遥か彼方の碧天から、黄金色の光が降り注いでいた。瑞々しい緑葉の色は鮮やかで、地上はうだるような熱気に満たされていた。

 夏真っ盛り、とりわけ観光地として名高い地域は、そこかしこに浮かれた空気が浮遊していた。

 羽澤ゆうり(はざわゆうり)は葉月の半ば、潮風のたなびくある某所を訪ねていた。親友の矢來ひなび(やらいひなび)も一緒だ。

 二人、昼過ぎにホテルにチェックインして、荷物をまとめて部屋を出て、今に至る。

 長閑な眺めに意外と馴染んだ、都会的なホテルを離れて、地図を頼りに歩いていくと、電車から見えていた海が、右手に添って広がっていた。

 「貸して」

 「あゎっ、悪いよぉ」

 「ひなびは携帯より重たいものを持っちゃダメ。一緒にいる時くらい、ね?」

 ゆうりは、ひなびの手元から引き抜いたばかりのパラソルの日陰を、彼女に被せる。そしてこの可憐な姫君に、さっきより近く身を寄せた。

 きらきら輝く海のさざなみを遠目に眺めて歩きながら、時折、傍らのひなびに目を遣る。

 ひなびの黒目がちな双眸は、ベージュに近い淡いピンク色で陰影のつけてある目許で甘く濡れた煌めきを湛えていて、透けるような白亜の肌に、苺の香りの透明薬用リップの艶をまとった唇、ミルクに浮かべた薔薇の花びらの如く頬の赤みは、童話の姫君にも備わっていなかろうあでやかさがある。ロイヤルミルクティーの色をした長い巻き毛は苺ミルクのエクステが混ざっていて、今日は、木苺と白い小花のとり合わせてある赤いリボンのスリーピンが留めてある。
 洋服は、ひなびらしい、赤と白のロリィタ服だ。赤いショートブーツの履き口から、ホイップクリームよろしく白いレースが覗いていた。

 同じゴシックアンドロリィタ系メゾン『Fillete rose』の洋服でコーディネイトしていても、ひなびはロリィタ、ゆうりは皇子で、まるで違う。

 ゆうりの今日の装いは、フリルレースがふんだんにあしらってある生成のブラウスに、ボルドーとネイビーのタータンチェックのベスト、チャコールグレーのロングパンツというものだ。木苺の艶を帯びた栗色のシャギーの茶髪は、やはり好んで身につけることの多いボルドーのレースがふんだんに使ってあって、それと同系色の薔薇が寄せられたブーケ風のコサージュを飾っていた。それから、とりわけはっきりしていると評されがちな顔は、コーラルピンクとブラウンを基調に化粧していた。

 「ゆうりと相合い傘だぁ」

 「ごめんね。半分、日影借りてる」

 「ううん。全然。私が贅沢なくらいだよ。海、カップルさんばっかりだねぇ。こんなにくっついてあすこまで行ったら、ゆうりと私も、お付き合いしているみたいに見間違えられたりするかなぁ」

 ひなびの顔が無邪気に綻んで、くすくす可憐な笑い声が立つ。

 木々の間から覗ける石垣の下は、確かに、二人一組の客の姿が数多あった。

 「ひなびを見て一目惚れした人に、私、怒られそう」

 「私がゆうりに一目惚れした人に怒られるの」

 「私はひなびと違ってモテたりしないし。けど、こんなとこでひなびに声かけてくるような人がいても、私のお姫様は任せたくない。そんな軽い人間に、ひなびはもったいないから」

