七月中旬のとある週末、午後九時を過ぎた頃、市内の某所に、ざっと二十人近い女性達が集っていた。

 ここは、『レインボークォーツフォレスト』と名の付く地下街だ。

 『レインボークォーツフォレスト』の名物は、催し広場だ。
 そこは駅に直通していて、センター街の手前に位置する。そして日々、多種多様なイベントが催されている。
 ここでは、屡々、ライブパフォーマンスがある。『レインボークォーツフォレスト』専属のパフォーマンス団体『ウサギのしっぽ』が、歌や芝居、手品や一芸を披露するというものだ。

 今夜集まっている女性達は、『ウサギのしっぽ』のメンバーだ。
 来週に控えているステージに向けて、運営事務局があるバックヤードの一角で、ミーティングを開いていたのだ。

 真城音生(ましろねお)は、『ウサギのしっぽ』のキャストを務めている。

 音生は、およそ十年前まで、いわゆるアンダーグラウンドシンガーだった。
 ところが、ある期を境にインディーズ界を退いた。それから、この地下街の運営事務所に勤務するようになった。それと平行して、『ウサギのしっぽ』に携わっているのだ。

 「来週の出し物は、小道具抜きのコントに決まり。あえて小道具を使わないことで、お客様の想像力にお任せしたステージになるんじゃないかな。脚本はハンドメイド絵本作家の白垣さんが提供してくれることになっているから、真颯ちゃんはテーブルクロスやクッション、壁飾りを作って、小洒落たカフェを演出して」

 「了解です。パステル系で大丈夫ですか?『Fairieta Milk』の店内みたいにしたいです」

 「素敵じゃない。『Fairieta Milk』は本当に可愛らしくて、ときめく世界観だものね。但し、根を詰めすぎてパントマイムの稽古を怠るのではなくってよ」

 「みづさ様ってば、またそんな厳しいこと言う。真颯ちゃんは技術担当なんだから、パフォーマンスは可愛ければオーケー」

 「それでは私が可愛くないみたいな仰せようだわ。いかが?真颯さん。私の外見。メイクには自身があるのだけれど」

 「メイクに自身はあっても、みづさ様はウチの顔なんだから、可愛いだけじゃ足りません」

 「さっき、可愛ければオーケーだと仰らなかった?」

 「ええ、真颯ちゃんに限っては」

 みづさ様もとい世来みづさ(せらみづさ)と、今まさに睨み合いを始めたのは、田邊裕香(たなべひろか)、『ウサギのしっぽ』の代表者だ。

 みづさは、裕香の言う通り、『ウサギのしっぽ』の人気キャストだ。
 目鼻立ちのはっきりした華やかな顔立ちに、奢侈なゴシックロリィタの格好は、圧倒的な存在感だ。何より、歌がずば抜けて上手い。

 そして真颯こと花桐真颯(はなぎりまそら)は、『ウサギのしっぽ』にスタッフとして入団してきたメンバーだ。
 真颯はこの『レインボークォーツフォレスト』にも直営店があるアクセサリーメーカー『バニージュエル』の社員で、ここでは舞台芸術や衣装を担当してくれている。もっとも近年、ステージにも立っている。真颯のフランス人形を清楚にした感じの風貌に、いつでも甘いロリィタの姿をした佇まいは、舞台袖にいても客の目を引く。

 「それにしても」

 ふっと、裕香の隣でメモをとっていた西田りりや(にしだりりや)から、しみじみした声音をこぼれた。

 「みづさ様って、歌だけじゃなくて、演技もお上手ですよね。パントマイムも楽しみだなぁ。みづさ様のことだから、寝ないで稽古されるんですか?」

 「必要ならば」

 「パフォーマーの鏡!っていうより、音生ファンの鏡?みづさ様って、音生がアイドルやってた時代から追いかけていて、『ウサギのしっぽ』が結成された当時からステージを観て下さってたんでしょう?音生をこんなとこまで追いかけていらっしゃるなんて、才能なくちゃ出来ませんよぉ」

 「有り難う。私、ハマると昔から歯止めが利かなくなるの。元素の化学式があるじゃない?学生時代、教科書に載っている他にも可能性があるんじゃないかと閃いた途端、気になって夜も眠れなくなって、高校受験一週間前だというのに、先生に頼んで実験に付き合ってもらってしまったことだって」

