十月最後の日曜日、弦祇このは(つるぎこのは)は、紅茶専門店『Pastel blue』の厨房にこもっていた。同棲していて同じ劇団にいる相手役、並びにここのオーナー兼店員の、有川流衣(ありかわるい)も一緒だ。

 『Pastel blue』は、ここ、通称ケルト通りの真ん中より若干東寄りにある。

 ケルト通りは、つまるところ青文字系ファッションを好んでいる若者達の聖地だ。『Pastel blue』の客層も、表通りに比べてフリーダムな個性がある。

 かくいう二人も、『Pastel blue』の黒いブラウスに赤いタータンチェックのサロペット、黒いフリルのエプロンという制服を脱いでしまえば、ここら一帯にすんなり馴染む。
 このはの基本スタイルは、ロイヤルミルクティー色の髪を二つに結って、全身を、ロリィタの乙女達の間で莫大な人気を誇るメゾン『Fairieta Milk』のアイテムでコーディネイトした甘ロリィタだ。流衣は、くっきりした甘い目鼻立ちに、マロンブラウンのショートよりやや長い髪をしていて、その中性的な顔立ちとフェミニンな雰囲気だけでも華があるのに、更に、いつでもディテールの凝ったパンツスタイルで決めている。

 ちなみに、二人共、普段はこれだけ真面目に仕事はしない。

 今日だけが例外だ。無論、今、不満だらけだ。

 「うぅ……ハロウィンパーティー行きたかったよぉ。ランタンの写真を撮ったり、仮装の行列を見たり……のど自慢大会に出たり……なのに……、なのに、あのスパルタ演出家……」

 「紀香さんが店を開けろってしつこく提案してくれたのは、この客足を予測してのことだったんだね。フロア空かなくて休めもしない。ご丁寧にひなちゃんまで呼びつけて」

 「逢見様か沙織さんの差し金だったら、私、殴り込みに行くから!」

 このはは洗ったばかりのミルクジャーを、勢い余って握り潰しかけた。

 紀香さん、というのは松浦紀香(まつうらのりか)、このは達が所属している劇団の、脚本、演出を担当している大学生だ。
 愛らしくて頭脳明晰、姫系の華やかな服装や見目からは想像つかないところだが、卒業後は政界入りが決定している。紀香は大手歌劇団『東京乙女歌劇団』の大ファンで、中でもチーム「鳥」を盲目的に追いかけている。むしろ花鳥風月、四つあるチームの中で、「鳥」だけに執心している。そこで紀香は、とうとう先代プロデューサーに、歌劇の知識と評論のセンスを買われて今のポストに収まったのだ。

 このは達は、その紀香に、今日の災難をもたらされた。今日だけは店を休むなと念を押された。理由を訊けば、もったいない、その一点張りだったのだ。

 「紀香さん達も考えてくれているんだとは思うよ。『Pastel blue』が書き入れ時に店を閉めていたりすると、気になるんだろうね。紀香さんは経済学を専攻していて、沙織さんも、本業の職業病?茶葉の発注とかうるさいし」

 初雁沙織(はつかりさおり)。

 彼女も、紀香と並んで劇団『陽』をまとめてくれている人物だ。
 沙織は大会社の社長でありながら、プロデューサーを兼任している。劇団『陽』が『東京乙女歌劇団』の新規チーム候補だった頃、すなわちチーム『陽』と呼ばれていた頃、芸術保護法に基づいて、今もこれを保護している議員、逢見律(おうみりつ)がそのポストにいた。が、律が春に首相になって、東京とこことを往復せねばならなくなって、やむなく恋人の沙織が引き継いだのだ。

 もっとも、沙織を今日『Pastel blue』に助っ人として来てくれている元従業員とだけは、会わせてはいけない。

 矢來ひなび(やらいひなび)。

 彼女はこのはが劇団『陽』の一番手になるより一代前の、その娘役だ。
 今はエストレラと呼ばれるそのポジションは、かつてセンターと呼ばれていた。当時、ひなびの隣でその位置に相応する男役を務めていたのも、流衣とは別の女性だった。ひなびの今の同棲相手で、婚約者だ。

