生成にも鼠色にも見える、とりわけぱっとしないカーテンの隙間から、蜜色の日差しが漏れてくる。

 地守奏(ちもりかなで)は、私立清星学園大学部の本館にある、教員室にいた。

 室内は、まるで氷点下の世界を体感出来る、テーマパークのアトラクションだ。寒いほどエアコンの冷気に満たされていた。
 そのくせカプリチオの如く鳴り響いている蝉の声の不協和音が、真夏を実感させてくれる。

 もっとも奏は、こことは別に教授室をあてがわれている。

 ただ、今は清掃中だ。

 それというのも、奏は屡々、実妹の地守芽生(ちもりめばえ)に自宅の私室や教授室の掃除を任せていた。
 アルバイトという名目なのだが、最近、芽生の他にもう一人、雇う羽目になった。羽風なぎ(はふうなぎ)という、芽生と同じく清星に在学している、彼女の同級生である。

 『こんな狭い部屋に三人もいちゃ、モップもかけられないっつーの』

 数十分前、芽生がもっともな意見を述べた。

 その軽らかでいて芯のある声が、耳の奥に蘇る。

 天使の声の持ち主は、黒だの赤だのばかり身にまとっている所為か、ぱっと見の心象を語るなら、小悪魔だ。さようなギャップがまたたまらない。

 世界一、否、宇宙一美しく愛くるしい。

 そんな実妹の仕事を、奏にどうして邪魔出来よう?

 かくて奏は教授室を後にして、雑音だらけの教員室に移ってきたのだ。

 「ねぇ」

 つと、隣から、凛とした甘ったるい声が聞こえた。

 奏が視線を巡らすと、見目だけならそこそこの美人が、頬杖をついていた。
 その肌は陶磁の如く柔らかそうで、灰色がかった青い双眸は、ドールのそれを彷彿とする。
 身体の線をこれでもかと言わんばかりに強調している派手なスーツは、素材も仕立ても一流だ。まばゆいブロンドの巻き毛が匂やかな首筋に影を落として、悩ましげな白い鎖骨にかかっていた。

 この美女は、名を、桜神れお(おうがみれお)という。奏と同じ大学教授だ。

 れおに対する年輩の教員達の評判は、芳しくない。彼女の教員室での浮きぶりは、夏でも冬でもTシャツ一枚にジーンズを合わせて、サングラスを常備して、極めつけは金髪という、奏に匹敵していよう。

 「……何だよ」

 「貴方の援交ぎりぎりのバイト、いつ終わるの?」

 「は?!」

 「掃除に整頓、茶汲みに買い出し、話し相手。妹の地守さんだけならともかく、私の可愛い妖精ちゃんにまでそんなことさせるなんて、ヤバいんじゃない?」

 「はん、ガキの方はどうでも良い。俺はただ、芽生が、羽風君と過ごす時間を減らしたくない、この夏休みはバイトを削れって言ってきたもんだから……。芽生がお前のお気に入りに奪われりゃ、俺が芽生と一緒にいられなくなる。二人まとめて雇ったまでだ」

 「貴方達の事情じゃない!そんなことでなぎちゃんまで巻き込むなんて……!それより、地守さんそんなこと言ってたの?!」

 「若いやつ同士、つるみたい年頃なんだろ。お前さぁ、あんまし羽風君を束縛しちゃ、嫌われるぞ。第一、この間もデートして、びらびらした服をわんさか買ってやったそうじゃないか。援交紛いはお前の方だ」

 「…──っ、私は良いのよ。なぎちゃんとは、将来を約束する予定の仲だから」

 「俺も芽生と将来を約束する予定の仲だ」

 「……マジでヤバいわよ」

 れおの冷ややかな目が、癪に障る。

 確かに、奏は芽生と、血の繋がりのある兄妹だ。

 それは否定し得ない事実だ。

 さりとて奏は、芽生以外の人間に、ときめかない。それも揺るぎない事実である。
 他人の目やら道徳やらに気遣って、あの愛おしい妹を諦められるものなら、とっくに諦めている。

