美咲さくら(みさきさくら)は、住み慣れた町から電車で数十分ほど揺られた先の、近県にある英国風庭園を訪ねていた。

 心地好い秋の木漏れ日が、柔らかないくつもの閃光になって、彩色豊かな花畑に降り注いでいる。ほんのり白い、ラリマーの色を深めたみたいな空を仰げば、淡い綿菓子がふわふわ泳いでいるのが見える。

 遠い昔を思い出す。幼かった頃ではない。それよりずっと遠い昔だ。

 俗に超古代と呼ばれる時代、氷華(こおりのはな)という王国があった。
 さくらには、生きとし生けるものが授かる魂のサイクルの中で、氷華に生きていた時分だけの記憶がある。何度生まれ変わっても、あの国に生きていたかつての自分、王女リーシェ・ミゼレッタの記憶だけが引き継がれるようだったのだ。おそらく、あの国にのみ咲いていた毒花、氷桜(こおりざくら)の影響だ。

 もっともさくらの胸が逸るのは、この庭園が氷華の宮殿を囲っていたそれに似ていて、懐かしさに耽ってではない。緑豊かな美景に胸を打たれたからでもない。

 今日のために久しく洋服を新調した。手製の大きなリボンを飾った栗色の巻き毛は、今朝、起きてから何度、鏡を覗いてチェックを繰り返していたことか。それらはたった一人の少女のためだ。
 さくらは自分の容姿に自信はない。ディテールの凝ったロリィタ服を好んで身につけているのだって、誰かではなく自分のためだ。
 それでも、待ち合わせ相手を想ってめかし込むのも悪くない。その少女(ひと)が似合うと言ってくれた色、サーモンピンクが基調になったこの洋服も、きっと一生、宝物になる。

 さくらは、UV対策の黒いパラソルの柄を弄びながら、規則正しく並んだ背の高い木々の一つに背中を預けた。

 さわっ、と、暖かいような涼しいような風が吹いていって、黄土色の広がりつつある葉が揺れた。

 このは先輩……。

 心の中で、そっと、愛しい名前を呟いてみた。

 一瞬にして、何かとても不思議な魔法にかけられた。そんな動悸に襲われて、苦しくなる。

 弦祇このは(つるぎこのは)。

 彼女こそ、さくらを今日、デートに誘ってくれた相手だ。同じ学校の上級生で、そして、前世からの有り難くない因縁で、さくらをありとあらゆる手で狙ってくるある勢力から、守ってくれる。
 このはは人間離れしたところがある。ミルクをとかした陶磁の肌、いつも亜麻色の髪をいつも二つに結っていて、寒色を基調としたゆるふわスタイルを貫いている、それが妖精らしい風采なのではない。このはは多分、誰より自由で、誰より人間のエゴというものに無知なのだ。

 「ごめん」

 暫くして、懐かしい、昨夜も電話で話して耳にしていた、何度聞いても慣れない可憐な声がした。

 「このは先輩!おはようございますわ」

 さくらは表情を引き締める。まさか、このはが正門の逆方向から現れるとは思わなかった。

 「駅に着いたら迷っちゃって……、さくらちゃんにわざわざ遠回りさせたくなくて、現地集合に決めたのに。こんなことなら一緒に来れば良かったよぉ」

 「待ってませんわ。大丈夫です」

 「本当?さくらちゃんは気遣い屋さんだから、信用出来ない。はぁ、携帯のナビもわけ分かんないし、狐につままれたと思ったよぉ」

 「このは先輩なら、妖精の悪戯かも知れませんわ」

 「そうかもー」

 「心当たり、おありですの?」 

 「あるよ」

 さくらの髪が、くすぐったい感触を得た。このはに毛先を絡めとられていた。

 「ここに」

 甘いソプラノの声が触れてきて、その唇が、さくらの今日何度も整えた、巻き毛の先に落ちてきた。

 「……っ、──……」

 さくらから、このはの水色のカットソーの七分袖から伸びた手首が離れていった。

 このはがさくらの後方に回り込んだ。

 ややあって、首筋が、心地好い程度の重みを受けた。

 「はい」

 「これは?」

 「作ってみたの」

 「…──!!」

 さくらは自分の胸元をまじまじ見る。

 サーモンピンクのボレロにダリアの花が咲いていた。たった今、このはがかけてくれたネックレスだ。

 ネックレスは、チェーンが半透明のガラスのビーズを繋げたもので、パールホワイトの小さなリボンがチャームになって揺れていた。そのトップが、真っ赤な樹脂粘土で出来たダリアだ。