 「二人の確執は沙織さんの自業自得だし、皆、そこはひなちゃんの味方だけど。ひなちゃん、元はおとなしくてか弱い……って、遅くない?」

 「え?」

 「ひなちゃん。さっき注文とりに行ってくるってフロアに出ていったきり、二十分」

 「──……」

 「……………」
 
 「まさか、また絡まれてるとか……」







 「莢と喧嘩っ?!」

 このはは、フロア中の視線を集めた。

 驚いて声が上がるのも無理はない。美咲さくら(みさきさくら)に再会したばかりか、彼女の、決して喧嘩しなかろう人物との信じ難いことを耳にしたのだ。

 さくらは『Fairieta Milk』のデザイナーで、このはの昔の後輩で、昔、交際らしいことをしていた相手だ。そして、もっともっと昔を辿れば、特別な縁で結ばれていた。

 プリンセス。王女様。

 その昔、このははさくらにそんな風に呼びかけていた。流衣に出逢ったのもその関係だ。

 さくらは、窓際の四人がけの席にいた。

 トレードマークの栗色の髪は、記憶のそれより柔らかなカールを描いていた。数年前はクラシカルロリィタの洋服が馴染んでいたあえかな肢体は、『Fairieta Milk』のデコラティブな甘ロリィタがしっくりしていた。
 さくらの澄んだ双眸は変わらない。無駄な肉づきのない頬は、それでいてとびきりの塩梅でビスクを固めたみたいにふっくらしてきて、自然な微笑を湛えた小さな唇は、吸い寄せられそうに艶やかだ。苺ミルク色のリボンとラビットファーをあしらった綿レースのヘッドドレスに、ふわふわのウサギが楽しそうに遊んでいるイラストが裾にプリントしてある淡いピンク色のワンピース、そして、それらより濃いめのチェリーピンクのニットボレロに、小さなリボンがあちこちにまぶしてある白いファーのティペットが、その可憐さをいっそう引き立てていた。

 ひなびは、さくらの相談相手になっていて、厨房に戻れなかったらしかった。

 「お仕事をお邪魔してごめんなさい、矢來さん。似ているなぁって、声をかけてみましたら、本当にご本人だったんですもの。莢ちゃんに、あの舞台の後、矢來さんはこちらも退職されたと聞いておりましたから、吃驚しましたわ」

 「たまに助っ人に入らせてもらっているのぉ。それで話が弾んじゃって、美咲さんが、たくさんマカロンを頼んでくれた理由が分かって納得しちゃった」

 「自棄食いですわ。素敵なお店だと評判ですし、一度お邪魔してみたかったものですから、丁度の機会になりました」

 「莢ちゃんとは、どうしてそんなことに?」

 ひなびののほほんとした問いかけが、いやにこの場に浮いている。
 生来の持ち前だから仕方ない。そもそもひなびは、さくらの同棲相手、希宮莢(のぞみやさや)の素性をはっきり知らない。ひなびにとって、莢は同時期に一緒だった劇団員で、彼女に続く二番手の娘役でしかなかったのだ。

 チャンスかも知れない。

 このはは、さくらが莢と一緒にいる現状を、認めたわけではなかった。一度は身を引く決意をして、さくらに距離を置くために転校するにまで及んだものの、莢を、やはり認めない。

 「聞いて下さいましぃっ!」

 さくらの手許から、ばんっ、と、テーブルを叩く音がした。

* * * * * * *

 夜になってひなびを帰すと、このはは流衣と『Pastel blue』の閉店作業を終えて、裏手の小路の私宅に、さくらを招いた。店と、目と鼻の先の距離だ。

 このはは、白いアーチに囲われた、花畑よろしく乙女チックな庭に構えてある家に、流衣と暮らして四年と少しだ。
 初めて訪ねてきた時は、流衣の趣味でも変わったのかと驚いた。そこで「一緒に暮らそう」と誘われて、更に驚いたものだ。

