ある初秋の午後、街の外れの住宅街は、とても静かな時間がたなびいていた。
不揃いな家々の集ったこの界隈の一画に、飛び抜けて豪華な邸宅がある。二階の窓に、二人の女性のシルエットが映っていた。
二人の内、一人は、とても愛らしい顔つきの、清楚な女性だ。
年のほどは二十代前半か。あどけなさの残った雰囲気とは相反して、その体つきは肉感的だ。さらさらの長い黒髪が、きゅっと締まったウエストまで流れていた。
もう一人は、夜空の闇を吸い込んだ如くの色をした双眸を備えた女性だ。
思慮深く知的な感じのある面立ちは、妖艶だ。焦げ茶の髪は肩より少し長いくらいで、自然なカールを描いている。年のほどは、見たところ四十代半ばだ。洗練された婀娜っぽさがある。
「…──さん。今お話ししたのが、貴女のお母様のなさった全て。二年前の個人情報流出、横領事件。あれらの首謀は冴子さんだったの。私が尽力して、前所長に全ての罪を被せただけ」
「何故……そんなこと……」
巻き毛の女性の悩ましげに伸びた腕が、黒髪の女性のウエストを抱き寄せる。
「何故、私が貴女にこんなお話を打ち明けたか?それとも、冴子さんと私がどんな事情でそんな罪を犯したか、気になる?」
「──……」
「私、そろそろ自白しようと思っているの。貴女のお母様の犯した罪を。貴女のお家は由緒ある名家。気の毒だけれど、悪は裁かれるべきだものだわ。許して頂戴ね」
「…──っ、……。証拠は?貴女のお話が本当だという証拠はあるんですか?お母様は、どうなるの……」
「ねぇ、──…。貴女のこと、調べさせてもらったわ。ご両親の跡を継いで、春からは市役所にお務めになりたいんでしょう?いつかはお父様のような市に貢献なさる議員になりたい。それが貴女の希望よね?」
「……。…──市だけでなく、国のためにも尽力するつもりです」
「では、貴女が今、心配すべきは、お母様のことかしら?」
「…………」
「私、貴女に一つ、嘘をついたわ」
「嘘……?」
「貴女のこと、私、調べたんじゃない。見ていたの。貴女を初めて見かけてから、ずっと」
「何のために……」
「鈍感ね。あんまり私を焦らさないで」
艶やかな女性の口許が、綻んだ。年下の女性のくびれに添えてあった片腕が、その膨らみを求めてゆく。
小さな女性の怯えた目に、今にもこぼれそうな涙の膜が張っていった。
* * * * * * *
紫洲りせ(しじまりせ)は、ロリィタ系アパレルメーカー『Fairieta Milk』の直営店の内一軒に勤務している、ショップスタッフだ。大学を出た春に入社して、この秋で二年と数ヵ月が経つ。
りせは、その日、『Fairieta Milk』の早番の勤務に当たっていた。
甘ロリィタのテイストが強いこの店の従業員にしては、凛とした感じのあるかんばせは、淡いピンクやオレンジを基調にした化粧でふんわりした雰囲気を出している。腰まである色素の薄い金髪は、ハーフツインに結って、結び目に白いリボンコームを留めていた。
そして、今日は、オーソドックスな白い丸襟ブラウスに、生成にピンク色のリボンやフリルでデコレーションしてあるジャンパースカートを二枚のパニエに重ねて、新作のショートブーツというコーディネイトに身を固めていた。
もっとも、りせは今朝、些細な災難に見舞われていた。開店して一番に、苦手な客が訪ねてきたのだ。
「いつも有り難うございます。お取り置きのお品物は、こちらでお間違いありませんか?」
「はい。あ、みくるさんに、よろしくお伝え下さいますか?」
「分かりました。スタンプカードのお返しです。お品物はお出口までお持ちします」
りせは、問題の客、藤垣みきの(ふじがきみきの)にスタンプカードを返却した。そして封をしたばかりのショッパーを持って、レジ台を出る。
『Fairieta Milk』は、接客、会計、ダイレクト葉書の全てにおいて担当制だ。
みきのを担当している従業員は、今日、休みだ。りせは、それで代わりに対応していたのである。
りせはみきのを店舗の出口に送っていった。
そして、洋服やらアクセサリーやらが満タンに入ったショッパーを、差し出す。
「重たいので気を付けて下さい。藤垣さんは細腕だから、ここまでしか見送れないのがもどかしいです」
「──……」
りせの手からみきのの手に、ショッパーが移っていった。
「相変わらず、調子の良い方」
みきのの声は、鈴を転がすような響きがあった。そして、セレナーデを歌う天女の吐息を彷彿とする甘ったるさが備わっていた。
ただ、みきのの濃く長い睫毛に囲われた双眸は、嘲笑にも見て取れる色が浮かんでいた。
その透けるような白磁の肌に黒檀の艶を帯びたロングへア、あどけなさと玲瓏たる気高さを備えたプロポーションは、『Fairieta Milk』のピンク色が基調のロリィタ服が、とてつもなくよく馴染んでいる。