 「それは、頭痛くなる話ですぅ。みづさ様って秀才?肝心の音生は?みづさ様の求愛に、お返事した?」

 「まず言わせてもらうと、アイドルっていうのは語弊がある」

 「細かいことはさておき。で、みづさ様のことはどう思う?年上は興味ない?」

 「皆それ言ってくるけど、私、年齢はこだわらない方」

 音生は『ウサギのしっぽ』の仲間達に注目される中、りりやの質問攻めに困憊していた。

 遡ること十年前、人生の中で最も輝いていた。表舞台にいたからではない。ただその毎日が楽園にいるようだった。

 音生はあの頃、客席に、確かにいつもみづさによく似た女性を見かけていた。そしてシンガーをやめて五年が経って、久しく立ったステージから、やはりその姿が望めた。
 あの時、別段珍しいと思わなかった。どこからか噂を聞きつけて、追いかけてきてくれた女子達は、数多いたからだ。

 音生は、入団オーディションの合格者の書類を見た時、初めて衝撃を受けたものだ。

 それでも、音生は、みづさにはむしろ同志としての感情が強い。みづさにしてみても同様だろう。

 音生の片袖が、やにわに、みづさの片手に掴まれた。

 「私にとって、音生はお友達になってしまったの。二人とも、お互いより大事なものに夢中なんだもの。それも一つや二つじゃなくて」

 「そっか、仕事が趣味ってやつですね」

 「そういうことにしてもらえると、有り難いな」

 「そうだわ、真颯さん。さっきのお話だけれど」

 「何ですか?みづさ様」

 「パントマイム。良ろしかったら私と一緒に稽古しなくて?明日図書館に本を返しに行く予定だから、参考資料を探してこられると思うの」

 「さすが、そこから入るんですか!」

 「えっと……」

 「いかが?おやつに、美味しいパンケーキもご馳走するわ」

 「はい!ご一緒します!」

 みづさと真颯が、休日の計画を立て始める。

 明るい地下街のバックヤードは、迷路みたいな廊下と事務室、倉庫や駐輪場があちこちにあって、どこか寂れた感じがある。残業している事務員達の気配もあるのに、薄暗くて、ひっそりした侘しさがある。

 かように静かな心地になると、ある少女を思い出す。否、あのメロディーが脳裏の向こうを掠めていくと、あの少女の面影が、胸を苛んでくるのか。

 それでも、少し前ほど、目の前が真っ暗になる恐怖は迫らなくなった。怖くて寂しくてどうしようもなくなる前に、ふっと、妖精の影が目前を掠めてゆくからか。

* * * * * * *

 ぎりぎり終電が迫る頃、『ウサギのしっぽ』のミーティングがお開きになった。

 音生は、それから地下鉄で十五分ほど揺られた先の、オフィス街を訪ねていった。

 こぢんまりしたビルの並んだ通りは、裏道に、ファッションホテルが密集している。屡々、親密に寄り添う二人連れや、濃厚にじゃれ合うシルエットを車窓に映した自家用車が、通りすぎていく。

 音生はスマートフォンに受信していたメールを開く。

 ややあって、メールに出ていた名称と一致した看板の掲げてあるファッションホテルが、見付かった。ちょうど自動扉が開いて、女性が二人、中から出てくるのが見えた。

 「友達待ってるんだ、ここでね」

 二人の女性の内一人が、もう一方の女性の額に唇を当てた。

 女性は、たおやかでもあり凛々しくもあった。連れの女性のウエストを抱き寄せている様が、ともすればお伽噺にまみえるナイトを聯想する。
 アッシュゴールドのメッシュの入ったダークブラウンのショートヘアは耳に被さるところで鋤いてあって、その長身に、カジュアルな皇子スタイルがしっくりしている。闇夜の色にうっすら透けたかんばせは、誘惑的な一重の目許に通った鼻梁、シャープな頬に、リップクリームの艶を帯びた唇という、シンプル且つ妖艶なものだ。

 「また会える?」

 「来週」

 「大好きよ、杏佳さん」

 女性の片手が、無邪気に笑う恋人に、ぎゅっと握り締められた。

 否、二人の間柄は恋人ではあるまい。

 皇子の姿をした件の女性は、名前を月ヶ崎杏佳(つきがさききょうか)という。真颯と同じ職場の上司で、年は三十二才、セックスフレンドは数多持っても、特定の恋人は持たないポリシーの基に日々を過ごしている人物だ。

