氷華(こおりばな)の宮殿は、瑞々しい緑の庭園を構えていた。

 カイル・クラウスがこの城に上がって、もうすぐ二年が経つ。カイルがここに居を移してきたのは、この城の未来の主、つまり氷華王の長女リーシェ・ミゼレッタの専属護衛の務めのためだった。

 二月十四日の昼下がり、リーシェがいつものとりとめない散歩に誘ってくれた。

 カイルは、この美しい主に従った。

 宮殿の庭師達は一流揃いだ。庭園は、城下町の自然界と違って、冬眠知らずだ。
 いつでも色とりどりの花が咲いて、王宮の裏手に聳える山は、禁断の花のアイスブルーが点々と望める。小鳥達がさえずって、小川や砂場は眩しいほど澄んでいた。

 カイルはリーシェと木々や植え込みを抜けて広場に出ると、馴染みのテーブル席についた。

 お茶を運びに来させた侍女達が、気を利かせてストーブを携えてきてくれた。

 『あの……、あのね、カイル』

 カイルの耳に、高くもなく低くもない、可憐と妖艶を上手い塩梅にとり合わせたメゾの声が、苺と桜のフレーバーティーの香りを縫って、触れてきた。

 カップをソーサーごとテーブルに戻して隣を見ると、この世のどんな存在にも優ってまばゆい姫君が、こちらを見ていた。

 リーシェの透き通るような素肌、陽の光を吸って艶めく栗色の巻き毛、それに灰色を帯びた緑の瞳は、さしずめ天使を模したドールのそれだ。その定番スタイルは、サーモンピンクのドレス姿だが、そこには、いつでも新鮮な美があった。

 思わず手にとりたくなる。されどあまりに輝かしくて、手を伸ばすのすら躊躇われる。

 『いかがなさいましたか』

 『今日は、バレンタインデーでしょう?』

 カイルは、そこで初めて、今日が恋人達の祝日であることを思い出した。

 なるほど、それで、いつもこの席にいる、リーシェのもう一人の専属護衛がここに誘われなかったというわけか。

 『リーシェ様。デラにお声をかけられなかったのは、彼女を気遣われてのことですか?……でしたら、お言葉ですが感心しません』

 デラというのが、カイルと同じ地位にある、女官の名前だ。

 『どうして?』

 『彼女と恋仲の噂にあるユリア・マテリアが、天祈(あまぎ)の貴族だからです。もとよりデラは、ここ氷華の敵国である天祈の、仮にも皇室の生まれです。時々国境に出かけているのは、恋ではなく密通とは考えられませんか?』

 『全く考えられないわ。デラだって、年頃の女の子。ずっと私の世話ばかりしてきてくれたんだもの、恋じゃなくて、お友達が必要なのよ。私が見て見ぬ振りをしているのは、デラにお友達が出来て幸せそうだから』

 『──……』

 お人好しすぎるのではないか、と、カイルは思った。

 そもそも、リーシェは何故、デラとユリアの関係を、友情だと決めつけるのだ。氷華の貴族達の間にでさえ、あれだけの噂が流れているのに、思慮深いこの姫君にしては珍しいことだ。

 『カイル、それより、はい』

 とびきり可愛い笑顔の下に、綺麗にラッピングされた箱が出てきた。サーモンピンクの小花柄の包装紙に、青いリボンがかけてある。

 『これは?』

 『バレンタインの贈り物。カイルは何を誤解しているのか知らないけれど、デラを呼ばなかったのは、貴方にこっそり贈り物がしたかったから。昔、ある遠い異国の王様は、士官達に結婚を禁じていたわ。それは、王様が、愛する人のいる人間には命懸けで国のために戦えないからと考えた結果の戒めだった。それなのに、一人の兵士に、内密に婚姻を許したヴァレンティヌスという司教がいた。ヴァレンティヌスは処刑された。それが二月十四日だった。この、恋人達の祝日の始まりだわ』

