その部屋は、見渡す限り、燦爛たる眺めをしていた。
四方は淡いブーケの模様の入った白い壁が巡らせてあって、足許は、一面をサーモンピンクの起毛の絨毯で覆い尽くしてある。絶妙な塩梅で配置してある調度品の数々は、どれも奢侈だ。天井を飾ったシャンデリアは、逆さまにした薔薇のブーケに見まがおうようなディテールで、絶佳極まりないこの部屋に、更に花を添えていた。
いにしえの姫君が起臥していた部屋を彷彿とするここは、ゆうに三十畳は越えている。
窓を覆うバルーンカーテンの隙間から差し入ってくる夜の明かりに、とことんこだわってある内装が、うっすら浮かび上がっていた。
窓からほど近い位置に寝台がある。そのシーツは壁と同様、淡いこまやかなブーケが散りばめてあって、天蓋から垂れ下がった半透明の天幕が、外部から見たところのしとねの半分以上を隠していた。
そんな花畑の如く寝台で、女が二人、眠れぬ夜をじゃれ合っていた。
「あっ……ぁっあぁ、はぁ、はっあぁあっ……」
二人の内、一方は、極めて活発な色気をまとった女だ。くっきりとした目鼻立ち、健康的な肌色をしていて、その体つきは肉感的だ。ウェーブがかったブロンドの髪は、腰に届くまでの長さがある。
官能的な美女の下で身悶えている女の方は、ともすれば西洋絵画から抜け出てきたような風采だ。まばゆいばかりにきめ細やかな素肌をした華奢な身体は、とりたてて成熟してもいなければ、貧相でもない。その顔立ちは、あどけなくも不思議な艶めかしさの匂うもので、くすんだ亜麻色のボブの髪は、今風の軽らかな質感があった。
ブロンドの髪の女が亜麻色の髪の女の乳首に吸いついて、その右手が、細い太ももを撫でさする。そうしながら指先は、みだりがわしく左右していた脚の付け根の線をなぞって、やがて濡れたパンティに行き着く。
「っ……はぁ、はぁ……」
「可愛い……食べちゃいたいほど、可愛いわ……」
妖艶な女の指先が、じっとりした薄布の向こうに隠れた割れ目の上を、思わせぶりに行き来する。触れているか触れていないか分からないほど覚束ない力加減で、膣口や陰核には決して触れず、あえてその周りをいじり回す。その舌先は、絶えず膨れ上がった乳首を転がしていて、空いた片手は、キスを施していない方の乳房や鎖骨、あばらの上を、忙しなくまさぐっていた。
「あっ、ふっ、……そこ、やぁぁ……」
「おっぱい、てかてかよ。唾液まみれで、何だかいやらしい見た目……。貴女が可愛いから、ほら、いくら舐めてもこんなに甘い味がする」
「んふぅ、あぅ、くすぐっ、たい……あぁあぁ……」
「ああ、お腹、なんて柔らかくって美しい線……下着の上から触られるの、好きでしょう?さっきから……」
震えているもの、と、ブロンドの髪の女が亜麻色の髪の女の耳に、息を吹きかける。
「あ、ぁんっ」
「人間の肉体なんて、皆同じと思っていたのに。貴女は、キスも汗も、私のために流してくれる、小さなお口の愛慾の涙も、蜂蜜みたいに甘いのね」
羞じらいに顫える少女のそれの如く恥丘をじらしていた手が、女にとって何より甘美な愛液の染みたパンティをはぎ取る。
泣きそうな悲鳴を上げる薄い唇をキスで塞いで、唇の角度を変える度に出来る隙間から漏れ出る吐息に乗せて、何度も何度も、愛していると囁きかける。
「ちょ、うだい」
亜麻色の髪の女の唇が、とろけるような声音をこぼす。
「入って、は、入って、きてぇ……」
脂肪も筋肉も極めて少ない、それでいてしなやかなもっちりとした腕が、ブロンドの髪の女の肩に絡みつく。
「どうして欲しいの?」
「もっと、触って」
「どんな風に?」
ブロンドの髪をした女にとって、恋人を天国へ追い立てる行為は、いやというほど淫らなダンスをじっくり楽しんだ後の、最後の最後の楽しみだ。しかるにその挑発的な声色は、平素なら、おそらく可愛い恋人から、ある種の言葉を引き出す役割をなす。
しかし今に限っては、その妖艶なメゾの響きは、恋人に自ら頬を赤らめる類の台詞を口にさせるためのものではない。
ブロンドの髪の女は、今宵、ある事実を打ち明ける覚悟を胸に秘めていたのだ。
* * * * * * *
花倉伊理弥(はなくらいりや)は、市内の某所に広がる繁華街の路地裏にいた。
伊理弥は、このいわゆる花街と呼ばれている区域にひっそりと建つ、一軒の事務所を訪ねていたのだ。
その二階建てのビルの外観は、極めて古ぼけていた。それでいて、軒先に備えてある『デリバリーヘルス Venus』という看板は見るからに真新しいもので、出入り口の扉をひとたび開けば、清潔感溢れるオフィスが広がっていた。
「あの」
伊理弥は近くにいた女性の一人に呼びかけた。
「こんにちは。面接の方ですか?」
「はい。一昨日お電話させていただきました、花倉伊理弥です」
