猛暑もピークの葉月の半ば、夕空が西日色に染まる頃、地上はようやっと緩やかな風を呼び寄せる。
今日は、あちこちに浴衣姿の人々が見かけられる。
花火大会が予定されているからだ。
水姫心歌(みずきこのか)は、その夏の風物詩を見物するべく、所定の会場を訪ねていた。同棲して四年目の、恋人の明星あかね(みょうじょうあかね)も一緒だ。
花火大会が予定されている会場は、心歌とあかねの職場のある、通称『妖精横町』から電車で四十分ほど揺られた先の郊外だ。
駅を降りると、閑散とした大通りに繋がっていた。そこから少し歩いていくと、だだっ広い芝生がある。今夜観覧席になる場所だ。川沿というだけあって、涼しい。
河原の芝生は、開会二時間前だというのに、人でごった返していた。屋台があちこちにある。
「あかねさん、心歌ちゃん!」
心歌が聞き親しんだ声に振り向くと、思った通り、そこに今日待ち合わせをしていたカップルが、一組いた。
二人の内、一人は、はっとするほど臈たけた美女だ。綺麗にカールしたブロンドの髪に、凛とした目許を彩るグレーがかったエメラルドの双眸、その肉感的な肢体は、カジュアルながら露出の甚だしいワンピースで装ってあった。これでもかと言わんばかりの色香をまとった美貌の持ち主である。
もう一人は、妖精を彷彿とする甘ロリィタの少女だ。あどけなく目立たない顔立ちに、自然にカールしたツインテールの栗色の髪、ヘッドドレスも洋服も、サックスが基調の豪奢なものでまとめてあった。どれもロリィタ系メゾンの金字塔『Spirit Twinkle』のアイテムだ。
羽風れお(はふうれお)と羽風なぎ、二人は、心歌の学生時代からの友人だ。
「なぎさん、れおさん、こんばんは」
「こんばんは。待った?」
「大丈夫よ。なぎちゃんとなら、いくら待っていても退屈しないわ」
「うんっ、待ってる時間も楽しかった。贅沢言えば、ちょっと今日は暑いかな」
「ピンクちゃんも明星さんも、浴衣じゃないの?」
心歌は、たった今までなぎを愛おしそうに見つめていたれおの目に、捕らわれていた。
なるほど、心歌も、なぎと同じく全身を『Spirit Twinkle』でコーディネイトしていた。但し、ブラウスの白を除いては、薄手のボレロもスカートも、ピンク尽くしだ。長く伸ばした金髪だけは、ツインテールに結ったところに、自ら立ち上げたブランド『Pink Parly』のリボンコームを留めていた。
そしてあかねも、やはり『Spirit Twinkle』の皇子ラインのアイテムでコーディネイトしていて、その出で立ちはさしずめ漆黒の貴公子だ。銀白色のエクステの入った闇の色をした髪に、ネイビーと黒の小花を寄せたコサージュが飾ってあった。
「心歌ちゃんは仕事があって、僕もスピツイから直行だったし」
「私と一緒かぁ。心歌ちゃんなら、『Pink Parly×乙女ドロップ』で、イベントだって言って着られそうな感じだけどね」
なぎがれおと指先を絡めてじゃれ合いながら、くすくす笑う。
確かに、あかねとなぎは『Spirit Twinkle』の直営店に勤務している所以、その洋服を着ていなければまずい。
それに引き換え、心歌が個人経営をしているロリィタ系服飾雑貨屋『Pink Parly×乙女ドロップ』は、もちろんのこと服装自由だ。
『Pink Parly×乙女ドロップ』は、文字通り、心歌の『Pink Parly』というブランドと、共同経営者の二人の立ち上げた『乙女ドロップ』というブランドが、一つになった店舗である。三人とも、学生時代から『Spirit Twinkle』を贔屓にしていて、自然とここの洋服が定番化しているが、今夜くらい例外があっても良かったかも知れない。
「ま、明星さんとピンクちゃんが浴衣というのも想像つかないところね。二人とも、お正月だって振り袖着たことないじゃない」
