通称「うたかたの森」と呼ばれている雑木林は、年中、花や緑溢れる沃地なのにも関わらず、人ならざる物の怪達の棲まう禁断の魔境として、古くから怖れられてきた。それはジブラルタル海峡のほど近く、ディスロッセ王国の南側、サダ公国の北側に位置していて、ちょうど両国の国境線の役目をしていた。

 エミリア・フロレスが「うたかたの森」に立ち入ったのは、初夏の風がそこはかとなく陽気な匂いを連れてたなびく、皐月のある日だ。
 正確には昼下がりの頃で、頭上を覆う遙か彼方の快晴の空が、柔らかな光を地上に注いでいた。

 エミリアは、「うたかたの森」にまつわる噂を信じていない。それらはただ、迷信深い大人達や感じやすい少女らが、存在しえない存在を、まことしやかに言い伝えているものと受け取っていた。

 蓊鬱たる獣道は、真っ昼間でも薄暗い。じめじめした空気が無遠慮にまとわりついてきて、懐かしいような生臭い土と緑の匂いが、頻りに臭覚に働きかけてくる。チュールレースがささやかな程度にあしらってあるフロントフリルのブラウスに、薄手のジャケット、膝の辺りにフロッキー加工の小花の咲いたスラックスを合わせるという、とりわけ動きやすい格好をしていても、蔓草や樹の根っこは伸び放題で、今に足をとられてもおかしくない荒れようだ。おまけに一歩違えれば、忽ち右も左も分からなくなろう。

 もっとも、エミリアがそうしたリスクを犯してまで、禁断の森を歩き進めているのは、怖いもの見たさだとか興味本位からではない。

 今いる現実を離れたかった。

 俗界の気配の消えたような、現実であってそこから隔絶した世界に抜け出したかった。

 侯爵家の一人娘として生を受けて、華やかな貴族社会で生きてきた今日まで、ことに不満を感じたことはなかった。
 母は王妃専従の宮廷画家で、父は陸軍の将校、エミリア自身も幼い頃から武道を極めてきた所以、今属している部隊の総司令官が定年を迎えた暁、その後任を約束されている。王妃と国王という尊属も、敬慕しうる存在だ。

 それでも、光あるところには影がある。明るく華やかな場所であればあるほど、漠然と見える影がどす黒いから、こうして木洩れ日も満足に当たらない魔境の如く領域に、逃避してきたのかも知れない。

 つと、視界が明るくなった。

 前方に、木々の間から草地が覗いているのが見えた。

 エミリアは草木をかき分けて、じめじめした獣道を更に進んでいく。

 そうして鬱蒼たる木々の向こうに出るなり、時が止まった錯覚を得た。

 「…──っ」

 オレンジ色の花をつけた大樹の木陰で、少女が一人、大理石の色をした大きな石に、ちょこんと腰を下ろしていたのだ。

 少女は、稀に見るほど白い肌に可憐な双眸、柔らかなオーラをその魂から滲ませている風采で、どこをとってもたおやかだ。その緩やかな螺旋を描いた長い髪は、見事なホワイトブロンドの色をしていて、華奢な肢体をくるんでいる白いリボンタイ付きブラウスに、同系色のカーディガン、そして生成の小花柄のフレアスカートという装いが、しっくり馴染んでいた。

 エミリアは、さような視界に飛び込んできたものを認めた瞬間、真っ先に、噂好きな人々の間に上っている迷信が、頭を過ぎった。

 しかしすぐに落ち着いて、自分が今、それより厄介なものに出会したことを理解した。

 サダ国民だ。

 目前の少女は人間らしさに欠けていながら、ディスロッセの隣国、つまりサダ公国に属する人種の影をちらつかせていたのだ。

 ディスロッセとサダは、遡ることおよそ二十年前、地中海規模の戦を起こした。
 近隣諸国の力を借りて、武力をぶつけて、両者ともに莫大な死傷者や損失が出たという。もとより犬猿の仲だった両国は、あの戦いからいっそういがみ合うようになって、ここ二十年こそ表立って武器を手に乗り出そうとはしていないものの、未だ水面下の火花は絶えない。