「私、世の中の女が皆ご自分の言いなりだと思っているような人間は、好きではありません。紫洲さんはおモテになるから勘違いなさっておいでのようですけれど、私は、貴女に心配していただいても、別段何とも思いません」
「それは、残念です。綺麗な蝶は、容易に捕まえられるものではないんですね」
「…──!!はしたないっ……。せいぜい、貴女の言葉を真に受けた女に刺されないよう、お気を付けになることです!」
花恥じらう女性(みきの)の顔が、赤く染まってそっぽを向いた。
全身から怒りをアピールしている後ろ姿が、やがて遠ざかっていって、ビルの向こうに消えていった。
「相変わらず感じ悪……」
ふっと、また、聞き覚えのある声が、新たに斜め後ろから聞こえてきた。
りせが振り向くと、そこに、やはり『FaIrieta Milk』の洋服やアクセサリーで全身をコーディネイトしている女性がいた。りせの担当している客だ。
ラズベリーピンクのシャギーの髪にエメラルドグリーンのカラーコンタクト、涼しげな風貌をしたその女性は、赤やピンクをこよなく好んで身につけている。
彼女は、名前を沙岸しより(すなぎししより)という。
「すなちゃん。いらっしゃいませ。今日はお休み?」
りせはしよりの背に腕を添えて、明るく華やかな店内に戻っていく。
しよりが、たたっとステップを踏んで離れていった。
「そんなことより、お姉様」
りせは、振り返ってきた翠の瞳に、若干ねめつけられていた。
「あの藤垣みきのさん、目に余ります。旧家のお嬢様だか何だか知りませんけれど、お姉様があのような態度を向けられて、私、耐え難いです。荷物だって、近くの駅に使用人が待ってるんです。私、藤垣さんが、その人に持たせているのを見たことがあります。お姉様、あの女の顔と胸に騙されないで下さい」
「有り難う。すなちゃんは可愛いな。嫉妬?」
「あっ、はい。……あんな人に優しくなさるなら、私に……構っていただきたいです」
「ん、そうする」
りせはしよりを斜め後方から抱き寄せて、木苺の色をした髪のかかった耳朶に、軽くキスする。
はぅ、と、世にもあどけない可愛らしい声がこぼれた。
「そうだ、お姉様」
りせは、しよりがショルダーバッグを探り始めると、彼女の華奢で甘い匂いのする身体を離した。
目の前に、チラシが一枚、差し出されてきた。
「『ゴシック&ロリィタ ナイトイベント ウサギの穴のマッドカクテルパーティー』……?」
「はい!私、この幹事に協力することになったんです。私、個人製作やってるじゃないですか。それで知り合いになったロリィタさんに誘っていただいて」
「いつ?あ、行ける」
「是非来て下さい!」
りせはしよりからチラシを受け取って、裏側を見る。
開催日はまだまだ先だ。参加ブランドやアーティストは、少しずつ決定しているようだ。しよりの個人製作ブランドの名前もあった。
「お姉様。催し物のタイムスケジュールのところ、見てもらえます?」
「ここ?──……。すなちゃんのブランド!」
「はい。お芝居とファッションショーを融合させたパフォーマンスを、プロデュースさせてもらえることになりました。私の『虹色フェアリー』の作品を、よりじっくり見ていただけて、且つ、ブランドの世界観を明確に伝えるために、主催の方にお願いして、枠をいただきました。脚本は、大学の友人が書いてくれます。衣装や服飾雑貨は、全て私の『虹色フェアリー』から提供します。音響は、参加アーティストの何組かの方々に、担当して下さる見込みが出ています。問題は、ヒロインをやって下さる方です」
「演目は?」
「『風と共に去りぬ』です」
「わ、有名どころだ」
「『虹色フェアリー』のイチオシはロリィタ服です。おそらく、私の2014年最高傑作の新作は、ヒロイン、スカーレットを演じて下さるモデルさんに、お披露目していただきくことになります。スカーレットは格好良さと可愛らしさとを持ち合わせた方、そして、美しい自由な魂溢れる女性像が求められます」
「なるほど。そういうお嬢様が見付からないと、すなちゃんの新作は見られないってことね。分かった」
しよりの顔が、ぱぁっと眩しいほど輝いた。
「探しておく。すなちゃんの眼鏡に敵うかは分かんないけど、それらしいお客さんか知り合いに当たってみる」
「いいえっ!」
りせのチラシを畳みかけた右腕が、袖ごとしよりに掴まれた。
「お姉様にお願いしたいんです!無理も承知で、今日は、当たって砕けるつもりで来たんです!」
「ええっ?!」
「まずいですか?会社的に……」
りせは、しよりの上目遣いな双眸に、うるうるした煌めきを浴びせられる。
『Fairieta Milk』は、極めて自由な社風だ。従業員らのプライベートは干渉されない、副業をしている社員もいると聞く。