 『そうですね。遠い海の向こうからの伝承ですから、どこまでが本当で、どこからが神話か分かりませんが』

 『私は、バレンタインは恋人達の祝日でもあるけれど、貴方みたいな騎士や、デラみたいな士官のための祝日でもあると思うわ。贈り物は愛の告白だけではなくて、国のために戦おうと決めてくれた方々に、感謝を伝える術でもあるべきだと思ったの。私はいずれどこかの国の王族の方と婚約させられるでしょうから、愛の告白は出来ない。けれど、感謝なら、貴方やデラに、毎年伝えるくらいじゃ足りない』

 『──……』

 『デラには、何が良いかしらね。カイルには迷わずチョコレートを選んだけれど、あの人、私以上に甘いものが好きでしょう?チョコレートだと苦すぎる気がして。今夜は、パティシエに思いきり甘いものをお願いしなくちゃ』

 『リーシェ様……』

 カイルは包みを受け取りながら、胸奥で、安堵していた。

 リーシェがデラを誘わなかったのは、カイルが、許されざる期待をしかねない類いの動機ではなかった。他愛ない理由だったのだ。

 心底、ほっとしていた。

 『リーシェ様』

 カイルは紅茶を一口飲んで、腹を決めた。

 この際だ、バレンタインとやらの風習を、存分に楽しもうではないか。

 『有り難うございます。リーシェ様は、ホワイトデーにご関心は?』

 『バレンタインデーのついでにつくられたイベントね?うーん、お母様やお父様には、お洋服でもおねだりしようかしら。だけど、カイルやデラは、側にいてくれるだけで嬉しいわ』

 『では、一ヶ月後のホワイトデーは、一日中お側にいます。例の国ではありませんが、専属護衛は、結婚を許されないで王女様をお守りする永久職……しかし、年は重ねます。若い内の思い出作りにお付き合い下さい』

 『ふふ、今から?そうねぇ、カイルとなら楽しいと思うわ』

 『おいでになりたいところは?』

 『お任せ。だってお返しなのでしょう?私をあっと驚かせて頂戴』

 『御意のままに』

 『約束ね』

 カイルがリーシェに微笑むと、アッシュのエメラルドの双眸が、ふわっと笑った。

* * * * * * *

 ふっと、昔の記憶が頭を過った。

 昔と言っても、十年前や二十年前の話ではない。もちろん今は二十歳を過ぎたばかりだから、三十年前などでもない。数億年前、先史次第に生きていた頃の記憶だ。

 希宮莢(のぞみやさや)は、通称「ケルト通り」という商店街にいた。高校以来の親友で、今は同居人、そしてあの数億年前の記憶を共有しているかつての主、美咲さくら(みさきさくら)も一緒だ。

 莢がさくらと今日「ケルト通り」を訪ねてきたのは、この界隈の一角にある紅茶専門店『Pastel blue』で、ある仕事を控えているからだ。

 『Pastel blue』は、ケルト通りの真ん中よりやや東側の、天然石の専門店の一軒手前、タピオカドリンクバーの左手にある。
 その店内は、花畑を彷彿とする空間だ。色素の薄い木材と、青やピンクの小花柄のリネンやレースでまとめてあって、不思議な感じのオルゴールの調べが、しめやかに流れている。

 莢はさくらと、その窓際の席にいた。

 「……莢ちゃん?」

 莢はたった今まで目を通していた品書きから顔を上げて、向かい側に座っている、天使を模したドールを、もといさくらを見つめる。
 さくらの肩に被さるくらいの巻き毛は、彼女がリーシェ・ミゼレッタだった頃より色素が強い。澄んだ双眸、無駄な肉づきのない頬は、それでいてとびきりの塩梅でビスクを固めたみたいにふっくらしていて、自然な微笑を湛えた唇は、吸い寄せられそうに艶やかだ。苺ミルク色のリボンとラビットファーがあしらってある綿レースのヘッドドレスに、ふわふわのウサギが楽しそうに遊んでいるイラストが裾を飾った淡いピンク色のワンピース、そして、それらより濃いめのチェリーピンクのニットボレロに、小さなリボンがあちこちにまぶしてある白いファーのティペットが、その可憐さをいっそう引き立てていた。