 もっとも、さすがに、肉欲や結婚願望はない。我ながらわきまえたものだと感動している。

 「まぁ良いわ。貴方のシスコンは、今に始まったことではないもの」

 れおが書類を取り上げた。
 彼女らしいと言うべきか、見た感じ、学問に関するものではないようだ。旅行会社のロゴが見えた。

 「旅に出るのか?」

 「なぎちゃんと、来週」

 「来週!?」

 「貴方達は行かないの?」

 れおの強かな眼差しに、勝ち誇ったような光がちらつく。

 「スピリーナとゴッドレスなら、旅行くらい一緒に計画するものだと思っていたわ。世界の均衡を保つために、地、水、火、風、各々の精霊の器となって戦うスピリーナ……。たとえどんなに仲良しさんでも、スピリーナ同士戦わなければ、この世のあらゆる物質がおかしくなってしまう。宇宙はそういう理で、成り立っているんだもの。そして彼女達を保護してその力を目覚めさせるゴッドレスになる必須条件として、パートナーであるスピリーナをどれだけ愛し、愛されるかが重要となる」

 なのに、と、れおがわざとらしく息をつく。

 「仮にも、土の精霊……ノーミーデスのゴッドレスである地守教授は、まさか、スピリーナと旅行もしないなんて……そんなことないわよね?」

 「…──っ」

 「サラマンダーはしぶとい。ウンディーネは、水だけに、沸騰寸前だし……。これじゃあ、この先の精霊バトルがとっても心配」

 「お前ほっ……」

 本気で喧嘩を売っているのか?

 怒鳴りかけた瞬間、ぎくりとした。

 れおの端正のとれた面(おも)に、いきなり憂色の影が落ちたのだ。いっそ青白いようにも見える。

 「自分で切り出しておきやがって……何だよ」

 面倒臭い。

 心底辛気臭くなりながら、思い直す。

 れおが顔色を変えてまで心配してくれるのにも、頷けるところがあるのだ。

 精霊バトルでスピリーナが勝つか負けるか、それは、ゴッドレスとの絆がものを言うのも同然だ。

 何だかんだで陸まやかなれおとなぎ、兄妹でありながら旅の予定もない奏と芽生を、頭の中で比べてみる。

 なるほど、風の精霊を味方にしているれお達の方が、一枚上手だ。

 「貸せ」

 奏は、れおの手から、適当な広告を選んで取り上げた。
  
* * * * * * *

 その温泉旅館は、市内から車を三時間ほど走らせた先に続く隣県の、昔ながらの町の奥にひっそりあった。
 パーキングエリアを二つ越えてインターチェンジを通過すると、山麓に整備された狭い車道に差しかかる。その道を、柔らかな日差しに照りつけられた音のない海を左手に眺めながら走っていくと、ややあってこの町に出たのである。

 奏は駐車場に愛車を留めて、助手席にいた芽生と外に出た。

 大層な日本庭園を眺めながら本館まで歩いていくと、そこに、威圧感さえ覚えるほど豪華な建物が待ち構えていた。
 伊達に、あのれおが眺めていた旅行会社のパンフレットに載っていた、旅館ではないということか。

