通称ケルト通りにある紅茶専門店『Pastel blue』は、さしずめ妖精達の隠れ家だ。
鳥籠を聯想するアーチを潜って小さな庭を進んだ先、木製の扉を開くと、花畑を彷彿とする店内が広がっている。ノスタルジックなオルゴール曲のBGMが会話を妨げない程度に流れていて、青や白の花の一輪挿しや、羊毛フェルトのクマやウサギの人形で、至るところを彩ってあった。
陽天まひる(はるぞらまひる)は、今朝からここで、一日限定の店番をしていた。
まひるが勤務して三年になる雑貨商社『Fairy Party』の代表取締役の一人娘、夜里のはな(やざとのはな)も一緒だ。
「茶葉が、開いていないわ」
窓際の一角に居座っていた二人連れの女性客の内一人の、形の良い眉が、不機嫌露に歪んだ。
女性は、稀に見る美人だ。腰までの長さのあるアッシュブラウンのソバージュの髪が、上等そうなドレスをまとった肉感的な肢体に流れていた。
初雁沙織(はつかりさおり)、某大手製薬会社の代表取締役だ。
ちなみにその真向かいにいる知的美人は逢見律(おうみりつ)、帰省中の内閣総理大臣で、沙織の恋人だ。
律の黒いミディアムシャギーの髪は下ろしっぱなしで、最低限の化粧にラフなシャツにスラックス、その風采は、完全に休日スタイルだ。
「……ごめんなさい」
「あのね、まひる。昨夜、流衣とこのはに研修は受けたでしょ?」
「はい、レジの操作方法と、コンロの使い方を」
「それなら、お茶くらいまともにお淹れなさい」
「そんなに文句があるなら、初雁さんがやるべきです。二人とも、別に休業したって良いって言ってましたし……そこを営業しろって言い出したのは、初雁さんです」
「カレンダーをご覧なさい。今日は日曜。こんな書き入れ時に、客商売が休業なんて、世の中をなめているわ。そして私は首相のパートナー。私は偉いの。下々の者が働くべきでしょ」
「……だったら、ああいう雑用、アストレラに頼むものですか?あたし、劇団『陽』に入るまで、アストレラっていうと、『東京乙女歌劇団』で言うところのセンターみたいなものだと思ってたんですけど」
「現実と想像は、いつでも別物」
「そもそも、このはは衣装担当の美咲さんのご自宅の用心棒で、流衣は同じく衣装担当のみしおちゃんの買い出しの手伝いって……二人ともどれだけか弱いんですか」
「美咲さんのお宅の用心棒は、このはの有志。同居人がモデルのお仕事のために暫く家を空けるから、その隙に二人きりになりたいんじゃない?みしおに関しては、このところ元気ないみたいだし。二番手兼任なのだから、あんなに暗い顔ばかりされていては、舞台に差し支える。お気に入りのお姉様とデートでもさせてあげようかと思って」
「意図は分かりました。ってか、ほんとに、のはなはこれ以上働かせちゃまずいんで、帰らせてあげてくれません?」
「ああ、貴女は、のはなのお世話係だったわね。あの石頭なご両親に咎められる?……大丈夫。私が圧力をかけて黙らせておくわ」
沙織が優雅にソーサーを持ち上げて、ブーケの香りをまとったカップを傾けた。
まひるがこの沙織と律と関わるようになったのは、最近だ。
律は、芸術保護法に準じて、アマチュア商業劇団『陽』を立ち上げて、保護している。以前は自らプロデューサーも務めていたが、首相に就任して以来、その役目は沙織に一任したという。
まひるは、少し前、沙織と律に、その劇団『陽』の役者としてスカウトされた。
二人の目当ては、正確には、のはなだった。だが、のはなの両親は生きた化石レベルに保守的で、その返答は芳しくなかった。それでも折れなかった沙織と律は、まひるをお目付け役に伴わせることを条件に、のはなの借用許可が出されたという。
そうして、今の状態に落ち着いたというわけだ。
『Pastel blue』は、件の劇団『陽』のメインキャストの二人が営んでいる店だ。
有川流衣(ありかわるい)と弦祇このは(つるぎこのは)、まひるはのはなと、今日、かの二人の留守を守って、ここを切り盛りしていたのである。
