髄まで溶けて
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 あの一言から、私は自分の最後を決めていた。
「ねぇ、シンシャってどんなやつ?」
 私たちの中で一番の末っ子が、薄荷色の髪になんだかよくわからないゴミをくっつけながらそんなことを聞いてきた時から嫌な予感はしていたのだ。何せ、他の誰かからその名前が出てきたのが数十年ぶりだったから。
「……どうして?」
 誰よりも脆いフォスフォフィライトはその硬度に見合わずひどく前向きだ。産まれてもう300年は経ったろうか、にもかかわらずいまだにきちんとした仕事がない。戦いたいとごねているのをよく見かけるが、もちろん全員が反対した。というか無理だと誰でもわかっているのに、この子はめげずに戦うんだと言い張っている。この子自身が理解できないっていうのはどうなんだろうと誰かと話したりした。他の仕事も一通りさせて100年、どれも肌に合わないだのこんな器じゃないだのと訳のわからないことを言ってはやっぱり戦いたいと回帰する。馬鹿だもんなぁとぼやいていたのは…誰だったろうか。みんなかもしれない。
「ほらあの、仕事のアレで」
「何も伝わってこないなぁ」
 触れないように、ふぅと息を吹きかけて謎のゴミを吹き飛ばせば、驚いたのか目をパチクリとさせている。かと思えば途端に甲高い声をあげて暴れ出したので慌てて距離をとった。
「やめてよ好きな顔でそんなこと!」
「そらどうも」
 ふわりと飛んでいったゴミはどうやら干からびかけた野草だったようだ。一体いつからフォスの頭に乗って天日干しにされていたんだかと思わず笑えばお気に召さなかったらしいフォスから抗議の声が上がった。
「だから!シンシャ!!」
 シンシャ。毒を振り撒くせいで一人夜の警備に当たっている深紅の宝石の名前。なぜフォスが彼のことを気にかけるのかはよくわからないが、フォスがしっかり言葉を話せるようになった頃にはもう一緒には暮らしていなかったっはずだ。接点らしいものもないだろうし、シンシャの仕事の時間である夜にフォスは起きていられないだろう。はて、と首を傾げてもわからなかったので諦めてフォスの質問に答えるべく思考を切り替えることとした。フォスが答えろと飛びついてきそうな顔をし始めたので。
「頭がいい」
「それと!」
「顔がいい」
「もういっちょ!!」
「根暗」
「いらない!!」
 あー!と大袈裟に叫んで倒れ込んだフォス、ぴき、と嫌な音がして動かなくなったのでどうやら床にも負けたらしいと大きくため息を吐き出して襟を掴んで引きずってやる。面目ない、とあまり堪えてはない声色で謝られたが可愛い末っ子のちょっとしたドジくらい許してやろう。
「根暗ってどんなレベル?」
「自分はこの世の全てを汚して生きているんだって錯覚してるレベル」
「ヤダ重度じゃん……」
「フォスと足して割ったらちょうどいいかなぁ」
「ルチルみたいなこと言うな!怖いよ!」
 ああ言いそう、とちょっと笑ってしまう。「笑うなよ許しちゃうから!」と理不尽な怒りが飛んできた。どんだけ私の顔が好みなんだろうこの子は。
「それで?誰に私に聞けって言われた?」
 う、と初めて首が閉まったかのような音を出したフォスが、決まりが悪そうにぼぞっとジェードと零した。委員長か、なら仕方がないかと自嘲を零す。私とシンシャのことを色々聞いたからこそ気まずげにしているのであろうフォスに素直だなとまた笑ってしまった。それでも聞きにくるあたりもフォスらしい。
「昔組んでた……えーっと」
「ガーネット」
 太陽の光の下にいると誰よりも主張が激しいくらいに輝いて、フォスにも負けないくらいの前向きさと直向きさを持っていた。自分のことは二の次で気がついた時には庇われていることが多かった。砕けた彼を見たのは数えきれないし、欠けていく彼に信じられないくらい塞ぎ込んだこともあった。
「その、シンシャが……」
 流石のフォスも、言葉にするのを躊躇ったのかそこから医務室までは沈黙を保ってしまった。ルチルに見つかった途端逃げようと暴れて、結局罅が入ってた背中から開いてしまったのでやっぱり馬鹿だななんて思ってしまった。