 杏佳と、それから名前も知らない女性の手が、離れていった。

 「音生」

 軽らかで甘いハスキーボイスに顔を上げると、例の可憐な女性の姿は、いつの間にやら消えていた。

 音生の前に、杏佳だけが、立っていた。

 「お疲れ。待った?」

 「ううん。相変わらず忙しそうだね」

 音生は、やにわに夜風に靡いた自分の髪をそっと抑える。

 胸を覆う長さのある、ミルクティベージュの巻き髪が、淡いグレーのストライプの入った開襟シャツにさらりと流れた。

 「ご飯まだだろ。どっか行く?」

 「うん。あ、杏佳」

 「ん?」

 「話しづらいことが、あって」

 「了解。戻ろ」

 「え?」

 「音生ってばご飯より私のが良いんだろ。そうと決まればホテルにUターン」

 「いやいや、違うよ」

 「そう?」

 「……真颯ちゃんのこと」

 「──……」

 みづさと真颯が休日に会う約束をした。

 その目的こそパントマイムの研究だが、みづさは面倒見が良い。それ故に頼られるしよくモテる。特に年下の人間にモテる。真颯もあの容姿にあの気質だ。

 音生は、考えすぎだと分かっていながら、二人の間に何かあってもおかしくない気がしていた。

 音生の腕にやんわり絡みついていた杏佳の腕が、離れていった。

* * * * * * *

 音生が杏佳と知り合って、日は浅い。

 二人が顔を合わせると、最近、もっぱら恋愛話に花が咲く。

 今夜も音生は、杏佳の住むマンションの私宅を訪ねていくと、彼女と遅すぎる夕餉をとりながら、近辺の女性達にまつわる話をしていた。但し、今夜の話題は、『ウサギのしっぽ』の例の二人でもちきりだ。

 「どうする?真颯ちゃんって杏佳のお気に入りでしょ?」

 「来るもの拒まず去るもの追わず。それが私のポリシーだ。関係ない」

 「お友達ならね。けど、真颯ちゃんはただの友達?ましてやただの後輩でもないんでしょ。もうこの際、告っちゃえば」

 「私は誰かを独占しないし、されたくもない。お互いを尊重したいんだ。真颯が誰と付き合っても、構わない」

 「その誰かと付き合っちゃったら、遊んでもらえなくなると思う」

 「──……」

 「…………」

 音生はプリンを掬って一口味わう。

 コンビニエンスストアのプリンは、大量生産ならではの見かけとはよそに、家庭的な味がする。これは美味だ。

 「音生は?」

 「私?」

 「志咲が好きだろ。あの子フリーだし、デートにでも誘ってみれば?何たって私の幼馴染みで、仲介ならいくらでもしてやれる」

 「…………」

 音生は、プリンを一口、二口、と、味わっていく。

 相瀬志咲(あいぜしざき)、彼女は、杏佳達の務める『バニージュエル』の代表取締役だ。その風貌はいつでも華やかな妖精を彷彿とする姫スタイルに馴染んでいて、そこには、とても純粋な煌めきがある。

 志咲を好きか。問われれば、好きだ。

 されど断言してしまうには、あまりに彼女を知らなさすぎる。

 音生が何口目かのプリンをスプーンに掬ったやにわ、ふっと、唇に甘いものが触れてきた。

 スプーンは下ろしたままだから、甘いものは、掬ったばかりのプリンではない。

 「…──?!」

 音生はすっと後退して、杏佳の玲瓏たる顔を、視界いっぱいに認める。

 今、唇に触れたのは、真ん前にある皇子のキスか?

 杏佳の憂いがちな妖艶な目が、ふっと笑った。

 「今のが、長年、志咲と親友やってきた、あの子と話した口の感触」

 「杏佳って、筋金入りのケダモノ」

 「人聞き悪い。志咲のことが知りたいんだろ?私は、少なくとあの志咲の両親よりかはあの子を知ってる。この手も」

 「…──っ」

 「志咲の笑顔に触れてきた。涙を拭った記憶も染みてる。こうやって、抱き締めた時だって」

 「きょう、か……」

 音生の二の腕が杏佳にあえかに撫でさすられて、すっと上体を引き寄せられた。

 二人の胸と胸とが、衣服越しにふわりとくっつく。

 「音生。君は正しい。欲しいものに手なんて伸ばすものじゃない。たったひととき求めてくれて、壊れかける寸前に、潔く捨ててくれるぬくもりこそ、最高の愛だ。そしてさいごは、ただ一人で滅んでゆく」

