霜月に入って第一週目の土曜日の午後、白浜は、穏やかな潮風がたなびいていた。
水平線のグラデーションから続く空は、乳白色に近い色が広がっていて、寄せては返すさざ波を乗せた海面は、どこまでも澄んだ煌めきを湛えている。水と水のこすれ合う音が、妙なる音波を孕んでいて、懐かしくなるほど耳に心地好い。潮の匂いを含んだ空気は、残暑も抜けて、さりとてその涼やかさは、肌が凍てつくほどではない。
海内莉子(みうちりこ)は、ここから徒歩数分ほど離れた水族館から、この海岸に降りていた。交際して今年で二年の恋人、恒坂きはる(こうさかきはる)と一緒だ。
莉子は歩道と砂浜とを繋いでいる岸壁の備えてある階段を下りきるなり、靴が砂にはまりかけた。
「きはる」
莉子は、自分より一歩後ろに続いていたきはるに手を差し出す。
「あ……ありがと」
乳白色のチュールレースの姫袖から覗いた華奢な指先が被さってきた。
きはるの危なげな足どりは、莉子以上だ。
それは彼女が、とっておきのデコレーションケーキよろしく至るところにレースやリボン、フリルのあしらってある白いブラウスに、ネックラインにふんだんに小さなリボンとラインストーンが散りばめてある、前身頃の両サイドがレースアップになっていて、ウエストから綿ラッセルのフラレンスがふんわり被さったフリルスカートの広がるワンピースに、無論パニエは二重穿き、そしてワンピースと同系色の淡いピンクの薄手のスカラップジャケットという、割かし動きづらいワードローブをとり合わせている所為ではない。白いストラップシューズの靴底も、七センチ、大半のロリィタなら余裕で走れる程度の高さだ。ただ、この道のりが凸凹過ぎる。
「はぁ、やっと降りられたぁ。莉子大丈夫ぅ?」
「大丈夫って答えとく」
莉子はきはるの掴んでいた手を握り直した。
きはるの手はくすぐったいほどすべすべで、あたたかいところと冷たいところがあって、目を瞑っていても、それが彼女のものだと分かる。その大きな双眸は、さしあたり愛らしい小動物のそれだ。無垢な煌めきを帯びている。きめこまやかな白い素肌に薔薇色の頬、柔らかにカールしたロングヘアは頬のフェイスラインに被さるところだけ短くて、ストロベリーベージュの色をしている。但し、きはるは学校のある平日に限っては、生徒指導部に目をつけられないよう黒髪のウィッグで誤魔化している。
「ねね、海、行こ?」
「ん。……わぁ、綺麗」
「莉子の方が綺麗だよぉ」
鈴を転がすより甘ったるいソプラノが、耳に触れてきた。莉子の右耳近くにシュシュでまとめたマロンブラウンのシャギーの髪が、潮風に吹かれて揺れたやにわ、きはるの自由な左手にそっと抑えられた。
莉子はきはると、それから言葉なく海に向かって歩いてゆく。
ややあって、二人、砂浜に塩水が染み込んでいる辺りに足を止めた。
「莉子のスカート、合ってるね」
「エンゼルフィッシュね。水族館って予定してたから」
「ミントブルーとチョコレートのストライプが全体に入っているところに、大きなシャボンのフロッキー、一緒にお魚さんがプリントしてあるとね、ネイビーの細いリボンが波に見えるよ。凝ってるなぁ。白のボレロに赤いロゼッタも可愛らしくって、あたしがゆるふわだったら莉子とおんなじブランド着たかった」
「今度、着てみれば良いじゃん」
「童顔でも似合う?」
「きはるの方が似合うと思うよ」
「またまたぁ」
きはるの顔に、眩しいほど無邪気な笑いが浮かんだ。
「ねぇ、莉子」
繋いでいた手がいつの間にか離れていて、代わりに、二人の腕が組み合っていた。
「もうすぐ卒業だね。莉子と一緒の学校、行きたかった」
「──……」
「クリスマスが終わって、年越ししたら、もうほとんど授業ない。三年生は三学期の期末もないし、そしたら、卒業式だけになっちゃうよ。莉子とあたし、一緒に学校で出来ること」
「きはる……」