 「どうしたの?さっきから元気がなさそう。今日のお仕事、気が進まない?」

 「ノリノリだって言ったら、嘘になるかな」

 莢は、改めて、自分の格好を見下ろす。

 どこもかしこもレースやリボンで惜しみなくデコレーションしてある『Fairieta Milk』のワンピースに、同じくモデル業の撮影中を除けば袖を通さないような丸襟提灯袖のブラウス、それに、一度短くしたことはあってもずっと長く伸ばしている亜麻色の髪の天辺は、羊毛フェルトの白ウサギが六羽も集めてあるキャノティエが乗っかっていた。

 ゴシックパンクの普段着が、恋しい。

 「さくらちゃんのデザインしたものだから、可愛いし、綺麗だけど……。だから私も、さくらちゃんが『Failieta Milk』の専属の話をくれた時は、心から嬉しかったけど。今日はホワイトデーでしょ。よりによってこの仕事は」

 「莢ちゃんは、先輩のこと、好きではない?私は好きだわ。……今でも」

 「──……」

 「二年前は莢ちゃんのいた劇団『陽』に、今は私が衣装を協力しているなんて、ちょっと不思議。このお仕事をもらってから、昔みたいに先輩と話せるようになったわ。逢見さんに、感謝してる。逢見さんは首相として、芸術保護法に基づいて『陽』を保護なさっておいでだけれど、その舞台と『Fairieta Milk』のアートが融合すれば、より有力な芸術になると言って誘って下さったんだもの。莢ちゃんにも戻ってきて欲しいけれど、忙しいもの、仕方ないわよね。でも、今日は一緒に関わることが出来て、私は少し嬉しいわ」

 「昔から、ホワイトデーに縁なかったもんね、私。ちょっといつかの年のこと思い出しちゃって、ごめん、ノリ悪すぎだったね。氷華でリーシェ様にホワイトデーのデートを約束して、王の宴に呼ばれてパーだったことあるなって」

 「覚えているわ。カイル、本当に謝ってくれたわよね。別の日に改めて誘ってくれたのに、また、今度は私のお母様のお茶会に呼ばれて、その次に約束した振り替えは、外交官の接待を補佐するように言われて」

 「何かに呪われてるのかと思った」

 「デラに諦めろって言われて、諦めた途端、急に予定が入らなくなったものね」

 「──……」

 莢はオーダーしたいメニューを決めると、お冷やを飲んで、バッグから今日の仕事の企画表を引っ張り出した。

 企画表は、表紙に活字で「劇団 陽 キャスト選抜じゃんけん大会突撃取材with Fairieta Milk」と書いてある。

 「『陽』の二代目プロデューサーは好きじゃないけど、やり手だな。今夜のじゃんけん大会、リハやヤラセは一切なしの、ネットで生中継でしょ。トーナメントで決まったキャスティングは、本当にゴールデンウィークの舞台に反映させるって話だし。その直撃取材のレポーターが、さくらちゃんと私」

 「まさか、初雁さんから、莢ちゃんにオファーが来るなんてね」

 「私はついで。今をときめくデザイナーの美咲さくらが、劇団『陽』に関わってるって、大々的に宣伝出来る大チャンスだと思ったんじゃないかな」

 「そんなこと……、ないわ」

 莢は企画表をめくりながら、この仕事を引き受けるか引き受けまいか、いかに悩んだかを思い出す。

 劇団『陽』は、本来、主役を務めるアストレラというポジションがある。国民的人気を誇る「東京乙女歌劇団」でいうところの、センターに相当するものだ。
 今回の舞台は、アストレラだの、次いで主要となる二番手だのは考慮されないでのシャッフルになるが、件のポストにいる弦祇このは(つるぎこのは)と有川流衣(ありかわるい)こそ、かつてのデラとユリアだ。
 さくらは高校時代、このはと交際していた。あまりに短い蜜月だった。さくらは表向き平気な顔を見せているが、今も傷が癒えたわけではなかろうとは明白だ。ついでに、この『Pastel blue』は、そんなこのは達の営んでいる店でもある。