 もっとも奏の可愛い妹は、旅には同意してここまで来てくれたものの、さっきから口数が少ない。

 「毎日毎日、飽きるほど顔を合わせてる兄さんと、何が悲しくて旅行なんか」

 「いや、芽生!今回の旅はひと味違うぞ。豪華じゃないか?この旅館!」

 「兄妹で来るようなとこ?そもそも兄さん、話聞いてりゃ、桜神先生にからかわれて誘発されただけじゃん」

 「結果はどうあれ、ここはエステや美容に五月蠅い桜神教授が、バカンスの候補にしていた代物だ!きっと芽生の珠の肌が、帰る頃にはますます眩しく──」

 「うっせーよ。その話はもう聞きたくない」

 芽生が不機嫌極まりない表情を、奏から逸らす。

 肩にかかったシャギーの黒髪が、さらり、天使の白い頬に影を落とした。

 その時、女将と思しき女性が見えた。

 「ようこそお越し下さいました。ご予約の方は、承っておりますでしょうか?」

 「地守です。『×××出版の広告を見た』……こう言えば夏期限定サービスを付けて下さると、係の方が言ってらしたんですが」

 「ああ、先週お電話をいただいた方ですね。お伺いしております。長旅ご苦労様でした。ご案内申し上げますので、先にお荷物をお預かりいたします」

 女将が上品な藤色の着物の袂を揺らして、側に控えていたスーツ姿の女性を呼び寄せる。

 すると女性がカートを引いて、静かな足どりでやって来た。

 奏と芽生は荷物を渡して、女将に続いて玄関のホールを後にした。

* * * * * * *

 市内を離れて海を眺めながら、れおの車でドライブした。

 そうしてなぎが連れられて来たのは、昔ながらのゆったりとした町にある、温泉旅館だ。

 駐車場のすぐ側の、豪華な日本庭園の奥に、純和風の建物がある。
 それが客室の備えてある、この旅館の本館だ。

 なぎとれおが玄関に入っていくと、上品な女将らしき女性が小股で駆けてきた。

 深々とお辞儀されて、二人、客室に案内された。

 客室は、入ってすぐのところに和室があり、掛け軸と生け花が飾ってある床の間や、広々とした卓袱台がある。
 そこから一つ洋室を挟んで、また畳の間がある。上手い具合に直射日光を避けられる角度で、大きな窓が備え付けてあった。
 窓を覗くと、海に山、町が織りなす絶景が、広がっていた。

 なぎもれおも荷物は旅館を決めた時、予め送っておいたから、道中、身軽だった。それらが不備なく届いているか確認を終えて、今、ようやっと一息つけたところである。

 「露天風呂は海が間近に眺められるんですね!わー……疲労回復に、美肌効果もあるんだぁ……。薔薇風呂も魅力的。先生は薔薇風呂、入ったことありますか?」

 「初めてよ。ついでに温泉旅館も初めて」

 「えー、意外ー」

 「けれど、折角の旅行なのに山と海しかなくって……ごめんなさいね。まさか、第一希望の梨狩りが、予約一杯だなんて思いもしなくて」

 「仕方ないです、夏休みですもん。それに、私も旅行は初めてですから嬉しいです。あ、修学旅行は別ですけど」

 「柚子茶、もう良いみたい」

 なぎはパンフレットを片手で閉じて、れおから柚子茶を受け取った。

 「そのお洋服、やっぱり似合うわ。この間のデートで見立てたものでしょう?」

 「デートだなんて……。あ、有り難うございます……」

 今日着てきた洋服を、見下ろす。
 襟刳りのあいたAラインのカットソーは、丸襟と、ノースリーブにあしらってあるフリルレースがとびきり『Spirit Twinkle』らしい仕上がりだ。
 サックスの、同じシリーズのフレアスカートは、オーガンジーにスノードットの綿素材、チュールがふわふわ重ねてあって、まとうだけで妖精になれるようでもある。着た感じが軽いというのも、それらしい。

 『Spirit Twinkle』とは、ゴックないしはロリィタの女子達の支持を多く得ているブランドだ。
 なぎのように生粋の甘ロリィタを中心に、芽生のようなパンキッシュな着こなしが出来るもの、皇子、ベーシックなロリィタの女子達に好まれるものまで、多種多様なアイテムが展開されている。ディテールに凝ったものが多く、個性も極めて強いから、ゴシックやロリィタの女子達の間でも賛否両論あるものの、なぎと芽生は贔屓にしている。

 なぎにとってロリィタは、この春大学に入るまで、まるで縁のないものだった。
 興味もなかったのに、芽生に付いて『Spirit Twinkle』に出入りするようになって、そこに勤務している同じスピリーナでもある女性があれこれ教えてくれたお陰で、今やすっかり他の系統の洋服に袖を通せなくなっていた。