 「あっ……あ……」

 やにわに鈴を転がすような声がした。

 声は、もはや人ならざるものの吐息を彷彿とする響きを帯びていた。耳の奥にじかに囁きかけてくる、何とも不思議なソプラノだ。

 エミリアは、少女の自分を見つめる怯えた視線を肌に感じて、身体の竦む思いがした。

 この少女は、なんと澄んだ双眸をしているのだ。

 「──……」

 二人、いかにしても緊張した空気にとり巻かれながら、まるで時が止まったように、ただただ見つめ合っていた。







 イリス・ライムンドははっとして、腰を下ろしていた石をすっくと立った。

 こんな魔境とも呼べる場所に、いきなり人の気配がした。しかもその主は、イリスが今日まで見たこともなかったような見目をしていた。

 美しい。

 世界中のあらゆる厳選した素材をかき集めてきて、一流のマエストロに手がけさせたドールを彷彿とする。はっとするほど玲瓏な目許に煌めく双眸は、白磁も色褪せるきめ細やかな素肌によく映えて、肩に触れるか触れないかほどの栗色の髪は、毛先だけくすんだトーンをしている。彼女の、少女とも少年ともつかない雰囲気は、シンプルながら仕立ての良い洋服にしっくりしている。

 もっとも、イリスには、見ず知らずの美少女に見惚れていられる余裕はない。

 「おっ、お許し下さい!わ……、わ、私、散歩をしていて……」

 イリスは自分の今後の運命に、あらゆる憂慮の影を見て、いかにしても震える声を鞭打って、弁明を試みる。

 この美少女は、見るからにディスロッセの人間だ。どれだけ優しそうな目をしていても、人ならざる存在の如く稀有な容姿をしていても、その体内には、きっとあの、血に飢えた種族の血が流れているのだ。

 「ディスロッセに不法入国いたすつもりは、ございません……っ、どうか……命だけは……」

 お見逃しを願います。

 イリスが懇願の思いで両手を組もうと動いた時、その片方が、胸の前から離れていった。

 イリスは、怖れるべき敵国の少女に、手首を掴み上げられていた。
  
* * * * * * *

 捕まえなければ忽ち羽ばたいていってしまう、蝶や幻を追いかけるのに近い感覚(もの)がそこにはあった。

 エミリアは昨日、名前も知らない、身許も明らかでなかった少女の手首をやんわり握って引き寄せて、唇を奪いそうになった。
 それまでキスという行為の味も、ましてや恋という果実の匂いも、自ら理解したことがなかったのに、初めて愛慾の焔のものらしき熱を覚えた。あの時、すんでに気付いていなければ、あの馨しい唇を、思い通りにしていたろう。

 エミリアは、二十年前の戦に関心はない。偶然まみえた少女がサダの国民でも、わざわざ捕らえて軍に引き渡すなんて面倒臭いし、因縁をつけるなど以ての外だ。
 だから、昨日、少女に向けられたあからさまな怯えた目は、不本意なものこの上なかった。自分に命乞いしてくるその様と言ったら、唖然たるものだった。

 さればこそ、きっとあんな行動に出たのだ。そうしなければならないと、意識の深奥が訴えかけてきた感覚に抗えなくなって、身体が勝手に動き出していた。

 エミリアが「うたかたの森」の奥深くで出会した少女は、名前をイリス・ライムンドといった。
 聞けばイリスは、片田舎の領主の末っ子として生まれ育った令嬢で、彼女が十六歳になった一年前、宮廷に移り住んだという。そして現在、サダの女帝の女官長の侍女を務めているらしかった。