 「そんなこと、──……」

 ひなびのひとしお縮こまったような左肩が、ぴとりとくっついてきた。

 ぐすっ、と、鼻を啜ったような音がして、それから地図を広げる音が、続いて耳に触れてきた。

 「ガラス細工の美術館に行って、ランチして、水族館観て、その後なら日差しも緩くなってるよね」

 「うん、海に降りるならちょうどだと思う」

 「わぁい、貝さんたくさん拾うのぉ。はぁ……ゆうりと二人で旅行なんて初めてで、やりたいことたくさん……。たまにはこういうのもどきどきわくわくっ」

 ひなびが地図を畳んでバッグに仕舞った。

* * * * * * * *

 二人が訪ねたガラス細工の美術館は、海にも優って見事にカップル達の隠れ家だ。

 館内は、ほの暗い。通路は入り組んでいて、所狭しとショーケースに並んだガラス製の芸術品が、小さな豆電球の光を吸い込んで、反射させて、きらきら輝いているだけだ。どこもかしこも幻想的で美しい。

 「あっ」

 ふっと、ガラスの宮殿のミニチュアの側で、ひなびの声が小さく上がった。

 無色透明の宮殿は、淡い七色の光が閉じ込めてあって、歴史の資料集から抜け出てきた如くに精巧だ。本殿をとり巻く庭園に、小さな小さなガラスの花が、無数に散りばめてある。

 「綺麗……」

 「だねっ。あのね、このお城、今度『Fillete rose』から出るシリーズに似てる!」

 「そうなの?」

 「ん、春に行った秋の展示会に置いてあったの。この前、社長さんが来て、採用になったって聞いたのぉ。黒とアイボリーと赤とピンクとネイビーの夜景に、こんなお城が描いてあって、ガラスの花が降ってるの。きれーい……良いなぁ……ガラスのお城……」

 ひなびの垂れ目がちな双眸が、とろけんばかりにうっとりした色をまとう。

 ひなびは、『Fillete rose』の直営店に勤務している。ひと足先に、その情報を得ていることは茶飯事だ。

 「私もチェックしよっかな。二人で揃えたら双子になるね」

 「ゆうり似合うよぉ!皇子様もあったけど、たまにはロリィタさん見たーい」

 「着慣れないよ」

 「回数重ねれば慣れるよぉ」

 でも、と、ひなびの声がやにわに沈んだ。

 ゆうりは、ひなびのくるりときびすを返した背を、目で追う。

 「多分、私はこのお洋服、買わない」

 「どっか気に入らないとこでもあるの?」

 ゆうりはショーケースから離れてひなびの隣に追いつくと、ひなびの芳しいような溜め息が、憂いを帯びてこぼれた気がした。

 「ガラスは、壊れやすいから」

 「え」

 「透明なものは悲しいよ。掴みどころがなくって、いつまでも残っていてくれなくて。悲しくなるから、ガラスのお城は、お姫様が可哀想」

 「──……」

 それなら、二人の踏み締めている生き道も、こんな風に無色透明の煌めきで出来ているのか?

 ゆうりの脳裏に、ふっとそんな思いが過った。

 高校で同じクラスになって、以来、およそ十年一緒に過ごしてきた。二人、自他ともに認める親友同士で、これからもこの関係が断ち切られる理由はない。

 それでも、この世のどこにも確かな永遠なんてない。

 これだけ愛おしい関係も、掴まえていられる保証がどこにある?

* * * * * * *

 ゆうりは、燦然たる西陽が淡い夜の帳に隠れてゆく頃、ひなびとホテルの部屋に戻った。

 二人、大浴場は、交代で行くことにした。防犯のためだ。

 もちろん、部屋は鍵が備えつけてある。
 それでもゆうりは、ひなびの万が一に備えて一人ずつ留守を守ろうという提案に、同意した。ひなびの入浴している傍らで、平静を装える自信など、とても持てなかったからだ。

 ゆうりが先に入浴をして、その後ひなびと留守番をバトンタッチすると、数時間振りに携帯電話を開けた。

 新着メールが、一件、届いていた。差出人は、宮小路沙織(みやこうじさおり)、ゆうりの勤務している製薬会社『Noble Maiden Company 』の代表取締役だ。