「あ、そうだ」
「何か?逢見さん」
「私もお代わり。アールグレイのホット。人肌に温めたミルク付きで」
「──……」
「ちょうど良かったわね、まひる。今度はのはなに淹れさせなさい。お嬢様のお手並みを拝見したいわ」
「一瞬、一気……一気……お湯は一気に注ぐと葉が開きやすいんだって……頑張れっ、やった、のはな上出来!」
まひるは、のはなが律のオーダーした紅茶を仕上げるなり、拍手を送った。
のはなは、やはりまひると同じく、とりわけパンキッシュな『Pastel blue』の制服を身につけていた。その持ち前の優美な気品は、今朝までのロリィタの姿でなくても、健在だ。
淡いピンク色の陰影のついた一重の目許に黒目がちな双眸、低く小さな先に、きめこまやかな白い頬、とても甘く可憐な声を奏でる唇は、薄いながら柔らかそうで、艶やかだ。そして艶かなミディアムシャギーの黒髪の被さる撫で肩は、抱き寄せれば折れそうなくらいたおやかだ。
まひるは、つと、自分の右耳の近くで結んだ焦げ茶の髪の一房が、引かれた気がした。
のはなの目に、悪戯な色が浮かんでいた。
「さっきから、まひるの視線を感じるわ」
「そう?」
「あのお父様に優等生扱いされている、『Fairy Party』の従業員は、女の子に優しい眼差しを注ぐのが得意だもの。私、見つめてくるのがお兄様なら気が付かないほど何ともないのに、まひるは別。……ほら」
「…──っ」
まひるの片手がのはなにぎゅっと握られて、その胸元へいざなわれていく。
赤いサロペットから覗いた白い襟元に触れた指先の芯が、とてつもない顫えに怯える。
「のはな……、何がしたいの?」
「私がどきどきしているか、まひるに確かめて欲しくて」
「のはなって、たまに大胆。好きでもないやつに、そういうことしちゃダメ」
「私は、好きでもない人を婚約者と呼んでいる、箱入り娘。どうせ普通じゃないの」
「……のはなと一緒にいると、普通の概念分からなくなってく……」
「それで良いんだわ。世の中に正常なんて存在しない。まひるは、私に女として魅力がないと思うなら、どうぞこの手を振り払って?」
「──……」
「…………」
「あっ」
「どうしたの?」
「お茶、冷める。今度こそあの二人を黙らせられる出来──」
「もっと早く言って頂戴!」
のはなが台にきびすを返した。
まひるの今にも汗を握りかけていた片手が、自由になった。
「まひる、行ってくるわ。あっ、お客様たくさん!」
「えっ、あ、ほんとだ。のはな行って、オーダーあたしがやるから」
「ええ、お願い」
まひるはのはなを送り出して、メニュー表とお冷やの準備を始めた。
まひるが来客ラッシュの末、最後にメニュー表とお冷やを届けた客は、顔馴染みの青年だ。
青年は、ほんのり脱色した髪に、今時の洒落たスーツ姿、そしていかにも生まれ育ちの良さそうな雰囲気を備えていた。
左部祐一郎(さとりゆういちろう)、彼こそのはなの許嫁だ。
「いらっしゃいませ」
「まひるちゃん!ダメじゃーん、そんなやる気のない接客」
お前に割いてやるための、やる気はない。
まひるはありったけの無心を保って、祐一郎の手前にメニュー表とお冷やを並べた。
「ご注文がお決まりになりましたら──」
「ご注文?のはなちゃんを一つ。僕の可愛いお姫様はどこ?」
「のはなは休ませています。左部さん、何故ここにいらっしゃるんですか?」
「劇団『陽』のブログを見たんだ。今日は三番手ちゃん達が、『Pastel blue』を店番してるって、あちらのお姉さん達が書いてたよ?」
「はいっ?!」
まひるは沙織と律のいる席に振り向いた。
二人、全く知らない顔をして、優雅に紅茶を味わっていた。
「──……。左部さん」
「ん?」
「絶対に、のはなのご両親には黙っていて下さい」
「もちろん。僕は友情優先だからね。流衣ちゃんの血縁的なお兄さんと僕は、学生時代の腐れ縁だ。その流衣ちゃんを手伝ってあげている君達に、僕が危害を与える理由はない」
「では、お決まりになりましたらお呼び下さい」
