乳白色の光をまとった太陽が、暁の空に浮かんでいた。一日の始まりに相応しい、澄みきった空気に浮かれた小鳥達の歌声が、どこからともなく聴こえてくる。
明星あかね(みょうじょうあかね)は、慣れ親しんだ街の一角で、変わらない朝を迎えていた。
ここは、あかねの職場の近くだ。オフィス街の裏手にあって、通称「妖精横丁」という。
昼間はいわゆる青文字系のスタイルを好む若者達で賑わっていて、あかねが勤めているのも、『Spirit Twincke』というゴシック アンド ロリィタの金字塔メゾンの直営店だ。あかね自身はロリィタ服に袖を通さないものだが、それと同時に、ほぼここの皇子服以外に袖を通すこともない。
かように残暑のしつこい秋の夜長に、黒いジョーゼットの姫袖ブラウスに、サイドにネイビーで薔薇のブーケが刺繍してある漆黒のコーデュロイのベスト、そして同シリーズのロングパンツを合わせて過ごしていたなんて、見かけは当然、暑苦しかろう。職業上、仕方ない。
あかねの、近くで見ねば分からないほどさり気ない銀色のエクステの入ったシャギーの黒髪に、切れ長の一重の目許に通った鼻梁、甘ったるい口許は、なるほど、女子達の視線を独占するには都合の良い顔立ちといったところか。わざわざ厚底の靴を選ばなくても背丈はあるが、とりたてて中性的というわけでもない。
神秘的。美の結晶。
あかねは、自分を一言で形容するなら、それしかないと自覚していた。
少女が一人、あかねの腕の中にいた。長い金髪を二つに結って、『Spirit Twinkle』のロリィタ服に身を包んだ美少女だ。濃い睫毛の淡い影が砂糖菓子を彷彿とする頬に落ちていて、その桜色の唇は、無防備にやんわり結ばれている。
少女、水姫心歌(みずきこのか)の、彼女が最も好んでいるピンク色をしたワンピースも、天使の装束を聯想する白いブラウスも、とても新調したばかりとは信じ難い。ブラウスは、丸襟が不自然に乱れていて、ワンピースの編み上げになった前身頃は、下着のキャミソールが露になるほどめった切りにされている。オーガンジーのパフスリーブから、大きなリボンのあしらってあるレースのアームカバーにかけて、乾いた血痕が染みついている。
「あかねちゃん?」
不意に鈴を転がすようなソプラノに耳を打たれた。
あかねが心歌を見下ろすと、彼女のとろんとした双眸が、こちらを見ていた。
「なぎさん達は?……お姉様、は、どこ?」
「昨夜帰った」
心歌の洋服が無惨なのは、彼女が精霊バトルを強いられた結果だ。
精霊バトルとは、二人のスピリーナが斬り結ぶ儀式だ。
スピリーナとは、一定の条件に合った人物が、優れた錬金術の能力を持つゴッドレスに保護されて、体内に精霊を宿した存在だ。この世で四人いる。あかねは火の精霊を、心歌は水の精霊を、そして、彼女が昨夜、精霊バトルを共にしたという少女は、風の精霊を宿している。
地、水、火、風は、本来、くっつきすぎても離れすぎてもいけない。それらの距離が適度なバランスを崩せば、そこに宿る精霊達も正常な均衡を失って、世界が混沌に陥るという。そこで、スピリーナは人間社会に何かしらの節目が訪れる時をきっかけに、それを賭けて戦う。世界を形成している全てのものは、四大元素のいずれかから出来たものだ。従って、勝利したスピリーナに相当する方が、ゴッドレスが予めかけておく術の力でその影響を受けて、節目で勝ち目を見られる仕組みだ。
心歌は、昨夜、それで風の精霊シルフィードの少女と戦った。あかねが通りかかった時、既に決着が着いていて、一応は勝利した心歌が倒れていた。肉体の傷はゴッドレスが、心歌の場合は皐月みなせ(さつきみなせ)という絵画の術師が、その力で完治させた。だが、どんなゴッドレスも、洋服もとい無機質のものをすみやかに復元する術は持たない。
「何で、心歌ちゃんがこんな……」
「あかねちゃんに……、心配してもらう筋合いないよ。それは、精霊バトルで負け続ければ、精神に支障をきたすっていう話があるけど……負けたことないし、負ける予定ない」
「怖いって、言ってたじゃん」
「我慢してるもん。あたしはお姉様の側にいたくてスピリーナになったの。お姉様は、したくないならしなくて良いって言ってくれた。……でも、お姉様を拒んだら、あたしはお側にいられない」
「そのお姉様、昨夜は君のことも放って帰っていったけど」
「絵画展が近くて、お忙しいみたい。打ち合わせの人達が迎えに来たなら仕方ないよ」
心歌がしずしず俯いた。
その雰囲気は慎ましくて儚くて、さりとて、心歌自身は少しの風で舞い散るような花ではない。何にも屈しない気高さを湛えていながら、反面、片手だけ繋ぎ留めておかなければあまりに脆い。
「心歌ちゃんに、好きだって、伝えていればどうしてた?」
心歌の肩が、ふるりと顫えた。
何もかもが懐かしい。
あかねの方が、みなせより先に心歌に逢った。みなせより、心歌とたくさんの時を過ごしていた。心歌がピンク色を好きになったのも、多分、あかねが、似合うよと言って何度も微笑んだからだ。
好きすぎて、ありきたりな愛の言葉が出なかった。気付けば遠く離れていた。心歌が、この手で守れないところにいた。
「ごめん、あかねちゃん」
「心歌ちゃん」
「あたしのこと、弱虫だって思ってるでしょ。精霊バトルはゴッドレスとスピリーナの絆が勝敗の鍵をら握っているから。だから、お姉様と仲良くしてるって、思ってるでしょ」
「だったら良いって思ってる」
「──……」
けど、と、あかねは心歌を抱き締め直す。
「君を弱いとは、思ったことない」
胸が痛む。本当は、心歌だけでも安全な場所に逃がしたい。休ませたい。
片手を繋がれていなければならないのは、心歌ではない。あかね自身だったのかも知れない。
「ねぇ、あかねちゃん」
あかねの瞳が、真っ直ぐに、心歌の黒い瞳に捉えられた。
「あかねちゃんのこと忘れないと思う」
「──……」
「あかねちゃんがあたしを忘れても、あたしは、あかねちゃんのお陰でこのお洋服が好きになれた」
「…………」
色んなことが、脳裏を駆け巡ってゆく。
あかねにとって、心歌は、最初たくさんの顧客の一人に過ぎなかった。あかねが『Spirit Twinkle』の今の店舗に移ってきたのは、前のスタッフが退職したからだった。それで、彼女が担当していた心歌を受け持つことになって、何度か接客している内に、屡々連れたって出かける仲になった。
心歌は、みなせのためにスピリーナになったという。
あかねは心歌のために、この戦いを選んだ。守るべきは心歌のいる世界だ。たとえ非道と非難されても、心歌を守る以外に戦う理由はない。多分、心歌のためなら仲間の一人や二人、切り捨てられる。
「誰にも心歌ちゃんを傷付けさせない。君を苦しめようとするもの全て、僕が追い払ってやれたら」
「あはは。そんなこと言ったら、精霊バトル出来ないよぉ」
無邪気な笑い声が立った。幾分、そこにはさっきより力が戻っている風で、空もめっきり明るんでいた。
今日も、また、世界が動き出す。
──fin.
妖精カテドラル