白河都夜子(しらかわとよこ)は、夜の繁華街の一角にある、全個室制の居酒屋の一室にいた。
三方に木の板が張り巡らせてあるここは、収容人数たったの二人だ。小さなランプの鼈甲色の照明が、ほの暗い程度に満ちている。掘り炬燵に備え付けてある卓袱台は、焦げ茶色の艶をまとっていて、襖の近くに極彩色の生け花がある。
都夜子の真向かいに、男が一人、落ち着いていた。
男は、自分で杓をした焼酎をちびちび飲んで、神経質な手つきでつまんだつきだしを口に含んでは、頬を動かしていた。大きな頭は白髪混じりの黒髪に覆われて、随所にシミの見られる顔面は、それでも若々しい快活さがある。年は、五十代後半だ。上等なスーツで身を固めて、ずっしり胡座をかいたその佇まいは、重役らしい風格がある。
この人物こそ、都夜子の勤務しているオフィスの会長、小池武蔵(こいけむさし)だ。
「それで、どうして私が、会長にこんなお話を?」
都夜子は改まって背筋を伸ばす。
運ばれてきた料理にほとんど手をつけていない。平素なら今頃とっくに二杯目をオーダーしているところだろう、シャーリーテンプルすら、グラスの半分にも減っていない。
無理もない。都夜子は武蔵とその弟の取り仕切っている会社では、しがない事務員の一人だ。重役や、少し可愛がられている社員ならともかくだ。都夜子がこうして武蔵に食事に誘われるのは、本来、ありえないことだった。
「こんな話を聞いてもらえるのは、白河さんだけなんです。前田(まえだ)や蓬(よもぎ)は心配をかけて仕事が手につかんようになっては困りますし、山内(やまうち)達は口が軽い。取引先の社員と打ち解けたやつらに話すにしても、こんな情けない話が漏洩して、わしがよそから甘く見られるようになっては会社全体の問題になる。白河さんは、その点、口が固く真面目ですから」
「はぁ」
都夜子は肩から流れてきた自分の髪をさっと払う。
黒い自然なウェーブヘアは下ろしっぱなしで、洋服も、徒歩で通勤しやすい身軽なカットソーとシフォンとサテンのミニスカート、トレンカだ。いかにも今夜はまっすぐ帰る気満々のスタイルなのに、現実は、面倒なことになったものだ。
「小池会長の奥様が……その、よその方と親しくなさっておいでというのは、間違いないんですか?」
「間違いありません!ついでに言うとね、白河さん。さっきもお話ししましたように、親しいどころじゃないんですよ。わしは浮気をされているのです」
「それはそれは」
「そんなに暢気な相槌を打たれても困ります」
武蔵の皺でたるんだ目許を飾った双眸が、みるみる潤む。この男が少女漫画の悪役なら、今にもハンカチを出して、口にくわえかねない剣幕だ。
都夜子は、武蔵のプライベートの相談を受けていた。
武蔵には、十五年連れ添ってきたパートナーがいる。彼より二十歳近く若くて、そして美しい女性だ。
その彼女、つまり小池詩由(こいけしより)が、ここ最近、彼を差し置いて、他の女性と親密な関係にあるという。詩由は料理教室の講師をしている。問題の女性は、そこの受講生らしい。
「詩由さんがバイセクシャルなのは知っていました。それでもわしは、詩由さんに、女性とも男性とも交流を禁じませんでしたし、これからも禁じません。人間、友達がいなくては、なかなか味気ない毎日になるものですから。しかし恋愛は認めません。わしも浮気はしません。それが常識でしょう」
「会長。私じゃなくて、詩由さんとお話しをされては?」
「詩由さんは浮気を認めませんでした」
「直接、お料理教室に行ってご覧になっては?」
「そんなことをしては、詩由さんに嫌われます」
「もうき──…、とと」
「白河さん?」
「何でもありません」
都夜子はすまして、久しくつきだしに箸を伸ばす。
もう嫌われているのではないか。
そんな、ふっと頭を過った見解を、どうして自分の雇い主に言えよう。
「白河さんには、これからしばらく月、水、金、早退してもらいます」