 エミリアは、今日も、禁断の奥山に入って、例の森で唯一陽の当たる草地を目指していった。イリスという幻の如く存在が、本当にこの世のものなのかを確かめたかったのだ。

 イリスは、昨日と同様、きらきらとした微粒子の混じった白い巨石に腰かけていた。

 「あ……」

 「おはよ、「うたかたの森」の妖精さん」

 「おはようございます……」

 エミリアは、妙なるソプラノが消え入りそうにおずおずしているのを耳にしながら、イリスの落ち着いているすぐ近く、柔らかな芝生に覆われた盛り土に腰を下ろした。

 「フロレス様」

 「他人行儀な呼び方、それと敬語はやめてって、言わなかった?」

 「はい、あの……エミリア……」

 「なぁに?」

 「昨日、申し上げましたように……私、妖精なんかじゃありません……」

 「そうなんだ」

 「──……。は、い……」

 エミリアは、イリスをちらと横目に見遣る。

 硬くなっている。不憫なほど、否、笑可しくなるほど、がちがちに肩に力が入っているのが瞭然だ。

 昨日もそうだったように、イリスのきめこまやかな柔肌に、小動物を聯想する黒目がちな双眸、そしてホワイトブロンドの長い巻き毛は、繊細なディテールのこだわりが見られる白い洋服によく馴染む。そして、やはり彼女自身の色素がどうこうではない、穢れない魂のまばゆさが、その全身から滲み出ていた。

 「半分信じる。で、半分は信じない」

 「何故?」

 「イリスが町の人達の噂しているあやかしなら、もっと堂々としているはずだ。妖精がそんなにびくびくしたり、人間の私を見ても姿を隠さないのは、イリスが同じ人間だからと思う」

 「そんな……」

 「だけどさ」

 エミリアは、レースのフリルがたゆたう細い腰を抱き寄せた。

 ひゃう、という頓狂な声が上がったが、構わない。

 「君は女官長の侍女だろう?そうして宮仕えの身でありながら、こういつもいつもこんな原っぱにいたんじゃ、本当にそうなのかって疑う」

 「昼間は、お暇をいただいてるの。女官長は王妃様のお世話でお忙しいから、私に構って下さる場合じゃなくて」

 「貴族は貴族の令嬢らしく、下働きは禁じられてるってわけ?」

 「侍女というのは、宮廷に住ませていただくための肩書き……。私は、ちょっと複雑な生まれだから……母や父は私を遠ざけるために、今の立場につかせてくれたんだと思うの」

 「つまり、半分だけ妖精なんだ?」

 「その方が、良かったかも知れない」

 イリスから、自嘲にもとれるような笑い声が小さくこぼれた。

 エミリアは、その吐息にちらつく悲しいものに、胸が迫る。

 このたおやかで優しい少女に、何がこんなに悲しい影をちらつかさせる?

 抱き寄せた身体をこちらに向けて、全ての痛みを和らげてやりたくなる。どれだけの抱擁を与えたところで柔らかな胸を救えるわけないとは分かっていても、この一つ年下の、清らかな風をまとう少女が一人で腕を抱えている姿を想うと、とてつもなくやるせなくなる。

 何故、こんなにイリスが気にかかるのだ。

 イリスとは、昨日初めて会ったばかりだ。しかも彼女は、ディスロッセの憎むべきサダの国民だ。

 しかしながらエミリアは、今ここにいるイリスという人物に、その一人の少女のこうして目に見えている全てのものに、惹かれていた。

 「エミリア、こそ……本当にディスロッセの貴族なの?ディスロッセの人達は、私達に特別な恨みを持っているんですって。私、ずっと聞かされてきたのに」

 「君が人間でもあやかしでも何でも良い。ましてや、ディスロッセの民でもサダのそれでも、私には関係ないことだ」

 「貴女は、王室付きの士官だわ。そんな人が、私なんかと……」

 「イリスがサダに生まれたのは、イリス自身の罪じゃない」

 「──……」

 二人、穏やかな緑に囲まれて、時が流れるのも忘れかねない空気に包まれて、淡い色をした空を仰ぎ見る。

 エミリアが衣服から伝わってくるイリスの血肉の質感を腕に感じていると、イリスがそっと、とろけんばかりに甘ったるい頬を肩に預けてきた。

 頭上に広がるパステルブルーを彩る入道雲が、ゆっくりと、流れてゆく。そよ風が、草木を撫でて通りすぎていく。

 「イリス」

 「…………」

 「イリスは、誰かに一目惚れするような奴って、軽いって思う?」

 「ううん」

 蝶のように軽らかな首が、ふるふる横に動くのが見えた。

 「私も、一目惚れをしてしまったから……昨日、初恋を覚えてしまったみたいだから……」
  
* * * * * * *

 エミリアがイリスと知り合って、一ヶ月と少しが経った。

 エミリアにとって、イリスは日増しに、自分自身の一部も同然になっていった。それまでディスロッセの誰にも覚えたことのなかったカタルシスにも似たものを、彼女に感じていたのだ。