『やっと夏休み初日ね。楽しんでいる?私は、今年は国内を旅行中。ホテルの近くに美しい淡水パールの雑貨店と、人気の海老煎餅のお店があるんですって。お土産、どうしようか悩んでいるの。ゆうりならどちらが良くて?』

 ゆうりは、携帯電話を返信画面に切り替える。

 沙織と、昨日までずっと一緒にいた。

 ゆうりは沙織のたった一人の秘書で、就業中の付き人だ。朝から夜まで付きっきり、しょっちゅう夜が明けるまで一緒にいる仲でもあって、こうして他愛ないメールを受け取っても、あの屈託ない笑顔がすぐに頭に蘇る。

 ゆうりが定型的な挨拶を打ち込んでいると、部屋の扉の開く音がした。

 顔を上げると、浴衣姿のひなびがいた。

 「あっ、ひなび!お帰り」

 まずい。とてつもなく声が裏返ってしまった。

 「ただいまぁ。……へ、変?」

 ゆうりが携帯電話を閉じると、ひなびが隣に腰を下ろした。

 ひなびのパステルピンクのエクステの混じった髪から、小さな滴が、その肩に被さったタオルにぽつんと落ちた。

 「まさか。とっても綺麗。ただ、ちょっと……刺激的すぎない?」

 「普通だよぉ。お客さんの半分くらいは、着てたよぉ。ゆうりも着よー」

 「私は、もう半分のお客さんになっとく……」

 「浴衣美人なゆうりが見たいー」

 ひなびの声音がひとしお甘ったるくなる。

 それでも、無理なものは無理だ。

 色っぽすぎる。可憐すぎる。浴衣姿のひなびは美しすぎて、否、湯上がりのひなびが美しい。もはや神の領域に達している。

 ゆうりは、ひなびというイデアが目の前にいてこそ、彼女と全く同じものに袖を通すという真似が出来ない。

 やにわに、壁の向こうから、奇妙な声が聞こえてきた。

 「…──っ?!」

 ゆうりはひなびのびくっと震えた腕を引き寄せて、耳を澄ます。

 「……あ……あっ、ああんっ、あーーーー!!……」

 「──……」

 「…………」

 声は、女性のものだ。微かな物音が伴っていて、もう一人、他にも別の女性の気配がある。

 「あっあっ、ああ……」

 ゆうりの腕の中で、ひなびが、気丈な表情(かお)を崩すまいとしているのか、肩に力を入れていた。

 「喧嘩……かなぁ?暴力?どうしよ、従業員の人か警察に……」

 違う。ただの喧嘩や暴力ではない。

 「…………」

 ゆうりはひなびからそっと離れて、腰を上げた。

 「ゆうり?」

 「隣の部屋、行ってくる。向こう側にも客室はあるし、近所迷惑でしょ。やめてもらってくる」

 「ダメっ、ゆうりが巻き込まれちゃう!」

 「喧嘩じゃないと思うから、大丈夫。テレビの音だよ。音量下げてもらってくるね」

 「…………」

 ゆうりは、ひなびの難色露な顔に背を向けて、部屋を出た。








 淫猥な音声を垂れ流していた隣室は、ノックをするとすぐに開いた。

 ゆうりは、問題の宿泊客の顔を確かめるなり、自分の目を疑った。

 目前にいたのは、さっきメールを返しそびれたばかりの女性だったのだ。

 しかも、その女性、つまり沙織は、とてつもなく挑発的な格好をしていた。
 形の良い二重の目許に、通った鼻梁、無駄な肉づきのないふっくらした頬に、濡れた赤みを帯びた唇という、血色の良い立体感のあるかんばせは、変わらない。腰までの長さのあるアッシュブラウンのソバージュの髪も、普段と同じだ。
 ただ、その肉感的な身体は、はち切れんばかりの豊満な胸をひとしお引き立てている黒いテディに黒いネットのサイハイソックス、ともすればサディステイックな遊戯を好む女王を聯想するコスチュームで装ってあった。ガーターベルトの飾りだけは金色の造花があしらってあって、鋲の並んだチョーカーも、合皮で出来たリストバンドも、やはりその真珠肌とは相反する色でまとめてあった。