りせは、しよりに難色を示す理由はない。
* * * * * * *
しよりのプロデュースするファッションパフォーマンスショー『風と共に去りぬ』は、キャストもスタッフも、みるみる内に決定していったようだ。
りせはしよりの誘いを受けておよそ二週間後、初の稽古を兼ねた顔合わせに召集された。
それで今宵、午後九時を回った頃、所定の会館のホールを訪ねていった。
「お姉様!」
りせが『Fairieta Milk』のストラップシューズを脱いでいると、聞き親しんだソプラノが聞こえてきた。
「すなちゃん。お疲れ様。ごめん、今日遅番で」
「いいえ、皆さんが早いだけですから、お姉様はごゆっくりいらして下さい。あの……」
しよりの台本を握った手が、こんな、神無月のひんやりした夜だというのに、どこか汗ばんでいるように見えた。その顔はいつになくしおらしく、何か問題あったらしいと物語っていた。
「どうかした?すなちゃん」
ややあって、しよりの重たげな唇が、動き出した。
「お姉様……。お姉様は、……皇子服とか、無理ですか……?」
「え?」
「ごめんなさい!!スカーレット・オハラの役、あの女に奪われました」
「え……ええっ?!」
「この会館、使用するには市役所の許可がいるんです。他のスタジオだと赤字が出るので、どうしてもここを使用したくて、職員の人たちに交渉してみたんです。甲斐あって、使用許可が出ました。でも、今日になって、いきなり条件を出されました。市役所のマドンナをヒロインの役に使うこと……。断れば、会館の使用許可を反故にすると」
「それで?」
「はい……。実は、スカーレットに並ぶメインの、レット・バトラーの適任が、決まっていなかったんです。スカーレットがロリィタ服の傑作なら、レットは『虹色フェアリー』の皇子服の傑作を披露していただくための、重要な役です。華があって凛々しくて、人懐っこさと孤高の切なさを備えた女性が求められます。関係者の全員一致で……お姉様なら、と、いうことに……」
「──……」
ショーで演じるものがヒロインであろうと相手役であろうと、関係ない。りせは、それは普段はロリィタ服にばかり袖を通しているものだが、『Fairieta Milk』に入社する以前は、気分次第で皇子にもなっていたものだ。
問題は、共演者だ。
「ねぇ、すなちゃん」
「…………」
「スカーレットに推薦されてきた職員って……まさか」
「お姉様と私の天敵、藤垣みきのです」
* * * * * * *
アメリカ生まれの長編小説『風と共に去りぬ』は、南北戦争期の人間ドラマが描かれた大作だ。
ヒロインのスカーレット・オハラは、名家の貴族アシュレー・ウィルクスに恋をしていた。だが、アシュレーは従姉妹のメラニー・ハミルトンと婚約していた。スカーレットは、アシュレーへの当てつけのためにメラニーの兄チャールズと結婚するも、まもなく彼は戦死する。そんな中、スカーレットはある日、喪服姿でチャリティーパーティーに参加する。そこで、破天荒な振る舞いから社交界での評判は芳しくない紳士レット・バトラーに求愛される。反発しながら次第に惹かれ合う二人、スカーレットがようやくレットへの想いを認めた時、彼は軍に志願して、戦地へ赴いてゆくのだった。
スカーレットは戦後、自らレットを探し出して、結婚する。故郷のタラを守るため、レットの財力、人脈を必要としての、選択だった。その胸奥に潜んだ情熱は、初恋のアシュレーを追い続けていたのである。スカーレットは、義妹のメラニーへの親愛と、アシュレーへの未練との狭間で苦悩しながら、レットへの説明しがたい感情と後ろ暗さに思い悩む。
それが、しよりのプロデュースする件のショーの、おおまかな原作のあらすじだ。
稽古が始まって半月経った。
『ゴシック&ロリィタ ナイトイベント ウサギの穴のマッドカクテルパーティー』の本番まで、残すところ二ヶ月だ。
りせは、今日も『Fairieta Milk』の閉店業務を終えた後、例の会館を訪ねていた。
午後十一時近くになって、通し稽古が半分終わった。かくて今、休憩時間が挟まれた。
「お姉様!お疲れ様で──」
「紫洲さん」
りせとしよりの間に、やはり全身を『Fairieta Milk』で固めた女性が入り込んできた。
たった今まで激情的な愛憎をぶつけ合っていた、つまるところパートナー役の女性だ。
「藤垣さん。お疲れ様です。すなちゃ──」
「待って」
りせはみきのの脇をすり抜けようとしたところで、彼女に袖を掴まれた。
みきのの斜め横顔は、間近で見ると、とても儚げな影がある。透き通るような肌にぱっちりした悩ましげな目許、その顔は、ろくに交流しなかった頃では見られなかった表情を、次から次へと見せてくれる。笑ったりつんとすましたり、おどけたり、そして、時たま、とても寂しそうな色が浮かぶ。