 「弦祇先輩と有川先輩、ちゃんとお帰りになるかしら。あと一時間で閉店だわ」

 「キャスト選抜は、その一時間後の八時から……。ぎりぎり帰ってくるんじゃないかな」

 莢が壁時計に振り向いた時、厨房の扉が開いて、親しい女性が飛び出してきた。

 女性は、きめこまやかな白亜に極上の花びらの粉末を刷いたような肌の色をしていた。垂れ目がちな目許に映える黒い双眸はとろけるようで、すっと通った鼻筋に、形の良いぷっくりした唇をしている。ロイヤルミルクティーの色をした髪は、胸にかかるほどの長さがあって、パステルピンクのエクステが入っている。緩くウェーブがかっていて、耳より高いところで二つに結い上げてあった。その装いは、赤いタータンチェックのサロペットに黒いフリルエプロンという、お馴染み『Pastel blue』の制服だ。

 この女性こそ、矢來ひなび(やらいひなび)、劇団『陽』のアストレラがわけあってセンターと呼ばれていた頃、その娘役を務めていた人物だ。

 ひなびは、今は『Pastel blue』の二号店を任されているが、屡々、こうしてここに助っ人に来る。

 「莢ちゃん、美咲さん、ご注文お決まりになりましたか?」

 ひなびが、莢とさくらのテーブルの側に足を止めた。

 「さくらちゃんは苺ロイヤルミルクティーで、私はフルーツガーデンティーよろしく」

 「かしこまりました、少々お待ち下さいませー」

 「あっ、ひなちゃん」

 「どうしたのぉ?」

 「ここの二人、いつ頃帰ってくるか知ってる?」

 「……うぅ。流衣さんとこのはさん、今夜のキャスト選抜トーナメントで絶対勝つって、京都のお寺巡りに行っちゃってるもんねぇ。片っ端からご利益もらってくるって言って。昼過ぎメールもらった時はね、チェックイン終わったって書いてあったのぉ」

 「あ、ひなび、その後お土産屋さん回ってくるってこっちにメール来てた」

 透き通るような美声がやにわに割り入ってきた。

 ひなびの斜め後方に、やはりここの制服姿の女性が来ていた。

 そのきめこまやかな素肌に形の良い奥二重の目許、彫りの深い面差しは、儚さと気高さが妙なるバランスをとっていて、甘やかだ。シャープな頬、通った鼻梁、その桜色の唇は、誘惑的だ。ピンクがかったミディアムシャギーの茶髪は、光の加減で赤にも見える。

 この女性が矢來ゆうり、最近、ひなびと長い婚約期間を経て婚姻した、かつての『陽』のもう一人のセンターだ。今は、やはりひなびと一緒に『Pastel blue』の二号店を運営している。

 「そうなのぉ?あ、莢ちゃん、スタッフさん達何時頃に来られるの?」

 「七時」

 「一時間切ってる……。レジ上げ今日は急ごっか。準備の邪魔しちゃいけないし」

 「そうだね。ゆうり、私はもう一度、お二人に連絡とってみる」







 流衣とこのはが戻ってきたのは、閉店時間寸前だ。

 莢は暫く会わなかったが、二人とも、変わりなかった。

 流衣は、たおやかでありながら凛とした容姿をしていて、その装いも相成って、いかにも男装の麗人といった風采だ。このはは、相変わらず童顔ツインテールが健在で、今夜も水色が基調の『Fairieta Milk』で全身をコーディネイトしていた。