 「──……」

 「分かってたら、楽じゃん。真颯より、君と一緒にいる方が、苦しくない」

 「杏佳……」







 音生は、杏佳の言葉巧みな罠に嵌まっていった。

 杏佳のブラウスに結んであったシフォンのリボンタイで目隠しされて、どこから出てきたのやら、レースもリボンもたっぷりのカチュームに、後ろ手に手首を固定された。
 そうして、音生のミニのフリルスカートから覗いた太ももを、杏佳の手が往来する。薄手のシャツを唾液でびっしょり濡らされて、舌先で、下着の上から乳首をつつかれる。

 「はぁっ、……今、私、相当エロい格好だと思うんだけど……あっ……」

 「音生の脳内がエロいんだってば。私はそんなに触ってないよ。ご自慢の声、乱しちゃってさ、想像力ってスゴいなぁ」

 「ん、はぅっ、……んんっ」

 音生の鎖骨から谷間にかけて、杏佳の指先が伝っていった。心臓に近い方の乳房が乱暴に掴まれて、揉まれてゆく。編みタイツを引き裂かれて、粘液を覆ったパンティの生地に、杏佳のもう一方の手が触れてくる。

 「ああ……ん、はぁ……」

 音生の蜜壺は、たったこれだけの前戯れにも至らなかろういたずらで、ありえないほどしっとりしていた。

 そこに柔らかなものが触れてくる。杏佳の指だ。
 あっ、と、抗えるだけの隙も与えられないで、吸い込まれんばかりに侵入してきた。

 「あっ、ああっ……」

 「音生、イきそうな顔してる。まだダメ。純白の雪をどろどろにしている瞬間を、もっともっと楽しませて。美しいものは歪められるために存在するんだ。人が終わるために生きてるのと同じ」

 「杏佳の気に入る子は、永遠に美しいような子、ばかりじゃない……私はともかく。……っ、……」

 「女の子達が目をハートにするお姉様。そういう君を、こんな風に乱せるなんて、私の征服欲は満タン。友人冥利に尽きるよ」

 「杏佳ぁ……杏佳っ……」

 「ここ、気持ちイ?音生びしょびしょ。指、増やすぜ。下着邪魔かな。その前に、こっちから」

 「んっ、ふぅ、はぁっ……」

 ブラジャーのホックが外れていった。

 はだけた前身頃から覗いた鎖骨に、胸に、乳輪に、水音を伴うキスが降ってくる。

 音生は、杏佳の罠に嵌まったのではない。いつだって、自ら望んで、この媚薬の海に飛び込んでいる。

 杏佳は歪んだものこそ確たるものだと信じていながら、その精神は繊細だ。数多の女性達を翻弄していくその様は、さしずめ芸術家がアートを生み出す奇跡を伴う。

 音生にまとわりついて離れていかない、暗い轍が怖じ気づく。杏佳と友人同士らしからぬ交流をしている間は、何もかも忘れられよう錯覚を得る。

 「杏佳」

 音生は、杏佳に手首のカチュームを解かせた。それから目隠しは自分で外して、杏佳の肩を軽く押す。

 杏佳の無防備になったブラウスの襟元に手をかけて、一つ一つ、ゴールドの薔薇が象ってあるボタンを外していく。

 キャミソールから覗いた下着をめくって、汗ばんだ白い膨らみに、しゃぶりつく。

 「っ……、こういうセクじゃないって、何度言わせる……?」

 「私もああいうセクじゃなかった。さっきのは、杏佳限定」

 「あっ、やめ……んんっ……私は、音生限定とかないんだけど……」

 「そう。なら私のためにヤらせな。万人の女の子を滅茶苦茶に鳴かせる皇子様を、私の下で野性的本能をむき出しにさせる。なんてレア」

 「何それ……ちょっ、私今日はほぼ素面だから、この前みたくはいかないから!」

 「右に同じ。あのビアンパーティーで、杏佳に初めてヤられた時は、呑みすぎちゃってたんだよね」

 「…──っ」

 音生は、杏佳の小振りの乳房を飾った乳首を口に含んで舌で転がす。そうしながらウエストを、腹を、ももをまさぐって、華奢でも柔らかな弾力のある肉体を味わいながら、その吐息を導引する。

