学期末試験の期間が終わって、重苦しいムードもようやっと去っていった。遥か彼方を覆い尽くした碧天は、からりと晴れ渡っていて、目を細めるほどの蜜色が、地上に降り注いでいた。
今日は、試験休み最後の土曜日だ。
美咲さくら(みさきさくら)は、真夏の日差しも薄らいだ時間帯、地元の夏祭りを訪ねていた。
世間は、すっかり夏休みの気分で盛り上がっているらしい。
さくらが夏祭りの最寄り駅に降り立つと、早速、祭り囃子が聞こえていた。そこから少し歩いた先に鳥居があって、参道に、活気溢れる屋台が所狭しと並んでいた。無数の弓張り提灯が、均等間隔で吊るしてあった。
「さくらちゃん」
やにわに聞こえたその声は、儚げで、じんとするほど甘ったるい。そして静かな芯の通ったソプラノだった。
「このは先輩っ……」
馴れない下駄をからんと鳴らして振り向くと、そこに、今日夏祭りに誘ってくれた待ち合わせの相手がいた。
弦祇このは(つるぎこのは)、さくらと同じ学校の、一学年離れた上級生だ。
「はわっ、わわ……あぅ……えっ、えっ?!」
さくらの真ん前で、今まさに現れたばかりの妖精が、挙動不審に陥り出した。
このはが、急なハプニングにでも見舞われたのか、何もないところで転げそうにさえなっている。
「このは先輩、どうかなさいました?お忘れ物なら、私、待っているのでお戻りになって下さいまし」
「あ、違うの。ごめんごめん。もう、さくらちゃん綺麗すぎだよぉ。発熱するかと思ったよぉ。あーやばいっ」
「私?!」
「っつっても、さくらちゃんはいつでも眩しいけどさぁ。まさか浴衣で来てくれるなんて、どうしよ。幸せすぎる。うぅ……どうしよぉ……」
さくらの袖に、このはの片手が伸びてきた。
触れ合って当たり前みたいに重なった、二人の手と手が、恋人繋ぎになった。
頑張って浴衣でめかし込んできた甲斐がある。
さくらは今日、普段のクラシカルロリィタの洋服を断念して、浴衣スタイルに挑戦していた。
浴衣は、試験休みの部活動の時間を利用して、製作したものだ。
さくらの所属している手芸部は、この時期、文化祭の準備を活動のメインとしているが、それが義務づけられているわけではない。さくらは、それでこの浴衣を仕立てたのだ。淡いサーモンピンクのコットン生地にピンクと赤のグラデーションの桜吹雪、それに袖に二羽の小鳥が留まっているのがプリントしてある生地で仕上げてあって、和装用肌着は襟に綿レースが縫いつけてある。
そしてさくらは、自分の栗色の巻き毛を後頭部でシニヨンに結って、ちりめんの花を盛った手製のかんざしを挿していた。
もっともさくらにしてみれば、このはこそ、至上の美だ。
このはの紫外線なんて知らなかろう柔肌は、きめこまやかですべすべだ。黒曜石の双眸は、迷いのないまっすぐな煌めきがあって、魂ごと射抜かれそうだ。頬も唇も自然な血色が浮かんでいる。胸にかかる長さのベージュの髪は、今日もツインテールに結ってある。そして、このはのその妖精らしい雰囲気は、サックスが基調のナチュラルガーリースタイルで、いっそう際立っていた。
「このは先輩こそ、お綺麗ですわ」
「そんなことないよぉ。さくらちゃんの愛情フィルターだよぉ」
「本当ですわっ。でも、好きです。今日は、お声をかけて下さって、有り難うございます。このは先輩と学校でお話出来るようになって、こうして外でもご一緒せるなんて……夢みたい」
「さくらちゃん……」
胸が詰まって苦しすぎる。
さくらもこのはも中高一貫の学校にいて、互いに顔見知りの仲だった。このはは演劇部に所属していて、さくらはこのはの出ている舞台を、彼女目当てに毎度観ていたからだ。
もとより、二人には、ずっと昔の記憶がある。俗に超古代と呼ばれる時代に生きていた、前世の記憶だ。件の時代、今や失われた王国にいた頃、二人は同じ屋根の下にいた。
それでも、さくらがさくらとして生まれ変わった今生、このはとは、数ヵ月前まで挨拶を交わす程度の仲だった。それが今ではこんなに近い距離にいる。
さくらは、ふとした時、この日常が実は夢か、あるいはこのはの気まぐれではなかろうかと、不安に駆られる。何より、このはには、さくらの他にもっと親しい上級生がいる。
いっそ時でも止まってしまえば、こんなに苦しく切ない思いをしなくて済むか?