 何よりれおが、デートする度、次から次へと洋服やらリボンやらを新調してくれる。

 『妖精ちゃんを着せ替え遊びしたい私の気持ちを解って頂戴』

 なぎが遠慮すると、いつも、そんな文句で押しきられるのだ。

 「清星に入ってから、初めてばっかり」

 れおの淹れてくれた柚子茶を口に含む。

 懐かしいような甘い風が、なぎにさわさわ触れてきて、味なんて、分からない。

 「楽しい?」

 れおが腕を伸ばしてきた。
 そしてなぎの一つに結った栗色の髪の結び目に留めたリボンを、整えてくれた。

 少し前なら曖昧な顔しか出来なかったろうに、なぎは頷いていた。
  
* * * * * * *

 奏がれおとすれ違ったのは、風呂に入って、芽生の待つ客室に戻ろうとしていた時のことだ。

 滋養強壮に効果があるという天然温泉は、なるほど、日頃疲れを溜め込んでいた心身をほぐしてくれた。

 だのにここにいようはずのなかった同僚にまみえた途端、爽やかな気分も吹っ飛んだ。

 「何でお前……っ。梨を狩りに行ったんじゃなかったのか?!」

 「あっちは予約で一杯だったの。地守教授こそ、本気で来たの?あの子も一緒?」

 「お前が言うからだろ!!」

 「ちょっ……大声出さないで」

 れおの瞥見した先を目で追う。

 何人かの客が、奏らを、ちらちら見ていた。

 「──……」

 「別に良いけど。私達がここにいること、貴方の可愛い可愛い妹さんには黙っていらっしゃい」

 湯上がり美人が腕を組む。

 奏が顔をしかめると、れおが、浴衣の襟をそっと直した。

 「意味が解らない?」

 「当ったりめーだ」

 嘆息にも取れる小さな息が、自然な血色を帯びた唇からこぼれ出た。

 その時だ。

 「…──!?」

 どこかで聞いた協奏曲が、いやに軽快に鳴り出した。

 「失礼」

 れおがトートバッグから携帯電話を引っ張り出して、耳にあてる。
 化粧を取っても艶やかな顔が、みるみるしかめっ面になっていく。

 「せーんせっ。ビールと紅茶とうさみみロール、買ってきまし──えっ、地守教授!?」

 奏の斜め後方から、聞き覚えのある声がした。

* * * * * * *

 何故、こんな市外の温泉旅館に奏がいるのか。

 彼がいるということは、芽生も一緒か?

 なぎの諸々の疑問が解けるより先に、儀式の定刻が迫ってきた。
 そうしてれおと、今し方、旅館から少し離れた海辺に出てきた。

 温泉を上がってまもなく、れおの携帯電話に着信があった。あれは精霊バトルの指令だったのだ。
 彼女の叔父で、精霊バトルを統括している組織の幹部の一人でもある桜神直(おうがみなお)が、依頼を言付かったらしかった。

 寄せては返す海面は、真っ赤にも見える朱色に染まりきっていた。砂浜まで夕陽を吸って、元の色が薄まっていて、まるで水彩画でも眺めているようだ。

 「海、とっても綺麗ですね!夏なんだなぁ。お姉様と、こんな綺麗な海……旅行したいかも……」

 水の精霊、ウンディーネのスピリーナが、大きな瞳に朱い海を映し出していた。

 なぎがこれから切り結ぼうこの相手、水姫心歌(みずきこのか)は、二つに結った長い金髪とピンク色でまとめた甘ロリィタが定番の、女子高生だ。今夜もとびきり豪奢なワンピースを身にまとって、こんな景観にいるからか、まるで本物のマーメイドに見える。
 そして彼女のゴッドレスであり上級生でもある、皐月みなせ(さつきみなせ)も、やはり全身をなぎ達と同じ『Spirit Twinkle』の洋服で固めていた。みなせのアンティークドールの如く容姿に、黒いワードローブがよく馴染んでいた。

 「儀式が終わったら、一泊しましょう。運転手の実和さんに、一足先に部屋をとっておくようお願いしておくわ。もっとも、心歌が望むなら何泊でも」

 「お姉様っ……。あ、着替えは……」

 「羽風さんや地守さんにお借りしない?お父様の話だと、お二人共、ゴッドレスと近くの旅館に滞在していらっしゃるそうよ」

 「なるほど!それであたし達、ここまで呼び出されたんですね」

 心歌が両手をぽんと打った。

 やはり芽生もここにいるのか。

 それにしても、何故、みなせの父親がスピリーナ達の居場所を把握しているのだ?