 「杏佳、イイ顔。私よりそそるよ。貴女のバージンもらって良かった」

 「姉さん面して中身は獣か」

 「お互い様でしょ」

 「あっ……はぁっ、そこ、そこはダメ……」

 「ってことは、良いんだ……」

 音生は杏佳の奢侈なロングパンツの上から、その恥丘を探り当てて円を描く。唾液でてかった二つの乳房にキスや愛撫を繰り返す。

 音生と杏佳の、愛も情欲も伴わない、かような情事に耽る夜は珍しくない。
 二人、求めているものが似ているからだ。ただただ感覚的なものに身を任せて、愛おしさより欲望こそを重んじる。そうして傷付け合ってこそ、最上級の救いになる。
 無感情な世界にうんざりしながら、きっと、それでも生きていられるのは、そんな風に怯えている自分以上に疎ましいものがないからだ。どこかに、ひとひらでも輝くものがある。それが破滅的な快楽でも構わない。神はいない。それなら、少しでも美味い思いを漁った者こそ、勝者と呼べよう。

 音生は杏佳からブラウスもロングパンツも剥ぎ取って、下着の意味もなさなくなった布切れから、その素肌を露にした。しなやかな脚を開かせて、陰部に滲んだ淫らな泉に唾液を垂らして、指先を沈めていく。気も失わんばかりの悲鳴に官能をそそられて、熱い粘膜をかきこすって、吸いつく。そして杏佳のクッションを握った片手に自分の手のひらを重ねて、その官能を貪らんばかりに引きずり出す。

 音生は、ぬるくなったカクテルを杏佳の乳房に滴らせた。そして、それを拭い尽くす。

 奪って、奪われて、また奪って奪われた。

 それから二人が、今度こそ眠るつもりでシャワーを浴びて、各々ブランケットにくるまった頃、カーテンの隙間から、ほんのり朝日が滲んできていた。

 「疲れた。……発情期かよ」

 「良いじゃん、減るものじゃないし」

 「音生は、サドでもないくせに縛ってくる」

 「それって、拒否りたくなくなるっていう誉め言葉?」

 「──……」

 「…………」

 少しの沈黙が流れた後、ふっと、杏佳が唇を動かした。

 「音生、まだ起きてる?」

 「残念ながら」

 「みづさ様ってさ」

 「──……」

 「どこの図書館で、本、借りるんだろ。真颯といつ会うんだろ」

 「…………」

 何だ。あれだけ構わないと言っておきながら、思いきり気になっているのではないか。

 音生は、今や昨日のこととなっていった、ミーティングの一部終止を記憶に引っ張り出す。

* * * * * * *

 日曜日の昼下がり、音生は杏佳と、『レインボークォーツフォレスト』を上ったところで待ち合わせをした。

 それからカフェに移動した。

 店内は、ほぼ満席だ。二人からかなり離れた厨房近くのテーブル席に、親しい二人の女性達の姿があった。真颯とみづさだ。

 真颯は、相変わらずドールの如く風采だ。明るいシャギーの栗色の髪は今日はツーサイドアップに結ってあって、黒と白のストライプのリボンが留めてある。装いは、白い丸襟ブラウスに、バックが編み上げになっている、エンジェルスリーブのジャンパースカートというものだ。そのジャンパースカートの色合いは、サックスより深みがある。

 一方、みづさは、やはりミステリアスな雰囲気だ。ハーフめいたかんばせは、しっかり化粧してあって、すましていながら知的で華やかな感じがある。腰まであるストレートの黒髪が、杏佳も贔屓にしている『Fillete rose』のゴシックラインの洋服に、さらさら流れていた。

 「真颯の顔が……見えない」

 「それは、こっちに背を向けてるんだもん。行って話しかければ?」

 「研究の邪魔になる」

 「あの様子だと、まだ何も始めてないよ」

 音生は、カモミールとローズマリーのブレンドティーをストローで啜る。

 そもそも、このままでは、世に言うストーカーになってしまう。真颯とみづさの様子が気になって、ついつい来てしまったが、折りを見て声でもかけねばまずかろう。

 「あ、始めたみたい」

 音生は杏佳の声に弾かれて、後方を振り向く。

 みづさが資料集を広げていた。そして真颯が、お茶を楽しんでいるのとは違った様子で、カップやらポットやらを触り出していた。

 「『お待たせいたしました。最初の一杯をお注ぎします』」

 「『有り難う』」

 真颯の、ポットの持ち手を握った形を気どった手が、みづさの支えたカップに傾いていく。

 ややあって、みづさの顔が、不機嫌露に歪んでいった。

 「もう一回」

 「ダメでしたかぁ?!」

 上品な響きを帯びたソプラノが、甘ったるいトーンを連れて、ショックを大いに主張した。

 「真颯さん。貴女、さっきお茶の入ったポットをさんざん持ち上げたでしょう。何なの、今の軽そうな持ち方。それではお茶が入っているどころか、ポットを持っている感じもしないわ」