よりによって学内一の人気を誇る件の少女に、このはを奪われるような未来を恐れることもなくなるか?
くすり、と、このはの笑った吐息の音が聞こえた。
さくらはこのはと、鳥居の柱の裏側に回り込んでいた。
浮かれた人々の列が、二人をぞろぞろ追い越して、流れてゆく。
「さくらちゃんが不安がってくれるの見ているの、私、好き」
「えっ……」
「私ばっかり不安になったり、さくらちゃんが構ってくれない時とか、淋しがったり、ちょっといやだもん。さくらちゃんが望んでくれるなら、さくらちゃんが夢みたいっていってくれる時間は、ずっと現実だよ。私は、さくらちゃんがリーシェ様の生まれ変わりだから惹かれたんじゃない。デラが……、昔の私がリーシェ様を好きだったから好きになったんでもない。だからこの戦いが終わるまで、ほんとの気持ちは、聞いてもらえないけれど」
「──……」
「銀月義満(ぎんつきよしみつ)が復活させようとしている氷華(こおりばな)王国の敵、天祈(あまき)は、リーシェ様を柱にしたがっている。私はそれを絶対止める。さくらちゃんは誰にも、あの子にだって渡さない。そしたら……、私の気持ち、もらってくれる?」
「このは先輩……」
さくらは、このはに頷く。
二人、こんな時期に匂うまい、甘辛い芳香に包まれる。
故郷の桜(はな)の醸すものに通じるそれは、さくらがいにしえの王国の王女の生まれ変わりである証、そして、このはが彼女を愛してくれていた証だ。
さくらは、二人の身体に潜んだ揃いの青い桜のかたちの痣が、呼応している感じがした。
* * * * * * *
清らかな小鳥の鳴き声と、爽やかな朝の日差しが目蓋の内側に滲んできた。
希宮莢(のぞみやさや)は飛び起きて、寝起きにありがちな倦怠感をしのぐ焦燥に追いたてられて、辺りを見回す。
そこは、狭い狭い密室だった。
前方に運転席がある。そして、莢自身は後部座席にいたらしい。隣にもう一人少女がいた。
少女は、性を感じさせない天使の化身を聯想する風貌だ。
くっきりした目許は目蓋を閉じていても気高い風合いがあって、薄化粧の必要もなかろう陶磁の肌に薔薇色の頬、そしてショートより少し長いくらいの栗色の髪が、そんな臈たけたかんばせに、淡い影を落としている。すらりとした手足は妙なる曲線を描いていて、その、一見したよりたおやかな肢体は、上品な塩梅でケミカルレースのあしらってあるスカイブルーのシャツに、チャコールグレーのスラックスで装ってあった。腕と腕の間から覗いた唇は、いっそ悩ましげな質感を帯びているようだ。
「…──!!」
莢は、そこではっとした。
今まさに隣で寝息を立てている美少女は、銀月流衣(ぎんつきるい)、腐れ縁の上級生だ。そしてここは、流衣の私宅にいる中で、最も高位の使用人の、愛車の車内だ。
「…………」
莢は自分の身体を見下ろす。
数多の女達の秋波を集めてきた容姿をいっそう華やがせているロングヘアは、朝日を吸って、ひとしお綺麗な亜麻色の艶を帯びている。昨日の夕方、自宅でシャワーを浴びた後からとり合わせていた白いペイント風クロスのプリントしてある黒いカットソーも、ダメージ加工の施してあるハーフパンツも、目立つ皺は見当たらない。乱された形跡もない。
莢は、それからまた流衣を見る。彼女にも衣服の乱れはない。
「──……」
ややあって流衣の動き出す気配がした。悩ましげな目蓋がそっと開いた。
「あ。……おはよ」
「おはよ、じゃないです。私、何で先輩とここにいるんですか。可愛いネコさんならともかく、何が悲しくて流衣先輩と朝を迎えてるんですか」
「うそっ、希宮、覚えてないの?」
流衣ががばりと上体を起こした。
「希宮、夕べ激しかったじゃん。あれだけ興奮しておいて、忘れた?やっぱショック大きかった?私は、それは堪えたけど、君の夜は楽しかっ──」