そして、りせはみきのに、屡々、今みたいに不安そうな目をして見上げられる。
「さっきのダンスパーティーのシーン、私、足引っかけちゃいませんでした?ごめんなさい、そそっかしくて」
「あっ、ほんと。お姉様大丈夫でしたか?」
みきのの肩越しで、しよりが目くじらを立てた。
りせはしよりに、ごめん、と、目で詫びる。
それからみきのの手を腕から離して、妖精界から舞い降りて来た如くの姫君に、微笑みかける。
「大丈夫です。藤垣さん軽いから、もし倒れて来られても、受けとめられる自信はあります」
「…──っ、私は、そこまでしくじったりは……」
「それに」
「…………」
「あたしの方こそごめんなさい。藤垣さんのブレスレットにお洋服のリボン引っかけちゃって、絡みつきそうになってましたよね。着替えてくる時間がなくって、時間があったら、もっとおとなしい格好して来られるんですけど……」
りせがみきののワンピースの緩んだ編み上げリボンを直してやると、両手が、ふんわりした手のひらに包み込まれた。
ドールのガラスアイより遥かに透明感があって、ずっと煌めきに溢れた双眸に、捕らえられていた。
「私、紫洲さんのロリィタ好きです」
「えっ……」
「稽古中、いつも不思議な気分になります。レットは皇子様の格好のはずなのに、『Fairieta Milk』の綺麗なお洋服姿の紫洲さんが演じていらっしゃっても、全然違和感ありません。むしろ紫洲さんだからこそ、今のままの方が格好良い、なんて思ってしまいます。『Fairieta Milk』は私のお気に入りのメゾンです。同じものを好きな方と、同じステージに立てること、とっても嬉しいです。着替えてなんて、来ないで下さい」
「──……」
りせは、みきのが今でも苦手だ。生まれも育ちもまるで違う、この同い年の女性といると、気の向くままに振る舞えない。
美しいものを愛してきた。
人は、誰でもどこかに美しいものを持っている。りせにとって、中でも『Fairieta Milk』のきらきらしていてふわふわしている柔らかな世界に惹かれる乙女達の魂は、格別だ。『Fairieta Milk』のコンセプト、「プリンセスが妖精に恋する瞬間」の如く、りせは乙女達に恋をする。そこに特別な愛はない。ただ、単純に惹かれてゆくのだ。
それでも、りせは、どれだけ美しいものを身につけていても、どれだけ純粋な乙女達と戯れていても、いつも自分の胸の内に潜んだどす黒いものに脅かされているところがある。人が美しいものを持っているのと同時に、醜いものも持っているからだ。
みきのには、醜い部分がなさすぎる。
りせは、さればこそ、この胸中にある暗闇が、そのの純粋な目に見透かされはしないかと、怖くなる。
他人の目なんて気にしたことない。だのに、りせは、みきのの目に、自分が完璧なドールに映っていればと願わずにいられなくなっていたのだ。
* * * * * * *
みきのは、会館からほど近いところの住宅街の一角に構えてある邸宅で、起臥していた。
ずば抜けて壮大な私宅は、ともすれば西洋の宮殿を聯想する佇まいをしている。規模からしても、もはや奇抜だ。
みきのは今夜も、件の豪邸に帰り着いてきた。
私室に戻って明かりをつける。『Fairieta Milk』のバッグをクローゼットに戻して、パニエを脱いでベッドに放った。
すっと、心身が解放された。
みきのがここで暮らし始めたのは、二年と少し前のことだ。家の主に誘われたからだ。
「…………」
みきのは、自分の格好を見下ろす。
長らく贔屓にしてきた『Fairieta Milk』の洋服は、あの女性の方が、ずっとずっと馴染んでいる。
甘ロリィタのショップスタッフのくせに、その中身はまるで女たらしな皇子様、可愛いげより色気が遥かに優っていて、それでも、あくまで『Fairieta Milk』の従業員らしく、とても純粋で可憐な雰囲気を備えている。人当たりは完璧、愛想も完璧だ。
みきのは、そんなりせを嫌っていた。明るくて、誰からも愛されていて、誰でも愛せる屈託ないあの女性が目障りだった。りせと同じ空間にいると、自分の醜さが思い知らされるからだ。
だのに、今、みきのまでりせの持ちうる魔法の虜になりかけている。
この感情は、憧憬か?それとも、他に何か正体でもあるものだろうか。
みきのは自分の手のひらを見つめる。ウエストを、それから自分の頬をなぞって、胸を抱き締めるつもりで腕を抱く。
愛おしい。みきのは、ひとときでも、りせに芝居で見せかけの愛を注いでもらえるこの肉体が、心が、自分のものなのに愛おしい。
「みき。帰っていたのね」
後方から、やにわに聞き親しんだ声が聞こえた。
開けっぱなしの扉から、すっと腕が伸びてきた。みきのの上体に、たおやかなそれが絡みついてくる。