 「何やってるんですか……」

 「旅行よ。ゆうりも同じホテルだったのね。部屋まで訪ねてきてくれるなんて、さっき浴場にいた時、見付かっていたのかしら?」

 「いえ、知りませんでした。……社長?DVDでも観てました?……しかもAV。ひなびが怖がってるので、音量を抑えていただけると助かります」

 ゆうりは沙織の伸びてきた片手をやんわり握って、下ろさせる。

 くすくす、と、あえかなアルトの声が愉快そうな音色になった。

 「怖がってるのは、ゆうりだったりして」

 「私は、DVDだと分かりました」

 「違うわ。ひなさんと二人きりの密室で、女王様の鞭の音や、Mネコちゃんの声が聴こえてきちゃって、興奮したでしょ」

 「…──っ、音量は下げて下さい」

 「否定しないのね」

 「どういう反応をすれば良いか、分からなくなっただけです」

 ゆうりは沙織から目を逸らせる。

 努めて顔色を変えまいとすればするほど、普段、自分がどんな表情をしているか、思い出せなくなっていく。沙織に、今の顔を見られたくない。

 「ねぇ、ゆうり。私、女王様に目覚めそう。貴女との夜が愛おしくなくなったわけではないけれど。恋愛にセクは関係ないものね。やはり自由に楽しまなくっちゃ」

 「それで、そんな格好してるんですか。DVD、とにかくひなびがいるので音量を何とかして下さい」

 「そうね。キスしてくれたら。私を貴女のネコに戻して」

 「…………」

 ゆうりは、沙織の左肩にかかったふわふわの髪をさらりとよけて、その顎に指先をかける。

 沙織の薄く開いた唇に、自分のそれを近づけていく。

 二人の吐息が交わって、柔らかな体温が、あと少しで重なろうとした時のことだ。

 「ん……」

 ゆうりの唇が沙織の人差し指に制された。

 沙織の、寸でのところでキスを拒んだ唇が、くすりと笑った。

 「やっぱり、そういう気分じゃないかも」

 「え?」

 「お姉様ぁっ、まだですかぁ?」

 やにわに、甘えたトーンのソプラノに耳を打たれた。

 ゆうりは沙織をはっとして見る。

 「お友達とご一緒だったんですか?」

 「えっ、ええ。そう、お友達」

 「お姉様、早く戻ってきてくれないと、待ちきれなくて一人でイッちゃうかも知れませんー」

 「…──っ」

 ゆうりは、今度こそ沙織の顔がひきつったのを見逃さなかった。

 認めたくなかった。初めから、予感していたのに、別の答えを期待していた。

 沙織の耳を顫わせていたのは、DVDのM嬢ではない。沙織を慕って屈辱にさえ快楽として溺れきる、屈託ない乙女だったのだ。

 「社長。お友達の方、呼ばれてます」

 「ごめんなさい。昔、仲良くしていた……、ベッドでのお友達なの」

 「プライベートに押しかけて、すみませんでした。私もひなびを一人にさせているので戻ります。お疲れ様です」

 「待っ──」

 ゆうりは沙織の客室を出ると、彼女の声を振りきって、元いた部屋に引き返していった。

* * * * * * *

 ゆうりがひなびと二日目の観光に選んだのは、英国庭園風の公園と、テディベアミュージアムだ。それから日が暮れゆくと、二人、昨日眺めていた砂浜に降りた。

 夕まぐれの海岸は、静かだ。

 「ついに、念願の、貝拾い!」

 「昨日は外国人観光客の人達に、写真撮らせてくれって並ばれて、時間押しちゃってたもんね。『Fillete rose』って海外でも人気あるんだ。結局、あの人達、どこの国の人だったんだろ」