 「うたかたの森」をたなびいていた初夏の香りは、日に日に濃度を増していったものなのに、ここ二、三日は、陰鬱な空が続いている。大自然の中に隠れたここは、相も変わらずニンフでも見かけそうな緑溢れる情景にも関わらず、水無月特有の長雨を伴う暗雲の影に覆われて、どことなくくすんで見えていた。

 「毎日が不安だったわ。私が私じゃないような……そんな気がして。多分、私は、人並み以上に護られて生きてきた。そうして結局、何がやりたいのだとか、何が好きとか、自分の意思で選べなかったの」

 「イリスは綺麗だから。ご両親は、君を箱入り娘に育てたんだね」

 「面倒事を避けたかっただけよ。ディスロッセが羨ましい……。サダで女性が就ける職は、限られているの。政(まつりごと)や研究開発、芸術家、それか私みたいな、高位の女性の付き人ね。二十年前、サダ公国は、男性が国を治めていたから、不毛な戦いを交えて損害を受けた。そういう考え方があって、あの頃から、頭を使うのは女性の仕事になったんですって」

 「イリスは不満?」

 「選択肢が、あってないようなものだもの。エミリアは、士官になること反対されなかった?」

 「戦いは貴族の仕事だから。うちはそういう家系だし、私には、お嬢様って感じの生活も……きっと性分に合わないから」

 自らの意思で選んだようで、知らず知らずに選ばされていた道でもあった。

 エミリアは、ふとそんな思いが頭を過ぎったが、それは胸の内に仕舞っておく。

 どこに、どんなかたちで生まれても、きっと本当の自由はない。
 それなら自分で見付ければ良い。誰にも侵されない自由や場所は、自分自身で護るのだ。

 「イリス」

 エミリアはイリスの肩を引き寄せて、柔らかな頬に指先を添えて、彼女の顔をこちらに向ける。

 小動物を彷彿とする黒目がちな双眸が、得も言われぬ潤いを湛えて、白磁の頬に微かな紅みが浮かんでいた。

 「イリスをさらって、どこかへ逃げてしまいたい」

 「愛してる……エミリア、ずっ、と……貴女を愛してる……」

 いつか二人で、白昼の空の下、肩を並べて歩ける場所(くに)へ出よう?

 視界がイリスでいっぱいになる。

 二人の物欲しげな唇が、だんだん近付いてゆく。

 時が流れるのも惜しい。愛おしくて苦しくて、狂おしい。

 エミリアが、今まさに、胸を締めつけられるほどに甘ったるい果皮を啄もうとした時のことだ。

 がさがさ、と、草木の揺さぶられるような音がした。

 「…──!!」

 草地を囲っている木々の壁の一角に、ディスロッセの官吏の制服に身を固めた数人がいた。

* * * * * * *

 エミリアは、官吏らに無礼極まりない態度を以て、宮廷へ同行するよう強いられた。

 そうして弁明の余地も許されないまま、反逆者が留置されるという地下の独房に押し込められた。

 僅か六畳ほどの陰気な部屋で、イリスの安否を思っていると、いよいよ居ても立ってもいられなくなる。

 それから、ややあって、扉の開く気配がした。

 「アデルミラ、カルリエド様……」

 アデルミラ・カルリエド。

 扉に見えた彼女こそ、ディスロッセの王位継承者にして第一王女だ。

 アデルミラの緩く編み込んでアップにした栗色の髪は、王家の紋章が捺されたティアラの煌めきで、いっそう明るい艶を帯びている。気の強そうな面差しを除けば、その風采はたおやかだ。淡い紅をほんの一滴落とした色白の素肌に、赤いドレスがこよなく映える。聡明で、意思の強い輝きが、凛とした双眸の奥にちらついていた。