仕方ない。莉子は今いる私学の附属の大学へ、きはるは服飾の専門学校へ、それぞれ進路が決まっている。学校が離れたところで、元々そこそこ近かった、家まで離れるわけではない。急いで思い出を作る必要もない。
ただ、こんな風に、やはり当たり前みたいに朝から晩まで一緒にいられなくなる。きっと互いに、それまでより予定も合わなくなろう。
「それでも、変わらないもの」
「──……」
「きはるは、信じられるもの作るんでしょ。変わらないもの」
「…………」
莉子の隣で、きはるの頷く気配がした。
「私も守るよ。きはると一緒に」
「莉子……」
「何が変わってもこの気持ちは変わらない。きはるが好き。誰より何よりも好き」
「…──っ、……」
きはるの、いにしえの海の姫君を聯想するかんばせに映える瞳が潤んだ。
莉子は、そこから真珠がこぼれ落ちる前に、その身体を抱き寄せた。
「莉子……莉子ぉ……」
「きはる可愛い。貴女は、私の最初で最後の妖精さ ん」
お姫様、とは、呼ばない。
きはるは姫君みたいな風采をしていながら、そんな風に扱われるより、自由な妖精でいたいような少女だ。頼りなくて寂しがり屋で、放っておけば、どうなってしまうか分からない。莉子に似ている。
さればこそ、二人、磁気にいざなわれるみたいに惹かれあったのかも知れない。
絶え間なかった波の音が変わっていたのは、その時分だ。
「…………」
「…………」
「──……。え……」
莉子の緩めた腕の中で、きはるが首を傾げた。
波の音に、たおやかな、羽根みたいに軽らかなハープのそれがとけ込んでいた。
否、ハープではない。声だ。
その声は、天にも届かんばかりの響きがあって、さりとてボリュームがあるわけではない。魂(こころ)に直接聞こえてくる、幻みたいだ。
「……こ、れ……」
「声?」
「莉子も聞こえる?」
胸の奥がざわついていた。
この声を、どこかで聞いたことがある。どこで聞いたこともない旋律を音に変えている声は、確かにどこかで覚えがあった。
莉子ときはるが例の声を辿っていくと、岩壁の死角を入っていった先に平屋があった。白い壁に青い屋根、一般的な邸宅よりずっと小さいその建物は、そこはかとなくモダンな雰囲気がある。
声は、平屋の内側から流れ出ていた。やや離れたあんな海辺にまで聞こえていたのは、ピアノの音色がそのボリュームを補っていたからだ。
「響いてるの、マイクじゃなくてピアノだったんだ。楽器みたいに綺麗な声……。それで調和していたのかな」
「きはるも鈴みたいな声だけれどね」
「何それー。ところで莉子とあたし、何でこんなとこまで来たのかな」
「気になったから?」
「どんな人が歌ってるんだろ。声も綺麗でピアノも上手。こんな人気(ひとけ)ない別荘で歌っているくらいだし、聞いたことない歌でしょ、作曲家立ったりして」
「人魚とか」
「会いたーい。あたし一度会ってみたかったんだぁ」
きはるがきゃっきゃと手を打ち合わせた。
まもなくして、たった今まで閉ざされていた平屋の扉が、そっと開く気配がした。不思議な歌は止んでいた。
「莉子!」
開いた扉のすぐ側に、ぞっとするほど美しい、一人の少女の姿があった。
「あっ……」
「ご迷惑でしたか?」
あの声だ。
莉子は、今まさに現れたばかりの美少女が、あの不思議なメロディを声にしていた本人だと確信した。
「うるさくしてしまってごめんなさい。まさか、こんな時期に、この辺りをお散歩される方なんて珍しいかと思っていましたので……」
少女の慎ましやかなかんばせが、俯きがちに傾いて、左右の細い手首が重なった。
見たところ同い年くらいだ。垂れ目がちな一重の目許は得も言われぬ婀娜っぽさがあって、通った鼻梁、艶やかな薄い唇にシャープな頬は、どこか大人びたパーツをしていて、きはるの快活な愛らしさとは違ったものがそこにある。その素肌はさしずめ真珠肌だ。どこまでもまばゆく瑞々しだけではなくて、日の光を知らなかろうほど白い。緩やかな黒いウェーブヘアは腰に届くほどの長さだ。フリルの縁取りと綿ラッセルの長袖、小さな花のブーケを模したコサージュがエレガントな黒いボレロに、やはり黒一色のXラインのワンピースが、その白さをいっそう引き立てていた。