 「う……うぅ……」

 「もっと丁寧に、時折、手首から先をほんの少し震わせてみたって、大袈裟ではないと思うわ。それから目線。手元を追って。プロならともかく、真颯さんのような素人は、少しでもそこにものがあるように見せかける努力が必要よ」

 「ごめんなさい。……感覚が掴めなさすぎるんで、みづさ様やってみて下さいませんか?」

 「そうね。私もパントマイムは未経験。真颯さんだけを責められないから、やってみせるわ。気付いたことがあれば、改善のために仰って」

 「…………」

 「…………」

 真颯とみづさが役どころを入れ替えて、二度目のパントマイムを始めた。

 わっ、と、杏佳が感嘆した。

 みづさの架空のポットから、紅茶の注がれる音が聞こえる。白い湯気をまといながら、こぽこぽ、鼈甲色が流れていくのが見える。

 無論、それらは幻だ。みづさの両手は宙を握っているだけで、真颯の支えるカップは空だ。

 「みづさ様って、何者?」

 「平日は会社員。休日は『ウサギのしっぽ』の人気キャスト」

 「じゃあ音生も出来るんだ!」

 「…──っ、……」

 そうだった。杏佳の他意ない言葉で思い出した。来週のステージは他人事ではなかった。

 「……音生?」

 「やっぱ似てない」

 音生は真颯達に背を向けて、木苺のクッキーをつまみ上げる。

 フロアはこれだけ賑わっているのに、後方から、みづさのスパルタな物言いが響き渡ってくる。

 「一昨日、ミーティングでちょっと話題になったんだ。みづささんと私は似てるって。似てないよ。みづささんは『ウサギのしっぽ』が好きで、表現って行為に純粋にのめり込んでいる。私は逃げ道にしているだけ。私を追ってきてくれた人達に、それなりのまごころは返したい。でも、昔みたく純粋になれない」

 「音生は上手いじゃん」

 「だと助かる。歌っていないと不安になるから。芝居はド素人だけど、何かを表現していないと、素でいる時間が増えちゃって、苦しくなる。見せてるものがつくりものってわけじゃないけど、今の私にとって『ウサギのしっぽ』があの子との繋がりだ。届かなくても、私のなくなっちゃった部分が、まだ消えないでいられる気がする」

 「──……」

 ありのままの心根は、自分の言葉で口にするには重すぎる。そのくせ歌や芝居に吐き出せなかったものを委ねると、ありえないほど素直になれる。

 音生は、多分、そうして自我を保っていられる。世界も人間も恐ろしい。真実を架空に装っていられる場所があるから、心を置き去りにしなくて済んでいる。

 杏佳が、やにわにスマートフォンを拾い上げた。

 青い機体にぶら下がった星座のチャームのついたイヤホンジャックは、白いビーズに見えているところが、全てラビットジェイドで出来ている。杏佳が、『バニージュエル』の代表取締役、志咲と揃いで愛用している製品らしい。

 「音生」

 音生が顔を上げると、杏佳の蠱惑的な双眸に、意味深な色が浮かんでいた。

 「志咲、今から来るって」

 「えっ」

 「私、このあと会社の子と会うことになったんだ。悪いけど相手してやって」

 「いきなりっ?!」

 「一昨日、この件流れたじゃん?今日のお礼」

 「──……」

 音生は、杏佳が立ち上がってバッグを担ぎ上げる様を、唖然と見上げる。

 否、ぼんやりしている場合ではない。志咲と休日二人きり、しかもこんなに砕けた場所で会うなんて、初めてだ。

 「待って杏佳!無理、無理無理、一緒にいて!」

 「私もデートのパスは無理。じゃ、頑張ってー」

 杏佳が颯爽とレジの方に出ていった。その立ち姿はやはり胡散臭いほどキザで、フロアの女子達の眼差しが、ちらちら注がれていた。

 音生は、クッキーの盛り合わせてあった皿を見る。

 スノーボールクッキーが一つ、残っていた。

 あの可憐な女性の好んでいる石を彷彿とする。







──fin.
妖精カテドラル