みきのは、この家の主、桐浦史加(きりうらふみか)に抱き寄せられていた。
「ただいま、史加さん」
「待ちくたびれちゃった。職員全員、貴女の晴れ姿観たさに職権乱用してしまったけれど、私、ちょっと後悔しているわ。一緒に過ごせる時間が削れる」
「推薦して下さったこと、感謝しています。……紫洲さんには、申し訳なかったですけれど。稽古は楽しくて、しよりさん達、とても可愛い衣装を作って下さってるそうです。私、ロリィタのお洋服が好きなので」
「私は?」
「え?」
「私のことは、好き?」
「そんな、今更」
みきののボレロの下を彷徨っていた史加の手が、白いジャガードのフレアスカートのファスナーを引いた。
太ももを、悩ましげな指先が、行き来する。
「んっ……」
みきのの首筋を、生あたたかな柔らかなものがくすぐってきた。
軽く吐息を吹きかけられると、唾液で湿ったそこが、ほんの少しひんやりした。
「みき、みくるさんのお話をしている時と、紫洲さんのお名前を口にする時、顔が違うわ。声だって……ここだって」
「はぁっ」
「違うわ」
「そんなことありません。私、紫洲さんみたいなチャラチャラした人より、史加さんの方が……」
「そうかしら」
「…………」
みきのは史加に、身体中をいじられながら、今にもくずおれそうになっていた。
* * * * * * *
早いもので、本番まで一ヶ月が切った。
りせは『ゴシック&ロリィタ ナイトイベント ウサギの穴のマッドカクテルティーパーティー』の稽古がお開きになると、しよりと一緒に帰路に着く。
そして今夜も例に漏れなく、二人揃って、会館を出ると駅に向かって歩いていた。
「お姉様」
やにわにしよりのぽつりと呟く声がした。
「どうかした?すなちゃん」
「……お姉様は、藤垣さんのこと、もう苦手じゃなくなってますか?」
「──……」
否、と答えれば、嘘になる。
「さしでがましくてすみません。私、お姉様にお話ししておきたいことがあります」
「何?改まって」
「藤垣さんのことです」
「──……」
「藤垣さん、市役所にお勤めされてるじゃないですか。所長と交際されているんじゃないかって、噂があります」
「そう……なの?所長って、配偶者がいたような」
「はい、ですから、持ち物として。桐浦所長のバックには、暴力団の組織がいます。頭は、桐浦次郎。所長は昔、桐浦の力を使って、のし上がっていきました。ネットで流れているだけの話ですから、偶然、苗字が同じだけの可能性もありますが」
「結婚は出世のためで、本命は別腹ってこと?」
「四年前の、前所長が懲戒処分になった事件。あの首謀は、藤垣さんの母親です。けれど、そのように仕向けたのは、現所長のあの人だという説もあります」
「まさか……」
ぱしっ、という衝撃音と、女性の悲痛な悲鳴が聞こえてきたのは、やにわのことだ。
りせが振り向くと、電柱の向こうの暗闇に、女性二人のシルエットがうっすらあった。
「みきってば、随分と勘違いしているようね。また教え込んであげなくてはいけないかしら?あの時みたいに」
「違います、史加さん、私……」
「やはりあの女が好きなの?貴女は私から離れられないのに」
「分かってます。史加さんに、感謝しています」
「そう。なら、今度彼女を招待しましょう。みきが私を愛してくれて、淫らに啼いているところを見てもらうの。こうして……きっと素敵な宴になるわ。みきは、私の可愛いウサギさんなのだから」
「──……」
史加がみきのを壁に押さえつけて、その胸を揉みしだきながらその唇を啄み始める。
無人に等しい夜道の端で、女が二人、野生の如くじゃれ合っていた。
りせの脳裏に、あるひとこまがフラッシュバックしてきた。
* * * * * * *
りせはみきのと、いつかの夜の稽古の合間、二人きりで話をしたことがある。買い出しを引き受けた時の道中だ。
二人、コンビニのレジ袋を手分けして持って、上弦の月の光の下、とりとめない話をしながら来た道を引き返していた。
『藤垣さんって、芝居上手いですね。『Fairieta Milk』でお会いしていた頃は、想像つきませんでした』
『意外ですか?』
『好きなんですか?』
二人、毎晩顔を合わせていても、他人行儀は変わらない。
それでもりせとみきのの間を交差していたぎこちなさは、『Fairieta Milk』でのみ関わっていた頃の類いのものから変わっていた。思春期の、ともすれば初恋を覚えたばかりの少女が隠し持つ、歯痒さにも似通っていたのではないか。
『舞台やファッションショーは観たことありませんし、やったこともありません』
『意外です』
でも、と、みきのが急に足を止めた。
会館より少し手前の、大樹の側でのことだった。