「伺っております。どうぞこちらへいらして下さい」
伊理弥は、こぢんまりした応接室に通された。
小さなテーブルを挟んで向かい合わせに置いてあるソファの内一方に落ち着くと、ほどなくして、面接担当だという女性が入ってきた。
伊理弥は女性に、履歴書の入った封筒を差し出す。
女性がそれを受け取って、伊理弥の正面に腰かけた。
意外と普通の面接官だ。
伊理弥は、目前で今まさに封筒の封を切っている、稀に見る美人に拍子抜けしていた。
こんな稼業の面接官を担当している人物だ、もっとやくざな人間が出てくるとばかり想像していた。だのに目前にいる美人は、涼しげな品のある顔立ちに艶やかな黒い長い髪、華奢な体つきをした、ことにたおやかな風がある。年のほどは、四十前後か。底知れない色香をまとっていながら、相手を安心させる穏やかなものが、そこにはあった。
「花倉伊理弥さん?」
「はい」
「お年は先月四月で二十六歳。ご在所は××区××町、こちらにはお車をご利用なんですね?」
「はい。家の運転手さんに、最寄りの駅まで送ってきてもらいました」
「そうですか。うちは交通費を支給していますから、採用後は、ガソリン代をご請求下さい。あ、どうぞリラックスなさって。職業履歴に志望動機、希望条件は分かりました。差し支えなければ……」
伊理弥は女性と目が合った。
一重の目許に煌めく黒い双眸が、刹那たゆたった後、その温かみに深みが増した。
「この志望動機の欄に書いて下さってること、詳しく話していただける?」
「──……」
「無理なら結構です。ただ、聞いておくことで力になれるかも知れませんから。プライバシーは厳守します。社長以外に他言はしません」
いけませんか、と、優しい声が耳に触れてきた。
伊理弥は耐えきれなくなって、初対面の面接官から目を逸らせる。
少し前まで、自分がこんなところに踏み込もうとは、夢にも思っていなかった。どれだけ私財を稼いだところで、金銭的な蓄えなど墓にまで持って行けるものではないし、もとより収入に不自由もなかった。
伊理弥は、屈指の大手企業の代表取締役を父に持ち、飛び抜けて裕福な家庭で生まれ育った。周囲が城と比喩するような邸宅に住んで、何不自由ない学生時代を謳歌して、そこそこ評判のある四年制大学を卒業した後、父親の会社に就職して、出世コースまっしぐらの人生を歩んでいたはずだった。
ところが、いきなり、リストラされた。ちょっとした会社のミスが損害を生んで、その腫瘍が、みるみる多大な負債に膨らんでいったのだ。大黒字だった会社はひと月足らずで大赤字になり、伊理弥は、父に借金返済の足しとして、退職金の半分以上を返還する羽目になったものだ。
このままではリストラに遭ったばかりか、いずれ夜逃げを余儀なくされる。藁にも縋る思いで高収入の仕事を集めた求人誌を閲覧していた時、ここ『デリバリーヘルス Venus』の求人広告に目が留まったのだ。
「土地を売れば、会社を持ち直す見込みはあります。ですけど、そうすれば家で父と私の世話をしてくれている人達や、普段は使わない別荘の留守を守ってもらっている人達が、解雇になってしまいます。だからと言って、このまま会社が右下がりでは、彼女達のお給料どころか、父と私が暮らせなくなります」
「お母様は?」
「私が物心ついた頃、出て行きました」
「とすれば貴女がお金を工面するか、お父様がお仕事を服するより他にないわけですね。時に花倉さん。男性は平気?」
「どうしてですか?」
「うちは、顧客のほとんどが男性のお客様ですから」
「多分、平気です」
正直なところ断言出来ない。
それでも、試さない内から否定も出来ないから頷く。
「手段を選んでいられません。男性は、ちょっと経験ありませんけど、女性とは今まで二人、付き合ってきました。私、夜通し身体を使ってもバテたことはありません。女性も男性も同じ人間です。もとよりお仕事なのでしたら、一緒に寝る相手が赤の他人でも、どうっていうことはないでしょう」
「お付き合いしていらっしゃる方は?」
「いません。ですから、私が誰と何をしていようと、トラブルは一切起きません」
「──……」
「…………」
伊理弥は答えている内に、確実に虚しくなってゆくのを自覚していた。
本当は辛い。伊理弥のやろうとしている仕事は、同じ人間相手でも、販売員やら給仕やらとはわけが違う。すり減るのは時間や労力ではなく、もっと説明つけ難い深いところにあるものだ。
怖い。だから助けて。
そんな風に泣きつける、さすればせめて慰めてくれるか叱ってくれるような人もいない。
少し前まであれだけ笑ってばかりの毎日の中にいたのに、いつの間に、これだけ自分の価値も分からないほど一人ぼっちになったのだろう?