「…──っ、……」
莢は、さっと血の気が引いた。
身体が条件反射的に退く。
もっとも、いくら高級そうな外車でも、所詮は自家用車だ。車内は狭くてすぐに背中が扉にぶつかった。
莢は、ともかく落ち着いて昨夜の終始を思い起こす。
莢は、昨日さくらがこのはと夏祭りに出かけるという情報を得て、いにしえの王女リーシェ・ミゼレッタの魂を狙っている一味の襲撃を懸念して、二人を草葉の陰からガードしようと決め込んでいた。そこでいきなり怪しい男に背後から羽交い締めにされて、覚えのある外車に拉致された。そして、中に、やはり見覚えのある上級生がいたものだ。
「あ……」
「思い出した?」
「──……」
莢は、思考が正常に機能し出すと、流衣の隣に戻っていった。
「私、あれから寝たんですか」
「そう。美咲と親しくしているこのはに激しく嫉妬して、美咲の浴衣姿に興奮して、失恋寸前のショックにさんざん陥った後、爆睡した。私もその後、寝ることにした」
「──……」
莢は車窓の向こうを覗く。
夏祭りは三日間ある。今日は二日目で、鳥居の向こうは、早くも屋台の準備が始まっていた。
「…………」
「前にもこんなことがあったような」
「大晦日ね。このはと美咲を尾行して、義父さんの手下からガードするって名目はあるけど……、希宮、昨夜は重症だったぜ。美咲を隠し撮りまでしてさ、欲求不満?結局このはは見失ったし、やっぱり、行夜と家族水入らずで祭りを楽しむべきだったかも」
「いやいや、あの使用人はやばいです。私が口出しするのもでしゃばってますけど、そろそろ解雇されては?」
莢は、昨夜自分をこの車に連れ込んできた張本人を思い出す。
有川行夜(ありかわこうや)、彼は銀月家の執事だが、もはや流衣の付き人と呼んだ方がしっくりくる。
莢は、あの男に良い思い出がない。
「おっと、失礼しました。お目覚めでしたか、おはようございます」
噂をすれば影が差すのは本当らしい。
運転席の扉の開く音がして、爽やかなテノールが聞こえてきた。
案の定、にこやかな笑顔に日焼けした肌、快活な風采のスーツ姿の男性が、運転席に乗り込んできていた。行夜だ。
「おはようございます。……っつーか有川、遊んでるだろ」
「いいえ。俺は一晩中、眠らないで、お二人の身辺を警備しておりました」
「じゃあその今持ってるかき氷は?」
「朝食です。たこ焼きなど匂いの強いものは、眠りの妨げになりましょう。あ、お二人のご朝食はいかがなさいますか?お申しつけ下されば、俺が責任を持って買ってきます」
「…………」
「──……」
莢は、いきなり黙り込んだ流衣をちらと見る。なるべく話したくない風だが、放置されても困る。
「流衣先輩。執事君、そう言ってますけど」
「行こっか」
「どこへ?」
「ちょっと酔った。外の空気吸いに行きたい」
「…………」
莢は、流衣がシートを降りていくのを追いかける。
久しく吸った外の空気は清々しかった。
莢は流衣と、鳥居と本殿の中間辺りに特設された茶店にいた。
そこで紅茶を注文して、二人で祭りの定番メニュー、ベビーカステラを分け合っていた。
「さっきの話ですけど」
「美咲の話?それは希宮は氷華にいた頃、リーシェの一番の護衛だったし、私はデラが初恋だった。けど、こればかりは本人達の問題だ。昔に戻りたくたったって、無理なものは無理だと思う」
「その話じゃありません。執事君です。あの人、まじでやばいですよ。先輩のこと狙ってます」
「そう?女子を喰い散らかしてるって有名な、希宮莢と一晩過ごしたことか、どっちが危険度高い?」
「──……」
「……ごめん」
気を抜いて耳を許していては、官能がじかにくすぐられてくる。そんな、あえかなアルトのハスキーボイスが、ふっと覇気を淡くした。
「いきなり何ですか。心当たりが多すぎます」