 未だにあの時の衝撃は鮮やかすぎるほどに残っていて、一言問いかけてきたガーネットの声も耳元で響いているかのように覚えている。
 事故だった、本当にただの事故。いつものように月人がきて、いつものようにまたガーネットに庇われてしまって、たまたまそこに居合わせたシンシャが同じく私たちを庇おうとして。一瞬ガーネット越しに見えた空が布のような何かに覆われたかと思った時には私も割れたようで、気がついた時にはルチルが目の前にいた。どこか話しにくそうにしていたルチルは、視線をよろよろと漂わせていて。常であれば目覚めた時に見えるはずの夕陽を溶かし込んだようなガーネットの色がどこにもいなかった、その時点で異常であることはわかっていたのだ。
「咄嗟の、ことで……彼も慌てていたようです。制御もままならなく」
「ガーネットは?」
「……シンシャの水銀を」
 跳ねるように寝台から飛び上がり、転がるように走り出す。咎めるような尖った声が背中にぶつかったが、それは後押しにしかならず余計に裸足の足が進む。途中誰かにぶつかりかけたり、つまずいて転びそうになったりしながらなんとか見つけた夕陽色は、ポカンと口を開けて彼自身の部屋で寝る支度を済ませていた。目があった途端、ああ、と絶望というにはほど遠い程の何かをこの時私は確かに感じたのだ。
「誰?」
 一言だった、たった一言問いかけられただけだった。それが全てで答えだった。随分と体が薄くなっていた彼は、どうやら私のことを綺麗さっぱり削ぎ落としたらしい。内側から砕けて、破れて、砂になっていく。
 翌年ガーネットが別の宝石の組んでいた時に月に行ってしまうまでずっと、私は碌に彼と話すことなく静かにこの瞬間に取り残された。本当に怖いものと一緒に、ガーネットの最後の一言と寄り添うように。

 そう、だから、決めていた。
 何よりもずっと怖いことはずっと身近にあって、恐ろしいことに私自信をも常に蝕んでいるのだということに気がついてからずっと、こうすると決めていた。
「ねぇシンシャ、私はあなたを恨んでなんかいなかったよ」
 夜に月人がこないなんて嘘だと、教えてくれたのは皮肉にもフォスだった。空がガーネットの色に染まり始めたあたりでシンシャを探しに外に出て、暗い中見事に月人を呼び込んだフォスに、最後の決心がついてしまった。
シンシャがずっと私に負い目を感じていることはわかっていた。賢明すぎる彼だから、ガーネットのことを私に謝りにこないことも、赦しを望んでいないことも、背負っていく覚悟であることも分かりきっていた。賢明で、優しくて。だからこんな暗いところに独りぼっちであることを受け入れてしまっている。傷だらけでいろんな後悔を体に詰め込んでいる彼は月明かりの中でもやっぱり綺麗だった。
 彼のこんな顔は、初めて見たかもしれない。もしかしたらガーネットに毒を纏わせてしまった時と同じ顔なのかもしれないけれど、できればそれよりもうちょっとでも、絶望してくれていたらなんて望んでしまう。
「ごめん、でもガーネットばかりずるいじゃない?」
 口角を上げたつもりが、視界が砕けた。こんな私でも守ろうとしてくれたのか、顔の右側は彼の毒がこびりついていて何も見えない。自分から捕まりにいくような愚か者、放っておけばいいのに。案の定、優しい彼はちゃんと絶望してくれている。体が欠けて、私の記憶を亡くしたガーネットを見て思い知った。忘れられてしまうことの恐怖を、悍ましさを。体が欠けなくたって、知らぬ間に取りこぼしていくのだ。時間が経つと、あれをしたのは誰だっけ、ああ言ったのは誰だっけ。そうやって薄れていくことがひどく怖いものだと知った。
 そんな中、ガーネットのあの一言だけは、忘れたくても忘れられなかった。すごいと思った、いいなと思った。私もこんなふうに誰かに残りたいと願ってしまった。
「シンシャ」
「待って……」
 ぼろぼろとまぶたの隙間から銀色の毒をこぼしながら、縋るように手を伸ばしてくれるシンシャに一番綺麗に見えるように笑う。産まれてきてから一番、清々しい気持ちだった。
「全身で、私のことを覚えていてね」


2022.02.24