「…………」
ふっと、目前の女性が息を吸った気配がした。
「ですって?……社長」
面接官のかしこまった声に続いて、それまで締めきってあった扉の開く音がした。
しんとした密室に、外界からふわりとした風が流れ込んできて、伊理弥は背筋をしゃんと伸ばす。
「なるほどね」
「…──!!」
その声が耳に触れてきた瞬間、ぞくりとした。
伊理弥はこの声を知っていた。
たった一言、今、例の面接官に相槌を打った女性の声を、どうして知らないと言えようか。
否、声だけではない。
伊理弥に、これだけ辛いざわめきを運んでくる人物は、今生でたった一人しかいなかった。
「うそ……社、長……さん……って……」
伊理弥がおずおず顔を上げると、半分ほど開いた扉の隙間に、お伽噺にまみえる女神も顔負けの人物が立っていた。
今し方「社長」と呼ばれた彼女は、伊理弥の記憶が確かなら、名前を敷宮真吹(しきみやまぶき)という。歳のほどは年で二十九だ。
真吹は伊理弥より洋梨一個分は背丈があって、その端然とした顔かたちは、全体的な雰囲気の所為か、一目では女か男か分からない。ただ、シャギーのかかった肩にぎりぎり触れるくらいの黒髪に、上品なシャツにスラックスのしっくり馴染んだしなやかな肢体、そのたおやかな風采はうっとりするほど臈たけていて、得も言われぬ色香がある。
伊理弥が固まっていると、真吹が颯爽とした足どりで、部屋に入ってきた。そうして彼女は面接官に目もくれず、伊理弥の側に腰を屈めた。
真吹の顔が、近い。
切れ長の目許を飾る双眸が、とろけるように甘ったるい。
伊理弥の記憶の中にいた彼女のそれと、まるきり同じだ。
「お姉、さ、ま……」
「伊理弥」
媚薬をとかしたように艶美なメゾの囁きに、鼓膜が顫える。
「こんなところで会うなんて」
「──……」
おいで、と、真吹の腕が伸びてきた。
彼女にだけは甘えられない。そんな資格どこにもない。
伊理弥は、そんな風に良心の呵責に責められながらも、かつての恋人のぬくもりに身を預けた。
* * * * * * *
伊理弥は真吹に誘われて、彼女の愛車に腰を下ろした。
ほんのり良い匂いのする助手席は、居心地が良い。伊理弥が普段、花倉家専属の運転手に出しもらう大きいだけの外車の後部座席とは、格段に違う。
真吹がハンドルを操るのを横目に見ていると、交際当時を思い出す。
あの頃も、二人、よくこうしてドライブしていたものだ。
真吹は変わっていない。伊理弥が驚いたのは、真吹が風俗業界にまで手を出していたところだ。もっとも、彼女の能力や経営意欲を考えれば別段不思議なことではないし、伊理弥をデートに誘ってくれたところからして、恋人も今はいないと見える。
「この三年と少し、どうしてた?」
ふっと、甘いような掠れたような、神さびたメゾの声が囁いてきた。
「三年と……」
三年と少し。
それで思い当たるのは一つだ。伊理弥が真吹と会えなくなって、一人で日々をやり過ごしてきた年月だ。
「普通かしら。家とお仕事の往復」
「美術館巡りは?」
「興味、薄れちゃって」
貴女と一緒じゃなくちゃ、何をやっても楽しくないわ。
伊理弥は心の中で呟く。
真吹と別れてから今日までどれだけ不安で寂しかったか、知って欲しい。反面、伊理弥はこの痛いほどぽっかり空いていた胸の空洞を、自分から見せられるほど図太くない。
伊理弥の方から、あの幸せな日々を終わらせた。そして真吹を傷つけた。
伊理弥の負ったかなしみは自業自得でも、この優しい元恋人には、裏切りに遭う必要なかった。彼女に何の否もなかった。
「お姉様」
「ん?」
「どこへ、連れて行ってくれるの?」
伊理弥は正面に巡らせてある車窓を見つめて、とりとめない口調で問うた。