「このクールビューティーな僕が振り袖着るとこ、想像つけられますか?れおさんとなぎさんこそ、配偶者のいる女性は、振り袖ダメだったはずですが」
「固いことを言ってはダメ。振り袖の方が装飾性も高くって、なぎちゃんを飾り甲斐あるの。こんな風に配偶者が許可しているんだから、問題ないわ」
「なるほど、れおさんさすが理系です!頭良い!」
心歌はあかねと河原を離れて、一端、大通りに引き返した。かき氷を四人分、調達するためだ。
最寄りのコンビニエンスストアは、かき氷の旗が大々的に掲げてあった。ガラスの自動扉から、イカ焼きやらフランクフルトやらを握って出てくる浴衣姿の団体の出てくるのが見えた。
「良かったぁ。かき氷ある!ここならさっきの屋台と違って、練乳が品切れしているはずないよぉっ」
「砂糖代用してもらわなくて済んだね。れおさん、かき氷は練乳が入ってなくちゃ許せないなんて、まじで筋金入りの甘党だな」
心歌はあかねの袖を握って、コンビニエンスストアに入っていく。見るからに花火大会の観客と思しき人々の長蛇の列に並んで、ようやっと、レジに着いた。
「いらっしゃいませ」
「かき氷お願いします」
「お味はいかがなさいますか?」
「イチゴ二つとブルーハワイとみぞれ一つずつお願いします。みぞれは練乳追加して下さい」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
心歌は、店員の女性がかき氷の準備を始めてくれると、その様子をとりとめなく眺め始める。
鼓膜を破られんばかりの怒声に耳を打たれたのは、やにわのことだ。
心歌とあかねを含め、列にいた客の何人かが売り場に振り向く。
すると、ちょうど日用品の並べてある自動扉の付近で、五十代くらいと見られる男と、二十歳前後の青年が、口論していた。二人ともここの制服姿だ。
「お前、何度言えば分かるんだ。今日は花火大会だぞ。こんな日に除菌ウェットティッシュが残り二個しかねぇじゃねえか」
「さっきも言いました。一昨日、一度に二十個買っていったお客さんがいたんです。店長は一昨日と昨日休みだったし、日用品の発注は、店長が担当だから、他のスタッフがメールしなかったんですか?」
「他のスタッフはやることあるんだ。お前みたいな新人が、暇なんだから、やっとくのが普通だろ?頭の中身、あんのかお前?」
「それなら、次からは」
「とか言って、お前は自分の担当もろくに出来てないじゃねぇか。どうせ口だけだろ。この二個、売り切れたらどうしてくれんだ?」
年輩の男が二つのウェットティッシュを握って、ハリセンよろしく、青年の頭をぺんぺんはたく。
「あかねちゃん、……あたし、あんなウェットティッシュ買いたくない。除菌なのに菌ついてる」
「大丈夫。心歌ちゃんの手が汚れても、ウェットティッシュなんか使わないで、僕が綺麗にしてあげるから」
「あかねちゃん……」
心歌はあかねに片手を持ち上げられながら、その、何度見つめても胸が逸ら、優しく清冽な双眸を見上げる。
何故だ。懐かしくなる。
それはあかねとの付き合いは長いが、それよりも、ずっとずっと昔も一緒にいた気がする。
心歌は、あかねと一緒にいればいるほど彼女が愛おしくなりすぎて、錯覚まで起こすようになったのか。
「…──お前言わせときゃあ偉そうだな」
「は?」
「中卒のお前に言われたかねぇよ」
「何だと?」
「俺は忙しいんだ!新人だから暇だって?ざけんなよ。学校の合間に来てんだよ。国公立は寝る間もねぇ、仕事なんか覚えてられっか!」
「ひっ」
店内の数ヶ所から悲鳴が上がった。
従業員らの口論が、とうとう殴り合いに発展したのだ。
「誰か警察!」
「おい、店員さん、誰か止められないんですか?!」