 「本当に、あの、近くのホテルに泊まりますから……」

 「この荷物の量からして、二、三日どころじゃないだろ。このはと私が手伝っても、君の手にはトランク一つ。実家に帰る勢いじゃん」

 「私は流衣先輩にとって、お邪魔ではありませんでしたの?」

 「嫌いとまでいかない。特に、今の君は。このはを見てるみたいで」

 「──……。お洋服の、所為ですわ」

 このはは、さくらと流衣の会話を聞いていない振りを決め込む。

 ひなびと沙織が顔を合わせることを思えば、こんな気まずさはものの数にも入らない。

 三人、アーチをくぐった。流衣に続いてこのはが、そのすぐ斜め後ろをさくらが、『Pastel blue』のエントランスにもある白いいびつな庭石を辿っていく。

 このははビスケット型の扉を開けて、静まり返った廊下の明かりをつけた。そうして二階に上っていって、暫くご無沙汰だった扉を開けた。

 「着いたよぉ。空き部屋だから、煮るなり焼くなり好きに使って。不自由があれば、何なりと言ってね」

 「ってか、お姫様には殺風景かも。ここ」

 「あー……うぅ……」

 「私の部屋、来る?退屈はさせないよ」

 「あっ、へっ??ぃいいいえ、有り難うございます?」

 さくらの神さびた声が、久しくひっくり返ったトーンになった。もっとも、昔みたいに息のつぎ方まで失念しなくなったらしい。

 このはは、確信犯よりたちの悪い、天然女性キラーの流衣の前で耳まで赤くならない少女を久々に見た。

 さすがは、あの莢と年がら年中一緒にいるだけのことはある。

 「もう、流衣と一緒にいて退屈しないのは私だからだよぉ」

 「襲わないって。……美咲は」

 「私、もう部屋行かないから。もう懲りたから」

 「ひょっとして、散らかっていらっしゃいますの?」

 さくらが意外そうに首を傾げた。

 ああ、そうだ。この美しい姫君は、たまにこうしてずれた見解に首を捻る少女だったものだ。

 このはは流衣が何か言いたそうなのをよそに、無性に満足していた。

 さくらが昼間からどんな気持ちでいるのだろうとか、本当に莢と仲違いしたのかだとか、気になるところは山ほどある。

 それでも、いつかこうして再会したかった。この日をとても怖れていながら、とてもとても楽しみだった。

 「さくらちゃ──」

 「時間ですわ」

 「え?」

 「稽古。今夜もいらっしゃるのでしょう?」

 「ああ、まぁ、うん」

 劇団『陽』の稽古が夜だというのは有名だ。さくらが知っていたところで驚かないし、何と言っても同棲相手が元団員だ。
 事実、今夜も世間がハロウィンで浮かれていようと、稽古はある。さっき紀香に遅れる旨を連絡したが、このまま遅れ続けては、迷惑沙汰だ。