お姉様。
同性の恋人をそんな風に呼ぶなんて、大正時代でもあるまいし、古風なのにもほどがある。
伊理弥は、そうして友人にからかわれてもいたものだが、真吹を呼ぶには一番しっくりくる呼び方だ。互いに恋人と呼べない今でも、それは同じだ。
「伊理弥と一緒に行きたいところ」
切なくなるほど優しい声だ。
伊理弥が小首を傾げると、また、真吹の小さく息を吸った気配がした。
「伊理弥は、どっか行きたいとこあった?」
久し振りのデートなんだし、と、本気か綾か、判りかねる科白が続いた。
伊理弥は首を横に振る。
「いいえ」
「──……」
「行きたいとこ、ないわ」
「そ?」
「お姉様の側に……行きたかった、もの……」
他に行きたい場所などない。
伊理弥は震える声を呑み込む。
これ以上何か喋っては、余計な思いまで口走る。
ややあって、車窓を流れていた景色が止まって、シートの心地良い揺れも止んだ。真吹が車を停めたのだ。
伊理弥の視線のすぐ先に、石造りのビルが見えた。
伊理弥は真吹の斜め後ろに付いて、ビルの中に入っていった。底の抜けそうな古びたエレベーターに乗り込んで、階上へ昇っていくと、外に出ていた看板で見かけた『Shiny Night』という店名の、ガールズバーの扉があった。
『Shiny Night』は、既に営業中のようだ。
濃厚なジャズ風のBGMがしめやかに流れているのを耳にしながら、黒っぽい艶を帯びたごく小さな樫の扉を開けると、アットホームな店内が、鼈甲色の僅かな光の中に浮かび上がっていた。
四方は大理石を彷彿とする模様の入った壁が巡らせてあって、臙脂のソファとガラスのテーブルが散らしてある。薄紫にも見えるくすんだピンク色の絨毯が、足許を覆い尽くしていた。
客はいない。店主らしき女性が一人、カウンターに見えるだけだ。
「いらっしゃいま──…敷宮社長!お疲れ様です!」
カウンターの向こうにいた女性が駆けてきた。
伊理弥は女性をちらと見る。
女性は、極めてボーイッシュな風采だ。
月の光を聯想する艶を帯びたブロンドの断髪に、端正のとれた顔かたち、その奥二重の目許は優しげでありながら鋭いほどの眼光を湛えていて、黒を基調としたゴシックパンクの洋服が、彼女を闇の王に仕える騎士の如くに演出している。歳のほどは、見た感じ、伊理弥より少し下か。
「お疲れ、倖。彼女、花倉伊理弥っていうんだ。VIPサロンのお客さん、今夜はお見えになっている?」
「はい、井辻櫻子(いつじさくらこ)様と初嶌かなぎ(はつしまかなぎ)様がいらしてます。それから、佐圓まどかさんが後から──」
「佐圓さんが?来るなら一緒に来れば良かったのにー」
「佐圓さん?」
伊理弥は咄嗟に口を挟んだ。
VIPサロンやら目前の金髪美人の正体やらも気になるが、真吹の調子からして、佐圓まどかという名の女性が、彼女に特に親しい間柄であるように聞き取れたのだ。
「そっか、あの人、伊理弥に名前言ってなかったんだ」
「もしかして……お姉様の事務所にいた人?」
「君の面接を担当した人」
「あっ!!」
「ま、良いや。後で来るみたいだから、佐圓でもまーさんでも、好きなように呼んでやって」
「そう……だったのね」
「伊理弥。彼女は小路川倖(おじかわゆき)。倖は知り合いのお嬢さんで、まどかさんや私がお世話になってる」
「お世話だなんて!!僕がここを立ち上げられたのは、敷宮社長のご協力があってこそ……」
「倖。それは言わない約束」
「──……」
「サロン、お邪魔するよ。今夜は一年振りのプリンセスがいるからね」
「えっ?!!花倉さんって──」
伊理弥の肩に、真吹の腕が絡みついてきた。
プリンセス?一年振り?