客も従業員もてんやわんや騒ぎ出す。
心歌の手とあかねのそれが、離れていった。
「ねぇ、あかねちゃん」
「──……」
「あの国公立自慢野郎、おかしくない?」
心歌は、今まさにふらつきながら腰を上げた男に胸倉を掴み上げられている青年の血眼に、ぞっとする心当たりを覚えていた。
太古の昔、地球上のとある場所に、ルシナメローゼと呼ばれていた島国があった。
そこで暮らしていた人々は、ある掟にさえ背かなければ、生涯に自由と平和を約束されていた。
ルシナメローゼがいつ滅んだか、何故滅んだかは、一部の学者達のみが知るところだという。
ただ、最近、件の楽園の住人の生まれ変わりと推定される人間に異変が起きているようだ。
かつてルシナメローゼにいた人間は、現代社会の機械的なルールや風潮に、並外れた違和感を覚える。故郷とのギャップが大きすぎるからだ。そして、その胸中が苦痛に喘いで、当時の記憶はなくしていても、深層心理が拒絶反応を訴えて、爆発する。
ある者は、医学では対処出来ない身体の不調を訴ええる。またある者は、突然、鬱ぎ込む。それから、怒りの沸点が極端に下がって、異常に血の気が多くなる者もある。ルシナメローゼにいた頃の、自らの怨念にとり憑かれた症状だ。
そのような人間を救済する方法が、一つある。
スピリーナと呼ばれる戦い手達が、精霊バトルを行うことだ。
森羅万象は水、火、土、風の四大元素から出来ている。
この世に四人いるスピリーナ達は、同じくこの世に四人いるゴッドレスらの力を借りて、それらを司る各々の精霊の力を心身に宿す。そしてその力を操って、スピリーナ同士一対一で互いの力をぶつけ合うと、異なる元素と元素が化学反応を起こすのだ。
元素と世界の命運は、リンクしている。四つある元素は時にくっついて、時に反発していてこそ、この世を形成しているあらゆるものの均衡が保てる。
それ所以、スピリーナ達が戦うと、歪んでいたものは矯正されて、あるべきかたちに戻るのだ。憑依のジレンマに苦しむ人間も、自身が本当に望む日常の中に戻れる。
心歌は水のスピリーナ、あかねは火のスピリーナだ。
心歌は、コンビニでの騒動の最中、精霊バトルを管理している組織から、メールを受けた。そしてその指示に従って、あかねと一緒に、川辺の花火大会の会場から少し離れた芝生に移った。
「れおさん達、怒ってたね……」
「さんざんかき氷を待たせた挙げ句、なしになったからね。夏はスピツイセール初日に呼び出しあったし、委員会も空気読めって、こっちが怒りたいとこだ」
「あかねちゃんあの時大変だったよね。レジに行列出来てる時に、店に電話かかってきたんでしょ?」
心歌は、夜風にさざめく水面(みなも)を眺める。
「指名があかねちゃんとあたしなら良かったのになぁ。精霊バトルの勝敗は、どちらかが戦闘不能にさえなれば、やり方は何でも構わない。あかねちゃんとなら、ちゃちゃっと片付けられるのに」
「ふぅん、心歌ちゃん、欲求溜まってるんだ?」
「ちっ、違う──…別にそういうんじゃなくて!」
心歌が自分の顔に熱が集中していくのを振り払わんばかりに両手を振ると、少女達が二人、芝生に降りてくるのが見えた。
「あっ、……って、あれ?」
「ああ、良かった、間に合った。今日はよく体力使うわ」
「千早、大丈夫?夕べは向こうの手伝いで、今日はフルで稽古だったし。ちょっと座って休んでおけば?」
「大丈夫です。先輩こそ、さっき電車に飛び乗った時、息切れされていました。先輩が座って下さい」
「うん。こんな芝生じゃ千早を座らせるのはここしかないから、私も座るよ」
今しがた到着したばかりの少女らの内、一人が、自分の膝をとんとんと叩いた。