 「そぉんな驚いた顔。私だって練習すれば作れるよぉ」

 「だって、このは先輩、こういうのご興味なさそうでしたから……」

 「さくらちゃんを見ていると、創作意欲が湧くんだよぉ」

 さくらの手から、パラソルの柄が離れていった。日陰はある。

 よくあることだ。

 このはは、こうしていつも、さくらがぼうっとしている間にパラソルなり傘なりを取り上げて、被せてくれる。

 「今日は楽しもう」

 「有り難うございます。一生、一生、大切にします」

 「ありがと。これが最後なんかじゃないけどね」

 二人、石畳の道を歩き出す。目指すはここの名所の温室だ。

 さくらがこのはとこういうところを歩いたのは初めてだ。二人の通っている西麹学園の校庭はともかく、休みの日は、大抵、駅前や賑やかな大通りでデートしている。

 今日は、いつにも増して懐かしい。

 さくらは、このはの横顔をちらと盗み見る。

 このはの黒曜石を彷彿とする双眸は、いつでもぱっちりした大きな目許によく映える。それが今日は、否、ここ数日は、どこか憂いを帯びて見えるところがあった。その顔は、このまばゆい花の絨毯やどこからともなく聴こえてくる鴬のさえずりに、些か似つかわしくないところがある。

 さくら自身の避けたがっている話題の所為か。さくら自身が、胸の内で持て余している怯えを、このはに重ねてしまっているのか。

 あんなにも優しい光を照らし出してくれている太陽が、今は疎ましい。あと何度、優しい朝を迎えさせてくれるのか。
 
 ふっと、このはが足を止めた。さくらもつられて立ち止まる。

 「怖い?」

 さくらの胸が、囁くような、それでいて芯のあるソプラノの声に、切なく締めつけられる。

 一度まとわりついてきたが最後、永久(とわ)に解き放ってくれなかろう淡い鎖が、優しく残酷に絡みついてくる。

 「いいえ」

 「うそ」

 さくらは首を横に振る。

 このはに心配かけたくない。逃げ出したいのは、さくらよりこのはだ。

 さくらは、今は亡き王国、氷華王国の存在を知る、一部の野望ある人間達に追われている。リーシェの、もといその家系の人間が、奇跡の力を宿すからだ。

 氷華に咲く青い花、氷桜は使われ方次第で世界を変えて、また、使われ方次第で世界を滅ぼす力を有する。生身の人間がじかに触れると、たちまち目眩や発熱、幻覚に苦しむようになる。最悪の場合、死に至る。
 但しミゼレッタの人間だけ、その影響は、ほぼない。一般人なら氷桜の匂いにでも酔うのに、さくらだけは、体内に取り込みさえしなければ、今でも秘密裏に栽培されているそれに触れても、何の症状も出ないのだ。さくらがリーシェの生まれ変わりで、彼女の力を引き継いでいるからだ。
 ミゼレッタ家の人間は、生まれ変わっても、身体のどこかに青い花の痣が現れる。それは魂に宿る奇跡を証明するものだ。リーシェのように神通力を授かっていた人間は、特に、その性質が強いという。

 さくらは、それで、邪な勢力に狙われるようになったのだ。花の痣は氷桜そっくりな匂いを放つ。毒性こそないものの、それを手がかりにして、正体を見破られたのだ。

 「私の腕の青い花の痣……。このは先輩にもあったって、莢ちゃんに聞いたことがあります。青い花の痣があるのは、ミゼレッタの生まれの人か、その誰かと、パートナーになる誓いを交わした人だけ。このは先輩は」

 「タトゥーシール。偶然つけていただけなのに、そんなに似ているなんて知らなくて、私だって吃驚したよ。莢の家ってば狭くって、一人で着替える場所も貸してもらえなかったの」