 「はい、さくらちゃんには桜八つ橋、お土産だよぉ。さくらちゃん桜餅が好きだったから、お口に合うと思って」

 「有り難うございますわ、このは先輩」

 「希宮はご当地キ○ィ。この舞妓衣装のサーモンピンクの色合い、美咲に似てない?」

 「有り難うございます……。流衣先輩、年々、乙女趣味が本格化してきました?」

 「皆にはじゃんけん終わってから配れば良いし……、ゆうりさんひなさーん、今、手、離せるぅ?!」

 ゆうりとひなびがレジ台から駆けつけてきた。厨房の片付けは終わったが、レジ上げが残っているようだった。

 「どうしたの?このはちゃん」

 「もちろんお土産!はい、ゆうりさん。三日間店番有り難う!」

 「キ○ィちゃん?」

 「赤い着物の紫の上、ひなさんに似てるでしょー」

 「うん、ありがと……」

 「ひなちゃんのもあるよ」

 「有り難う、流衣さん!」

 「ひなちゃんのほっぺみたいに甘ーい苺味の八つ橋クランチ、君に似合うと思って」

 「…──!!」

 ひなびが恥ずかしげにもじもじし出すと、このはの顔色が変わった。

 「ひなさん、本当にキ○ィちゃんみたく太らないように気を付けることだよ。八つ橋クランチはチョコレートたっぷりお砂糖たっぷりなんだから」

 「ひなびは太らないよね。昨夜も汗流したし、運動いっぱいしているもんね」

 「…──!!」

 莢の前で、さくらの顔が真っ赤に染まった。

 やにわに、『Pastel blue』の出入り口の扉が開いた。

 莢のマネージャーの時枝香苗(ときえだかなえ)とネットライター、それから機材を携えたスタッフ達が、到着したのだ。

 「お疲れ様です!」

 「お疲れ様ー。私達まだ準備があるからゆっくりしてて──…ってて、元センター?!」

 「ほんとだ、嘘っ!初雁さんそんなこと一言も……でもあの人ならありえる、さすが!」

 「希宮さん、台本変えます。企画書一端返却お願いします」

 「水を差すようで悪いですけど、ゆうりさん達、『Pastel blue』のお仕事で来られていただけです。ゲストじゃないので」

 「希宮さん。何、固いこと言ってるの、さぁ企画書貸して!」

 「私からも保証しますわ、お二人はレジ上げ終わったらお帰りになります」

 「美咲さんまで頭固くなったんですか?初雁さんがお呼びになったんじゃないんですかぁ?……ああ、本物、綺麗……」

 「──……」

 「…………」

 莢は、ゆうりとひなびを不憫に思う。

 二人とも、ざっと十人はいるスタッフ達が立ち塞がって盛り上がるから、レジにも戻ってゆけないようだ。

 「有川さん!ずばり、お二人は今夜のスペシャルゲストですよね?!」

 「あ、それは違っ──」

 「あらぁ、もう見付かっちゃった?」

 流衣の声に被さって、妖艶なアルトの声が聞こえてきた。

 一同、扉を見ると、そこに思しきアッシュの茶髪のグラマラスボディの美女がいた。

 初雁沙織(はつかりさおり)、今夜の企画の主催者にして、劇団『陽』の現プロデューサーだ。

 「お察しの通り、二人は私が呼んだの。日本首相の恋人ともあろう女は、国民に対するサービスは常に心得ているものよ」

 「さ、沙織さ──」

 このはの抗議が沸き立つ拍手にかき消された。







 午後八時、久しい顔触れがおおよそ揃った。無論、初めて見る顔もある。

 莢はさくらと、スタッフ達が一時間で書き換えた企画書をちらちら見ながら、「劇団 陽 キャスト選抜じゃんけん大会with Fairieta Milk」のレポーターを務めていた。

 劇団『陽』は、松浦紀香(まつうらのりか)という少女が、脚本演出を担当している。

 紀香は、現国家元首の逢見律(おうみりつ)、つまり劇団『陽』の前プロデューサーにして現スポンサーの秘書だ。昨年の春、学校を卒業してからは、律に付きっきりでなかなか東京から帰ってこられないようだが、今夜のように屡々姿を現しては、その働きぶりは見事なものだ。