「義父さんのこと」
「──……」
「希宮や美咲みたいに、義父さんの所為で日常を脅かされてるやつがいる。私は見て見ぬ振りをしている。このはと、……あいつがいるから、あの家は離れられない。うちに来いとか言ってくる、世話好きな政界のマダムもいるけど。銀月義満の動きを把握しておくにも、万が一の時動くにも、今の場所が都合良いから」
「天祈に背くつもりですか?」
「初めから執着はなかったし。あの国は、デラの……このはの運命を狂わせる」
「…………」
それでも、リスクが高すぎるのではないか。さくらを人柱に狙っている邪悪の中枢、義満は、あまりに力がありすぎる。
「有川は?」
「え……」
「先輩は、あの執事君のどこを信用してるんですか?」
「それは……」
流衣が辺りを見回した。気の所為か、何かを警戒している感じがあった。
「あいつは、生き別れの妹のことで、頭いっぱいだから。放っておけないだけ」
「…………」
また、噂をすれば何とやら、ともすればリゾートから帰ってきたばかりと見られるような、健康的な肌の青年が駆けてきた。
「良かった!こちらにおいででしたか」
「何、行夜。君そろそろ帰らなくちゃ時間キツくない?」
「それより弦祇様と美咲さくらがっ──」
莢は、行夜が早口でまくし立ててきた知らせを聞くなり、駆け出した。
* * * * * * *
さくらがこのはと夏祭りを楽しんでいた最中、同じ学校の上級生らが、お面の屋台で売り子に因縁をつけていた。
上級生らの中心にいたのは、真淵一(まぶちはじめ)、学内屈指の荒くれ者だ。今は足を洗ったが、かつて義満の息のかかった教壇でアルバイトをしていた過去を持つ。
一は、国民的人気を誇る、頭巾を被ったウサギのキャラクターのお面が品切をしていた由縁、腹を立てていたらしかった。
そこで、二人が問題の屋台を素通り出来ない事態が起きた。それでこのはが一を始め上級生らを屋台の裏道に引きずり出して、デラの心得ていた体術で、彼ら全員を黙らせた。さくらを庇ってくれた所以だった。
二人、それから駆けつけてきた警察官に補導された。
さくらはこのはとカビ臭い詰所に二人きり、一晩軟禁された。そして今朝、再び交番に呼び寄せられて、今、取り調べを受けている。
「だからっ、何度もお話ししたはずです。先輩達が売り子にキレてて、さくらちゃんと私は素通りしようとしたんです。それが真淵先輩、さくらちゃんを見るなり、「ちょっとこの売り子に、可愛くお願いって言ってみろ」って、因縁つけてきたんです。それで品切のお面を出してもらえると思ったみたいで……。酷くありません?さくらちゃんがいくら美しいからって、あんな汚い目に映されるだけで不条理なのに!」
「そう言ってもねぇ、弦祇さん。それは因縁じゃありませんよ。あの少年達は病院に連れて行ったけどね、君の負わせた打撲や捻挫、完治二週間だって。傷害事件だよ、これは」
「いやいや、私も昔、傷害されましたから。あ、これでプラマイってことで。……ああ気持ち悪」
「あのっ、お言葉ですが」
「何ですか、美咲さん。君はもうじき帰って良いから、話をややこしくしないでくれる?」
「先輩方がどんな言いがかりをなさっているかは分かりませんが、私達の話を信じて下さらないなら、あの団体にいた桐島透(きりしまとおる)先輩に、お話を聞いて下さい。先輩は、私のいる部の部長です。きっと正当な話をなさいます」
「それは本当か?」
「このは先輩にも優る、正当な方は、この世においででありませんけれど。このは先輩は、貴方がたのような人間が裁いて良い方ではありません」
「さくらちゃん……」
「このは先輩が好きですわ。私は、それでも自信がありませんの。きっとこのは先輩は、流衣先輩とご一緒の方が幸せだと思いますの。それでも私は諦められません。一緒にいたいと、このは先輩に……甘えてしまいますの」