莉子は、そこではっとする。少女の顔がこちらに向いていたからだ。
「大丈夫……」
「あたし達、あまりに綺麗な音楽だから、どこから聞こえているんだろうって気になったんです!」
きはるが力んで拳を握った。
持つべきものは恋人だ。
「有り難う、ございます……」
「いえいえ。作曲家さんですか?人魚さんですか?」
少女が、きはるの無邪気な笑顔に微笑んだ。
「真海端愛(しんかいまさめ)」
「端愛さん?」
「私は地上の社会にも海にも属しません。ただここに住んでいて、好きな時に歌って、たまに海を眺めているだけ」
「ロマンチックですねぇ」
「貴女は」
莉子は、端愛の吸い込まれるような黒い瞳に捕らわれていた。
「貴女達は、何故、こんな冬の海にいらっしゃったのかしら」
端愛の声音、何より海淵の色を閉じ込めた深い双眸は、まるで曖昧なものまで知り尽くしているようだ。
* * * * * * *
あれから一週間が過ぎた。
莉子は、例の平屋を訪ねていた。
今日は一人だ。きはるが一緒でない以上、水族館や近くのカフェに用もなくて、先週よりずっと早い時間だ。
端愛の住んでいるここは、小さな一階建てというだけあって、リビングもキッチンも、彼女のプライベートスペースさえいっしょくたになっていた。
莉子は端愛と、お愛想程度に備えてあるソファに並んで、お茶を馳走になっていた。端愛の愛用しているピアノがすぐ側にある。
開放的なスペースは、意外と落ち着く。ここは本来、端愛の両親が別荘に所有していた。それが、今や端愛が住み着くようになったものらしい。
「きはるさんと、莉子。付き合ってるでしょ」
莉子が熱々の紅茶に息を吹きかけていると、悪戯っぽいメゾの声が、耳に触れてきた。
端愛の伸びやかなソプラノは、普段は封じられている。それでいて、やはり歌わずとも天に届きかねん響きがあって、さりとてそれほどボリュームがあるわけではない。
莉子は、やはり類を見ない顔かたちをした美少女の、きらきらした目に見つめられていた。
「──……」
「憧れる」
端愛の深い瞳から、たった今までのきらきらしたものが消えていった。
否、輝きは消えない。ただ、そこに、得も言われぬ悲しみの影が落ちたのだ。
「私は虚弱体質が酷くて、学校にもまともに通っていないの。お勉強は家庭教師に頼りきりで、お買い物は家政婦さんかお母さんに頼んでいたわ」
「外、あんまり出ないんだ。それで歌の練習を?」
「外がどんなかもまともに分からないで生きてきて、同世代の知り合いなんてほとんどいなかったもの。何かしていないと、きっと、自分の気持ちを表す方法だって忘れてしまうわ。声を失う。恋人どころか、友達同士の出逢いもないんだもの。こんな私が、おかしいかしら。恋に夢を持つなんて」
「全然。きはるが言ってたよ。『端愛さんはロマンチックで素敵な人だ』って」
「そうかも知れない」
端愛のささくれ一つない唇から、はにかみがちな笑みがこぼれた。
「きはるさんの仰る通り、私はロマンチックかも知れないわ」
楽しそうなのに、何故だ。かなしくてやるせなくて仕方がなくなる。
莉子は、ずっと前にもこんな思いを味わっていた気がしていた。
端愛の歌を初めて耳にしたあの時の、情景の見えないデジャヴに似ている。
* * * * * * *
水曜日の夕間暮れ、莉子はきはると、変わらない放課後の帰路にいた。
バスに揺られて横目に見える車窓の向こうで、見慣れた風景がスライドしてゆく。
この時間、車内に見かける同じ制服を着た生徒達は、帰宅部ばかりだ。所属出来る部活のほとんどない三年生と下級生がちらほら見える。