 「行って下さい。このは先輩はエストレラ。流衣先輩も……私、元後輩として、今後も楽しみにしておりますわ」

 さくらに屈託ない微笑が浮かんだ。客人に茶でも振る舞いたかったところなのに、そこには、相変わらず逆らえない力がある。

 「じゃ……じゃあ、何かあったら電話をして。紀香さんのお仕事用の携帯番号、劇団のオフィシャルサイトにあるの、分かる?」

 「このは先輩の携帯電話では、いけません?」

 「──……」

 このはは、そこでさくらが、今日まで自分の連絡先を消さずに残してくれていたのだと覚った。

 「なるべく早く……、帰る、ね」

 踵を返すと、ウエストが、流衣の腕に支えられていた。

 このはは、倒れそうになっていたのだ。流衣が受けとめてくれていなければ、格好悪いことになっていたろう。







 「このは」

 勝手知ったる廊下を辿って、玄関で靴を履こうとして屈んだ。そこでこのはは、流衣に声をかけられた。

 「え……?」

 「チャンスじゃない?飛んで火に入る夏のお姫様」

 「秋だけど」

 「言葉のあや」

 このはは狐につままれた気分に陥る。

 たった数分前、このはに過ぎった邪念だ。まさか、流衣までそれにそそのかされていようとは、存外だ。

 「……流衣、私に似た?」

 強がりも、綺麗事も、流衣にだけは通用しない。だからこのはは、とぼけもせず否定もしない。口先だけ茶化してみせた。

 流衣が満足そうに表情(かお)を弛めた。とても綺麗だ。

 目を合わせているだけで、否、時折、目を合わせるのにも羞恥しないと言えば嘘になる。側にいるだけで、余計な熱を煽られる。

 「このはが、もっと私に似なくちゃ」

 このははぽうっとなっている内に、軽々と片手を持ち上げられた。流衣に緩く手をとられて、柔らかな動作で指を絡め捕られる。

 「一番になりたい」

 「え……?」

 「君の、一番になりたい。私だけを君のものにして」

 「……………」

 どきりとした。

 真剣な目で、飾らない言葉だ。無条件に頷きたくなる想いに、一瞬、その声を伝って魂(ココロ)をノックされたのだ。

 このはの胸が、顫えていた。

 「なーんて」

 まるで心臓の一部になりかねなかった片手が、呆気なく自由になった。

 このはは流衣に気取られないよう、半端な拳を握る。手先に残った質感の名残を早く消してしまいたい。

 貴女に似るなんて、無理だから!

 流衣の、「君の一番に」と所望した言葉はこのはに答えを求めなかった。手本だったのだ。

 「何が、なーんて、だよ。流衣がやるから格好良くても、それを私が……さくらちゃんに出来ないよ」

 「あのお姫様はそれくらい言ってやんないと、伝わらないぜ」

 それは一理ある。さくらが相手では、回りくどく「貴女が可愛らしくて仕方がない」などと言ったところで、「恐れ入りますわ」とにこにこ笑顔が返ってくるのが関の山だ。
 但し、このはは本人に想いを伝えるか伝えないかを考える以前に、現段階では、このままさくらが莢を見限るのを見届けて良いものかに頭を悩ませている。むしろ駄目だと、理性が悲鳴を上げている。

 「さくらちゃんは、莢が、好きだから……」

* * * * * * *

 稽古が終わって帰宅すると、例の如く、深夜零時を回っていた。

 このはと流衣は、近くのコンビニエンスストアでかなり遅い夕餉を買って、さくらの待つ私宅に戻った。

 三人、シャンデリアの光が適度に満ちたリビングに集って、レースのクロスのかかったテーブルを囲んでいた。このはと流衣が隣に並んで、さくらがその九十度隣に備えてあるソファに腰かけていた。
 テーブルに、皿に盛りつけたばかりの惣菜やサンドイッチ、それから淹れたてのホットティーが、所狭しと並べてあった。

 「愛想なくてごめんね。いつもは、流衣がご飯準備してくれているんだけど……今日は店を抜けられなくて、あの通りだったから」

 「お気遣いさせてしまって、こちらこそ申し訳ありませんわ。お紅茶、美味しい。不思議な香りがしますわね」

 「『妖精の吐息』。カモミールとラベンダーの割合が高くて、カフェインほとんど入っていないの。寝る前にお代わりしても安心だよぉ」

 このははフルーツサンドを頬張りながら、業務中、何度客達に寄越したか分からない説明をさくらにもした。

 平和惚けしている、と、自分で最近よく思う。学生の頃は疎か、そのもっともっと前の時代、まさかこんな日を迎えようとは夢にも思っていなかった。

 俗に超古代と呼ばれる時代、氷華(こおりのはな)という王国があった。

 このはには、生きとし生けるものが授かる魂のサイクルの中で、氷華に生きていた時分の記憶がある。何度生まれ変わっても、あの国に生きていたかつての自分、デラという、王女リーシェ・ミゼレッタの専属護衛だった記憶だけが引き継がれるのだ。あの国にのみ咲いていた不思議な力を宿した花、氷桜(こおりざくら)の力の作用だ。