「はいっ?!」
都夜子の箸から、厚焼き玉子が転がりかけた。
初老の男が大真面目な顔をして、こちらを見ていた。
「わしは慰めもアドバイスもいりません。今夜、白河さんをこうして人目のつきにくい店に誘い、家内のことをお話ししたのは、内密に協力してもらいたかったからです」
「──……」
「詩由さんには、受講希望の社員がいると、わしの方から伝えておきます。月謝は会社で負担します。ですから、どうか白河さん。貴女、詩由さんの料理教室に行って、様子を見てきてもらえませんか?」
「はいいっ?!!」
「詩由さんの親しくしている女がどういうやつか、お友達か浮気か、見極めてきてもらいたいのです。白河さんの方が、わしより、詩由さんと歳も近い。何かとわしには分からんことでも、貴女ならお分かりになることがあるやも知れません」
「私、料理は好きではありません」
「一人暮らしの若い人が、そんなわがままを貫いていては、身体に良くありません。これを機会に、貴女も料理を覚えてはどうですか」
「いや、本気で興味ありませんから」
「そうですか。この件は、会長命令とでも言っておきますが、それでも否と」
「──……」
ふっと、都夜子の脳裏に、昨年いきなり本社から消えた社員の一人の顔が浮かんだ。
件の社員は素直で敏腕な男だった。確か、社員旅行で武蔵に温泉に誘われて、眠たいのを理由に断って以来、彼との仲も、彼の弟、社長との仲間までぎくしゃくして、子会社に左遷されたのではなかったか。
「…………」
都夜子は初めて、自分が今流行りのブラック企業にいたのだと気が付いた。
* * * * * * *
小池詩由が運営している料理教室は、都夜子の職場からバスで十五分先のところにあった。
詩由は、小池の邸宅とは別に、マンションの一室を所有している。料理教室は、そこで週に三回、開かれていた。
今日は月曜日だ。都夜子が武蔵に内密な依頼を受けてから、初めての開講日だ。
都夜子は、早速、詩由の料理教室を訪ねていた。
件のマンションは、武蔵に地図とその名前が書いてある地図を渡されていなければ、そこが料理教室の会場だと気付かず通り過ぎようほど、ありきたりな外観だ。開放感あるエントランスを通り抜けると、同じ扉が均等間隔で並んでいた。
部屋の番号を確かめて、玄関の敷居を跨いで、本来はリビングなのだろう奢侈な控え室でひと休みしていると、まもなく開講時間になった。ざっと九人の受講生達が集まっていた。
ノブの回る音がした。扉から、見覚えのある女性が出てきた。
女性の形の良い目許に低い鼻梁、小さく薄い唇は、自然な笑みが浮かんでいて、マロンブラウンの色をした、癖毛にも見えるウェーブヘアは、右耳の後ろで一つにまとめてある。顔かたちがどうこうではない、女性の雰囲気そのものが、ぱっと見は控えめで、それでいて静かな艶やかさがある。背丈は都夜子と同じくらい、百六十に満たないほどといったところか。
この女性こそ、都夜子が武蔵に調査するよう言いつけられた、彼のやんごとなきパートナーだ。
「おはよう、皆さん」
「おはようございます、小池先生」
「おはよー先生!今日も可愛い!」
詩由のふんわりした声に被さって、あちこちから、親しげな挨拶の声が上がる。
都夜子も詩由に目礼すると、いかにも料理教室の講師らしい、エプロン姿の彼女と目が合った。
「白河都夜子(しらかわとよこ)さんですね?」
「はい。今日からお世話になります。お久し振りです、詩由さん」
「武蔵さんからお話をお聞きしています。どうぞ、ここを貴女のおうちだと思って、寛ぎながら学んでいって下さいね。よろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いします」
「櫻野さん」
「はい!」
隣にいた女性の更に隣から、鈴を鳴らすようなソプラノの声が聞こえた。