あと二停留所で二人の地元というところで、ふっと、きはるの息を吸った気配がした。
「また会いたいな」
「誰に?」
「端愛さん」
それは存外の言葉だった。
莉子ときはるが端愛に初めてまみえて、二週間と少しが経つ。莉子は翌週の週末と、それから学校帰りに一度、彼女を訪ねていったものだが、きはるの中ではとっくに過去になったとばかり考えていた。
「莉子は会ったでしょ。あたし達が行った時は、曇っていて見られなかった、真昼の太陽に反射している海の水面。きらきらしていて綺麗だったって、写メ、見せてくれたもん。まさか、一人で海に行くなんて、莉子はそういう虚しいことしないと思う」
「……きはる、今、全国の海が好きな人達を敵に回したよ」
「海が好きな人は別。莉子は、あたしか海、どっちが好き?」
「分かってること訊かないで」
莉子がきはるのウエストに腕を伸ばしかけると、それより先に、きはるの腕が伸びてきた。ぱりっとしたジャケットの袖に皺が入るほど、二人の腕が絡まってゆく。
「学校でも耐えられないのに……心配なのに。莉子が他の女の子に優しい顔を見せてると」
「皆は友達。私はきはるだけが好き」
「うん」
「愛してるのはきはるだよ」
「う、ん……」
きはるが不安がってくれるのは共感(わか)る。
莉子だって、きはるといくら同じ学校にいて同じクラスにいても、一緒にいられない時は、その有り難みが身に染みる。きはるの姿が目の届くところにあるなら目で追いかける。どこで何をしているのか分からない時、用もないのにメールする。
きはるは生来、人懐っこくて物怖じしない、相手が初対面の上級生や下級生でもすぐに打ち解けて、スキンシップにも富んでいる。
莉子の方が、そらで初め、きはるの気質を理解するまで、ことある毎に気が気でなかった。慣れてからは、きはるを手放しに信じられるようになったものだが、隣の芝生は青いとよく言う。そこに特別なものはないと分かっていても、きはるが誰かに屈託ない態度で接しているところを見る度、普段は気にも留めない生徒がいちいち羨ましくなるものだ。
きはるにそんな思いさせたくない。
「学校離れたら、どうなっちゃうんだろ。きはると私」
「放課後毎日会いに行く!」
「無理のない程度にね」
バスは、二人の近所の停留所を過ぎていた。
端愛がよく歌っていた歌は、やはり彼女の作曲したものだった。
詞は、端愛の気分で変わっていく。言葉はあえて書き留めない。楽譜はト音記号だけだし、フォルテやスタッカートの位置、テンポやらも、その時々の気分で変わるようだ。
莉子達は、端愛の振る舞ってくれた紅茶を味わいながら、他愛ない話で盛り上がっていた。そんな中、莉子の前に楽譜が差し出されてきた。
「楽譜?」
「初めての人に楽譜を渡すと、大抵、そういう顔をされるの。分かっているわ。前に大学生の家庭教師のお姉さんがいてね、その人にも、無理だって断られてしまったわ」
端愛の顔に、悪戯っぽいすました色が浮かんでいた。
莉子は自分がどんな顔をしているのか知らないが、多分、断る理由を探している。楽譜は読めても指は動かない。ピアノを最後に弾いたのなんて、小学校の実技テストの時ではないか。しかも、あれは誰でも弾けるレベルの簡単なものだ。
「私はピアノを先生に習ったことないし、見てお分かりの通り、あれは父のコレクションの一つなの。無駄にレリーフがたくさんあるでしょ。飾り物。私が鳴らして遊ぶまで、明治より新しい世代の人に使われたことはなかったわ。使ってあげなくちゃもったいない」
「でも、……」
「貴女のメロディで歌ってみたいの」
「…──っ、……」
「私みたいに適当に弾いてくれて十分だから」
莉子の飾り気ない制服の袖から覗いた右手が、端愛の黒い姫袖の影の落ちた両手に包み込まれる。その質感はしっとりしていて幻みたいに軽らかで、捕まえていなければ淡雪の如くとけてしまいそうに儚げだ。