 デラは、氷華の生まれではない。敵対していた帝国、天祈(あまぎ)の、正当な王位継承者だった。それが氷華との戦乱に紛れてミゼレッタ家に捕らわれて、王妃の、つまりリーシェの母親の計らいで、そこそこの地位を与えられたのだ。
 幼い頃の記憶は、あってなかったようなものだ。デラにとって、リーシェが世界の全てだった。姉妹みたいに育ってきて、互いの全てを知り尽くした関係だった。それなのに、毎日が、恋人に会う少女の気持ちで過ごさずにはいられなかった。
 運命がぶれ出したのは、カイル・クラウスという少年が宮廷に上がってきてからだった。カイルは莢の記憶を遡った存在だ。リーシェとカイルが、王女と騎士の関係を超えて、口汚い貴族達に噂される仲になるまで、さして時間はかからなかった。
 デラは居場所を失くした。ただただ報われない想いに身を裂かれる痛みで震えていた頃、禁断の森で、一人の少女に出会った。氷華と天祈を繋ぐ森、そこは、いつも見張りの人間どころか人っこ一人いなくて、自由に出入りが出来たものだ。ユリア・マテリア。『妖精の丘』という、その森の一角で屡々まみえていた彼女は、氷華におけるクラウス家に相応する家柄の人間だった。二人、互いに素性は打ち明けないで、惹かれ合っていった。思い起こせば、デラとユリアの関係は、今のこのはと流衣のそれと、まるでおんなじものだった。だから現世での再会も、あの時みたいに必然の偶然によってだったのか。
 カイルが戦死したのは、それからまもなくのことだ。十何年振りかに両国の関係が悪化して、史上最悪の戦乱の世が訪れた。氷華は負けた。ミゼレッタ家に残されたのは、国民達の同情と、権力の象徴としての機能の停止した城、そして氷桜だった。デラは、リーシェとユリアの間で揺れていた。曖昧な態度をとり続けていた。

 「このは?」

 「…──っ」

 このはは、やにわに思考に差し入ってきた流衣の声にはっとした。

 「流衣……」

 指に挟んだフルーツサンドの輪郭がぼやけている。食事をしながら涙ぐんでいたようだ。

 「具合優れない?」

 「うん。……昼間の人酔い、今に来ちゃった」

 冷めかけの紅茶を口に含むと、少し、現実に帰ってこられた。

 「部屋、先に戻る。悪いけど片付けお願い」

 「送るよ」

 「さくらちゃんにお風呂沸かしてあげて。それに東京乙女のDVD、明日、みしおちゃん達に回さなくちゃだし……」

 「あっ、私も観たいですわ」

 「だって。流衣。人酔いなんだから、一人にさせて」

 「──……」

 このはは、カップを置いてソファを立ち上がった。

 さくらは察してくれたのかも知れない。

 このはは、心の中でさくらに礼を告げて、リビングを出た。

* * * * * * *

 このはが一人になりたがっているのを手伝うためでも、恋敵と二人きりでのDVD観賞は、想像以上に気まずかった。

 それでもさくらは、流衣と、他愛のない感想を交わしながら、甘く壮大なラブロマンスを観賞していた。エンドロールが終わっていって、風呂を借りて出てきた後は、誰にも会わず客室に戻った。