少女は、甘ったるい涼しげな目許に小さな鼻先、端整とれた面立ちに、ファッションドールも顔負けのスタイルをしていた。肩にかかる長さのマロンベージュのシャギーの髪に、装いは、甘さ控えめのガーリーカジュアルだ。
もう一人は、化粧で垂れ目がちに見せかけてある甘ったるく官能的な顔立ちに、ストレートともウェーブともつかない柔らかな黒髪を腰にまで伸ばした少女だ。その出で立ちは、れおに負けず劣らず肉感美を引き立てる、艶やかなものだ。
笠原菜乃(かさはらなの)と颯天千早(はやてちさき)、風のゴッドレスとスピリーナだ。
もっとも、心歌は、まさかここで二人にまみえるとは思わなかった。
「菜乃さん。千早さん」
「ああ、心歌さん、明星さん。こんばんは」
「こんばんは。あの、とても言いづらいこと言って良いですか?今日、呼び出されたのって、ノーミーデスとウンディーネなんですけど……」
心歌が戸惑っていると、千早が優雅に微笑んだ。
「ええ。だから来たんです。笠原先輩と私がゴッドレスとスピリーナになるきっかけとなった劇団『Fairy Stone』は、支配人が組織の委員を務めています。そのため、精霊バトルの動向は、常に把握出来ます。つきが戦うのに、私が家でのんびりしているわけにはいかないでしょう」
「千早は彼女想いだよね。良い心がけだ」
「時に、菜乃ちゃん」
心歌の斜め後方から、あかねのこれぞ言いづらそうな声が聞こえた。
「千早ちゃんが来たのは分かったけどさ、菜乃ちゃんは、何で?」
「あ……」
心歌は菜乃のはっとした表情を見逃さなかった。
「千早さんにつられていらっしゃったんですね……」
ややあって、新たに少女ら二人の姿が見えた。
一人は、チェリーピンクの長い巻き髪に『Spirit Twinkle』のピンク色の甘ロリィタスタイルが印象的な、華やかな少女だ。
もう一人は、色素の薄い金色の短髪をした美少女で、やはり『Spirit Twinkle』のパステルカラーの皇子服を合わせていた。
今度こそ、土の精霊を操る二人だ。
乙守つきは(おともりつきは)と舘花さやか(たちばなさやか)、心歌の『Pink Parly×乙女ドロップ』での共同経営者でもある。
スピリーナが精霊の力を解放するには、ゴッドレスの術が不可欠だ。
つきはは河原に到着するなり、ひと口サイズのケーキを聯想するハート型のチャームのぶらさがったネックレスを首にかけた。
チャームは白いホイップクリームとピンク色のレースで縁どってあって、小さな苺の形の花びらを五枚合わせた花で飾ってある。ノーミーデスの眠っている、オーロラシュガースイーツだ。さやかがそこにスピリットシロップを吹きかけると、精霊の力が発動する。
心歌は、つきは達がノーミーデスを呼び覚ましている傍らで、髪に飾っていたリボンコームを外す。そして、代わりにウンディーネの宿ったボタンの留めてあるリボンバレッタを飾った。
リボンの結び目に付いたボタンは、オーロラシュガースイーツよりぷっくりしたハート型で、音符の模様が敷いてある。そして、水色のシェルがレジンの中に閉じ込めてあった。
「Lalala……」
心歌は、夜のとばりに歌声を馴染ませる。
髪に飾ったマーメイドクリスタルは、スピリーナの歌声に反応して、その力を発揮する。
心歌は、事情(わけ)あってゴッドレスをつけていない。従って、こうして自ら術をかけるのだ。
ややあって、ウンディーネの目覚めた気配がした。
精霊バトルの準備が整う頃、れおとなぎが駆けつけてきた。
あかねは、千早達を始め続々と到着してきた面々と、川辺から少し離れた場所に移った。
そこはかとなく緊張した空気がたなびく中、心歌がつきはに手のひらを向けた。
心歌の、種も仕掛けもない手のひらからシャボン玉にしては弾力のある泡(あぶく)が放たれて、つきはをめがけて飛んでゆく。
「っ……」
つきはが腰を低めて泡を避けた。