 赤いシフォンのドレスの裾が、煤けった室内に入ってきた。

 「サダの娘にたぶらかされていたのですって?巡視中の治安部隊に見付かるなんて、運が良かったんだか悪かったんだか」

 「たぶらかされたのではありません。イリスと……私は、愛し合っていました」

 「まぁ。私という女がありながら、貴女って意外と意地悪ね。ねぇ、エミリア?」

 赤い姫袖がたゆたって、白い腕が伸びてくる。

 エミリアの肩に、それがやんわり巻きついてきた。

 「私が何故、貴女を時期総司令官に任命したか知っていて?」

 「──……」

 「貴女は忠節なフロレス家の娘。私の気持ちに気付いていないわけではないでしょう?」

 「それ、と、これとは……」

 別だ、と、続けようとした唇が、しっとりした甘やかなもので塞がれた。

 「ん、っ……アデルミラ様っ」

 「私と一緒に処刑広場へ行きましょう。今ね、ちょうど新しい見せ物が、皆の目を楽しませているところなの」

 苦すぎるキスが離れていくと、耳許に、少女にしては艶のある声が触れてきた。

 「エミリアは、ディスロッセで最も苛酷な重罰を知っているかしら?」

 「あっ、あんなこと彼女に?!」

 「まさか」

 「──……」

 「丸裸にして性器に刺青、鞭打ち。それから輪姦というのが通常だけれど、そんなありきたりなものつまらないもの」

 「イリスを解放して下さい。彼女に近付いたのは私です、罰なら私が──」

 「受けるの?」

 「サダと……ディスロッセの敵国と、通じるつもりではありませんでした。私は、イリスを愛しているだけです!」

 「分かっているわ」

 「──……」

 「だから、私は……」

 しなやかな腕に解放されて、エミリアは、その場にくずおれる。

 「貴女に、あの小娘の処刑を命じる」

 「え……」

 「エミリアがあの女をいたぶって、私を満足させられたなら」

 「──……」

 「罪人の貞操は、保証するわ」

 まるで温度のない声に顔を上げると、エミリアは、妖美な微笑に見下ろされていた。
  
* * * * * * *

 イリスは、ディスロッセの国民らが娯楽の一部にしているという公開処刑を、噂で聞いたことがあった。

 罪人が処刑広場に引きずり出されて、老若男女の公衆を面前にして、拷問官に辱められる。

 噂に間違いはなかった。

 イリスはドレスも下着も全て剥かれて、皮膚と血肉の間に耐え難い苦痛を刻まれていった。そうして血や痣で醜くなった身体の一部に、見るも禍々しい刺青が仕上がると、今度は背中や臀部、太股を、絶えず鞭で虐げられる。
 どれだけ泣いて許しを請っても、やんごとなき身分の女性がなっているという官吏らは、決して人間らしい表情(かお)を許してくれない。

 「ぅぐっ…──も、もう……殺して……あぁぅっ!!ひっ……」

 「逃げないで、お嬢さん?ご褒美に、後で私達がたっぷり可愛がってあげるから」

 「や、あぁっ……うっっ、ひゃああっ!!」

 「どのみち初めてじゃないんでしょう?あんたがあのディスロッセの裏切り者に愛されたところ全てを、立ち直れなくなるまで犯してあげる……」

 「ああ、眠っちゃダメよ。眠ったらさっきみたいに電気や水で、余計に痛いことをしなくちゃいけなくなるから」

 「ぅっ……く……ああっ」

 前髪をぐいと掴まれて、両手の甲を靴で踏まれる。そうして行く手を阻まれて、また、背中が引き裂かれんばかりの痛みに襲われる。

 痛い。怖い。かなしい。痛い。

 これだけ泣いて、今生の終わりを祈るしかないような地獄にいるのに、血の涙も滲まんばかりに濁った視界に、天国の門は現れない。あれだけ一緒にいてくれた女性(ひと)も、イリスを助けに来てくれない。

 「エミ、リア……」

 貴女は、無事でいる?

 何故、ただ誰かを愛しただけで、こうして咎められねばならない?