 さくらは、昼間の莢との会話を思い起こしていた。

 『行ってきな。このはと話す口実が必要なら、私と揉めたことにでもして相談に乗らせれば良いじゃん』

 『でも……っ。吃驚されるよ。莢ちゃんに悪いし、このは先輩には、流衣先輩が……』

 『さくらちゃんの苦しそうな顔、見ていられない。駄目なら戻ってくれば良い。さくらちゃんに必要なら、友達としてでも恋人としてでも、私は帰る場所になる』

 『…………』

 『さくらちゃんへの想いに、私は何度も助けられた。流衣先輩は、幸せになるべき人だけど……私達は似てるから、このままじゃいけない気がする』

 『莢ちゃん……』

 首を横に振れなかった。笑顔で送り出してくれた莢の気持ちを無駄に出来ない。

 それでさくらは、後ろめたさに後ろ髪を引かれる思いで、『Pastel blue』の門をくぐった。フロアを動き回っていたのが、ひなびで良かった。何度もマカロンをお代わりして、甘いものを食べながら自分を激励している内に、とうとうこのはがやって来たのだ。

 さっき洗ったばかりの髪は、ドライヤーをかけた所以もあって、ほぼ乾いた。

 今がチャンスかも知れない。さくらには、このはに本当のことを打ち明ける義務がある。

 さくらは『Fairieta Milk』のノベルティの余り布でこしらえたガウンを羽織って、顫える胸を押さえながら、廊下に出た。

* * * * * * *

 怖い記憶が蘇る。傷ついたより傷つけた痛みに胸を苛まれる遠いそれは、目蓋を閉じても消えなくて、いつでも夢にまで追いかけてくる。

 このはが私室の寝台に横たわって微睡んでいると、枕元に投げ出していた携帯電話が点滅していた。流衣からメールが届いていたのだ。

 リビングを出てきて二時間ほど経っていた。DVDもおそらく佳境に入った頃だ。

 このはは、さっきあれだけ一人になりたかったのに、今度は一人になりなくなくなっていた。

"チーム『月』のラブロマンスはどんなもの?"

 今更、観賞に混じれないから、せめて途切れないメールを期待して、そんな風に返信してみた。

 だのに、メールはぴたりと止まった。

 このはが再びうとうとしかけていると、ふっと甘辛い匂いが鼻を掠めた。氷桜か、その痣の芳香だ。

 このはの身体がさくらの気配に呼応して、まるで勝手に動き出す。

 「…──っ、……あ」

 「あれ?出迎えてくれたんだ」

 このはは扉を開くなり、いかにも今訪ねてきたばかりの流衣と鉢合わせた。

 氷桜の匂いも、さくらの気配も消えていた。

 「誰かいたみたいだから、確かめようとしたの。さくらちゃんは?」

 「風呂貸して、それから……、寝たんじゃないかな」

 「──……。……そっか」

 「このは」

 「な、何?」

 このはの左側の壁に、流衣の右手が伸びてきた。このはの二つに分けて結った髪の右側が、流衣に軽く掬われて、二人の顔の距離が近づく。

 「あっ、あの?」

 「ラブロマンス」

 耳に心地好いほどのハスキーボイスは甘ったるくてたおやかで、その眼差しは、まるで最愛の恋人を見つめるみたいな温度があった。

 「どんなだったか、メールより話した方が、伝わる
かと思って」

 「…………」

 キスしそうだった二人の距離が、何事もなかったみたいに元通りになる。

 このはは、適当な口実をつけて孤独から救ってくれた流衣に、心から抱きつきたくなった。






 
 このはの消え入りそうな声が聞こえた。

 さくらは流衣の姿が見えた反対側の死角から、このはの私室を覗いていた。足が疎んで動けなかった。

 分かっていた。このはが誰より大切に想い、求め、かけがえないのは、流衣だ。

 さくらは目が離せなかった。

 このはと流衣、二人、唇が触れ合うほど近い距離で見つめ合っていた。このはがとろけそうな瞳で流衣を見上げて、彼女を抱き締めようと伸ばした腕の引っ込め方が、いじらしいほど惜しそうだった。離れもしないで触れもしないで、同じ部屋に入っていった。

 一人で舞い上がっていた。このはが『Fairieta Milk』を贔屓にしてくれているところを見て、幸せだった頃に戻った錯覚にいざなわれかけた。思い切って行動に出ようとしたのに、このはの私室に訪ねていって、ノックしようとした拳から、力が抜けた。最後の最後に思いとどまった。さくらは、肝心なところで臆病だった。