「甘えて、よ。そんなこと言わないで。私だってさくらちゃんと莢の仲、疑ってるよ。心配してるよ。でも莢より私の方がずっとさくらちゃんを大事に想ってる。私は罪になっても構わない。さくらちゃんを穢そうとした野郎をこらしめたこと、後悔してない」
「このは先輩……」
「もう良い。飯だ。話の続きは休んだ後だ」
さくらとこのはの真ん前に、レジ袋が投げ出された。
さくらが袋の中を覗くと、刑事ドラマの定番メニュー、カツ丼弁当が二つ、入っていた。
「私、カツ丼嫌いです。マカロン持ってきてもらえませんか?」
「マカロンだと?このガキ血の気多いくせに可愛いモン好んでんじゃねぇよ。最近の若モンは好き嫌いしてんじゃねぇよ!!」
「マカロン持って来いっつってんでしょ?!これだから野郎は単細胞!カツ丼とかゲテモノすぎ!」
「このは先輩のお嫌いなものを出すなんて、貴方がた、最低ですわ」
「──……」
「…………」
莢は流衣と、交番の裏手で懸命に聞き耳を立てていた。
もっとも、これだけこのはが喚いて警官が立腹してさくらが騒げば、もはや壁に耳を傾けている必要もない。
「行夜」
莢の隣で、流衣が側に控えていた行夜を見遣った。
「頼みがある。家に戻ってきてもらえない?」
行夜の嬉々とした双眸が、流衣を捕らえた。
そのやにわ、莢の視界がぐらついた。
氷華に棲息していた幻の花、氷桜の毒が、体内で動き出している。よくあることだ。
莢は、幼い頃、義満の配下に嵌められて、氷華の王族と特定の条件を満たした人間を除けば毒にしかならないあの花の蜜を、注入された。それでこんな肝心な時に限って、その威力に行動を制されていたのだ。
* * * * * * *
「カツ丼……食べなくちゃいけないの……?」
さくらは、このはが呆然とデスクに並んだレジ袋の膨らみを眺めている横顔を、横目に見ていた。
そこでふっと閃く。
これはチャンスではないか?いつも守ってくれている、この大好きな妖精の盾になるチャンスだ。
「このは先輩」
さくらは震える唇を、そっと動かす。
「豚カツは、私がいただきますわ。このは先輩は、白ご飯を召し上がって下さいまし」
「そんなっ……ダメだよぉ。さくらちゃんにそんなことさせられない」
「いいえ!」
「さくら、ちゃん……」
「私は、こんなことしか出来ません。いつも不安ですわ。このは先輩は、私なんか大事にして下さっても、何も得られないじゃありませんか。私には、このは先輩を好きな気持ちの他に、何もありません。この気持ちをなくしては、何も残りませんわ。ですから、こんな時くらい、お役に立ちたいんですの」
「そんなこと……私、さくらちゃんのそういう気持ちが……」
あるから、と、可憐なソプラノが淡い吐息に混じった時のことだ。
交番の出入り口の扉ががらりと開いた。
さくらとこのはが顔を上げると、新たな顔触れの警官が一人いた。
「失礼します。先輩、お疲れ様です。たった今、上層部から通達が入りました。昨夜補導した少女二人の身柄を解くようにとの指示です」
「何?!」
たった今までふんぞり返っていた警官が、後輩の警官に目くじらを立てた。
すると、入ってきたばかりの警官が、件の上司に声を潜めた。
「すみません。ある国会の人間が要請してきたらしいんですよ。親戚の方なんでしょうかね。とにかく、頼みましたよ」
「…………」
「…………」
さくらは、このはをちらと見る。
このはに件の国会議員に心当たりはないかと期待したが、この疑問を解いてくれる気配はなかった。
* * * * * * *
莢は流衣と、半日振りに神社の最奥を訪ねていた。
祭り二日目の本殿周辺は、昼間でも賑わっている。からからと鳴る坪鈴の音に重なって、談笑やら足音やらが、楽しげに交わっていた。
「あ、吉」