 「うーん……頑張って英語喋って、断ってたのにね。ゆうりと私だって観光客で、一分一秒惜しいのに。英語は通じなかったから、多分、それ以外」

 「アメリカ人っぽかったのに」

 「人は見かけじゃないんだねぇ」

 ひなびが赤いフリルで縁どってある白いスカートを押さえながら、ゆっくりその場にしゃがみこんだ。

 「見て見てー。貝」

 ひなびのすべすべの手のひらに、真っ白な巻き貝が一つ乗っていた。

 「白いねー。ひなびみたい」

 「私?」

 「うん。ひなびと言えば赤やピンクだけど、なんか、やっぱり白い」

 ゆうりはひなびの隣にしゃがんで、貝殻を集めていた籠を置く。

 赤いリボンを結んだ籠の中に、ひなびの手から、白い巻き貝が入っていった。

 「ね、ゆうり」

 「ん?」

 「私の気の所為ならごめんね。疲れてる?昨日から、えと……社長さんとばったり会ったっていう後から、心配事あるみたいな顔っていうか……」

 「──……」

 ひなびの目にそんな風に映っていたとは、不覚だ。

 沙織が、ゆうりの知らない女性と一緒に旅行をしていた。しかもあんなに過激な情事を共にしていた。

 ゆうりは昨夜、あの部屋であのソプラノを聞いた時、自分の身の置きどころを失った。

 沙織に事情を聞き出して、恋人面して、洗いざらいに吐かせて懺悔させれば良かったかも知れない。さんざん「貴女だけ」だと口にしておきながら、別の女性と関係を持っていた沙織を罵って、絶縁を言い渡すべきだったかも知れない。

 だが、ゆうり自身、沙織にとって、都合の良い部下でしかない。社内では付き人、社外ではデートの相手、世間的に愛妾と見なされても仕方なかろうようなものだ。

 一番でなくて構わなかった。沙織には忘れ難い女性がいる。そこに利害関係があるとは言え、配偶者もいる。

 誰かに愛されたい、執着されたい。そんな願いは夢物語の中でこそ、真っ当だ。

 それでも、沙織のくれた言葉が、記憶が、脳裏に蘇ってくる。

 ゆうりは、恋だの愛だのという曖昧なものではない、沙織の欲望やかなしみに、すがって繋がれていたかったのかも知れない。

 「例えば」

 ゆうりはさらさらの砂を指と指との間に流して、淡いピンク色を帯びた小貝をつまみ上げる。

 「愛して愛してくれていた人がいて、その人とは別の人を結婚のパートナーに選んじゃったとして。それが苦しくて、別の子と付き合って、でも、更に別の女の人とも関係を持ったりして。そういうの、どうしたら収集つく、かな」

 「──……。昨日のDVDの話?宮小路社長って、そういうの好きなんだ」

 「うん、好き、なんじゃないかな」

 「…………」

 「可哀想」

 ややあって、気高いトーンをしたソプラノが、潮風にぽつんととけ入った。

 「男の人が可哀想。結婚は、女の人と男の人のカップルの特権だもん。お互いに好きな気持ちを、法や書類が守ってくれる。きっと、男の人は、それだけ奥さんが好きなのに。だからお嫁さんに選んだのに。私なら、お母さんやお姉ちゃんがそういうことしていたら、相手の女の人のこと、恨む」

 「──……」

 ああ、そうか、もとより観点が違った。

 ひなびはそこにあるものをどこまでも素直に受け入れて、そしてまっすぐに見つめようとする目を備えている。

 純粋なものは残酷にもなる。この親友のように穢れないものは、こうして、あの高貴な女性のように、綺麗でいられない無垢なものを、押し潰して壊してゆくのだろう。

 ゆうりは、いつかひなびにこの胸の内を垣間見られたなら、どうなる?