「あっ、注文は、のはなちゃんの制服姿──」
「のはなにメニューをとりに来させますから、お茶をオーダーして下さい」
「オーケー。まひるちゃんも、彼女を呼べば良かったのに。最近のお気に入りは、企画部の結辺みきの(ゆいべみきの)ちゃんだっけ?」
「みきにも黙っていて下さい。ブログはすぐに消してもらいます」
まひるは祐一郎に一礼して、沙織と律の席へ急いだ。
* * * * * * *
このはは、ケルト通りからバスで二十分ほど揺られた先の、さくらの私宅のリビングにいた。
午後三時を過ぎた頃、甘くて渋い香りが鼻を掠めた。それから、からんからん、と、グラスと氷のぶつかり合う音に、綺麗なメゾが重なってきた。
「このは先輩」
このはの斜め後方から、奢侈な提灯袖が伸びてきた。
そしてテーブルに、アイスティーにスコーンの盛られた皿にジャム、ミルクが並んでいく。
このはの斜め後方で、栗色の巻き毛にグレーがかった翠の双眸、端正とれたドールそのものの少女が、微笑んでいた。さくらだ。
さくらは、このはと同じ『Fairieta Milk』の洋服に身を包んでいるのに、全然違う。それは、さくらの主流がサーモンピンクで、このはのそれがサックスという所以だけではなかろう。
「さくらちゃん。お構いなく」
「お昼ご飯、いただき損ねてしまいましたので。休憩がてらご一緒したいと思いましたの。お邪魔でした?」
「ううん、嬉しい。スコーン、さくらちゃんが?」
「ごめんなさいまし……莢ちゃんが、今朝、作って残していってくれましたの」
「ふぅん。あの子、相変わらず手先だけは一人前なんだ」
このはの隣にさくらが腰かけてきた。
二人、いただきます、と手を合わせる。
「このは先輩は、お料理なさいませんわね。ハンドメイドは、たまに、されてましたのに」
「やったら雨が降るくらいの低確率でね。さくらちゃんと会わなくなってからは、全然しなくなったよ」
「このは先輩にいただいたネックレス、ダリアの飾りの……今も、とってあります」
「──……。私も、スマホに変えても、さくらちゃんのストラップ、金具変えて使ってる」
「一目で分かりました。嬉しかったですわ」
このははアイスティーを啜って、さくらの眩しい笑顔が視界に触れないよう努める。
瑞々しい白桃の匂いをまとったグラスを置いて、いかにも手製らしいスコーンを半分に割って、苺のジャムをスプーンに掬う。
「私、スコーン好き。苺も」
「正解でしたわ。このは先輩、お出かけご一緒した時は、苺かチョコレートのスイーツばかり選ばれてた覚えがありましたの」
「チョコレートは、手作りのスコーンにはもったいないもんね」
「もっと、たくさん、このは先輩とお出かけしたかったですわ」
「…………」
「この家、鍵は丈夫に出来ているのですって。私だって……、それに、莢ちゃんのお留守番は慣れております」
「さくらちゃん……」
このはは一口サイズに千切ったスコーンを口に含んで、バターと苺の二重奏を味わう。
悔しいことに、美味しい。これがさくらの手製なら、一生記憶にこびりつけていただろう。
「このは先輩」
このはのまとう花籠に入ったウサギがプリントしてあるサロペットの裾に、さくらのサーモンピンクのドレープの入ったジャンパースカートの膨らみが、被さっていた。
これだけ近くにいられたのは久々だ。劇団『陽』の稽古中も、屡々、一緒になることはあっても、やはりこれだけ肩が触れ合いそうに近かったことはない。
「用心棒、必要なかった?」
「違うんですの」
「──……」
「私、……莢ちゃんとは、お友達で……」
「うん、分かってる」
そして、このはも流衣とは、巷で噂されているような関係ではない。
ただ、昔とは、何かが変わった。恋が大事か、恋とは異なる愛が大事か、そこに気づいてしまった以上、軽率な思いは口に出来なくなってしまった。
それでも、いつまで、そんな綺麗事に自ら縛られていられることか。
「…………」
このはは、さくらの横顔を確かめる必要もない。
