の一番のお付き人。私なんかと、身分が全然違います。お姉様は、何故……」
私なんかと一緒にいて下さるの?
そんな風に動きかけたようだった唇に、人差し指がぴたりと留まった。
「あの方は、寂しいお人」
「…………」
「茶々様は、織田信長様の姪にお生まれになったばかりに、生涯を復讐の犠牲になさるより他になくなられてしまわれた。母君の仇、太閤様の伴侶として、いかなる女人にも優る愛を得る。茶々様は、そうして太閤様のお心をお繋ぎになることで、あの殿方の権力を、お命を、御自らの手に握っておいでなの。握り潰しはなさらない。それが茶々様の、ご自身に対する戒めかも知れない。そうして、幼くていらした頃の無念を清算なさっておいでなんでしょう」
「高貴な女人は、結婚という戦術を用いて、世の中に関わってゆかれます。私達庶民が家を守ることに通じるところがあります。少しでも優れた家とご縁を持てば、家業を発展させられます。後継者を産み育てられます。……けれど、そんな風に家名や功績のために殿方と縁を持つことは、神様の意に反するのではないでしょうか。世の中は、だのにそんな風に仕組まれている」
「ええ、だからこそ」
「──……」
「私は面倒な家柄の出ではないから、茶々様の真実でありたいの。私の、この想いは──…忠誠心とでも仮定しておきましょう、忠誠心は、誰にも強制されなかった本物。ねじ曲げられた世の中で、私は、私なりの真実を貫いて、この花のように美しく妖しいあの御方のお側に生涯いようと決めている。そして、姫晴」
みおこの指が、姫晴の背に流れる黒髪を、しゃらんととかした。
「貴女の育てるお花はとても無垢な色をしている。貴重な貴女を誰かに寄越すくらいなら、私が、貴女を守ってあげる人になりたいわ」
「…──!!」
姫晴のあどけない双眸が、見開いた。
朱色の頬がひとしお紅い深みを帯びて、その時、一陣の風が吹ていった。
「誰っ?!」
みおこが、やにわに走り込んできた。
蘰は、みおこの凛とした双眸に、しっかりと捕らえられた。
「あ……ああ……」
みおこも、そして彼女の後を追いかけてきた姫晴も、蒼白な顔をしていた。
蘰は、そこで久しく、自分が表向き件の太閤秀吉の家臣の懐にいる男であったと思い出す。
* * * * * * *
蘰は、故郷の平地、信濃の国の某所に聳える松本藩主の居城にいた。
天守閣の一角にある広間は、静かだ。遠くで使用人達の微かな話し声が聞こえる。そして辺りは、真夏の日差しがどこからか差し込んでくるのを除いては、室内を照らすものものもなくて、ひんやりしている。
蘰は、無精髭の武士と向き合っていた。年のほどは六十近い。
この人物こそ、この城の主、石川数正だ。そして蘰が仕えてまもない主だ。
数正は、かつて東の都に居を構えていた、徳川家康の重臣だった武士(もののふ)だ。ところが、ある時を境に出奔して、西の都に寝返った。世間では、なかなか謎めいた強者だと囃されている。
「お話とは、どのような?数正様」
「実は、わしには、長年気に病んでいることがある。もっとも、わしが抱えておるのは、謀叛を企てる恐れのある者、ましてや口の軽い者どもには、決して話せぬ厄介ごとじゃ。どうじゃ、そなたは、わしの胸の内に耳を傾ける覚悟があるか?」
「私の心は決まっております。この命も忠誠も、数正様……貴方のものです」
「ほっほっ、……心身までと申さんのがそなたらしいわい。わしはな、そなたに、あるおなごを連れてきてもらたいのじゃ」
「女性をですか?」
「わしが徳川様のお側にいた頃じゃ。江戸にたいそう美しい女がおった。町の娘で、家は花屋だったんじゃが、わしはある時、大怪我を負って町の外れで倒れてしもうた。絶対絶命だったわしが、翌朝目を覚ますと、知らぬ家の布団にいた。側に例の娘がおった。彼女が手当てをしてくれたのじゃ」
数正の目は輝いていた。その張りのある声色は、誇らしげでさえある。