 「本当ですの?」

 「花が本物なら、妬いてくれていた?」

 「──……」

 さくらは惑う。このはは何故、そんな冗談みたいにもしもの話が出来るのだ。

 このはが何者か、氷華の味方だったのか敵だったのかも分からない。このはが話してくれないからだ。しかも、さくらの親友、希宮莢(のぞみやさや)、すなわちリーシェの信頼してやまなかった騎士、カイル・クラウスの生まれ変わりである彼女まで、そんなこと知らなくても良いと断言している。

 さくらはこのはが誰であっても愛している。それとは裏腹、だからこそ、遠い遠い前世のことでも、このはが誰かと契っていたかも知れない可能性に耐えられない。

 本当は怖いと縋りたい。

 さくらは戦えない。どれだけ努力しても敵わない。莢が前世のよしみで守ってくれるのは諦めているが、このはまで巻き込みたくなかった。このはは氷華を知っているだけの、どこにでもいる普通の少女だ。このはを頼りにしていないわけではないが、あれだけ無敵だったカイルでも、氷華の時代、戦死した。あの騎士は、リーシェが足手まといになった所為で、自ら命を切り捨てた。あんな記憶を二度と重ねたくない。さくらはこのはと離れたくない。

 それでも、広大な時代の流れの中では、抗えないものがあるのか。

 「好きです。愛して……います」

 「ありがと。いきなりだね」

 「私は愛している人に、必ず側にいて欲しいと願いません。強がりですわ。けれど……一緒にいるだけで満たされるほど、ふんわりした気持ちで愛すること、出来ません。だって、私がその人の一番の望みじゃないなら、私も悲しくなりますもの。ですから、このは先輩は役者になる目標を優先なさって、一番好きな方のところにいて下さい。このは先輩が一番幸せなら……、私は、一番幸せですわ」

 それが、二人、一緒にいることではなくても。

 さくらは再び歩き出す。このはが合わせて歩き出してくれた気配を感じた。

 「もしかしなくても心配してくれている?ほんとにあれはタトゥーだよぉ」

 「このは先輩は、莢ちゃんの前で着替えても、私の前では、お着替えなさいません」

 「莢には見られても恥ずかしくないもん!さくらちゃんは、……もうちょっと、痩せてから……」

 「…………」

 こんな時、さくらは自分が自分で思っていたより不器用だったと思い知る。

 いつだって、さくらはこのはの澄んだ空を見上げる瞳を見かけては、孤独を感じてきたものだ。
 このはの瞳は、あの青い空にも似ている。このはは、きっと、いつか別々の道を歩まねばならない時を迎えても、さくらと違って前へと進る。さくらにとって莢みたいな、前世から守ってくれる人もいる。

 さくらだけが、結局、取り残されよう。されど、それを止めたくない。

 「このは先輩のこと、いつだって、信じてます」

 「さくらちゃん……」

 「このは先輩は優しくて、まっすぐで、本当に私を大事にして下さいます。私なんかにもったいない。だから……、私のために、無茶、しないで欲しいだけ……」

 さくらはこのはの腕に自分のそれを絡める。

 この柔らかな腕は戦うにはたおやかすぎる。このこまやかな魂は、怒濤の世界を生き抜くには、美しすぎる。

 分かった、と、世にも可憐な笑い声が返ってきた。

 「さくらちゃん」

 「はい」

 「私からも、一つ、良い?」

 さくらが黒目を動かすと、どれだけ一緒にいても飽きない、ツインテールの妖精が、無邪気に首を傾げていた。

 「いつかまた、私を見付けた時は貴女の隣にいさせて」

 「…──っ、……」

 合わせ鏡に映したみたいな対なる魂、二つのそれが再び巡り逢えるのは、幾億もの歴史を刻んだ末だろう。絶え間なく広がる暗闇の果てに光る一縷の煌めきは、いつだって、気も遠くなるほど先にちらつく。

 それでも、繋いだ手の温もりだけは、忘れない。確かな絆は、きっと二人を引き合わせる。

 光溢れる花園が、永遠の誓いを見守っていた。それは、闇さえ消し去る優しさだ。







──fin.
妖精カテドラル