都夜子が声のした方を覗き込むと、今しがた詩由に返事をしたらしい少女が一人、きらきらした目で詩由を見ていた。
少女は大きな目許に人形みたいに陰影のはっきりした顔かたちをしていて、その二つに結った亜麻色の髪は、結び目にぬいぐるみの顔があしらってあるシュシュが巻きつけてある。その体躯は小柄だが、カジュアルながら可憐な、デコレーションケーキよろしくロリィタテイストの洋服に包まれているからか、こぢんまりした感じはない。
「白河さん」
「はいっ」
「彼女は櫻野美結(さくらのみゆう)さん。大学三回生で、家庭科部の副部長をされています。うちの講習は、普段は三組になって作業を進めていただくのですけれど、今日はお休みが二名。それで二組、二人のペアが出てしまいます。白河さんには、彼女と組んでいただきましょう」
「ああ、そういうことですか」
「初めてですし……、今日は私は、少し離れて白河さんのお手並みを拝見します。櫻野さん、そういうわけだから、よろしくね」
「はい!頑張ります!!……あ、よろしくお願いします。白河さん」
ややあって、詩由から、全員に貸し出しのエプロンが配られていった。
「都夜子さんって、色っぽいですねぇ」
「そう?」
「フリルのエプロン、詩由さんのパートナーさんから聞いていらっしゃらなかったんですか?ミニスカに合わせるとエロくなるから避けたがる方、結構いますよ。なんて、嘘です。あたしは目の保養にさせてもらいます」
都夜子は咄嗟に視線を落として、自分の身体の見える範囲を確かめていく。
たまに、ごくたまに、今の美結みたいな世辞を寄越してくる人間がいる。都夜子が年中、肩を出したりミニを穿いたりするスタイルを好んでいるのが原因か。
「目の保養どころか、アンバランスだよ。私の服にふりふりエプロン、こんなの見ていたらセンスおかしくなる。美結ちゃんは似合ってる。一番似合ってるんじゃない?」
「ひゃあぅっ」
美結の手から、バターの入ったボウルが転がり落ちかける。
都夜子は慌てて彼女の耳許から唇を離して、その手の甲に手のひらを重ねた。
「危機一髪」
「いきなりっ、吃驚しましたぁ」
「こそこそ話、苦手なの?」
「お姉様相手は苦手です」
「何それー」
都夜子はボウルを取り上げる。
今日の課題はフレッシュジュースとクッキーだ。
まずクッキーは、バターを常温で溶かしながらヘラだけを頼りにクリーム状にするのが美味しくなるコツらしく、この作業が面倒臭い。都夜子は、さっきから美結と代わる代わるバターをヘラで切る作業をしているのに、未だ砂糖が馴染もう柔らかさにならない。
「もうー、これ、本当にクリームみたいになるの?」
「あちらはなってるみたいです」
「ほんとだ。詩由さんの入ってる三人組か……。私、受講初日でいきなりハンデを持たされたとか?うーん、家庭科部の副部長と組ませてもらったことは、幸運?」
「あ、そのことなんですけど、白河さん」
美結の何か言いかけた気配がした時、
三人組の群れから、ふんわりした美人が抜け出てきた。
詩由が、都夜子と美結のテーブルの側に足を止めた。
「いかがですか?白河さん。櫻野さん」
「えーっと、あたし達、力が足りないみたいです」
「バターが溶けないんですね。この席はエアコンがよく効きますから、あちらより室内温度が低いんです。それで溶けにくいんでしょう」
都夜子の手から、粗っぽいバターの入ったボウルが、詩由の手に渡っていった。
「こんな時は、数秒だけ湯煎します。今日は手間を省くために、軽くレンジにかけますね。数秒だけ。バターが黄色くなるまでにストップするよう、覚えておいて下さい」
「勉強になります。有り難うございます」
「先生の綺麗な手に溶かしてもらって、バターも幸せそうですぅ」
美結が両手を組んで詩由を見上げた。
都夜子は、美結のきらきらした双眸の熱に、自分こそ溶かされるのではないかと思った。
* * * * * * *
都夜子が数年振りにキッチンに立って手がけたものは、とんでもない仕上がりだった。