「わしは彼女と屡々会うようになった。茶屋で待ち合わせをしたり、扇子や簪を見立ててやったりした。わしは、彼女のこしらえてくれる花束を、屋敷に活けて眺めた。武家と商家、周りに祝福されんカップルじゃったが、若いわしらにそんなものはどうでも良かった。幸せじゃった。一人娘を授かるまではな」
「──……」
「沫彌姫晴(あわみきはる)というおなごがおるじゃろう」
「…──っ、何故……」
「淀殿お抱えの庭師じゃ。摂津の城を出入りしている武士たる者、あの娘が殆んどの庭木を手入れしておるのは知っておる。もっとも、そなたとあの娘との仲を知っておるのは、数少なかろうがな」
「…──!!」
「そなたは物好きなおなごじゃ。格式あるお家に生まれておりながら、娘という性を否定し、父親の跡を継いだ。男の格好はともかく、色恋の相手までおなごを選ぼうとは」
「…………」
数正の話す通りだ。
蘰は、物心ついてまもなくして、生まれながらの性を隠した。
女人ならではの長い黒髪を断って、父親の跡を継げるよう武術に励んだ。簡素な小袖に片衣に袴、かような装いは、きらびやかな打ち掛けやら振り袖やらより、ずっと肌に馴染んでいる。
蘰を女と知る者は少ない。家族と数正、それから大阪城にいる、あの二人の侍女達くらいだ。
但し、蘰は、物好きではない。生まれながらの性を否定していたわけでもない。
「お言葉ですが」
「ん?」
「私は、女であればこそ、殿方と相容れられないんです。同じ視点で物事を見つめて、感じ、考えることが出来る。同じ肉体を備える女人にこそ、この肉体は差し出したい。しかし、このご時世、女としての生を選べば家の道具として使われて、いずれ殿方のものになります。私は人として生きたい所以、戦うことを決めました」
もっとも、最大の本音は数正を前にして口に出来ない。
男の築いてきた日ノ本は、あまりに無駄なものが蔓延っている。そして血なまぐさく、悲しみに濡れた国土は醜い。
蘰に歪んだものを正せる自信はない。もとより本当の正しさなんて、誰も持ち合わせていない。それでも、ただ移りゆく世界を悲観しているだけでは耐え難かった。何もしないで嘆いているのは、理に敵わない気がしたのかも知れない。
「それで、数正様。姫晴がどうかなさいましたか?」
「ああ、あれが、わしの娘じゃ」
「まさ、か……」
「わしも信じられんかった。じゃが、探りを入れさせた者が申すに、名ばかりか出生まで一致している。間違いはあるまい。そこでじゃ、娘を連れ戻して参って欲しい。そなたも知っておるように、豊臣はいずれ滅びる。わしが家康様の元を離れ、サルに頭を下げたのは、あれの力を内側から崩してゆくためじゃ。じゃが、戦となれば、姫晴があすこにいては危ない。わしもいつまでも現役でおれんじゃろう。娘と、余生はぬくぬくと暮らしたい」
「断ります」
「…──っ?!」
数正の顔色が変わった。皺だらけの目許が開いて、濁った目がぎょろりと見開く。
姫晴と出逢ったのは一年前だ。やはり今と同じ、灼熱の太陽の下ひぐらしの鳴く季節で、あの日は夕暮れ時だった。
蘰は、大阪城の侍女達の暮らしている櫓の前で、とてもたおやかな少女を見かけた。
姫晴は高貴な少女と一緒にいて、とても睦ましやかだった。
蘰は、葉と葉がこすれ合う音に振り向いてきた一人に、すなわちみおこという名の少女に見付かった。淀の方の側近だ。そしてみおこに泣きすがられた。聞かれてまずい話をしていたようだ、決して他言しないよう、嘆願されたものだ。
もっとも蘰は、みおこの美しい主の腹の内などどうでも良かった。みおこの後方から注がれてくる、おずおずした眼差しに、未だかつてなかった痛切なものを覚えていた。それが焦がれるという感情からくるものだと自覚するまで、さして時間はかからなかった。
「姫晴を信濃の国に迎えた暁は、そなたを伴侶にと考えていたが」
数正の、冬眠から覚めたばかりの猛獣のそれを聯想する唸り声がこぼれた。
「仕方あるまい。蘰殿は、わしの知らぬ姫晴の胸の内を知っておればこそ、承服出来んと申すのだろう」
「……その通りです」
「それは、そなたが豊臣と手を組んで、徳川様に叛くと解釈すれば良いか?」
「…──っ、……」
何故、ここでそこまでの発想に至る?