 このイベントの企画書も、紀香が手を加えたところもあって、今も彼女は、莢とさくらとは別に、司会進行に勤しんでいた。

 「さて!劇団『陽』ゴールデンウィークのスペシャル公演『悲惨物語』、着々とキャストが決定していっております!『悲惨物語』はフランスの文豪、マルキ・ド・サドの傑作です!淫蕩で享楽主義者な一流貴族フランヴァルと、純情で敬虔な女性、マリーヌがパートナーになったものの、二人の間にユージェニーという世にも可愛い娘が生まれて、親子の三角関係が誕生!フランヴァルはユージェニーを「お兄様」と呼ばせて、禁断の愛に導いていって……父娘でマリーヌを邪魔者扱いしていくのです!さてさて、キャストが決まってないのは、現在、フランヴァルとマリーヌ、ヒロインユージェニーと、マリーヌの妹シェリー、神父クレイヴィル、フランヴァルの友人ヴァルモンです!実は山場に差しかかっております、いよいよ目が離せません、ドキドキです!ちなみにマリーヌの名前とシェリーの役は、脚本演出担当の私、松浦紀香が考えさせていただきました。本当の原作が気になるご視聴者の皆さんは、お近くの書店へレッツゴー!!」

 「──……」

 「…………」

 ふっと莢が香苗を見ると、この、紀香に負けず劣らず華やかな姫系の装いをしたマネージャーが、カンペをこちらに向けていた。

 「今勝ち残ってる役者に誰でも良いから質問して。莢と姫、一人一問ずつ」、と、書いてある。

 さくらがマイクを握って腰を上げた。そしてワンピースの裾をふわふわ揺らして、ちょうどじゃんけんを終えたばかりの流衣のところに近付いていった。

 「有川先輩、インタビューですわ」

 莢は、ふっと、ゆうりが観戦を兼ねて応援に来ている律の側に移動したのに目を留めた。

 「逢見さん」

 「なぁに?ゆうり」

 「ひなびと私、そろそろ出なくちゃまずいです。今日ホワイトデーじゃないですか。実は、ひなびに内緒でサプライズで薔薇園のライトアップを予約していて……」

 「はぁ?!」

 「社長にお聞きになりませんでした?相当、言ったんですけど、聞き入れてもらえなくて。何とかしていただけませんか?」

 「無理」

 「せめて配役決まったら、誰かに譲らせて下さい。ここまで通うのに二時間半かかります。稽古に出られません」

 「『Pastel blue』の閉店時間を早めれば、問題ないわ」

 「社長?!」

 ゆうりと律の間に沙織が割り込んでいった。

 「流衣とこのはちゃんには許可を得たわ。閉店時間を早めて、そして来なさい」

 「待って下さい、ひなびが何て言うか……それよりライトアップが……」

 「ああ、ゆうりとひなさんの住んでいる隣の薔薇園でしょ?私が電話して時間を遅れさせるように言っておいたから、安心なさい」

 「何てことするんですか!」

 「しーっ、ゆうり、ひなさんにサプライズなら、聞こえないよう気を付けなさいっ」

 「…──っ」

 沙織の妖艶な人差し指が、ゆうりの唇をそっと押さえた。律が隣で殺気を立てた。

 莢がはらはらしていると、沙織の指は、ゆうりからすぐ離れていった。

 「──……」

 「…………」

 「あの、本当に、出来ません……」

 「貴女なら出来るわ。ゆうり、折角ひなさんと静かな生活を始めたのに、無理言って悪いと思ってる。けれど、どうしてもさっき、自分の衝動に抗えなかったの。今までも、これからも、私が夢中になった役者は貴女とひなさんだけだから」

 「社長……」

 「愛したのは、律。だけど私は、ゆうりほど美しいドールを知らない。お詫びなら何でもするわ。私へのホワイトデーだと思って、ここにいて」

 「…………」

 「ゆうりと過ごした二年前までの日々は、後悔してない。純粋すぎて、イラッときたところもあるけれど……律は抱かせてくれなくて、綺麗な声を我慢するいじらしい顔とか見せてくれなくて、何と言っても態度が大きくて、たまに貴女が懐かしくなるわ」