ただ隣に並んでその雰囲気を感じるだけで、同じ空気に包まれているだけで、狂おしいほど満たされる。狂おしいほど、胸の奥の何かが渇く。
「さくらちゃん……」
このははスコーンを皿に戻して、ナプキンでバターの滑りを拭うと、さくらの片手をそっととる。
いっそのこと、本当に強盗でも入ってきたとする。さすれば、さくらを庇って、わざとでも花と散れるのに。
このはは、ここに用心棒で滞在しているなんて、所詮さくらと二人きりになりたい口実に過ぎなかったのだと自覚した。
* * * * * * *
街が西陽に染まる頃、『Pastel blue』の客足は、緩やかになる。
まひるとのはなは、劇団『陽』の次の公演に向けた、歌の個人稽古を始めていた。沙織と律の提案だ。
「ぬるいわ」
「今度こそすみやかに持ってきましたが」
「お茶じゃなくて、歌」
「ええっ?!」
「声に力が入っていない」
「そもそも振りつけ、地味」
「演出通りにやっております」
まひるは、のはなと顔を見合わせる。
たった今、二人の歌ったデュエットは、つまるところ、こてこてに甘ったるいラブソングだ。曲調はバラードとクラシックの中間、歌詞は極めて濃密で、世界観だけを説明すれば、さしずめ演歌だ。
もっとも、ここで重きを置くのは、楽曲がどうこうというところではない。
「大体、カラオケならともなく、アカペラで無理です。羞恥プレイじゃないっつーの」
「店先の看板、『close』に裏向けてきたでしょ?個室も同然」
「お兄様がお帰りになっておりません」
「じゃ、振りつけ。間違ってはいなかったけど、あまりにマニュアル通りっていうの?雰囲気がない」
「──……」
やにわに、第三者の気配が近づいてきた。
「お姉さん達」
「左部さん」
「部外者の僕が口を出しては、さしでがましいかも知れませんが、手本を見せてあげてはいかがですか?」
「お兄様!」
「僕の父は、社員に常々言っております。仕事を一から十まで教えてもらうな、六から先は、上司の姿を見て学べ……と。つまり、言葉では伝わらないこともあるのでしょう」
「貴女のお父様の話はどうでも良いとして、一利あるわ」
沙織の秋波が悩ましげな色をまとって、律に向いた。
「そうだけど、沙織?私は今の新曲覚えてないわよ。昨日、東京から戻ってきたばかりだし、紀香が楽譜を届けてくれたのだって、三日前」
「問題ないわ。振りだけなら、……何なら、昨日のベッドでの私達を再現して差し上げなくて?」
「ふざけてるところじゃないでしょ」
「私達の雰囲気を、少しでも二人に教えてあげて、損はないと思っただけよ」
沙織の両手がしおらしいカーブを描いて、律から離れた。
「まひる」
「はい、何ですか?初雁さん」
「私のお姫様にはフラれちゃったから、貴女達、一人ずつに私が手ほどきして差し上げる」
「いつ私が沙織のお姫様になったって?」
「間違っているところがあって?」
「ある。沙織が私のお姫様」
「…──っ、……」
沙織の、いつも自信に満ちた光を湛えている双眸が、たゆたった。
「ねぇ、まひる」
「ん?」
「初雁さんと逢見さんは、敷居が高いわ」
「うん……」
「まひるとみきさんくらいが良いわ」
「──……」
それは、社内恋愛禁止令に従う社員を気取る努力が、効をなしているだけだ。
「さ、まひる。やるわよ」
「あたしから?」
「私の指導を侮っては、後悔することになってよ。何せ流衣達の先代は、二人ともド素人だった。それが私の手ほどきで、一ヶ月も経たない内に上達したわ」
「本当ですか?」
「巨乳の方は、知らないけど」
「──……」
「とにかく、さっきの歌の、まずBパート。ここで初めて見つめ合うでしょ」
まひるの真ん前に沙織が進み寄ってきた。
媚薬のように妖しい眼差しに絡め捕られたかと思うが早いか、片手が、すっと持ち上げられていった。
「そこだわ」
「え?」
「愛想良く微笑んで」
「……のはなじゃないと、出来ないです」
「手強いわ。私の誘惑が足りないのね」
「だから、何で、いつもそう負けず嫌いなんですか!……あっ」