 きっとこの穏やかな時間も否定される。

 あの悪魔の如く宝石が、法や書類というエゴイストに翳らされている様を憐れんで、渇望している。こんな本能がある以上、どれだけ努めたとしても、この天使と同じ生き道に並べないのだ。

 「ごめん、ひなびは、優しかったね」

 「ゆうりの方が優しいよぉ」

 おっとりした声音がくすりと笑った。

 ひなびが隣にいるだけで、満たされる。他に何もいらないと、時々、本気で思う。

 それなのに、誰より愛おしいこの人は、大切すぎてまばゆすぎて、誰よりも怖い。

* * * * * * *

 ゆうりは、またしてもひなびが大浴場へ行っている間、沙織からのメールを確認した。

 それから今夜も、沙織の宿泊している隣室を、訪ねていった。

 沙織は、昨夜とは打って変わって、彼女らしいシックなナイトドレスでめかし込んでいた。

 「就業時間外なので、用件は手短にお願いします」

 「彼女と喧嘩しちゃった。もう会わないって」

 「……残念でしたね」

 「なんて、全然、思ってないでしょ」

 ゆうりの片手が沙織に引かれた。そして、白熱灯の光を帯びもう一方の腕が伸びてきたのとほぼ同時、後方の扉がぱたりと閉まった。

 沙織のいた客室に、スーツケースは、一人分しか見当たらなかった。

 「昔を思い出していたの」

 「社長が、一度も抱かせてくれなかったと話されていた、カッコイイ恋人のことですか?」

 ゆうりは沙織の後方に足を止めて、彼女が窓に向かってカーテンを開ける後ろ姿を見つめる。

 窓の向こうは真っ暗だ。端っこに、夜空を照らす真珠が一つ、浮かんでいた。

 「名前で呼んでって、言ってるのに」

 「公私分けるのは苦手です」

 「なら、会社でも同じように呼んでくれれば良いんだわ」

 沙織が振り向いてきた。

 迷いない黒い双眸は、深い嘆きを閉じ込めていて、抗えない魔力をまとっている。

 思い返せば、沙織との出逢いは最悪だった。

 五年前、ゆうりは入社してまもない頃、沙織にいきなり呼び出された。そうして、わけも分からないまま買い物に付き合わされて、そのスタンスに相応しい、ホテルのスイートで夜景を眺めた。
 沙織の厚意に戸惑っていた。そんな折り、沙織に、側にいて欲しいと持ちかけられた。沙織が秘書と銘打って側に置いておこうとしていた人間に用意していた待遇は、法外なものだった。
 ゆうりは、次第に無遠慮になっていく沙織のスキンシップに耐えかねて、彼女を突き飛ばしていた。これだけ魅力的な、誰からも愛されるような女性が、金銭でしか愛を繋ぎ留められないように考えていた事実を、受け入れられなかったのだ。沙織の左手の薬指に煌めくプラチナの理由を知ったのは、二度目のデートに誘われた時のことだ。ゆうりは、最悪の出逢いにも優る、沙織の最悪の運命を知った。沙織に、何故、誰にも明かせなかった孤独を見透かされたのかも、あの時、分かった。

 いつしか、沙織から離れられなくなっていた。

 「私、今の自分がいやなの。失ったものが懐かしくてたまらなくなることがある。会社を建てることが目標だった。そのためには助けが必要で、男という人種と結婚して、大好きな人を傷つけた。昔の方が、ずっと私らしかった」

 「沙織様は、今も十分、魅力的です。素直だし」

 「私は女性の味方でありたくて、『Noble Maiden Company』を建てた。それなのに、トップである私自身が、女性を侮辱しているわ。男の力なんて借りて、今も、人脈や貫禄を守るために、あの人の隣で微笑んでいる。これでは、女は男の娼婦であるべきだと考えている、いかれた一部のヘテロ愛者の思うツボだわ。もっとも、私はそれを幸福と見なしていない分、まだ救われている。結婚前、彼女に出逢うまでは、本当にたくさん遊んだ。もちろん真剣な恋もしたけれど、色んな女性の魅力を発掘してきたわ」