クッキーは、一枚一枚、薄いところと厚いところの凹凸があって、黄身が焦げて固まっていたところがあるし、フレッシュジュースはざく切りにした野菜とその汁と変わらなかった。
あれから二日が経った。
水曜日、都夜子はやはり西の空が茜色に染まるより少し前、会社を上がった。そうして料理教室を訪ねていくと、またしても欠席者があった。
都夜子は、今日も美結とペアを組んだ。
「美結ちゃん今日もよろしく」
「はいっ、こちらこそよろしくお願いします!」
「お友達は大丈夫?いつも誰と一緒?」
「色々です。あたしは先生とよく話すから、先生のくっつき虫です。先生は、白河さんとは一緒にお料理されないみたいですね。だからあたし、今は白河さんのくっつき虫でいます。詩由先生は、白河さんは武蔵オジさんの社員さんだから、ご自分が一緒だとお仕事を頭から離せないって、お考えなんだと思います。先生は優しいから、白河さんに気を遣っていらっしゃるのかも知れません」
「よく知ってるんだね。詩由さんのこと」
「全然。もっと知りたいと思っています」
「──……」
「でも」
美結の手が、ふっと止まった。
「都夜子さんのことも、もっと知りたい」
「…──っ」
都夜子は、美結から条件反射的に目を逸らせた。
急に頬が熱くなったのは気の所為だ。ここで焦ってはおかしい。
「私なんて、面白いこと何にもないよ」
「詩由先生だって面白くはありません。あたし、女性に面白味なんて求めません」
美結の手許のボウルに入ったケーキの生地は、まだまだクリーム状とはほど遠い。
今日の課題はカップケーキとトライフルだ。それらは、今日もいつ仕上がるかの保証がないし、その出来も期待は出来ない。何せ美結は都夜子より調理場に慣親しんでいるはずなのに、その手際は世辞にも誉められるものではなくて、手つきのほども危なっかしい。一昨日も、都夜子は美結にさんざん詫びられたものだ。
それでも都夜子にとって、美結とペアを組めたことは、当たりくじを引いたも同然だ。いつまでもこうしていたいくらい楽しい。都夜子は、自分がここにいる本来の目的も、はたと気付けば、頭から飛んでいっている。
「み、ゆ、ちゃ、ん……そんなこと言って、青春真っ盛りで、学校にも好きな人いるんでしょ」
「いますって言ったら、恋愛相談にでも乗って下さいますか?」
都夜子はトライフルの下準備を進めながら、横目で美結をちらちら見る。
美結の大きな瞳は相も変わらず人形めいた深みがあって、化粧の効果もあるのだろうが、妙なる陰影を刻んだそのかんばせは、吸い込まれそうな雰囲気がある。さらさらの亜麻色の髪は今日も二つに揺ってあって、こめかみに、二羽のウサギがキスをしているマスコットのあしらってあるくるみピンが留まっていた。ピンクのボレロに白いブラウス、青と白のチェックのフレアスカート、そしてここの定番ふりふりのエプロンが、その風采をいっそう可憐に引き立てていた。
「美結ちゃんのいる家庭科部って、お裁縫メイン?」
「お料理です。お菓子とか作ります」
「お洋服は、作らないの?」
「あたし、料理の腕、そんなに酷いですか?」
「あっ、いや、その──」
都夜子の手許から、四つ切りにしてきた苺が転がりかける。
遠回しに詮索してゆくつもりでいたのに、不躾だったか。
都夜子は果物を切り進めてゆく。こういう時は、黙って作業に専念しよう。
ややあって、隣から聞こえていた、泡立て器とボウルのぶつかる音が止んだ。
「あたし、家庭科部にいますけど、料理や裁縫、興味ありませんでした」
「そうなの?」
「──……」
美結の頷く気配がした。
「一回生の時、勧誘してくれた先輩が、美人だったんです。見学だけでも、みたいな感じになって、まぁ……部は楽しくもなくつまらなくもなく、だったんですけど」
「……………」
