雨の音で、目が覚めた。

 それだけなら、またすぐ布団を抱き枕にして、とりとめなく思考を浮遊させている内に、再び眠りの中に還ってゆける。
 例えば、日付が変わるより数時間前、例の非学的な儀式に駆り出されていたなら、その時の記憶が蘇ってきて、何らかの感情を持て余そう。或いは翌日、学校なり街なりへ出かける予定を控えていたなら、窓や地面を打ちつける水滴の音が止まない限り、天気の機嫌を慮るだろう。
 とにかく横になってさえいれば、知らない間に朝を迎える。少し前ならともかく、ここ二、三ヶ月は、悪夢が怖くて寝つけなくなることもなくなった。

 しかし、今夜は状況が違う。

 羽風なぎ(はふうなぎ)は、今、空模様もどうでも良くなるほどの現実に、気付いてしまったところだ。
 もとより睡眠における欲求が甚だしかったわけでもないから、寝起きならでは倦怠感のもさしてない。

 なぎは上体を起こして、溜め息をこぼす。

 隣に敷いた、来客用の布団に目を遣った。

 そこはもぬけの殻だった。それでいて、どことなく爽やかな甘い残り香がする。

 遡ること数時間前、なぎは自分の起臥しているこのマンションの一室に、自ら在籍している大学の教授の一人を泊めていた。そして、互いに眠りに就く直前まで、彼女と他愛のない言葉のやりとりをしていた。どちらが先に眠ったのかは憶えていない。

 教授もとい宿泊客は、名前を桜神れお(おうがみれお)という。

 なぎは、れおのただの教え子ではない。
 二人共、属している学部こそ同じだが、なぎがれおと親しくなったきっかけは、科学や常識では説明のつけ難い、ある契約だ。なぎは風の精霊を司るスピリーナ、れおはそれを保護するゴッドレスとして、結ばれていたのだ。

 なぎはれおと知り合ってからというもの、彼女とほぼ四六時中一緒にいる。
 この世に四人いる、なぎを含むスピリーナの主たる使命である精霊バトルが必要となる度に、同じくこの世に四人いる、れおのようなゴッドレスの力が不可欠だからだ。

 精霊バトルは心理的に追いつめられるが、肉体的なダメージは残らない。されどその儀式もとい戦いを拒めば、宇宙の均衡が忽ち崩れて、世界が破滅に向かうという、怖ろしい理がある。

 かくてなぎは、便利屋よろしく、指令があれば件の儀式に赴くという生活を余儀なくされている。その延長で、れおとこうして互いの家を行き来したり、二人して学校を抜け出して、プライベートで遊びに行ったりすることが、今や茶飯事となっていた。

 なぎには、自分が人並み以上に平凡で、何より人付き合いが苦手な自覚がある。顔かたちもとりわけ地味だし、あの無敵の水のスピリーナと同じ『Spirit Twinkle』のロリィタ服を着ていれば、彼女よりぱっとしないのは瞭然のはずだ。
 片やれおは、なぎよりずっと人生経験があって、心理士としてのキャリアもあって、容姿端麗、頭脳明晰、つまり全てが完璧な美女だ。

 よく、これだけ共通点のない二人が、ここまで仲良くやってこられたものだと、自分のことながら感心する。

 否、仲良く、とは、少し違う。

 なぎは、さっきから、胸に鋭利な針にでも刺されるような痛みを覚えていた。それはこんな深夜に断りもせず姿を消した、れおが原因だ。

 意識は、いよいよはっきりしてゆく。思考の働きに比例して、不安も募る。

 目覚めなければ良かった。

 今、もし眠っていたなら、れおがどこへ行っていようと知らないでいられたはずだ。

 なぎは、自分の体温を幾分か吸ったかけ布団をさっと畳む。

 そして、れおの匂いを残したような、隣のもう一枚のそれに手を伸ばして、捲ってみた。

 シーツには、僅かな皺が寄っていた。

 敷き布団に置いた手に、ほんの少し、体温が伝わってくる。

 ひんやりした夜の空気にたゆたいながら、闇に立ち上がる。

 れおを探そう。

 なぎは壁にかけてあったトレンチコートを下ろして、寝間着の上からそれを羽織る。

 淡いサックスの薄手のトレンチコートは、袖口やら前立てやらに同布のフリルがあしらってあって、ウエストの左右には大きなリボン、それに裾がスカラップになっている。『Spirit Twinkle』のものだけに、ふわりと広がるスカートも覆えるデザインだから、些か寝間着に合わせにくいが、着替えている時間も惜しい。