 「……生放送なんですから、声入ったらどうするんですか」

 「──……」

 「…………」

 まずい。まずすぎる。律の目が、座っている。

 莢は、インタビューの対象をゆうりに定めた。

 ゆうりを質問で攻めて、攻めて、上手く沙織から引き離すのだ。

 その時、また、紀香の新たな速報が響いてきた。

 「シェリー、弦祇このはさん、クレイヴィル、瀬田美鈴(せたみすず)さんに決定しましたー。ちなみに弦祇さんは、この大会のために京都へまでおいでになってたそうですよ。今のお気持ちは、後ほど、レポーターのお二人に訊いていただきたく思います。さてさて、京都と言えば、ご一緒だった有川さんは、まだまだ勝ち残ってゆかれるようです。しかし、前センター、手強いです……そして注目は、逢見みしおさん!みしおさんは美鈴さんと同じく現二番手を務められていますが、この可愛らしい容姿に、『Fairieta Milk』を普段からお召しになってる美咲さくらさんの大ファンとしてあまりに有名!昨年から、「ケルト通り」にある『Fairieta Milk』の直営店にショップスタッフとして勤務されてもいるんですよ。見逃せませんねぇー」

 莢がみしおに振り向くと、彼女は、相変わらず奢侈な甘ロリィタの姿をして、全身を震わせていた。

 みしおのぷにっとした薄い頬が、ほんのり紅く染まっていた。大きな目から、今にも涙がこぼれ出そうだ。








 このはと美鈴に続いて、流衣がヴァルモンに、次いでひなびがマリーヌに決まって、ゆうりとみしおの二人が残った。

 莢は、決勝戦を控えたインタビューコピーに目を通した。そして、ゆうりとみしおが向かい合っているカメラの前に進み出た。

 「ゆうりさん、みしおちゃん。決勝戦ですねー。どちらが勝っても負けてもフランヴァルかユージェニーに決まるわけですが、どっちの役がやりたいとかありますか?」

 「希宮さん、貴女また棒読み!」

 「落ち着いて下さい、逢見様っ」

 「落ち着いてられないわよ、紀香!仮にもうちの元団員よ?!」

 「台本いきなり変わって莢さんも大変なんですってばっ、抑えて下さいっ」

 「私は……」

 みしおが、顫える唇を動かした。さっきから不憫なくらいふるふるしているが、今は、もはやくずおれてしまいそうになっている。

 「私の答えで、ゆうりさんのご迷惑になっちゃいそうで、答えたくありません……」

 「みしお?!貴女、顔にゆうりのドS芝居に責められたいって、墨で書いてあってよ?」

 「…──!!」

 沙織の野次が飛んできて、みしおがはっと頬を押さえた。

 莢は、そこで、みしおもゆうりに恋をしていた一人であったことを思い出した。

 「ゆうりさんは?」

 莢がゆうりにマイクを向けると、悔しくなるほど美しすぎる双眸が、たゆたった。

 「えっと」

 ゆうりがひなびの座っている方向をちらと見て、向き直ってきた。

 「どちらでも構いません」

 「是非、理由をお願いします」

 「また棒読──」

 「逢見様っ」

 「ここがチーム『陽』と呼ばれていた頃、私がいさせてもらったのは、ひなびと一緒にいたかったからです。この場所だけが、ひなびとの繋がりだと思っていました。今は、結婚して、有り難みとか……一緒にいるのが当たり前みたいになっていますけど。でも、当たり前だって思っちゃダメですね。いつ終わるか分かりません。そんなことありえないけど、例えば天変地異とか。私は最後の瞬間まで、彼女の手を繋いでいたい。ひなびだけじゃなくて、皆も大好きです。みしおちゃんも、大事な人。ここに来て思い出しました。あの頃のこと。だから、ひなびと一緒にいられる場所で、どんな役でも、喜んで、させていただきます」