蘰が呆れて数正を見上げると、たった今まで懐かしげに細めてあった双眸が、武人らしい本気の色にぎらついていた。
* * * * * * *
数正に呼び出しを受けてから、十日が経った。
蘰は、昼下がりの大阪城を訪ねていた。
侍女達の起臥する梔子の匂いの満ちた離れは、今日、姫晴一人が留守番していた。縁側を覆った影が金色の日差しを遠ざけて、ぬるいそよ風がふわふわたなびいていた。
「蘰、今日も来てくれて嬉しい。私、貴女と会うとどきどきするの。どうしようもなく緊張して、私が私でなくなったみたいに落ち着かなくなってしまうくせに、とても幸せ。会えなくては寂しくて、……こんな私は嫌い?」
「ううん。姫晴は綺麗でおとなしそうで、でも、それだけじゃなかった。話すとほんとに素直なとこ見せてくれる。私は姫晴のどんな表情(かお)も好き。私だって君にいつでも会いたいと思ってる」
「あのね、蘰が初めて。色んなこと話したの。好きなことも、怖いことも、私がどうやって生きてきたかも、これから先も、きっと他の誰にも話せないと思う。お姉様にも、……話さなくちゃ、いけないけど」
蘰の前に、姫晴がしずしずくずおれるように膝をついた。
二人、向かい合って、蘰のまとう着物の裾の煤竹色と、姫晴の鮮やかな振り袖の薔薇色が、重なった。
姫晴は、逆光の中にいても、奇跡の如くまばゆい。 くっきりした目許は薄紅で化粧してあって、仄かな甘い香りを醸す黒髪は、今日は海を彷彿とする青いリボンが留めてある。そして、それとは相反する色の着物は可憐な花がたくさん描いてあって、その姿はさしずめ絵物語から抜け出てきた姫君だ。身振り手振りの一つ一つが、声が、吐息が、眼差しが、何もかも悩ましげだ。
「早いなぁ、もう一年経つんだね。私がお姉様とお庭でお話ししていた時、蘰が通りかかって……出逢って一年。あの時は、お姉様も私も、みっともないほど動転しちゃって」
「怖がらせてごめん。聞くつもりはなかったし、ああいう話に興味はなかった。何となく、あの場所から動けなくなったんだ」
「分かってる。蘰は、淀の方様のこと誰にも話さないって約束してくれた。内緒話を聞いてしまった代わりにって、蘰は、貴女が数正様以外の他人に決して打ち明けなかった秘密まで、私達に教えてくれた。そんなことしてくれなくても良かったのに。だって私は、時々、貴女を殿方だと思い込んでいたままの方が、楽だったんじゃないかって、思うんだもの」
「どうして?」
「……お姉様を、お慕いしているから。なのに貴女にまで惹かれてしまって、どうすれば良いのか」
「──……」
蘰は、こんな時、とてもやるせない現実を思い知る。
どれだけ好きだと伝え合っても、二人、身も心も離れた場所にいる。姫晴とずっと一緒にいて、彼女の拠り所になっているのは、あのみおこだ。
蘰は、姫晴がみおこと出逢うより前には戻れない。四六時中、姫晴の側にいて守ってやれない。
「私は身のほど知らずだよね。貴女は立派な家柄の人で、お姉様がお慕いなさっておいでなのは、淀の方様なのに。私は、お姉様の欠けた部分に置いていただいているだけ。淀の方様の、代わりにさえ、なれてないけど……。身に余る光栄だよ、満足している。でも足りないの。優しい笑顔や言葉だけじゃ足りなくて、もっと、触れて欲しくて……」
「──……」
「違うよね。私は恋なんか出来る立場じゃない。普通の庭師と違うもん。みおこ様と同じになれない。蘰とだって、同じになれない。私の生家は、表向き花屋だけれど……本当は、草花を媒体に使う呪術師の家系。私のこの力が、徳川様の目に留まって」
「姫晴」
蘰は姫晴の言葉を制した。この先は、二度と口にさせてはいけないものだからだ。
蘰は、姫晴と逢ってまもなく、彼女に課せられた残酷な使命を知ることとなった。
姫晴は家康の命を受けて、ここ、大阪城に上がってきた隠者だ。庭師としてこの城の草花の世話をしながら、豊臣家の命運に呪いをかける。家康に、この天下の家系を滅ぼすよう強要されていたのである。
「姫晴は、お父様のこと、考えたことはある?」
「──……」
「お父様が妖術に関係のない人だったんなら、頼って相談に乗れば良いんじゃないかな。どんな人かは知ってるの?」
「…………」
こんな卑怯な話の運び方はしたくなかった。
だが、蘰は現実問題、この目前の少女を主に会わせてやらなければ謀反の疑いをかけられる。最悪の場合、一族全体の問題になる。全く横暴な話だが、とにかく手ぶらで帰れない。
「お母様が話していたことがあるんだ。お父様は立派な武士で、とても偉い人だから、もう会えないところへおいでになったと。でも、お母様と私を、ずっと愛して下さってるって」
「…………」
やはり、ダメだ。姫晴は、数正に会わせるには、荷物を抱えすぎている。
それでも、仮に、蘰が今ここであの男の本性を打ち明けたなら?