「その先輩が、あ、二こ上だったので、今は卒業されちゃいましたけど。……優しかった。誰にでもそうなんだって分かっていても、あたし、先輩ばっかり、目で追っていました」
「──……」
本当にそれだけか、と、開きかけた口を抑えた。
都夜子は、美結の今の話が、彼女の過去のほんのひとひらでしかない気がしてならない。そんな風に思えるだけ、美結の目が、声音が、彼女をとりまく空気が、切ないほど甘ったるくて、そして、切なくなるものを帯びていた。
「先輩のお側にいたくて、入部して、都夜子さんのご予想通り、お裁縫はそれなりに覚えられて、続けることが出来ました。先輩が卒業されて、4回生は忙しいから、二番目のあたしが副部長に指名してもらって……。でも、料理はあの通りじゃないですか。面目潰れるなぁって思って、少しでもましになれたらって、春から、こっそりここに通い始めました」
「部長は人望で決まるものじゃないの?料理が上手かろうと下手だろうと、関係ないと思うけど」
「中途半端にしたくありませんから。あたしには、少なくともあの多くの新入生達の中から先輩に選んでもらって、二年間、お世話になってきた事実があります。手作りなんて興味もなかったのに、少しは好きになれたのは、先輩のお陰です。あたしがちゃんと部活をすること、それは、片想いで終わっちゃった恋が、ここにあったという証。もう少しだけ、あと少しだけ、消えて欲しくないんです」
「……どんな、人だったの?美結ちゃんの、好きな人」
「詩由先生に似ていました」
「…──!!」
「顔とかそういうのじゃなくて、その、雰囲気とか、話した感じとか。……だから、その……」
「…──っ」
「楽しそうですね」
やにわに柔らかなメゾの声が耳に触れてきた。
都夜子が振り向くと、そこに、見回りに来てくれていた詩由がいた。
「何かお困りのことはないかしら?」
「あ、詩由さん」
「先生!生地のだまが潰れません」
都夜子が詩由に夜のお茶に誘われたのは、彼女が、美結のお手上げをしたボウルの生地の様子を見てやっていた時のことだ。
受講生らの帰っていったリビングは、火の消えたような静けさだ。
レッスンの後、都夜子は詩由に勧められて、受講生らの控え室もといリビングのソファにかけていた。
「突然お誘いしてごめんなさい、白河さん」
「いえ、全然」
「教室で作ったものは、いつも分けて持って帰るでしょう。私はお夕飯や朝食に出して、いただくのだけれど、家族以外の方とのお茶の時間も好きなんです。そこで、つい、お茶の相手を求めてしまいます」
「私も、たまにお友逹とカフェ行きます。楽しいですね」
「ええ、特に白河さんが相手だと、有意義な時間になると思います」
都夜子の隣に腰かけていた詩由の瞳に、読み取れない色が浮かんだ。
「私、貴女にご相談があって、お茶に付き合っていただきたいと思いました」
「…──?!」
「白河さんは、あの、彼女をどんな風に思っていらっしゃいますか?」
「彼女、と、申しますと?」
「櫻野さん」
詩由のたおやかな声が顫えた。決してなおやかなのではない、その奥には強さがあって、かの少女が惹かれるだけの引力がある。
もやもやしていたものが晴れた。これで全てが繋がった。
「美結ちゃんは、詩由さんを慕っていると思います。それが全てか分かりませんけど、私は、彼女の想いを聞きました」
「私に似ているっていう、先輩の話?」
「美結ちゃんは過去に恋をしている。詩由さんは、美結ちゃんに愛される、条件をお持ちです。それでも詩由さんに負けたくありません。詩由さんが羨ましいです。だから、私は美結ちゃんを応援します。見返りがあるわけではないけれど、その間に、美結ちゃんが少しでも私に気を許してくれるようになったら、遠慮はしません」
「自信が……、おありなんですね」
「人の心は移り気ですもん。美結ちゃんは、お人形みたいなとこがある。けど、人間の詩由さんや私に興味を持ってくれますから」