背中に、上等なシフォンに覆われた腕が伸びてきた。
ぞっとするほど優しい腕に、ウエストを軽く引き寄せられて、いつもは副業の上司に過ぎない美女との距離が、まるで恋人同士の距離になる。
「こうして」
「はい……」
まひるは沙織の腕が離れていくと、たった今されたことをそっくりそのまま模倣した。
「見つめて。……そう、その視線。私の色気、すごいでしょ」
確かに、すごい。自意識過剰だとか突っ込む以前に、生理的にどきどきする。
「振りは、心。仮にアドリブだらけだって、心があれば味になる」
「なるほど」
「まひる」
甘ったるいアルトの声に包まれて、悩ましげな指先が、伸びてきた。
まひるの頬に、得も言われぬ質感が到達したその瞬間だ。
「っ……いやっ!!」
それは、夢の中で突然階段を踏み外した時の感覚に似ていた。
まひるは沙織を突き飛ばして、その腕から逃れていた。
「あ……ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてたら、吃驚して……」
「この前も寝不足だとか言って目眩起こしてなかった?不眠症?」
まひるは律に、首を横に振る。
急に人肌が怖くなる。いつも誰かと一緒にいないと不安になるくらいなのに、ふとした時、触れられると、本能が底知れない何かに襲われることがある。
みきのだけ、何ともなかった。多分、あの甘えたで優しい女性は、まひる自身気が付けない深層心理も、ガラスのブーケをくるむレースの如く、ふわふわ寄り添ってくれるからだ。
「初雁さんのお陰で、振りについては、何となく分かりました。次は、のはなの相手を」
「そうね。さ、のはな」
「はい……」
「沙織、娘役の相手なんて出来るの?」
「好きこそものの上手なれ」
「──……」
今一度、一同の不信を露にした視線が、沙織に集中していった。
のはなの右手が、すっと、沙織の左手に伸びていく。
* * * * * * *
午後六時を過ぎた頃、流衣とみしおが帰ってきた。
まひるとのはなは、二人に『Pastel blue』の業務をバトンタッチした。それから今夜の稽古が始まるまでの間、休憩をもらった。
まひるは『Innocent garden』の甘辛ゴシックパンク、のはなは『Fillete rose』のロリィタ服に着替えて、ケルト通りを出たところの大通りのカフェに移った。
二人、そこで夕飯をとりながら、夜の街を眺めていた。
「芝居も歌も、まだまだ分からないことだらけだわ……」
「稽古始まったばかりだもんね。本番まで三ヶ月あるし、何とか頑張ろ」
「ええ。出来なくない気はするわ。今日だって、少しはコツが掴めたもの。さすが、本当に恋をしている初雁さんは違う。まひるだって上手いけれど、私が多分、いつも足を引っ張ってるんだわ」
「考えすぎだよ。あたしがのはなによそよそしいって、日々の稽古じゃダメ出しされまくりじゃない?」
「まひるは私に馴れ馴れしくなるように。私は、恋について考えられるように。……そういう目標を持てるって、楽しいわ」
「何となく生きてるよりは、それはあたしも」
「外出は家政婦さんと一緒に。恋もダメだった。お洒落も自由にさせてもらえなくて、『Fillete rose』のお洋服は処分されないよう、今でもクローゼットの奥に隠して仕舞ってあるの。受験を控えた中学生みたいでしょ。婚約者のお兄様とでさえ、正式に籍を入れるまで、手も繋いではダメだって、言いつけられてる。こんな私が初めてこんなに近くにいることを許されたのは、まひるだけ」
「のはなのご両親らしい」
「…………」
ただ、のはなにおいては、まひるが少し前まで想像していた人物像とはかけ離れていた。
「のはなは、恋してたって、話してくれたことなかった?」
「そうね。お母様が寝込んじゃって、私が唯一、親不孝をした若気の至り」
「──……」
「ねぇ、まひる」
まひるがアイスティーを啜っていると、強烈に甘ったるい視線を感じた。
のはなの一重に煌めく黒い瞳に、捕らわれていた。