 リーシェが氷華でデラと惹かれ合って、互いに求め、愛し合ったあの記憶は本物だ。今生でもこのはに惹かれて恋をして、一度は狂おしい想いにまで昇り詰めた。

 どんな枷に邪魔されたのか、赤い糸は、だのに突然、綻んだ。

 氷華は、永遠に続くものだと誰もが信じて疑わなかった王国だ。さりとて永遠はなかった。
 砂の城を支える地盤は軋んだ。あっと言う間に崩れ落ちて、生まれて初めての恋人も、全ての権限も、取り上げられた。デラだけが側にいてくれた。
 リーシェはデラに、人知れず氷華の納屋で、差し出せるもの全てを味わい尽くしてもらった。デラが故郷の少女と道ならぬ恋仲にあるという噂も耳に挟んでいたが、構わなかった。リーシェもカイルと結ばれていた。デラだけを咎められなかった。

 あれは幻想だったのか。想いも真実も、迷子になってしまったか。

 「……うっ……このは、せんぱぁ、い……」

 客室の扉を後ろ手に閉めると、いよいよ涙が溢れ出してきた。

 「…──好きです……私は、貴女を……」

 愛してる。愛してる。

 さくらの胸に真実(ほんとう)の想いは重たすぎて、咽をつっかえて、声という音にならない。
  
* * * * * *

 このはは流衣と、『東京乙女歌劇団』のDVDとは全く関係ない話ばかりした。
 今日の稽古のおさらいをやって、次の休みはどこへ行こうかと話している内に、本当に眠たくなってきて、二人、シングルベッドにもぐりこんだ。

 「起きてたら、聞いて」

 聞かせるつもりがあるのか、と、突っ込みたくなるほどの囁きだ。

 「このはを……好きだ」

 知っている。耳たこだ。

 このはは、流衣の躊躇いがちな声色に、心の中で相槌を打つ。

 「けど」

 「けど、何?」

 起きてたんだ、と、流衣の苦笑した気配がした。

 「あの子は、君に会いに来たんじゃないかな」

 「寝言は夢の中でよろしく」

 「根拠はあるけど」

 「根拠ねー……」

 このはの中に、一つの可能性が浮かぶ。

 流衣は、やはりさっき、さくらを見かけていたのではないか。あの桜の匂いは、今、リーシェの生まれ変わりの少女でなければ持たないものだ。このはの近くにさくらはいた。

 もっとも、このはがそれを質しても、流衣は答えてくれなかろう。

 「……ごめん、このは」

 「何が」

 「──……」

 言葉を持たない返事が返ってきた気がした。

 このはも流衣も、氷華と天祈の存在していた時代の最後の夜の記憶は、暗黙のタブーにしているところがある。今更、掘り返す必要もない。

 デラは、あの日もユリアと逢瀬をしていた。誰も踏み入ることなかった『妖精の丘』に、まさか、氷華の有力貴族が入り込んでこようとは、予想外のことだった。デラは国籍が氷華だったばかりに、ユリアと一緒に二人して、反氷華の罪で捕まった。冷たい塔に囚われて、それからの記憶は辛くて痛くて思い出せない。  気付けば愛おしい記憶を抱えて、いくつもの時代を生きるだけのサイクルの中にいた。リーシェにも、ユリアの影をちらつかせた少女にも会えなくて、ただただ生の有り難みも実感しないで生きていた。

 流衣しかいらなかったのかも知れない。デラはユリアしかいらなかった。リーシェの情けで拭われたはずの罪を着た。

 恋を超えた運命が、そこにはあった。

 「おやすみ、このは」

 このはは流衣に背を向けたまま、握った手の力を強めた。

 「君に逢えて良かった」

 あの夜にも聞いた科白が、あの夜よりまばゆく聞こえた。







──fin.
妖精カテドラル