 髪だけはちゃんと手櫛で整える。
 柔らかなウェーブのかかった栗色の髪は、元々それほど長くなかったが、この町に越してきたばかりの頃からすれば、二つに結えるほどには伸びたものだ。

 なぎは、そうしてそそくさと部屋を出た。暗い廊下を小走りで渡っていって、エレベーターで階下へ降りると、れおを探して外へ出た。

 学生が住人の多くを占めるここいらの夜は、決して治安は好ましくない。
 市街地に比べれば、評判に差し障るほど物騒ではないものの、稀にならず者が徘徊していることもあれば、通り魔やらスリやらの噂も小耳に挟む。

 そして、今日は雨だ。

 平素なら断固として外出したくないところだが、いやな記憶を抉り出されるような暗い闇夜も、降り頻る雨も、今は気にならない。

 れおの行方が知れなくなって、それらに対する苦手意識も遠ざかったのかも知れない。何せなぎは、傘を持って出なければならないことも、思いつかなかったのだ。

 「先生っ?!」

 意外にあっさり、その人物は見付かった。正確には、部屋から十メートルも離れていないであろう場所に、探し人は立ち尽くしていた。

 れおは、こんなに暗い雨の中でもまばゆい。

 いにしえの時代、遠い海の向こうでは、芸術家達の手によって、人間性を悉く尊重した彫刻が生み出されていたという。中には複雑な人体が官能的なまでに再現されたものもあって、それらは教会側の人間に、神への冒涜と貶められていたらしい。おそらく優れた芸術作品は、天上の存在の威厳を揺るがすおそれがあるほど、人々の魂を顫えさせていたのだ。

 なぎにとって、れおはそういう存在だ。
  
 れおのどこか日本人離れした臈たけた顔かたち、悩ましげな身体の線は、遠目からでも判るもので、仕立ての良いネグリジェをまとったそのシルエットは、昼間の少々過激なスーツ姿と引けをとらない。ブロンドの巻き毛は絹の如く艶を帯びていて、青とも灰色ともつかない眼(まなこ)は不思議な色を湛えている。
 妖美なオーラをこれでもかと言わんばかりに振り撒きながら、そこにはほっとするものがある。凛とした美しいソプラノの声は、天使のように優しい響きを帯びている。

 どれだけ優れた芸術家でも、これだけの女神は創り出せまい。

 少しだけ、安堵した。

 なぎはその姿を見付けるまで、れおが消えた理由を思って、胸中を行き交うあらゆる思いに苛まれていた。

 二人、眠る直前まで交わしていた会話は、とりたてて楽しいものでもなかったが、笑顔で話せるものだったし、これは思いがけないことだった。

 それだけに、ショックだった。

 自分には、れおが胸の内に抱えている懊悩を曝せるほどの器量もないのか。

 否、なぎは自分の力不足が云々ではなく、少なからず大事な人がたった一人で何か抱えているのではないかという気がしたからこそ、悲しくて、淋しかったのだ。

 「……なぎちゃん?!どうしたの……濡れてるじゃないっ──怖い夢でも、見たの?!」

 顔色を変えたのはれお本人だ。

 着替えもせず、傘も持たず、というのはなぎにも言えることではあるが、とにかく、れおが慌てて走り寄ってきた。

 綺麗な巻き毛がびしょ濡れだ。その有様は化粧などしているのかしていないのかも分からないほどなのに、水も滴る良い女とは彼女のような女性を指すのか、思わず目を奪われる。それでいて、いかにしても痛々しいのは、なぎの気持ちの問題か。