 訊きたいところだが、やめておく。
 れおはなぎに優しいが、精霊バトルに関してだけは、しょっちゅう話を濁すのだ。訊いてもはぐらかされるだろう。

 「なぎちゃん」

 なぎはれおに引き寄せられる。

 精霊バトルでスピリーナとスピリーナが戦うまでに、まず、ゴッドレスの術が必要だ。
 スピリーナは錬金術の要領で編み出されたその術をかけられて、初めて精霊の力を使える。また、急所に傷を負ったとしても、致命傷に至らなくなる。そして宇宙の一部の運命が、自らのそれに対応する作用を得るのだ。

 なぎが視線を巡らすと、心歌が、みなせから護符を受け取っていた。
 みなせは一見おっとりした令嬢なのに、その実、プロの画家だ。術のかかった護符の絵は、今回も、傍目ながら気合いを感じる。

 「やっ、せんせ……どこ触ってんですか!」

 「どこって……術を」

 「そこは関係ないって前に知りました!」

 なぎはあたふたれおから退く。

 れおは類稀な霊力があるから、大がかりな術は使わない。スピリーナの身体に触れるだけで術をかけられるのだが、なぎがうっかり気を抜くと、あられもないところを触ってくるのだ。

 「エロいとこ……触んないでって、何度言えば分かってくれるんですかぁ……」

 「なぎさん、相変わらずモテますね」

 「私にも、ライバルが現れたらどうしようかしら」

 「あたしはお姉様一筋です!」

 ウンディーネのスピリーナとゴッドレスが五月蠅い。

 普段は可愛い後輩達だが、なぎは、心歌とみなせのこういう会話に限っては、あまり聞いていたくない。

 心歌の「一筋」という発言ほど、胡散臭いものはない。

 そうこうしている内に、風の精霊、シルフィードの力が目覚めようとしていた。

* * * * * * *

 見るなと言われれば見たくなる。開けるなと言われれば開けたくなる。
 それと同じで、話すなと指図されれば、話したくなるのが人間の性(さが)というものだ。

 奏はなぎが同じ温泉旅館にいることも、風と水の精霊が今宵儀式を交わすことも、芽生に話した。
 特別な理由はない。れおに口止めされたから、反発したくなっただけだ。

 そうして奏は芽生を連れて、旅館の小窓から見えていた、海辺に出てきた。

 二人、岩場の陰で身を寄せ合って、今まさに砂浜で繰り広げられているなぎと心歌の精霊バトルを傍観していた。
  
 「ピンクのガキ……相変わらずえげつねぇなァ」

 奏の顔の筋肉が、自ずとひきつる。

 なぎの味方というわけではない。
 心歌の戦いぶりが、酷薄なのだ。
 早く儀式を終わらせたい気持ちは想像つかないものではないが、それにしても容赦なさすぎよう。

 スピリーナは、基本的に、自らの精霊が司る元素を手許に集めて、それを武器化する。
 水や風の剣なり槍なりが生まれるわけだが、第三者の目には捉えられない。

 ただ、感じ取ることが出来るのだ。

 奏は感じる。

 心歌の操る水の白刃が、なぎを、確実に追いつめていた。

 妖精の羽衣の如く淡いシフォンに禍々しい血の色が滲み、瑞々しい肌が次から次へと裂傷を負っていく様は、思わず顔を背けたくなる。
 スピリーナは傷を負っても、ゴッドレスの術を以て、それらを完治させられる。そうと分かっていても、痛々しい。

 「なぎ……」

 芽生の顔色が悪い。

 いつものことだ。

 奏の最愛の妹は、あの親友がどれだけ分の悪い戦いをしていても、その様を、ただただ見守る。世界の終わりでも見るような顔をしながら、彼女から、決して目を逸らさないのだ。

 心歌が泣き出していた。
 海の潮が、風にも、空気中の水蒸気にも、おそらくとけ込んでいる。
 塩気を含んだ武器は、さぞ傷に染みるのだろう。

 「兄さん」

 囁くような天使の声が、潮風にとけた。

 「手、繋いでて」

 「……芽生?」

 「私が行って、邪魔しちゃったら、儀式が成り立たない。世界が歪む。だから」

 掴まえておいて。

 芽生のまとう黒いシフォンのワンピースが、風にそよぐ。

 奏はしとやかな右手を握った。

 二人の幼かった頃が、思い起こされてくるようだ。

* * * * * * *

 儀式の決着がついた。

 なぎは、れおと岩窟の中に移った。

 潮水や血でびしょ濡れになったサンドレスをまくり上げると、案の定、自分の身体とは信じ難い惨状になっていた。

 精霊バトルは、通常、河に近い長閑な自然の中で行う。
 地、水、火、風が、最も安定した状態で存在している場所が選ばれるのだが、なるほど、条件が違えばこのようなリスクを伴うのか。
 岩場の外から、心歌の啜り泣く声が聞こえる。心歌の水の武器に潮が混じっていたように、なぎの操っていた風も、変質していたのだ。