『演目が合っていたのかも知れません。『風と共に去りぬ』……自由奔放で、野心家で、自分自身を絶対的なルールと定めて生きている。スカーレットはそんな女性です。純粋なんです。彼女には、嘘がない。そして、自分で自分自身を壊す』
『──……』
『故郷の繁栄のために愛のないはずの結婚をしたはずなのに、最後は、そこに愛があったと気がつく。信じられません。私には、諦めたように思えます。だからレットは、絶妙なタイミングに去ってゆく。物語というものは、いつだって、お姫様の都合の良いように描かれるものですから』
『現実は、違うんですか?』
『………。……──っ』
みきのがくるりときびすを返して、大樹に向かって背筋を伸ばした。
ぐすっ、と、鼻を啜る音がした。みきのを、決して顔を覗くなという無言の圧力が、 とり巻いていた。
りせはみきのを後方から抱き寄せた。気丈に振る舞うその肩を、半ば強引に掴まえて、あたたかな涙を手の甲に受けた。
りせはみきのが乱暴に扱われていた現場に遭遇して、気が付けば、二人の間に割り込んでいた。それから史加に、会館からすぐ近くの邸宅に招かれた。
りせは、見るからに贅の尽くしてある応接室に通された。煌めくシャンデリアの下で、テーブル一つを挟んで、史加と向き合っていた。
史加を間近で見たのは初めてだ。
史加の妖しげな双眸は、夜空の闇を吸い込んだ如くの色をしていた。頭の天辺からつま先まで、知的で、そして洗練された婀娜っぽさがある。肩より長い焦げ茶の髪は自然なカールを描いていて、平均的なその肉体は、飾り気ないシックなスーツで固めてあった。
「思い出しました。藤垣さんはどこか寂しそうで、いつも気がかりがあるみたいな顔をしていて、誰にも甘えてくれない人です。あたしの前で、……泣いた時があるんです。あの時も、梢から夜露が降ったんだって言い張って」
「みきが私の側にいること、後悔でもしていると?」
「傷ついていると思います」
りせがしよりに聞かされたばかりの噂話は、本当だった。
みきのは史加に、やはり母親の罪を引き合いに出されて、ここに住まわされているらしかった。
みきのの母親、藤垣冴子(ふじがきさえこ)は五年前、市役所に管理されている住民の個人情報の一部をとある企業に流して、予算の一部を賄賂として上層部に納金した。但し、それは史加の仕組んだことだった。冴子は史加の思惑通りに操られて、既成事実をこしらえさせられたのだ。
「仕方なかったの。私はみきが好きだから。けれども、あの子の家庭は格式も誇りも完璧なもの。たとえ私がパートナーと離縁して、正面から求愛したって、認めてもらえる望みはない。私は、一度でも裏社会の人間と繋がってしまったんだもの。みきに、お礼はしたわ。彼女を雇った。みきが地方公務員を志していた頃、約束したから。お互い持ちつ持たれつの、良い関係じゃない」
「そんな仕打ち、愛している人に、出来ることですか?」
「何ですって?」
「…………」
りせの側に、史加の気配が迫ってきた。
二人の距離が、狭まっていく。
りせの肩に、史加の指先が絡みついてきた。首筋に、陰湿な艶を含んだ吐息が、触れてくる。
「紫洲さんは、美しい」
「桐浦さんに誉められても、感謝出来ません」
「ええ、私は貴女を軽蔑しているもの。貴女はまるきり穢れていない。美しいものだけを映してきた目、清らかなものだけに触れてきた指先、愛らしいものだけに微笑んできた頬、そして、真実だけを生んできた唇……」
唇が、しっとりした指先になぞられる。
肩に腕が巻きついてきて、形の良い胸が、ぎゅっと押しつけられてきた。
「誰かを憎んだことも、憎まれたこともないでしょう。貴女は、それだけのことをしなければならない野心を持つ必要にも迫られないで、ぬくぬくと生きてきた。誰からも愛されながら、後ろ暗いことなんて一つもなく。私は違った」
「…──っ、……」
「国を変えたくてこの政界(せかい)に入ったわ。実際、国は変わらなかったし変えられなかった。私自身が一番変わった。何でも叶うと信じていた希望は絶えた。正直でありたかった本能は、力のある年配に、蔑まれて騙されて、嘘をつくことを覚えたわ。支えてくれる恩返しに何が出来るか、いつも頭を捻っていても、市民達は待ってくれない。私達のような人間を、平気な顔で、給料泥棒だと罵ってくる。私は、仕事にやり甲斐を求めなくなった。地位も名誉も愛する人も、欲しいものさえ手に入るなら、手段は選ばなくなった」
「桐浦さんは……、感じやすい人なんですね。勘違いしないで下さい。私は貴女のご想像通りの人間ではありません。藤垣さんに、この胸の内が見られるのが怖いです。後ろ暗いことだってあります。私は確かに美しいものだけを崇めていたいです。ただ、それだけです。美しいものを美しいと認められる感覚は、醜いものを知っていなければ養えません。藤垣さんにはそれがない。桐浦さんは、そんな清廉な藤垣さんに、貴女の味わった苦しみをまた味わわせたいんですか?」