つきはの、小花に彩られたピンク色のお袖留めから伸びた手が、その足許の芝生をそっと押さえる。
さすれば、その指先の触れたところから波紋が生じて、無数の空き缶の入った袋が出てきた。
「あっ」
「まずい!」
千早とさやかがほぼ同時に声を上げた。
つきはのノーミーデスの力は、彼女の触れた土地の記憶を読み取って、過去に存在した物質を召喚するというものだ。おそらく、今しがたつきはの目をつけた場所はゴミ捨て場で、あの空き缶は、過去にそこに投棄されたものなのだ。
「って、先生こんな時に何読んでるんですか」
あかねの右隣から、菜乃の非難剥き出しの声が聞こえた。
れおの手許に、何やら資料が広げてあった。
「私は、もう現役じゃないもの。仕事しなくちゃ」
「いつもそんなに真面目に仕事しないじゃないですか。ついでに先生となぎが精霊使いの現役じゃなくなったのは、お二人が、千早と私に押しつけてきたからです」
「良いじゃない。スピリーナとゴッドレスを引き受けなくちゃ、劇団、クビになるところだったんでしょ」
「先生が無差別に精霊の使用権を寸志付きで寄越してきたのが、『Fairy Stone』でしたから」
「ピンクの真珠が集まれば、願い事が一つ叶う。ルシメナローゼの影が消えるよう願えば、スピリーナもゴッドレスも任務から解放されるんだから、頑張れとしか言えないわ」
「『人魚伝説』?それ、仕事ですか?」
「大学にいた頃の教員仲間に頼まれているの。実在した人魚の血を引く一族について、後期は講義をしたいそう」
「なるほど、文化学部ですか。先生、得意分野は心理学だけじゃなかったんですね」
「気が向いたから協力してみることにしただけ。地上で暮らす人魚の一族……本当なら面白いじゃない?実存していた水の村には、現実にもお姫様みたいな存在がいて、人魚姫のお話は、その村の伝承がもじられたものだという説もあるんですって」
れおがぱたりと資料を閉じた。
あかねは戦場に目を戻す。
心歌が、今度は川の水から弓矢を錬成していた。
心歌のウンディーネの力は、空気中の水蒸気、川の水や海水を、自由自在に操るものだ。そして、更に心歌自身の声が、その威力を増大させる。
「くっ、……!」
つきはが、心歌の放った弓をゴミ袋で受け止めた。それから、すかさず盾になったゴミ袋を投げ出して、心歌に殴りかかっていく。
心歌が豪快に尻餅をついた。つきはの拳が顎に直撃したのだ。
「ひっっ」
「ごめんなさい、心歌さん。もう少し我慢して下さい」
つきはの手のひらが心歌の頬を狙った瞬間、その手首が水の線に絡め捕られた。
「つき!」
つきはの上体に、蛇の如く巻きついていく。
「あぅっ」
つきはががくりと膝をつく。その指先が、また、芝生の記憶を探り出す。
心歌の小さな唇が、甘く澄んだ歌が奏で始めた。奇跡のように美しい、そのソプラノに、つきはを捕らえた水の荊が反応する気配がした。
ウンディーネとノーミーデスの気配が消えた。精霊バトルが終わったのだ。
心歌はウンディーネの戻っていったリボンを外す。すると、つきはに殴られて負った痛みが、みるみる内に消えていった。
スピリーナが戦って怪我をしても致命傷に至らないのは、ゴッドレスの術が、それを清算するからだ。心歌の場合はリボンを外すと傷が消える。
「つきはちゃん」
さやかがつきはの側にしゃがんで、彼女にウサギを象ったロリポップキャンディを手渡していた。
「ありがと、さやかちゃん」
つきはがロリポップキャンディを味わうと、彼女の、心歌が水を硬化させて負わせた傷が消えていく。
「つき……痛くない?」
「うん、平気。千早ちゃん有り難う。そんなに心配してくれなくても、帰ったら会えるんだから、大丈夫だよぉ」
「つきは、私が会いに来ては迷惑?」
「そんなこと、ないけど……あたしそんなに弱くないし」