 「何があったの?」

 怖い夢でも見たの、と、なぎの片手がれおにぐいと引き寄せられる。

 くっきりした切れ長の目許に映える双眸は、真剣だ。

 なぎはれおの慌てように、却ってたじろぐ。

 れおを心配して来たはずなのに、いつの間にか立場が逆だ。

 片手を握られた力加減が、少し痛い。

 なぎはれおを宥めるつもりで、自由だった一方の手を、彼女のそれに重ねた。

 「お……起きたら、先生がいなかったんだもん!何かあったのかなって思って──…怖くて……」

 思わず口走った本音に、はっとした。

 こんなつもりではなかったのにと、口を噤む。

 なぎは、自分でも驚くほど声が震えているのを自覚した。

 「……なぎちゃん……」

 なぎはれおの顔を直視出来なくなって、俯く。

 ふと視界に触れたのは、絡めたままの二人の手と手だ。

 泣きそうになる。

 固く結ばれたなぎの手と、れおのそれが、だんだん輪郭を失っていく。

 「雨というのは、綺麗なの」

 「え……」

 「天から降って来るものなの。穢れを洗い流してくれるわ」

 「──……」

 なぎは尚も話し続けるれおの顔を、今度はまじまじ見つめる。

 不思議だ、と、なぎは思った。

 冷たくて、じめじめとする雨は好きではない。

 それなのに、なぎの目に今、れおに降りかかる天のしずくが、きらきらと煌めく星屑の如く映り出す。

 綺麗だ。まるで奇跡を見ているようだ。

 「たまには濡れてみるのも悪くないでしょう?まぁ……身体を冷やさないよう、ほどほどにしなくちゃいけないけれど……」

 決まりの悪そうなれおの顔は、いつもと同じだ。

 愛おしい。そして懐かしい。

 なぎは、やはりスピリーナになるよりもっと以前、れおとどこかで逢っていたのではないか?

 怖い。一人が怖い。消失が、何より怖い。

 なぎには思春期にもならなかった頃、やはり底知れない孤独に引きずり込まれた時期がある。
 あれが悪い夢だったのか、とりとめない現実だったのか、思い出せない。

 ただ、あの時、女神の声に救われた。
 神などまともに信じた試しもないのに、その昔、神の子が人間に施したという奇跡を聯想するくらいの抱擁を魂(こころ)に受けて、立ち直れた。

 「そんなわけよ。心配しないで。もう……私が雨に濡れたいだなんて言い出す方が、貴女に心配をかけると思ったから、わざわざ抜け出してきたのに」

 なぎの手から、れおの手が離れていった。

 れおは他人を一番に思い遣っているくせに、また、そうと知られることを一番に嫌がっているところもある。それでも、なぎだけには嘘をつかない。

 ヴィーナスも顔負けの美女がくるりと踵を返して、背を向けた。

 れおらしい。

 だのになぎの胸中に、急に一抹の不安が過ぎる。

 それを振り払いたくて、首を横に振る。

 冷たい雨を、初めて心地良いと感じた。
 れおに逢ってから、お洒落を楽しむようになったり友人とつるんではしゃいだり、初めて尽くしだ。

 全てを知る必要はない。

 雨は、確かに綺麗だ。

 見えない穢れを浄化する。

 なぎは誰に願うわけでもなく、ただ、胸の内で祈りを込める。

 この魂に翳りがあるなら、どうか洗い流して下さい。

 なぎ自身の深いところに、見えない力に封印された記憶があっても、それがこの優しいパートナーとの血にまみれた現実でも、何も分からない今は、不安は杞憂ととれば良い。

 なぎが全てを知っても知らなくても、れおはきっと、変わらない心でずっと側にいてくれる。

 そうして二人、今までも、この先も、数えきれない言葉を交わそう。

 それらは全て本物だ。それだけで、十分だ。

 今あるものにも優る確かなものを望めば、欲というものに穢される。

 なぎはれおの背中を見つめる。

 貴女の洗い流したいものが何なのか、私は知らなくても良いんだわ。

 それ以上のものを、たくさんたくさんもらっている。

 止まらない時間の流れと同じ、雨もまた、今のところ止む気配がない。

 痛いほど肌を打ってくる冷たい銀糸に、何故、こんなにも心を癒されるのだ。







──fin.
妖精カテドラル