 イリスは、自分の中に流れるサダ国民のものとは異なるもう一種の血が、心の底から怖いと思った。







 エミリアが処刑広場に連れられてくると、まるで阿修羅の仮面を被ったような物見客の真ん中に、見知った拷問官達がいた。そして、彼女らに取り囲まれた仔羊こそ、否定したくても否定出来ない、「うたかたの森」で引き離されて以来の恋人だった。

 イリスは、変わり果てた姿をしていた。

 清らかで白いオーラは変わらない。ただ、まばゆく美しかった柔肌は、痣だらけとなって、どきどきするほど従順な、少女を象徴している秘めやかな場所は、黒い薔薇の刺青が蔓延っていた。柔らかな螺旋を描いたホワイトブロンドの髪は乱れきって、涙だらけのかんばせは、見るに耐えない蒼白だ。

 「イリ──」

 「エミリア」

 エミリアが広場に駆け出そうとした瞬間、隣にいたアデルミラに、右手をぎゅっと握られた。

 「イリスを助けようなんて考えないで」

 「「うたかたの森」で、イリスは散歩をしていただけです。彼女が邪魔なら……、彼女と……別れ、ますから……」

 「そんなに助けてあげたい?」

 エミリアは切実な思いで頷く。

 それでイリスが解放されるなら、後生の孤独は耐えられる。ただ、彼女に出逢う以前に戻るだけだ。

 「──……」

 「あの女を助けたいなら、貴女が殺してあげれば良いわ」

 「そ、んな、こと……」

 「貴女にとっても、私にとっても、イリスは邪魔だわ。エミリア……私を信じて」

 敵国の娘と通じた貴女の貴族達からの信頼は、彼女の死と引き換えでしか取り戻せない。

 アデルミラが言外にほのめかせた時、ふっと、彼女の面差しに、懐かしいような違和感を垣間見た。

 「アデルミラ様……?」

 エミリアは、自分で自分の目を疑う。

 見慣れたはずのアデルミラの顔かたちに、どこか、あの優しい少女に似通ったところがあったのだ。







 アデルミラの命令で、拷問官の女性達が退却すると、エミリアは広場に駆け込んだ。ぼろ雑巾の如くになった小さな少女を抱き締めて、傷だらけになっても尚、美しすぎる官能的な白い身体に、自分の着ていた上着を脱いで羽織らせてやる。

 エミリアは、イリスの傷が、全て自分の所為で彼女に負わされれたものだと思うと、泣きそうになる。

 「イリス……イリス……」

 「エ、ミリア……わ、私……」

 二人、ディスロッセの国民に、貴族に、そしてアデルミラに注視されている。より愉快な拷問を期待しているのだろう血に飢えた目を、監視の目を、向けられている。

 エミリアは、それでもイリスを傷付けられない。

 イリスを殺すかいたぶるかをしなければ、無情な拷問官達に、その身体をなぶられる。

 理不尽すぎる。

 「エミリア……私、貴女に……殺された方が良いかも……知れない……」

 頬に優しい指先が伝って、愛おしすぎる眼差しが、かなしい思いを訴えてくる。

 エミリアは首を横に振る。

 気付いてしまった。イリスがこれだけアデルミラに忌まれるのは、彼女がサダの国民だとか、エミリアと愛し合ったからだとかではない。この高貴な令嬢は、十七年前、生まれてすぐに亡き王女として擬せられた、行方不明の第一王女だ。
 それというのも現王妃はその昔、サダの領主と不義の関係にあった。
 イリスは父親の血がサダのそれだったばかりに、この世から存在を否定された存在(ニンフ)だったのだ。

 「イリス」

 エミリアは柔らかな唇をキスで塞いで、かよわい身体を撫でながら、何度も何度も、その甘ったるい果実を味わう。

 二人とけ合ってしまおうほど、白昼の光が降り注ぐ中、誰にも邪魔されまい場所を求める。

 「イリスは、本当に妖精さんだったんだ……」

 「エミリア?」

 「人間なんかに穢されちゃいけない、君には、あの場所が似合ってた。とても、似合ってた」

 「──……」

 柔らかな耳朶に囁いて、首筋の質感を味わって、アデルミラに預かっていた脇差しを抜いて毒を塗布する。

 エミリアは、きらきらと輝く銀色の剣(つるぎ)の柄を、イリスの手に握らせた。







──fin.
妖精カテドラル