「本音を言えば、ファーストキスは、まひるが良い」
「えっ?!」
「誰から見たって贅沢ね。私、学生時代は優秀な家庭教師に付いてもらって、成績に悩んだことないの。卒業したら、この通り、仕事なんて一度だってしたことなくて……習い事三昧だった。接客なんて今日が初めて。この先も、きっと、お兄様が叔父様の会社を引き継いだ後、私はあの人の家内になって、ぬくぬく守ってもらって生きていくんでしょう。……そうやって、人生ごと、私の身体は周りの好き勝手にされるんだわ。だけど心は、……」
「あたしにくれるの?」
「ううん、まひるは幸せにならなくてはいけないもの。私みたいに救いようのない女、構っていたら、伝染するわ」
「──……。そんなこと、ないよ……」
同情ではない。そして、のはなを閉じ込める暗闇に、寄り添いたいわけではない。
まひるは、ただ、のはなの想いを受け入れられない。
幸せになってはいけない。幸せという概念さえ曖昧なこの世界の片隅で、されど、自らそれだと認める答えも、現実に望んではいけない気がしていた。
記憶に染みた誰かの声に、いつも戒められてきたからだ。
貴女の痛みが私を支える。貴女の苦しみがあってこそ、まだ生きていられる。
まひるは、いつだったか誰かにそんな風に言い聞かされて、そのぎりぎりの笑顔に安堵していた。
「ねぇ、誰かの意思に従うの、怖いって、思ったことない?」
「のはなはあるの?」
「怖いって思わなかったことの方が、ないわ」
「──……。そっか。羨ましい」
「何それー。それだけ?」
くすくす、と、甘ったるい笑い声が立った。
ちらと盗み見るその横顔は、痛々しいほど華やかで、うっとりするほど美しい。
「のはなのためなら、いつでも行くよ」
「え?」
「あたしはピュアな乙女の味方。のはなみたく完璧なロリィタさんが、一人で嫌な思いをしている時に、放っておけない。……仕事中でもデート中でも、メールしてくれたら駆けつける。必ず」
「まひる……。……ふふっ、噂の通り、女の子の喜ぶ台詞もお上手ね」
「こんなこと他の誰かに言わないよ。のはなだから、あたしじゃなくてのはなの都合で、側にいて、愚痴も聞くし、ハゲの悪口だって一緒に言うし、キスでも添い寝でもご希望のままに」
「──……」
まひるはのはなの視線に気づかない振りを貫いて、ナプキンを畳む。
不思議な存在だ。
これがのはなでなかったとする。さすれば、これだけ強烈な視線を浴びせられれば、引き寄せて、その腕の柔らかさを、腰の線を、眼差しの色を、今すぐにでも確かめる。さっさと連れ帰って、身を飾るだけの邪魔なものをはぎ取って、そのぬくもりを熱に変える。
それなのに、まひるは、のはなにだけは触れられない。
そこに恐怖は全くない。ただ甘ったるい躊躇いに、阻まれる。
「…………」
まひるの、フリルレースの袖に覆われた片手首に、のはなの手のひらが重なってきた。
「お父様、最近、ますます禿げたんですって。……本当に、メールするわよ」
「毎日でも」
「部屋に女の子のいる時間を狙うわ」
「相手役だって言わないで、お姫様だって言って、君の側へ」
「…──っ、……」
すずらんの刺繍の入ったレースに、くしゃっ、と、皺が入った。
まひるの視線とのはなのそれが、絡み合う。
運命の赤い糸とはよく聞くものだ。
まひるは最近、ますますそれが分からなくなっている。
運命と赤い糸とは、別個に存在しているものではないか。
赤い糸はいらない。同じ生き道に結び合わせてくれるものなどいらない。
まひるにとって、のはなと出逢って関われた、この運命だけで、十分だ。
「そろそろ時間ね」
「行こっか。のはな、台詞覚えた?」
「ぎりぎりかしら。まひるは?」
「ごめん、忘れてたら言って」
「それは私のお願いすることになるかも」
二人、レジを済ませて外に出ると、冬の匂いをまとった風が吹きつけてきた。
漆黒の天鵞絨の色をした夜空に浮かんだ月が、ほんの少し欠けていて、まばゆいほど明るく輝いていた。
──fin.
妖精カテドラル