莉子の目前に、思慮深い澄んだ人魚の双眸があった。
「──……」
「…………」
貴女のメロディで歌いたかった。消えたくなかった。消えたくない。
その人を貴女が選ぶなら、安心ね。
ふっと、霞がかった脳裏の向こうで、聞こえるはずない声が聞こえた。
「莉子」
鈴を鳴らしたみたいなソプラノの声に振り向く。
莉子は、今日一番饒舌な、一番たくさん紅茶をお代わりしていたきはると目が合った。
「聴きたいな。莉子と端愛さんの歌。莉子はカラオケ上手いけど、これを逃したら、ピアノを聴けるチャンスはないかも知れないし」
「…………」
断る理由は一つもない。外は冬の夜の海で、通行人もいなかろう。
莉子がソファから腰を上げると、端愛もシフォンのワピースの裾を揺らして、優雅に立った。
端愛の歌っている声は、やはり普段のそれとは違う。
透き通るほどのメゾの声は、忽ち天高く昇ってゆくようなソプラノになって、それでいて、きはるみたいに少女めいたそれではない。オペラみたいな重厚があるのとも違う。一つの音だ。どこまでも純粋で温もりのあるその声は、楽器と称しては語弊があるが、声とくくるには美しすぎる。
人魚の誘惑だ。
いにしえの時代、深海に棲んでいたという妖精は、その歌声で漁師を惑わしていたという。漁師は類稀な声に魂を乱されて、命を落とした。
なるほど、それがそんなに美しい響きなら、海に引きずり込まれても悔いはない。
莉子は、端愛の歌声にリードされていた。ほぼ未経験のピアノは、何故か、指がその動きを覚えていたように音を出せる。
かなしい歌だ。端愛の歌詞はとりとめない殴り書き同然なのに、あまりに真っ直ぐなものがそこにある。幸せなようでむごたらしい。優しくて、時に残酷な歌は、本当に毎度、歌詞が違っている。
最後のリピートに差しかかった時、歌が止んだ。
「端愛さん!!」
きはるの切迫した悲鳴に振り向くと、黒をまとった海の妖精が、散らされたブーケみたいにその場にくずおれていた。
端愛の意識はすぐに戻った。その顔色は最悪だった。
莉子は端愛にかかりつけの医師の連絡先を教えられて、その医院に電話をかけた。
端愛の主治医をしているという男は、相当のベテランらしく、慣れた手際で患者の具合を診断していた。主治医は、だのに端愛の具合をはっり言葉にしなかった。隠しているのではない、分かりかねている風だった。
莉子は主治医が帰っていった後も、端愛の横たわっている寝台の側に腰かけていた。
「遅くなってしまったわ。家、莉子も帰ってくれて構わないわよ」
「私は門限ないから、端愛が落ち着くまでここにいる」
莉子は端愛のシーツからはみ出ていた左手を、さっき彼女がしてくれたみたいに包み込む。
きはるよりほんの少し華奢な指先から、温かいのか冷たいのかよく分からない体温が、膚に染み込んでくる。
端愛は今にも眠りそうなのに、普段着のままだ。
柔らかなウェーブを描いた黒髪は、今日は楕円のヘッドドレスで飾ってあって、ぶちの混じったチャコールグレーのティペットが付属している黒い姫袖のカーディガンに、縦に並んだ小さなシャンデリアとリボンでストライプが模してある総柄のスカートというとり合わせだ。裾にジョーゼットのフリルが二段あしらってあるそのスカートは、やはりパニエが二枚は仕込んであるようで、シーツが少し盛り上がっていた。
「夢が叶った」
血色が薄れても尚、魅惑的な唇から、聞き違いかと思えるような呟きがこぼれた。
覇気のない、少し掠れた声だった。それでいてどこまでも澄んでいて、天上のハープを彷彿とする。
「楽しかったわ。自画自賛みたいだけれど、あのメロディは、私のこの世で一番気に入っていたものなの。莉子がそれを奏でてくれて、私がそこに言葉を乗せる。可愛らしい観客もいてくれて、夢みたいに幸せだったわ。貴女の音色は美しいから」
「あんな、素人のピアノ……。端愛の歌がリードしてくれたお陰だよ」