伊理弥は何か引っかかる思いがしたが、真吹に倣って歩き出す。
カウンターの左側に扉が一つ、大理石の壁にとけ込んでいた。スタッフルームに続いているように見えるその向こうには、店内とほぼ同じ広さの部屋があった。おそらく伊理弥がさっき名前を耳にした人物と思しき二人が、そこで親しげに談笑していた。
井辻櫻子という名の女性は、この浮かれた夜の街では些か浮いた存在感をしていた。薄い顔立ちに化粧はほとんど施されていなくて、艶のある深い色をした黒髪は、後頭部で一つの団子に結い上げてある。歳は五十前後といったところか。連れの少女とのやりとりから察するに、大学教授をしているらしい。知性だけが全面に押し出たような顔つきに、こざっぱりした身なりは、いっそ素っ気なく見える。
櫻子の連れ、初嶌かなぎは、現役大学生だ。大きな目に小柄な体躯は、ウサギやらリスやらの小動物を彷彿とする。緩いウェーブのかかった栗色の髪は、二つに分けてシニヨンに結い上げてあって、フリルやレースがふんだんにあしらってある洋服は、俗に姫系と呼ばれるものだ。彼女は『Shiny Night』でアルバイトをしているらしく、今夜は休みだという。なるほど、人懐っこく饒舌で、接客に慣れている風だ。
伊理弥は真吹と、ここ、『Shiny Night』のVIPサロンと名の付いた個室のソファに落ち着いていた。
デートをしていたはずなのに、今やそれとはかけ離れている。おまけに店舗責任者の倖まで談笑の輪に加わってきて、まもなく聞いていた通り、さっき真吹の事務所で無言の貫禄を醸していた、世話好きな美女の姿も見えた。
「そろそろかな」
伊理弥の隣で、まるで媚薬をとかしたような、馨しいメゾの声がした。
「伊理弥」
ウエストが、ぞくりとした。真吹の悩ましげな腕に捕らわれからだ。
「着ているものを全部脱いで、ここにお座り」
「え……?!」
伊理弥の喉から、素っ頓狂な声が飛び出そうになった。
優しい優しい腕の主の囁いてきた言葉の意味を、一瞬、とり違えたかと思った。
顔を上げると、大好きな人のかんばせが、当然、そこにはあった。
「ここ、って……着ている、……」
「ここ」
真吹の空いた片方の腕は、ソファに囲われた中央にある、チークのテーブルを示していた。
見つめられると胸が逸る、その切れ長の甘ったるい目許に映える双眸は、真剣だ。
伊理弥が動揺しているのに引き替え、真吹は、初めからこのような場面を思惑に入れていた風だ。
「お姉様、……ごめんなさい……私、そういう謎かけは分からなくて……」
「そのままの意味だよ」
「──……」
伊理弥の胸に、真吹の手が被さってきた。
厚めのジョーゼットのブラウスと、レース編みのボレロを身につけていても分かる。
伊理弥は、まどかと倖、櫻子とかなぎの見ている面前で、元恋人におもむろに胸をまさぐられていた。
「お、ねえ、さま……」
「いやらしい声。こういうことをされたくて、うちに来たんだろ?」
「違うわ!…──っ」
「ほぉら、息、荒いなぁ……貪欲なやつ」
「はぁっ……あぁぁ……」
真吹の巧みな指先が、下着の厚みなどものともせずに、伊理弥の官能をそそってくる。少し乱暴な指の動きが、衣服越しだと、却ってダイレクトな愛撫になる。
「はっはぁっ……ぅぅ」
「私の言うことが聞けない?」
「──っ……」
分からない。
伊理弥は、さりとて嫌ではない。
触れられて、求められて、倖達の視線も構いたくないほど期待している。真吹の本心も分からないのに、今でも愛しているたった一人のこの女性(ひと)に、今度こそ縋りたい気持ちでいっぱいだ。
「伊理弥。うちじゃ君は雇えない」
「採用、し、してくれない、と……いうこと……?」
「君を助けられるのは私だけ。君の答え次第では、私がお父様の会社の援助を引き受けよう」
ボレロの前身頃がはだけていった。
伊理弥は、今度はシフォンのブラウスから、衣服の役目を奪われてゆく。
真吹は、片手だけでボタンを外しにかかっていた。彼女の手つきは、女性を抱き慣れているのではないかと疑るほど器用だ。
あっと言う間に、キャミソールが露わになった。
「さ、伊理弥」
「…──っ」
流される。このままでは流される。
伊理弥が力んでぐっと目を瞑った瞬間、真吹を挟んで向こう側に落ち着いていた女性の立ち上がった気配がした。
まどかだ。
「社長」
「佐圓さん?」
「このサロンに捧げられるプリンセスは、つまり、『Shiny Night』のVIP会員メンバー全員の玩具も同然。失礼ながら……、社長は、本気で彼女を私達に提供なさるおつもりですか?」
「伊理弥には商品価値がある。何より条件がぴったりだ。身体や感度は保証する。このサロンの慰み者になる女には、こいつみたく法に訴えて出られる立場でもないお嬢様ほど、都合の良いやつはいない」
「でしたら、物は物らしく扱うべきです」
「きゃっ」
「伊理弥がプリンセスなら、私にも、彼女で楽しむ権利はございましょう?」
「…──お姉、さま……」
嘘だと言って。貴女は私を憎んでいたの?