 「…──!!」

 莢は、周りの空気が一変したのを、肌で感じた。

 スタッフの何人かが、ハンカチを出して目に当て出した。

 かくいう莢も、胸をぐっさり何かで刺された感覚だ。

 今日がホワイトデーだから、尚更だ。

 カイルはあの約束をリーシェと交わして、果たせないで、あの愛おしい人のいるこの世を去った。

 「さすが、元センター!」

 「ひなびさん羨ましーいっっ」

 「みしおちゃん良かったねー、ファイト!」

 「ゴールデンウィーク、皆で休みとって観に行こっか」

 「…………」

 「──……」

 「沙織、現実的に言わせてもらうわよ」

 律が沙織の肩を抱き寄せて、その耳許に唇を寄せた。

 「本人達はどっちでも良いみたいだけど、まじでゆうりがユージェニーでみしおがフランヴァルだったら、どう?」

 「律はいや?」

 「みしおの演技指導する紀香を手伝うあんたが不憫」

* * * * * * *

 閉会後、莢はさくらと『Pastel blue』を去った。それから、本当に電車に二時間半揺られた先にある、薔薇園を訪ねていった。

 ゆうりが入場チケットをくれたのだ。ひなびには、薔薇園の他にプレゼントが用意してあるらしかった。別段、ここにこだわる必要はなかったという。

 「綺麗ー!外は寒くても温室はさすがね。ライトアップって、ここから見えるんだ……あの庭も、春になると薔薇がたくさん咲くんでしょうね」

 「さくらちゃん、花、好きだもんね。次はもう少し暖かくなったら来ない?」

 「忙しくなるわね。ゴールデンウィークは『陽』の公演に行かなくてはいけないし……。ゆうりさん、みしおちゃんに決勝で勝たれて良かったわ。だって『悲惨物語』の最後って、フランヴァルはマリーヌを失って初めて大事だったと気付くんでしょう?ゆうりさんとひなびさんには、やはり、パートナーの役がしっくりくるわ」

 「二人が喧嘩するとこは、芝居でも想像つかないけどね」

 「ふふ、そうね。ああ、なんて綺麗……」

 さくらの温室の窓を覗く双眸は、きらきらしていた。灰色がかった緑の瞳に、自然界に散りばめられた、光のグラデーションが輝いている。

 温室は甘く官能的な匂いに満ちていた。妖しいくらい美しい。

 否、違う。美しいのは、この庭園(せかい)ではない。

 「さくらちゃん」

 莢はさくらを後方から抱き締めた。

 甘辛い、オードトワレみたいな匂いが花を掠めた。

 「さ、莢ちゃん……。…──っ」

 さくらから、はっとした気配が伝わってきた。

 その胸に、さっきまでなかったネックレスがかかっていた。莢がすっとかけたものだ。

 「ホワイトデー」

 「……あ……」

 「こんなとこで渡したの、初めてだね。昨年は二人とも仕事だったし、一昨年は『陽』の本番前。毎年、縁がなくて」

 「──……」

 「やっと叶った。もらったものを返す日に、貴女に気持ちを聞いてもらえる」

 「莢ちゃん……」

 「待ってる。……さくらちゃんを、ずっと。でも後悔したくないから、時々、こんな風に近くにいて良い?」

 莢はさくらから腕を離して、その隣に腰かけた。

 さくらがこのはを忘れられなくても構わない。このはの前世と言い現世での裏切りは許せるものではないが、莢がカイル・クラウスの想いを引き継いでさくらを好きになったのではないのと同じで、さくらもただただこのはに惹かれていったなら、何も言えない。

 莢は、ただ、見返りのない想いを以て、この美しい人の側にいたい。

 さくらが、また抱き締めたくなる表情(かお)をして、莢にすり寄ってきた。

 「ごめん……ごめん……大好き。好きだわ、莢ちゃん……莢ちゃんに見限られるまで、私は貴女の側にいる……」

 莢は、遠い遠い遥か昔に夢見ていたような楽園で、何度生まれ変わっても欲するのだろう少女の肩を、引き寄せた。







──fin.
妖精カテドラル