姫晴は家康の懐にいる。数正も、従順な家臣の顔の裏側に、あの男のはしためという素顔がある。
「あのさ、姫晴」
蘰が姫晴にそっと身を乗り出してきた。
やにわに、姫晴が背にしていた襖が開いて、男が一人、出てきた。
男は武士だ。どこかで見かけたことがある。
蘰は、そこで思い出す。突然現れたこの人物は、屡々江戸の城に出入りしている、沢村三平(さわむらみつひら)だ。
「三平殿。城の者に取り次ぎもなさらないで、無礼な来室は感心しません」
「これはこれは、蘰殿。こんなところでお会いしようとは……、お楽しみの最中でしたらかたじけない。この者に急ぎの用がある故、席を外してもらえませんかな?」
「私がいては不都合ですか?」
三平が粗暴に身を翻した。それから縁側を通って庭に降りて、鹿威しの前に足を留めた。
「これが呪いの庭か。何の威力も感じぬ」
「あっ」
姫晴から小さな悲鳴が上がった。
三平が、天鵞絨の質感をした白い花を萼から千切って、その手の中で握り潰したのだ。
「家康様はお待ちだ。おぬしの呪術とやらが本物かイカサマかは知らんが、天下はいつに覆る?おぬし、よもや西の人間の情にほだされて、裏切る所存ではあるまいな?」
「術は……あの、でも私、初めからいやだと…──っ」
姫晴の目から大粒の涙がこぼれたやにわ、蘰の視界に銀色の光が差し込んできた。
蘰は、間一髪、脇差しで三平の刀を弾き返す。姫晴が白刃を免れてその場にへたり込むと、今度は、蘰にそれが迫ってきた。
蘰は三平の刀を奪って、その利き手に打撲を負わせた。それでも尚、三平の仕掛けてくる体術を防御していると、護衛の武士達が駆けつけてきた。
三平は、案の定、連行されていった先で、姫晴の知られざる素性を吐露した。
蘰は姫晴に付き添って、三平が尋問されていた居間を訪ねた。そして、三平の話をでっち上げだと主張した。
姫晴の実父は、秀吉が信頼してやまない家臣だ。いざとなれば数正の名前を出せば、何とかなろう。
「つまり姫晴殿は、父君を探してこの大阪に参っていたというのだな?」
「私が保証します。姫晴の実家は花屋を営んでおりました。戦とは無縁の商家です。三平殿は、江戸にいた頃、彼女をどこかで見かけていただけでしょう」
「うむ。私も聞いておる。よくある話ではあるが、気の毒なことよ。幼き頃より、ろくに遊べるような暇もなく、母君の生業を手伝っていたと申すのだからな。秀吉様も茶々様も、この娘の育てる花は、たいそうお気に召しておいでだ。さしずめ、この三平は、魔が差したということだろう」
「あ、あの……」
「して、姫晴殿」
取り調べを任されていた武士の一人の双眸が、さっきから何か言いたげな姫晴を捕らえた。
「父君の手がかりはあるのか?」
「えっと、それは……」
「そなたが構わぬと申すれば、捜索させよう。いかがかな?」
「えっ」
「会いたいのだろう。待つ一方では、一生会えんかも知れんぞ」
「──……」
目前の武士の、あれだけ厳しい目で三平を尋問していた目が、にっと笑った。
また、泣きそうな顔をしている。
蘰は横目に姫晴を見て、彼女の、嘘も苦手なら、かような人間のあたたかみにも弱い気質を思い起こす。
* * * * * * *
大阪城の庭師の父親探しのお触れは、瞬く速さで広がっていった。
数正は姫晴を松本城に呼びつけた。初対面の父娘は、初めはぎこちなかったが、それから一週間近くの間、父娘水入らずの生活を送ったようだ。
秋の足音が迫った八月の末、蘰は、大阪の活気溢れる城下町を訪ねていた。姫晴を城に送り届けるためだ。
「蘰が私を連れ戻すよう父に脅されていたなんて、知らなかった。話してくれれば、私、付いて行ってたのに」