「そうね。つきは守ってあげなくちゃいけないお姫様じゃない。宇宙で一番可愛い妖精さんだわ」
「…──っ」
つきはの濡れた双眸が、大きく見開いて、千早を捕らえる。
ロリポップキャンディを握った指が綻んで、転がり落ちそうになったウサギを、千早の手がしかと受け止めた。
つきはの手と千早のそれが、ロリポップキャンディを支えていた。
「つきが痛いと私も痛い。怖い思いをしてるんじゃないかって思うと、私も怖い」
「千早ちゃん……」
千早の口に、小さくなったロリポップキャンディが含まれていく。悩ましげな舌先が、唇が、小さなウサギを愛撫する。
つきはと千早のシルエットが一つになった。つきはのとろけんばかりの声がこぼれて、心歌から見ても、二人、角度を変えながらキスを交わしているのが分かる。
深い深い、キスの甘さが伝わってくる。口移しのロリポップキャンディは、きっと、練乳なんて比べ物にならなかろう甘さがあろう。
「さやかちゃん、可哀想」
心歌の隣に、あかねが腰を下ろしてきた。
「あかねちゃん……」
「どう?今回の被害者のご様子は」
「あっ、そうだった」
心歌はバッグから短剣を取り出す。
殺傷能力ほぼ皆無のそれは、マーメイドプリズムジャッジと呼ばれている。
リボンの飾りの施してある鞘を抜くと、刃は透明になっていて、淡いピンクの真珠が十三個、入っている。三つだけ、ストロベリーミルクの色に染まっていた。さっきのコンビニ店員が、楽しそうに業務を再開している様が、水鏡よろしく映っていた。
「ダメ……。真珠、出なかった。でもさっきの野郎、調子戻ったみたいだね」
前世の轍にとり憑かれていた人間は、精霊バトルの影響を受けてその苦しみから解放されるが、救われ方は様々だ。過去を過去と割り切って、未来を望む場合もあれば、やはり現世を受け入れられない場合もある。
そして、精霊バトルの決着に一定の条件が揃うと、マーメイドプリズムジャッジの白刃にピンクの真珠が現れる。十三粒の内、三粒の真珠がストロベリーミルクの色をしているのは、今までに三つ現れた証だ。全部の真珠がストロベリーミルクに染まると、願いが一つ叶うという。
まもなく、遠くから、花火大会開始を知らせるアナウンスが聞こえてきた。
心歌はあかねと、そしてれおとなぎと一緒に、花火大会の観覧席に戻っていった。
つきは達とは、精霊バトルをした場所で解散した。飛び入りの面々は、皆、今更場所を取ろうという気になれなかったようだ。
打ち上げられては散ってゆく、夜空の花は、地上を宇宙のイリュージョンにいざなってくれる。
心歌はあかねの腕に自分のそれを絡めて、あちこちから歓声や拍手が沸き上がる中、ただただ夜空を見上げていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だって言っても、どうせ半信半疑でしょ」
心歌はあかねの肩に頬を預けて、わざとらしくすましてみせる。
精霊バトルの後、あかねが必要以上に労ってくれるのは、今に始まったことではない。
スピリーナが戦うにおいて、そこにリスクは伴わない。敗北が続けば精神に負担がかかるというが、仮にどれだけひ弱なスピリーナでも、連敗する可能性は皆無に等しい。
ただ、心歌の場合は例外だ。スピリーナの命綱、ゴッドレスという存在がいない。よほどの霊力の持ち主ならともかく、兼任は、それなりに心身に疲労が伴うものだ。
「あたしは、これくらい平気。ただ、気がかりならある。スピリーナの勝敗は、ゴッドレスとの絆の強さに懸かってる。あたしにお姉様はいないのに、また、あの頃みたいに、勝ってばかり。あかねちゃん以外、一度も負けたことがない」
「それは、心歌ちゃん、僕とじゃすぐとけちゃうから」
「…──っ、……うん。あのね、でも、……」