 「なぎちゃん」

 れおがなぎの傷口に、手をかざす。

 皮膚が、みるみる再生してゆく。
 仄かな痛みを引きずりながら、されどそれも儚い記憶でしかなくなって、身体が、何事もなかったように落ち着いてゆく。

 「染みない?」

 なぎは首を横に振る。

 儀式に備えた術をかけてくれる時と同様だ。手から力を送ってくれるれお治療は、圧力すら感じない。

 「ノーミーデスの力を……近くに、感じたわ」

 やっぱり、と、なぎは思った。

 「不思議な関係ね。スピリーナって」

 「不思議……ですか……」

 「儀式でどんなことをしても、お互い恨みっこなし。そういう暗黙の了解があるんでしょう?」

 れおの言う通りだ。

 なぎも心歌も、芽生ら他のスピリーナも皆、公私をとり混ぜたりしない。
 憎らしくて戦うわけではない以上、儀式の外で、わざわざいがみ合う理由はない。
 むしろ皆、良好な関係を維持している。
 なぎや芽生が、屡々、相手の儀式の場に居合わせながら、表向き涼しい顔をしていられるのも、心歌が火の精霊を司るスピリーナ、つまり『Spirit Twinkle』の従業員とぎくしゃくしたのも、元は互いに大事な存在だったからこそだ。

 「芽生と私、決めたんです。怪我しても、代償がすり減っても、干渉しない。……私が芽生のために泣くことも、芽生が私のために泣くことも、しないって」

 この理を嘆くより、明日(みらい)を信じて生きていたい。

 かなしみから逃げるというより、二人一緒にいられる日々が彩られたものであり続けるよう願って、取り決めたのだ。

 「でも」

 「──……」

 「彼女は、優しいから」

 きっと奏に涙を預けている。

 なぎがれおに弱さを許してしまうように、芽生は奏を信頼している。

 それもまた、スピリーナの在り方だと思うのだ。

 「…──っ!?ちょ、先生っ……何っ……」

 「術よ」

 「そんなとこ怪我してません!」

 なぎは左腕に力を入れる。

 が、れおに手首を掴まれていて、びくともしない。

 動脈がほんのり透けて見える皮膚に、赤い唇が触れてきた。蝶が蕊を啄むような、接吻が、続けざまに落ちてくる。

 「ふぇっ……やめて下さ……冗談キツいです……やぅっ」

 甘く、甘く、くすぐったい。

 ぞくぞくした波にさらわれるような感覚が、迫ってくる。

 「脈は、心臓に通じているわ」

 「え……」

 「心に繋がっているから」

 「…──っ」

 「気持ち良い?」

 「なっ……」

 なぎは岩窟の中にいながら、穴を掘って入りたくなる。

 恥ずかしすぎる。意地でも頷きたくない。

 それでも否定しないのは、れおの言う「心」が感情を意味していると、悟ったからだ。

 スピリーナは儀式で負ければ、代償に、相手のスピリーナに感情の一部を奪われる。
 それが続けば、精神に支障を来すと言われる。五感も、薄れるという。

 なぎは、今日、心歌に負けた。

 心歌は最強のスピリーナだ。
 誰も彼女に勝った試しがない。

 れおは、心配してくれているのだ。なぎを形成している感情が、どんな風か、きっと知りたがっている。

 「キスより……」

 なぎはれおから目を逸らす。

 「今は、ちょっと、抱き締めて欲しいかも知れません」

 懐かしい腕が絡みついてきた。

 なぎは多分、ずっと昔から、れおの匂いを、柔らかな胸を、知っている。

 ブロンドの巻き毛の影の落ちた肩に頬を預ける。

 切ないような、それでいて眠りたくなるほど安らぐ心地にいざなわれていった。







──fin.
妖精カテドラル