「うそっ、私末吉」
「そんな驚かなくて良いじゃん」
莢の前に、流衣がたった今読み上げた運勢結果の記してある神籤が、垂らされた。
「ほんとだ。おかしい。何であんな自業自得な女の肩を持つような先輩が」
「そんなこと言ってー、希宮、心配してくれてるんだろ」
二人、神籤箱から離れていって、多種多様な運命を暗示している白い衣をまとった大樹に、神籤紙を結ぶ。
「具合は?貧血にしては派手に倒れてたけど」
「大丈夫です。流衣先輩の、失恋寸前の痛みに比べれば」
「わ、すごい嫌味」
莢は新しく二つの縁結びが並んだ大樹を離れると、流衣と並んで本殿に向かった。
「銀月義満は、消せるものなら私が消したい。どうせ今更、綺麗にはなれないから」
「その顔でそういうこと仰る方が、嫌味ですよ」
「希宮まだ寝ぼけてる?……私は、義父さんの箱入り娘を気どってる。政界で役に立ちそうな人物に近づいて、行夜や、守ってくれそうなやつを少しでも周りにキープしている。余計な戦いは避けたいから。あの人を失脚させる時に備えて、蓄えておけるものは使いたくないんだ」
「ユリアも戦ってませんでしたね。氷華と天祈が戦になった時。実は平和主義だったりして」
「狡猾なだけ。このはや希宮みたく、正面から戦った方がって考えたことはある。けど、これが私のやり方だ。人間は、汚れるために生きている。生き長らえれば生き長らえるほど、汚れていく。私が一番汚れてる。だから、人間らしい人間とは、あんまり関わりたくないな。見透かされそうで怖いから。このはみたく妖精みたいな子を、ただ大事にしたいんだ。一緒に生きていけなくても、このはが笑って生きていれば、私は報われる」
「そんな……良いものですか?あの貧乳」
「というのは根拠のほんの一部でさ」
二人がちょうど長蛇の列の最後尾に着いた時、流衣のくすりと笑った声が聞こえた。
「義父さんに、後継者になれって言われてる。私は役者の他に将来考えられないし、早くあの人を今の場所から引きずり落とさなくちゃ、ちょっと面倒なことになりそうなんだ」
「あの、まさか、流衣先輩が天祈の再興を阻止する理由って……」
「私の叔父が、希宮に迷惑かけたみたいだし。希宮が戦えなくなったら、フォローくらいは、って思ってる」
「…──!!知ってたんですか?!」
「不法に栽培された氷桜。叔父が一部を保持しているのは、行夜でも知ってる話だから」
「…………」
莢は、それでも、流衣にもこの不安を打ち明けられない。
誰よりも、流衣にこそ打ち明けられない。きっと胸を痛めてくれるからだ。
「流衣先輩は、関係ないです。私はむしろ光栄です。リーシェ・ミゼレッタの専属護衛の、カイルは……私は、きっとそれだけ手強いって思われたんでしょうから。勝てる自信のない人間は、敵にハンディを寄越したがります。私に勝つ自信がないんでしょう」
「私よりプラス思考……」
「でも」
「希宮……」
「もし、流衣先輩が目標を叶えられる頃まで、ここにいられたら。私、相手役がやりたいな。なんて」
「えっ?!」
「私、先輩の芝居が好きです。演劇部の稽古って、手芸部の場所まで筒抜けですよ。さくらちゃんと、良いBGMだって言って聞いてるんです」
「──……」
莢と流衣の後方に、いつの間にか、前方と同じくらいの列が出来ていた。
「わっ」
莢の手首が、流衣にすっと引き寄せられた。
「いきなり何なんですか?!」
「人、混んできたから。どうせいつか、これくらいのことするんだろ?」
「…………」
夏祭りを訪ねてきた本来の目的は、とっくに遠くに飛んでいる。
莢は、それでも、暗闇だった前方が開けた気がした。
さくらのために生きてきて、さくらのために、滅びるものだと確信していた。
それなのに、まだ、その先の明日も望んでいる自分がいる。
──fin.
妖精カテドラル