「紫洲さんは、みきが好きなのね」
「貴女には関係のないことです」
「私は、あの子がいなければ生きていけない。あの子は、どれだけ穢して歪めても、まばゆすぎるから。私の、私自身許せないところを許してくれる。そんな錯覚をくれるから。私にはあの子が必要なの」
「…………」
りせから史加が離れていった。
史加の悩ましげな指先が、テーブルから呼び鈴をつまみ上げた。
ちりんちりん、と、涼しげな音が響き渡ると、まもなく家政婦の女性が来室してきた。
りせと史加が睨み合っていた傍らに、小さなカクテルグラスの並んだカートが運ばれてきた。
「ロシアンルーレットをしましょう」
史加の、呼び鈴を戻したばかりの指先が、色とりどりのカクテルで満たしてあるグラスの内一つの縁を、すっと撫でた。
「貴女は、仮にも桐浦グループの準トップである私の所有している女に、干渉してきた。相当の覚悟はあったのよね」
「ハズレくじには、何が入ってるんですか……?」
「私はみきがいなければ生きていけない。みきを手放すくらいなら、こんな命いらないわ。どう?このゲームに生き残れた方が、みきを自由に扱える。だから貴女が私に勝てば、解放するなり告白するなり、好きにすれば良いんだわ」
「──……」
史加の準備させたカクテルは、どれも極上の甘味や酸味が備わっていて、時にまろやか、時に瑞々しかった。
文字通り命懸けのこの勝負は、今のところただの利き酒だ。
史加が一口分のカクテルの入ったグラスを仰いで、りせが別のグラスを味わう。それからまた、史加がグラスを一つ選んで口にして、りせが新たなグラスを手にとる。その繰り返しだ。
みきのを愛しているかと問われれば、頷ける。されど自分の命より大事かと掘り下げれば、それは違う。りせは、みきのに関する情報を、それだけ持ち得ていない。
それなのに、何故、この勝負を受け入れた?
「…──っ、……?!」
突然、身体がふわりと宙に浮いた気がした。
史加が、何杯目かのカクテルグラスを飲み干した。
りせは、再び立ち上がろうとしたやにわ、いよいよ重心に力が入らなくなった。グラスに腕を伸ばすことすら、出来ない。
「……くっ……」
「ああ、貴女に当たっていたの」
りせの背に、史加の手のひらが被さってきた。
史加が使用人達に退室を命じた。
開いていた扉が閉まった。
「はぁっ、……桐浦さ、ん……貴女は何を……うっ、……」
身体が熱い。腹の奥がじんじん疼く。まるで淫らな湯でも浴びせられたみたいに、全身が、全霊が、甘く甘く打ち顫えている。
「…──!!」
りせは腕を掴まれて、史加の方を向かされた。
ボレロのリボンをほどかれて、ブラウスのボタンを引きちぎられる。あっと言う間に上体を隠すものが下着だけになっていた。
ブラジャーの下から史加の手が這ってきて、じかに乳房を揉まれながら、唇をキスで塞がれる。
「んっ、んん……あっ、ふ」
深い深い接吻をされて、口内中を犯される。
ようやっとキスが離れていくと、史加の暗い微笑みが、真ん前にあった。
「貴女ほど目障りな女を、楽に処分するわけないじゃない」
「っ……ふざけないで……あっ!」
りせの鎖骨に抉られんばかりの激痛が走った。史加の爪が、がりりという幻聴を伴って、滑っていったのだ。
首筋をきつく吸い上げられて、耳朶をしゃぶり回される。
「どいて……やぁっ、あっ、……」
「ねぇ?紫洲さん。私には、愛してはいない配偶者に学んだことがたくさんある。あの人の裏社会(せかい)では珍しくもない拷問。中でも悪評の高い方法、例えばどんな遊戯だと思う?」
「知ら、な……」
「そう。知らなくたって今後の人生に差し支えはないわ。貴女の飲んだものはただの媚薬。私に夜が明けるまで犯されて、その身体で確かめれば良いわ。もっとも、その頃には、その綺麗な身体も心も、壊れて使い物にならなくなっているでしょう」
「…──っ」
りせは史加の肩を押す。まるで力が入らない。
「りせ!!」
扉の開く音がしたのとほぼ同時、天に澄み渡る女神の声に、耳が打たれた。
* * * * * * *
りせはみきのに腕を引かれて、邸の外へ、半ば引きずられて走っていった。洋服はある程度整えたものの、おざなりだ。
史加は追ってこなかった。
りせはみきのと住宅街を抜け出して、会館より更に駅の方へ走っていった。
ここまで来ればまばらに人の姿もある。ようやっと現実に戻ってこられた感じがした。あまりに走って、薬の効果も和らいでいた。
「信じられない……。紫洲さんって、接客中じゃなくてもサービス精神旺盛すぎます」
「ごめんなさい、誤解です。桐浦さん、意外と力があって……。あ、それより、本当ごめんなさい。藤垣さんは、桐浦さんのこと」
少しは愛していたりしたのか?