今日だって、つきはが弱いわけではない。確かにつきはに不利な状態ではあったが、彼女なら、勝っていてもおかしくなかった。
心歌は、全霊にみなぎる力が抑えきれなくなっていた。
精霊バトルは真剣勝負で、もちろん手を抜くものではない。それでも心歌は、スピリーナがゴッドレスの保護の許に戦う感覚も分かっていてこそ、尚更、今の自分の力に違和感を覚えるのだ。
まるで心歌自身が精霊に支配されている。否、一心同体になりかけている。時々、そんな恐ろしい感覚に襲われるのだ。
心歌にゴッドレスがいた頃、負けるのが怖くて、がむしゃらに戦った。
それなのに、今は、勝つのが怖い。怯えながらウンディーネを使って、結果、まだ勝ち続けている。
ふっと、心歌の右手首があかねに引かれた。
やんわり握りとられていった手が、しっかり、優しく、愛おしい体温に包み込まれる。
「心歌ちゃんが強いのは、いくのお陰じゃない?」
火影いく(ほかげいく)、それはあかねのゴッドレスで、親友でもある女性の名前だ。
「いくと僕は、サラマンダーの力で繋がっている。心歌ちゃんに後ろ暗くなるようなことは何にもないけど、理解者で、信頼してる。大事な人だ。だから、いくがゴッドレスのノウハウを心歌ちゃんに教えたんなら、二人もウンディーネで繋がっている。そして僕も」
「そんな……、都合良いもの?」
「れおさんが、らしくないお伽噺を読んでた。古代の外国のどこかに水の村があって、その村は、人魚のお姫様がいたんだってさ。そこは、とても綺麗な星が輝いていた」
「──……」
「星は真珠を包み込む。真珠は星を照らしてくれる。水と火は、全く違うけど、一緒じゃなくちゃいられないんじゃないかな」
「…──っ。あかねちゃん……」
それが本当ならどんなに良いか、と、心歌は思う。
否、本当だ。
心歌はかつて、永遠に穢されることのない、ドールに憧れていた。
心歌の優しかったゴッドレスは、心歌を箱入りドールよろしく大切にしてくれて、確かな絆で繋いで守っていてくれた。
されど心歌は、優しい愛の中にいても、暗い海の底にいた。あかねという一等星に、見付けてもらえるのを待っていた。
お姉様。そんな風に呼んでいた、愛し合っていたあの人を、忘れたわけではない。心歌が傷付けた。
それでも、それでもあかねと一緒にいたかった。あかねを照らす真珠になりたかった。
暗い海の底で、人間界から目を逸らしてばかりのドールの器を手離してでも、人魚がその美しい声と引き換えに地上に上がっていったのと同様、あかねの世界に飛び込んだ。
心歌は、あかねと二人一緒なら、ここがどんなに澱んだ国でもまばゆくなると信じられた。
「人魚姫は、泡になったりしないよ」
「残酷緩和の、子供向けの絵本の話?」
「れおさんの読んでた資料の伝承。実際は、王子が人魚に惚れて、王子から水の村に行ったんだってさ。ちょっと似てない?心歌ちゃんと僕に」
「…………」
ああ、そうか。心歌も、初めはあかねから親しくしてきてくれたから、一緒にいるようになった。あかねが、心歌のかつてのパートナーの側から連れ戻しに来てくれたから、その手を取った。
そこには、いつでも、希望が満ち満ちていた。
「花火……綺麗」
「うん」
「あかねちゃんの方が、もっと綺麗」
心歌とあかねの斜め前で、巻き毛の美女とロリィタ服の妖精が、きゃっきゃとはしゃぎながら、夜空の動画を撮っていた。
心歌は、それなのに、この明るすぎる極彩色の星空の下、あかねと二人きりでいる錯覚にいざなわれつつあった。
遠い昔も、やはり、こんな風に優しく美しい人と一緒に、こんな場所にいたのではないか。
心歌は、絶え間なく夜空を舞う大輪の花にうっとりしながら、そのくせ本物の星明かりが薄らがされているのが疎ましい気がするのだった。
──fin.
妖精カテドラル