伊理弥は真吹が頷くのを横目にしながら、まどかに掴み上げられた腕の痛みより、胸の軋むそれに耐えかねていた。
伊理弥は衣服を脱がされて、下着をナイフで引きちぎられた。身体の顫えが単純な恐怖からくるものか、それとも官能からくるものかも判りかねるまま、小さいながら重厚な艶を放つ、背の低いテーブルに上げられて、両手首に手枷を填められた。そこに繋がっていた鎖の片端が天井のフープにかけられると、必然的に、膝立ちせざるを得なくなった。
伊理弥の身体に麻縄が巻きつけられていく。さして豊かでもない左右の乳房が、まどかの巧みな緊縛で、前に突き出るほど不自然に強調させられて、腕と太腿が固定されると、いよいよ脚を閉じられなくなった。
左右から、無論、前後からも、まるで舐め回されてでもいるような視線を感じる。
情けない。こんな全裸で手足の自由も奪われて、何をされるか予想もつかない状況に追いつめられている。
伊理弥は、それでも自分をこうまで貶めた張本人の双眸が、今も尚、愛おしい。
「すごぉい……」
「ふふ。佐圓様に、後で代わってもーらお」
「──……」
どこに焦点を定めるべきか、目の遣り場を持て余す。
伊理弥が顔を伏せると、前方に、ふっと影が落ちてきた。
「伊理弥」
まどかの指が伸びてきて、顎を不遠慮に持ち上げられる。
伊理弥はそうして顔を上げさせられて、例のあたたかな目を湛えた鋭い目許を視界に認めた。うなじが、自分のぎりぎり肩に触れないくらいの色素の薄いボブの髪に撫でられて、くすぐったさに身を竦めた。
それまで気にも留めなかったまどかの片手が、不意に目の高さにくると、そこに無機的な棒状の物体が握られているのが見えた。
「お舐めなさい」
「え……」
「ほら」
有無を言わせない声音を連れて、口内に、見た感じ直径四センチはあるバイブレーターの先が侵入してくる。
伊理弥はまどかの無言の圧力に負けて、無色無臭の、そのくせいやに艶めかしい味を感じるプラスチックの物体に、自分の唾液を絡めつける。
「ふふふ。良いわ……とっても良い……」
愉快な笑い声が降ってくる。
本当に味がしているわけではないのに、舌の裏側で分泌される液体は、どれだけその淫らな玩具に塗りつけても涸れない。
ぴちゃぴちゃ、と、艶めかしい水音まで立ち出す始末だ。
「ああ……本当に良い眺めねぇ……。愛玩物が自分の穴に突っ込まれる玩具を、自分で受け入れやすくしている姿……惨めで、淫らで、いつまでも眺めていたいものよ……」
「はぁ……ん……」
「さぁ、おしまい」
「…──!!」
伊理弥は、そこで久しく身震いした。
口許から離れていったバイブレーターの先端が、いきなり膣口に触れてきたのだ。
「っ、無理です!……ひっ、ぐぅっ」
下腹部に、皮膚を引き裂かれんばかりの痛みが走る。
指でも受け入れなかろうその粘膜は、全くほぐれていない。一糸まとわぬものにされて、きつく縛り上げられただけの身体は、前戯も愛撫も受けていない。当然、バイブレーターを受け入れられるだけの状態ではない。
にも関わらず、伊理弥が顔をしかめても、呻いても、まどかは力任せに残酷な異物をねじ込んでくる。
「ぃぃ痛いっ……は、入らな……そんなっ、やだぁ……やめ……いた、っ、あっぁああっ!!」
「なぁに、すぐに良くなるわ。おとなしく腰でも振っていなさい」
「はぁっ、あっ……出し、て……ああぁん、やっ、あああっ……」
無理矢理押し入れられた異物は、されど唾液で滑りやすくなっていたのか、存外に痛みを増さなかった。
スイッチの入る音がした瞬間、それは伊理弥の体内で、小刻みに振動して暴れ出す。
「あっあっ、あっ……あ、あぁああんっ!!あっやめて……いや、止めっ、て、抜いて……ああぁあああ……!!」
「あらあら、伊理弥のお口は玩具を銜えて大満足?ほぅら、貴女の大好きな社長もご覧よ?心ゆくまで踊って差し上げなさい」
「違う……こんな、あっ……あぁあああっ……ああんっ……」
「さて、私はここを……こうして……」
「…──!!」
「ふふ……こうしてスイッチを入れたまま、バイブをロープで固定しておけば、私は貴女が啼いて悦ぶのを眺めながら、もっともっと貴女に快楽を与えてあげられるの」