「あの人を、貴女が選んだのなら安心ね」
「…──っ」
「…………」
「今、何て──」
莉子は、今度こそ聞き違いをしたかと思った。
端愛は変わらずけろりとしていた。何もかもを知り尽くしたみたいな深い色をしたその双眸は、達観していてさえ見える。
「きはるさんに、有り難うって、伝えてくれないかしら」
「きはるに?」
「彼女は、私の本当のところを覚えていてくれたのかも知れない。大事な莉子を置いて先に帰ってゆくなんて、貴女のこと、余程信じていらっしゃるのね。私にロマンチストの太鼓判を押してくれたくらいだし、あの人は、何もかも知った上で」
「端愛……貴女は……」
「莉子は知らなくて良いことだわ」
「──……」
「莉子」
莉子は、繋いだ二人の手の結び目と、端愛の顔を、代わる代わる見つめていた。
端愛は虚弱体質ではない。奇病に脅かされているのでもない。彼女がその儚げな体質を持って生まれた原因に、考えられることは一つだけだ。
「約束して。この海のことは忘れて」
「まさ、め……」
「ここの海には魔力がある。もし何か見えてしまっても、それは夢。夢だから、気にしないで、貴女は貴女らしく生きて」
「──……」
ふわりと繋いでいた片手と片手がもつれあう。五本の指では足りないほど、少しでもたくさんの面積の皮膚に触れていたい。血肉をくるんだ体温を、感じていたい。
莉子と端愛は、今に唇も触れ合いそうな距離にいた。言葉にならない想いに耐えて、互いに見つめ合っていた。
「莉子みたいな素敵な人に片想いをした。……私は、最高に幸せでロマンチックな夢の中にいられたわ」
その唇を啄めば、過去も未来も変わるかも知れない。
刹那、そんな思いが過ったが、幻は幻のままであった方が美しい。
莉子は頭の片隅で、無理矢理な理屈をこじつけた。
* * * * * * *
莉子が端愛に会わなくなって、五ヶ月近くが過ぎていった。
久しく訪ねてきた海は、変わらなかった。ただ、春が近い所以か、降り注いでくる柔らかな日差しは温度を増していた。ちらほら人影も見られる。
莉子は人魚に、ここには来るなと戒められていた。それでも今日、あの少女の言葉に背いたのは、気持ちに整理がついたからだ。嘘みたいな本当の話を、少なくとも現実として受け入れられる覚悟が持てた。
『人魚姫』──。
古今東西で知られた話だ。海のプリンセスが地上の貴公子に恋をして、魔女の力で大きなリスクと引き換えに人間になる。しかし、人魚姫の想い人には美しい婚約者がいて、失恋と同時に泡になる。魂だけになった彼女は、天界で数百年の善行をこなして、再び生まれ変われるとされる。
莉子と端愛、きはるは、多分、遠い昔に似たさだめに取り込まれていた。
初めて端愛にまみえた時、懐かしい感じがした。きはるに感じていた安らぎに、通じているところがあった。
莉子は端愛を知っていた。遠い昔、莉子にはやはり最愛の人がいて、その一方で、いみじいほどの想いで包んでくれた人がいた。
恋人も、声を失った妖精も、幸せにしてやりたかった。誰も傷付けたくなかった。何故、こんなにも想ってくれる人がいるのに、自分には何も出来ないのだと、やるせない日々を呪いさえしたこともあるものだ。二人の内、どちらかくずおれねばならない方の痛みを代われるものなら代わりたかった。
もう遅い。どうにもならない。
もっと早く逢えていれば、端愛の体質は変わっていたろうか?
否、違う。人魚の魂は愛されて初めて潤い満ちる。
端愛は何も話してくれなかった。全てを引きずって地上(ここ)に帰ってきて、全てを背負って、今生も、消えていった。
「端愛……」
もし奇跡が起きるなら、もう一度、貴女に会いたい。
一陣の風が吹いていった。ピアノの音色を連れていた。
「…──っ!?」
透き通るようなソプラノが、鮮やかに、風にとけてたなびいてきた。
─fin.
妖精カテドラル