りせの脳裏にふっとそんな疑問がよぎった。その瞬間、りせの両手が、みきのに初めて自然な笑顔と一緒に握り取られた。
「そうじゃありません。私は紫洲さんの担当のお客様じゃないし、単発舞台の共演者に過ぎません。それなのに、私なんかのために、あの桐浦さんに意見して下さいました。この世界にこんな人がいたこと、信じられないんです。……心配かけて、ごめんなさい。私は、あの人を好きかどうか分かりません。優しくて、淋しくて、でもやっぱり怖いです。あの人の側にいて安心している私自身が、怖かった」
「──……」
「市役所は、辞めようと思います」
怯えていたばかりの綺麗な目が、初めて自然に綻んだ。
「古い家に生まれ育って、周りには、模範的な人達ばかりがいた。ううん、模範的だって、誰かが勝手にカテゴライズしたばかりのような人達が。私が『Fairieta Milk』を好きなのは、このメゾンが、自由気ままだからです。ロリィタの概念にすら囚われない、作った人の欲望が、そのまま表れているお洋服。きっと、私は、紫洲さんに妬いていました。私の出逢ってきた人の中で、『Fairieta Milk』が一番似合うから。それで、分かったんです。私、貴女が嫌いじゃありません。同じものを持っているのに、私とは全然違うから、いやな態度をとることで、このもどかしさを慰めていました。こんな生活にうんざりしました」
「藤垣さんは似合います。ここのお洋服。妖精さんみたいに純粋で、美しい人だから。……もう一回、さっきみたいに、名前で呼んでもらえません?」
「…──っ!!覚えてたんですか?!あ、あれはその、咄嗟に……史加さんにぎゃふんと言わせたかったからでもあって……」
じゃあ、と、りせはみきのの片手を握り直す。そしてみきのを二歩分、引き寄せる。
史加に盛られたものの所為ではない。見つめているだけで血潮が逸る、恥ずかしくなるほどくすぐったくなる双眸を、じっと見つめる。
「今度は、私のためだけに、敬語もやめて。……みきの」
「…──っ」
みきのの身体ががくんとくずおれそうになった。
りせは、デコレーションケーキの如くきらきらふわふわした妖精を、腕の中に捕まえる。
柔らかな体温を抱き締めていると、それが、もぞもぞ動いた。ぴっとり、胸に寄り添ってくる。
「……りせの意地悪。計算高な女たらし」
「だって好きだもん。みきののこと」
「スカーレットの役、返す。どうせ市役所辞めるんだから、皆のご期待に添うことないわ」
「あたしの期待に添って続けて」
「──……」
りせは、自分で自分が信じられない。女性は誰でも美しいものだと信じていた。そして人間として生まれた以上、誰でも醜いものだと信じていた。
みきのは違う。夜空に煌めく一等星の如くまばゆくて、天秤にかけられる人はいない。貴くて、そして一点の曇りもない。
「帰ろっか」
「でも、私、家……」
「暫くウチに泊まってて。父は単身赴任中だし、部屋も空いてる」
「迷惑かけちゃう……」
「落ち着いたら、みきのの好きなとこへ行けば良いから」
りせはみきのの顔が見つめられる距離に身体を離して、ほんの少し乱れたその黒髪を、撫でる手つきで後ろに流す。
「物語はお姫様の都合の良いように出来ている。現実も、都合良く出来ていたって良いんじゃない?」
みきのの大きな双眸が、うるりと揺れた。
二人、言葉になるにはもう少し早いような想いをたゆたう風にとかして、手をとり合った。
──fin.
妖精カテドラル