 「それで、懐かしくなったんですか?」

 「本当の私に戻ったの。でもダメ。ゆうりってば全然妬いてくれなかったんだもの。押し入ってきて、彼女を追い出すくらいしてくれていたら、私、貴女に惚れ直していた。空しくなって、私が彼女を追い出す羽目になっちゃった」

 「私は、ああいうのは不得手ですし」

 「もちろんよ」

 ゆうりの片手と沙織の片手が、とりとめなくじゃれ合っていた。

 「ゆうりにあんな美は求めない。それは、縛って痛めつけて、限界まで頑張ってるいじらしい女の子は素敵。白い肌には、ビビットな拘束具がとっても似合う。でも」

 二人の手のひらがくっついて、恋人繋ぎのかたちになった。

 「ゆうりに、そういうことしてはもったいないわ。貴女は私の美しいドール。折角の表情だって声だって、ありのままであるべきなの。肌に傷でもついちゃったら、貴女の魅力が台なし」

 「それって、蚊にもさされるなってことじゃないですか」

 「ふふっ、そんな蚊は、生かしておけない」

 さらっと物騒な言葉のこぼれた唇が、愉快そうに綻んだ。

 「沙織様」

 ゆうりは沙織の片手を引いて、締まった筋肉を帯びたウエストを、抱き寄せる。

 一日お預けを喰らっていたキスを、今度こそ、有無を言わせないで啄んで、貪っていく。

 「んっ、はぁ……んんっ」

 「綺麗です……沙織様……ん、貴女は、ありのままで……」

 人間というものが怖かった。いつでも悲観的に世界を視ている自分自身が疎ましかった。

 誰にも自分をさらし出せなくて、寂しさだけを持て余して生きてきた。

 それでもゆうりが沙織だけを信じられたのは、自ら彼女に囚われたいと望んだのは、自虐ではない。同情でもない。

 沙織は、大切なものを、自分自身を擲って、会社という彼女の心の在り方を、その魂がぼろぼろになっても守ろうとしている。誰にでも出来ることではない。

 ゆうりは、この悲しく美しい人を慕っている。

 沙織が、かけがえない。側にいたい。沙織が彼女の戸籍上のパートナーの所有物なら、ゆうりは彼女のそれで構わない。

 ドールの肉体に憧れていた。誰かの愛玩物でありながら、その実、女でも男でもなくて、その硬質なガラスアイは気高くて、どんな世界もものともしない。永遠に変わらない色を閉じ込めて、ただただ美しいものだけを受け入れている。

 ゆうりは、きっと沙織と同じ痛みに喘いでいた。
 どこまでも同じでいたい。

 だからゆうりは、沙織の痛みを慰める、鎮痛薬で構わない。沙織という美しい精神だけを認める、ドールでありたい。

 ゆうりは沙織を寝台に座らせて、その傍らに膝をついた。

 沙織の頬や首筋を唇で触れながら、薄いドレスに覆われた乳房からウエストのラインを指先でなぞる。

 「ん、はぁ……」

 「側にいさせて下さい、沙織様。もし天地がひっくり返って、貴女が、あの人の側にいて少しでも心地好さを覚えられるようになっても」

 「あっ、ゆうり……」

 「そんな幻想、私が壊して、いつでも貴女を現実に連れ戻します」

 夜が更けてゆく。沙織の体温と汗の滲んだドレスや下着を剥いでいって、そして、生まれたままの姿になった囚われの人を、より深く、深く、まさぐってゆく。

 ひなびに、先に眠っているよう言い残してきて正解だった。

 ゆうりの脳裏を、そんな思考がとりとめなく過っていった。







──fin.
妖精カテドラル