「それはいや。姫晴は、今でも江戸と大阪、どっちで生きるか悩んでるだろ。何より数正様は、姫晴達母娘を見捨てて出世していった。確かに、商人と武士じゃ結婚は難しいけれど、それで割りきれる父親なんて、信用出来ない」
何より蘰は、姫晴から、彼女自身の選択の余地を奪いたくなかった。
姫晴は、もっと早い段階で数正に会っていれば、きっと豊臣を切り捨てていた。蘰にすれば都合は良い。だが、忠義や愛とは力ずくで得るものではない。
人間の中には、生きるために、或いはのし上がるために、本心を偽る者がある。そして自分自身の全てを擲つ。それも戦略の一つだ。されど蘰は、ことに選択肢を狭められる女の立場を見限った。そうせざるを得ない世の中を築いてきたのは、歴史の中で力を得てきた男達だ。彼らと同じになりたくない。
蘰は姫晴と、明るい城下町の景色に馴染んだ、手工芸の店屋の看板の脇に寄る。
二人、建物と建物の間の陰に入っていった。
「私、これからどうなるんだろ。お父様には、当分の間、大阪城に残るって、説得出来たけれど……」
「姫晴は、暫く護衛を付けた方が良い。この間みたいなことがまたいつあるか分からないし、頼れる人に相談して」
「その必要は、なくなったんだ」
姫晴がからんと下駄を鳴らして、木造の壁に、淡い紅色の着物の背を預けた。
「私、術が使えなくなってしまっていたみたい。分かるの。私の呪術は植物を媒体とするものだけれど、思いがなくては作動しない。お城の方々が、私、好き。今の生活をやめたくなくなってしまったの。だから、あの城を滅ぼすための念を出せない」
「姫晴……」
「ただ、心配なのは、一年目にかけた術が染みついていて、本当に弱い力だけれど、今後どこまで影響を及ぼしてくるか分からない。ううん、そんなこと、どうでも良い。きっとここは大丈夫。でも、……私が豊臣家に服従すれば、蘰と、お父様が」
姫晴の黒目がちな双眸が、ふっと翳った。
ああ、この純粋な人の迷いを断ち切ってしまえたなら、どんなに楽になれようことか。
蘰は、みおこが疎ましい。姫晴の心をこんなにも捕らえて離さない、あの年上の少女が羨ましい。
姫晴の胸中の天秤は、どちらに傾いている?
一緒にいられるだけで満たされていたはずなのに、何故だ、もどかしくてたまらない。
「姫晴」
蘰は姫晴の片手をとって、その指先に自分のそれをそっと絡める。
「姫晴がいたいところにいれば良い。私は、君を連れて逃げたくなったら、そうするから。無理矢理にでもさらっていって、誰の家臣でもない、姫晴のものになる」
「…──っ、……」
「生きるために想いを売る。家名を残すために子孫をつくる。身分の高い女性は、そうやって戦っている。身分の違う異性同士は婚姻出来ない。馬鹿げた世の中だ。私は、姫晴が数正様のところに帰らなくても、姫晴を選ぶ。家名も地位もいらない。欲しいのは──」
君だけ。
蘰が心の中で続けようとしたその時だ。肩に、柔らかなものが絡みついてきた。
優しい手のひらに触れていた右手は、熱い宙を握っていた。蘰は、代わりに、とても甘くて優しい匂いに、体温に、包まれていた。
「蘰……」
耳許に、涙声に濁ったソプラノが、吐息に混じって触れてきた。
「絶対、絶対、来て……待ってて。私、蘰になら奪われたい。お姉様から、私を……いつか」
二人の鼓動が、体温が、情熱的に重なり合う。
優しいだけの抱擁は、初めてなのに、ありえないほど官能的で、気も遠くならんばかりに愛おしい。
蘰は姫晴の背に手を回す。いつの日か、もっともっと深く触れたいこの身体を抱き締める。
たとえ戦火の中でも見つけ出す。その時が来たなら余計なしがらみを全部拭って、この手をとる。
そして、きっとどこかにある綺麗な土地を探しに出よう。
──fin.
妖精カテドラル