伊理弥から、数秒、まどかが離れていった。
バイブレーターはロープで秘部にしっかり固定されているから、片時も、感覚を休めることが出来ない。
伊理弥はおそらく最高電圧の振動で、腹をかき乱されているのだ。
「ぅぅぅ……ゆ、許し……ああぅっ」
麻縄に絞り出された右胸が、まどかにがしりと掴まれた。指でこねるように撫で回されて、乳首に爪を立てられる。
「あっ……、ああっ、あああああっ……はぁ、あっ、あぁぁぁ……」
「威勢の良い鳴き声だこと」
「ああっ」
「気持ち良くって、理性も何もあったものではないんでしょう?それで良いのよ」
「佐圓、さん……!!」
視界の端に、ピンク映画でしか見たことのない類の鞭が映った。
そのおぞましい玩具がいつ現れたのかは知らないが、出所は、多分、まどかの非常に大きなボストンバッグだ。
まどかが鞭を振り上げる。
合皮製の硬いそれは、伊理弥の臀部に直撃してきた。
「やぁああっ!!あっ!!いやぁああああ……っ!!」
小気味良い音がサロン中を響き渡る。そして、それ以上に、伊理弥の悲鳴とも嬌声ともつかない絶叫が、とめどなく辺りを震わせる。
「あっ……あああっ!!!」
「皆に見られて、玩具を銜えて、お尻を叩かれて悦ぶなんて……淫乱ね」
「痛いっ……痛いです……あん、あっあぁあっ……」
「ほらほら貴女はただ啼いて、踊っているだけで構わないのよ。誰も貴女の人格になんて興味ない……身体だけ、私達に寄越していなさい……」
びゅん、びし、と、生々しいような鞭の音が、何度も何度空気を引き裂く。その度に、今度こそ気を失おう激痛に下半身が襲われるのに、淫らな声が止められない。
身体の顫えが、魂(こころ)のそれだと錯覚している。
「あっ……あぁあああああっ!!」
「痛い?小さなお尻、真っ赤だわ……なんて無様。これが気持ち良いでしょう?役得ね……借金のカタだなんて信じられない……。貴女、こういう姿、似合ってる……」
「ぅっ……はあっやぁぁぁ……」
「泣くもよがるも伊理弥の自由。叫んだってここはアジール……サロンの会員の他に、誰も来ないわ」
むせかえるぎりぎりまで鞭で喉を締められて、唇が、覚えのない質感に塞がれた。
伊理弥は真吹の部下に胸を揉みしだかれながら、彼女のキスを受け入れて、やがて口内を犯される。
欲しいのは、最愛の人に懺悔出来るきっかけだけだ。
胸奥は真吹でいっぱいなのに、一時間前までほぼ他人だったギャラリー達の見ている前で、快楽にそそのかされただけの潮を吹いた。
* * * * * * *
一見何の変哲もないガールズバー『Shiny Night』は、肩書きやら私財やらを踏まえた上で、ある一定の条件を満たした人間だけが会員として認められる、世にも非道な裏のサロンを抱えていた。
サロンには、プリンセスと呼ばれるポストがある。プリンセスとは名ばかりの、サロンに迎え入れられた生贄は、一切の人権を無視されて、メンバー全員の玩具になるのだ。
伊理弥がサロンにプリンセスとして紹介されて、三日が経った。
漆黒の夜空に白い月が浮かぶ頃、伊理弥は倖に、『Shiny Night』の入ったビルの裏手の、小さな公園に連れ出されていた。
バーは既に営業中だが、今夜はかなぎがアルバイトに入っているから、彼女が店を切り盛りしていた。
路地裏は、表通りと違ってしんとしていた。
自動販売機すら見当たらない。学校のものらしきコートが見えるが、門は当然締めきってあって、同じく近くに構えてある文房具屋も、飾り気ないシャッターが降りている。まばらに見える木造建築の家々は、どれも一般住宅だ。
伊理弥は、倖と砂場の近くの植え込みにいた。
伊理弥は灌木と灌木の隙間に潜んで、僅かに湿った土壌にじかに腰を下ろして、自らストッキングと下着を脱いだ。そうして膝より短めのフリルスカートに覆われていた脚をM字型に開いてみせると、若干バランスを保ちづらくなった身体を支えるべく片手をついた。
それから伊理弥は、自分にこうするよう命じた張本人に、顔を上げる。
「あ、の……」
「それだけ?君に僕は、どうしろって言ったっけ」
「──……」