さればこそ惹かれた。美結の、無邪気で可憐なだけではない、そんなうわべの内側からありあり滲んだ柔らかなところに、放っておけないものがある。都夜子は、そこに言い知れないものを覚えていた。都夜子と美結が同じ時を過ごしていた間に、確かに、有機的な想いがあった。
「ごめんなさい、詩由さん。私が貴女に近付いたのは、会長に頼まれたからです」
「武蔵さんに?」
「詩由さんが浮気をされてるんじゃないかって……。自分が確かめに行けば嫌われる、それで、私に行ってくるようにと」
「──……」
ああ、こんなことを打ち明けて、料理教室を辞めさせられはしないか。
都夜子の頭の片隅に、ほんの少しの後悔が過っていった。それと同時に、すっきりした。
武蔵は、初めから怖れるに値しない人間だ。都夜子が武蔵の命(めい)を受けたのは、彼を同情したからだ。もう、浮気調査という馬鹿げたことを続ける理由はない。
美結が大事だ。いかにしても詩由は羨ましいが、二人の仲を疎んじるにせよ、武蔵を楯にしたくない。
長いようで一瞬だった沈黙の後、詩由から、息を吸った気配がした。
「そんなことだろうと思いました」
「えっ……」
「あの人は、バレていないとでも思っていたのかしら」
「──……」
「私が櫻野さんを家に泊めたくらいで、器の小さいオジさんだわ」
まぁ、と、詩由のリップクリームだけの引かれた薄い唇から、勝ち誇った笑みがこぼれた。
「あの子、おかしいほど敏感だから、武蔵さんの寝床に聞こえてしまっていたのでしょう。色々と」
「…──!!」
「そろそろこれとはお別れかしら。白河さんが恋敵なら、これくらいの覚悟は当然ですね」
詩由のぱっちりした目許が、ふっと伏せられた。そのまっすぐな双眸が、彼女の左手薬指に嵌まった指輪を映していた。
* * * * * * *
都夜子は三度目のレッスンの後、美結と帰路を共にしていた。今日は、詩由も同じ組みにいた。欠席者がいなかったのだ。
薄暗い空に浮かんだ朧月をとりまく雲は、ホイップしたクリームに通じるものがある。美しいものも不都合なものも、全てを曖昧にするからだ。
星が隠れていながらも、月がぼんやり映った夜空は、何とも情緒的なものだ。
「詩由先生ってば、お喋りですね。意外と」
相も変わらず奢侈な甘ロリィタの洋服に身を包んだ少女の口から、他人事みたいな呟きがこぼれた。
「あたし、確かに先生のお家にお泊まりしました。人肌恋しい時ってあるじゃないですか。先生、見事に見透かしてくれちゃったんですね。気分転換に遊びに来ないかって、声をかけてきてくれて」
「──……」
「あたしも、あの頃、どうにかなっちゃいそうなほど、誰かといないと不安になる状態でしたし……お言葉に甘えたって言うか……」
美結が珍しいほど口ごもっていた。やはり、都夜子が水曜、詩由に打ち明けられた話は本当らしい。
パートナーがパートナーなら、詩由も詩由だ。美結と武蔵、いつまでも二股をかけるつもりではなさそうだが、詩由が美結一筋になってしまっては、それはそれで厄介だ。
都夜子は思う。美結の過去に都夜子が全くいなくても、それが未来にどれだけ影響しよう。大事なのは今だ。都夜子には、今と未来しかない。
「もう良い」
「え?」
「これ以上、私に妬かせるような話、しないで」
都夜子は美結の片手を握って引き寄せた。
詩由の料理教室の月謝は、来月から、自腹を切ろう。それからあすこに通わなくても美結に会える明日(みらい)を目指す。あの強敵と、当分は仲良くしておこう。その上で、美結に選んでもらうのだ。
「と、都夜子さんから始めたくせに……」
「詩由さんだよ。レッスン中に、不良な先生だったなぁ」
「詩由先生は良いんです!で、でも」
「…………」
「都夜子さん」
鈴を鳴らすようなソプラノの声が、耳をくすぐってきた。
「妬いてくれるって、調子に乗っちゃって良いですか?」
柔らかなものを握った右手が、ぎゅっと、握り返された感じがした。
──fin.
妖精カテドラル