伊理弥は剥き出しになった下腹部に右手を伸ばして、膣口をとり巻く肉襞を、指と指とで左右によける。ほんの少し甘い匂いをまとった粘液が滲み出ようとしている孔穴を露わにすると、いよいよ自虐の羞恥と快楽とが押し寄せてきて、身体に見えない電流が走る。
「わ、たしの……」
「──……」
「私、の……このだらしなくって、いやらしいお口が濡れるまで……ご覧になっていて下さい……貴女の指が、欲しくって……うずうずして、早く、犯していただけるように……」
「社長じゃなくても濡れるんだ?」
「──……。……はい」
「こんな、いつ誰が通るかも分からない場所で、お前、まじでマゾ」
伊理弥の側に、倖が静かに膝をつく。その挑発的な眼差しは、中性的な妙なる微笑を湛えた面差しに、よく映える。
「人にものを頼む時は?」
「──……」
「土下座して、可愛い言葉を言わなくちゃ……な」
「…………」
伊理弥ははしたなすぎる体勢をやめて、倖に向かって跪く。平伏して額を土壌にくっつける。
「どうか、お……お願いします……」
「何を?」
「も……う、我慢、出来ません……ぐちゃぐちゃになるまで、私をお好きなようになさって下さい……」
伊理弥は三つ指をついていた手を腕から持ち上げられて、倖にその場に組み敷かれた。
真吹は『Shiny Night』の裏手にある公園の、砂場から少し離れた木陰にいた。穂芝こなみ(ほしばこなみ)という名の女性、年のほどは三十半ばの、健康的な美貌を誇ったデザイナーを営んでいる知人も一緒だ。彼女もサロンのメンバーだ。
暗闇でも、伊理弥がどんな顔をしているか、どんな風に倖に抱かれて喘いでいるかが伝わってくる。愛おしい、いっそ懐かしくなるエロスの匂いが、鼻先をくすぐってくるようだ。
「貴女、本当に笑えないレベルのサディストね。極楽浄土へ行けなくなるわよ」
芯のあるソプラノの声に振り向くと、くっきりした目鼻立ち、そして腰まであるブロンドの巻き毛をした美女が、妖艶に微笑んでいた。
真吹は、美女、もといこなみから目を逸らせる。そうしてまた、砂場の近くの植え込みを覗く。
「貴女には敵いません、……穂芝さん」
「まぁ」
「三年前、伊理弥をたぶらかしたのは貴女です。貴女が私達を引き裂いた。伊理弥が私に、貴女との関係を打ち明けてきた時……世界は終わりました。くだらなかった私の毎日を、輝かせてくれていたのは伊理弥です。あの時……、私から光を奪った貴女も伊理弥も、恨みたかった」
「それでこのチャンスを利用して、あの子に報復しているわけね?」
真吹は首を横に振る。
大切だった。かけがえなかった。
真吹は伊理弥を自分以上に、宇宙の誰より何より愛していたから、彼女がこなみと浮気をしているのを知った時、それでも彼女が幸せになれるならと、別れ話を受け入れた。
だのに、伊理弥はこなみに騙されていただけだった。こなみにはパートナーがいた。家同士が決めた婚約者と上手くいっていたという。
伊理弥は、それを知らずにこの悪魔に弄ばれていたのだ。
「伊理弥は貴女に苦しめられた。……彼女の苦しみは、それからずっと、きっと貴女だけのためにある」
「そうかしら」
「伊理弥が貴女のために抱えていた苦しみを、痛みを……私が与えるものに変えたい。愛情も、痛みもかなしみも、伊理弥の感情は、全部、私のために存在していなければ納得出来ません」
誰もあの女性(ひと)を幸せにしてくれないなら、今度こそ、自分が彼女を繋ぎとめる。
優しいだけの鎖では、脆すぎる。主人が愛玩動物を所有するのに近しいような絆を固めて、あのかよわい姫君を、生涯護って生きていきたい。
真吹の隣で、ふっと小さな溜め息がこぼれた。
「とんだ言い訳ね」
「言い訳?」
「伊理弥は生粋のマゾでしょ。だから貴女達、こう認めてあげるのも癪だけど、身体の相性も最高だった」
「──……」
「貴女はあのお姫様を虐げて、彼女の淫らな姿を眺めて楽しんでいるんじゃなくって?」
「穂芝さん……」
見当違いだ。
反駁が、条件反射的に喉元まで突き上げてきた。
だのにそれは、今またオーガズムに呑み込まれていったプリンセスの絶叫で、かき消えた。
──fin.
妖精カテドラル