衆合の底で待っていて
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 ちくり、ちくり。
 耳には聞こえないそんな音が、私の手元から奏でられている。
 寒さで悴む指先を時折息をはぁと吐きつけて温めながら、解れてしまっている羽織の袖を縫い付ける。使っている針が中央部分で波をうっていて、そのせいで裏側から針を通すのに苦戦させられる。目も冴える様な萌黄色だった羽織は、いつのまにかすっかり色も褪せて草臥れ、指の腹で触れていると毛羽立ってあちこち糸が飛び出してしまっていた。そのざらつきに爪が引っ掛かるたびに時間の経過を思い知らされて、ちょっとだけ息苦しさを覚える。
「そんな針、危ないだろ」
 修行の最中に頭を強く打ちつけたらしい善逸が、布団に横になりながらそう声を出した。いつも通り叫び疲れた喉から囁く様に零れた声は案の定掠れていて、普段よりもずっと低い。
「うん、だから使ってる」
 今日も泣いたのか、それとも寒さからか鼻の頭が色付いている。
 それを見てまた指が動きにくくなったような気がして両手の中に息を吹きかけた。
「今日で供養するの、この針」
「供養?」
「針供養、知らない?」
 萌黄色の袖から曲がった針が伸びてくる。引き抜く時に銀色のそれがまるで生き物のようにうねりながら出てくるのがなんだか面白くて、それでもきちんと直っていく袖口に切ないような、寂しいような形容しがたいなにかを感じた。
「たくさん働いてくれたから、最後に柔らかい場所に刺して供養するんだよ」
「柔らかい?」
「お豆腐とか、こんにゃくとか」
 へぇ、と関心が薄いのであろう生返事になんと返せばいいのか分からなくなって、黙々と手を動かす。
 ちくり、ちくり。
 冬は日が落ちるのが早い。この世には、鬼と呼ばれる人を喰らう化け物がいて、奴らの活動時間である夜の長いこの季節が何時しか嫌いになっていた。白銀に飾られた木々、吸い込まれていくように雪中に潜り込んでいく音。あらゆる生き物たちが眠りについて、ただ静かに春を待つ。
 鬼もそうだったらよかったのに、なんてありもしないもしもを考えてしまうくらいには冬の全てが怖かった。音を殺してしまう柔らかな雪も、血だけは鮮明に残してしまう白も。ここは雪が積もらないからまだましかな、でもこうやってすぐに指は悴んでしまう。
「最後に柔らかいところかぁ、俺もそうだったらいいなぁ」
 ふふ、とたんこぶ瘤をこさえた額を撫でつけながらにへらと笑う善逸に呆れてしまう。きっと、女の子の膝の上だとかそういうことを考えているのだろう、だらしない顔をしていた。
「すけべぇ」
「なにがだよ!」
 鼻先の赤みが埋もれてしまうくらいに頬を赤らめて声を上げた彼に、少しだけ安心してしまった。変わらない部分もちゃんとある、どれだけ時間が経ったって揺るがないものもきっとあるのだ。善逸と、何気ないやり取りをしている時が一等落ち着きを、安堵を感じられた。
「いた」
 ぐっと押し込んだ先に人差し指があったらしい、針の先がそこに沈んでしまったらしく驚いて声をあげてしまった。そんな私をみて起き上がった善逸が、呆れた声で笑いだす。
「ああほら、そんなの使うから」
 だめだよ、寝ていないと。そう窘めても大丈夫だからと起き上ってしまい、枕元に出しっぱなしになっていた救急箱の蓋をぱかりと開けた。
「ほら指出せって」
 急かすように胡坐をかいた膝をタンタンと叩いて手を差し出してくる善逸に、なにを言っても聞き入れないという空気を感じてそっと羽織と針を手放した。
「あー、結構深く刺してるし」
「そうかな……」
「てか手冷た」
 先ほどまで布団の中にいたからか、それとも元から体温が高いからか確かに善逸の手はとても温かかった。触れた手の温度が沁みこんでくる。
 皮が何度も剥がれ、豆が潰れて時には骨を折って。分厚くてごつごつとした大きな手。最初にあった頃とは全然違う戦う人の手。
 そして、ここからいなくなってしまった彼とも全然違う優しい手。
 ちくり、ちくり。
 ぷっくりと赤い水玉を載せた人差し指が少し強く握りこまれて、じんわりとした鈍い痛みが背筋を震わせた。
「あったかいね、善逸の手」
「お前が冷たすぎんの」
 布を当てられてまたぎゅうと強く押される。
 ちくり、ちくり。
「痛い?」
「ちょっとだけ」
「……ふーん」
 彼の手は、もう少し冷たかったような気がする。そしてこんなに優しくなかった。ぶっきらぼうで乱暴で、でも無茶をするからとっても傷が多くって。
 なんども払いのけられた、繋ぐというよりも掴まれると評した方がしっくりとくる粗雑な扱いをされた。それでも、確かに温度があったあの手のことをこうして思い出せるくらいには、しっかりと私の手を引っ張ってくれたのだ。
「痛い?」
 あれ、と善逸の声に思考が途切れた。先ほど同じことを聞いて来たではないかとボンヤリと指先の赤を見つめていた視線を上げる。俯いているせいなのか前髪から覗く目元が、なんだか少し仄暗く見えた。行燈の根元、周りが明るいせいで一等暗く見える足元。怖いとは少し違う、それでもジッと見ていると悪いことを考えてしまいそうな、そんな暗闇。光に寄り添う癖にぽっかりと口を開けてこちらを飲み込まんとするそれが善逸の目元に影を灯していた。
「……平気だよ」
 言葉を口に出す前に舌の上で何度か転がして、そのうえで恐る恐る舌先でそっと押し出すように吐き出した。薄暗く灯っている瞳は、真っすぐと私の指先の赤い玉を見つめていて、いい加減強く握られた指先の感覚が遠くなってきていた。もう痛いのか善逸の手が熱いのか分からない。
「お前さぁ」
 掠れている声のせいでぐっと低い善逸の声が唸る様で、空っぽの内臓の中の空気が震える。振動が体の内側から外に這い出てきたようで、ぶるりと背筋が粟立った。ぎゅう、これ以上ない程力を込められていたと思ったのに更に指先を掴む力が大きくなって思わず眉が寄った。浮かんでいた赤い玉が耐えきれないとばかりに崩壊して善逸の指先を汚すようにつ、と転がり落ちていく。
 あ、と零れた声がなんだか妙に弱々しくて自分の口から飛び出したのかと思わず反対の手で口に蓋をする。まるで、痛がっているような、そんな音になってしまった。不意に、指先の圧迫が緩む。今まで堰き止められていた血液が我先にと指先に駆け巡っているかのようにじわじわと熱が集まってきている。
「煩いんだよ、ずっと」
 するりと布を手に取った善逸が、俯かせていた顔を少しだけ上げてぽつりとつぶやく。
「痛そうで、聞いてらんない」
 ちくり。
 善逸は怖いくらいに優しい。
 優しくて、人の柔らかいところには絶対に踏み入ってこない。そんな彼がすごく悩んで、やっと放った言葉はそれでも浅いところで踏みとどまってくれている。
 嗚呼、私は酷い奴だと改めて実感する。痛そうなんて言っている善逸の方が、よっぽど痛そうで苦しそうで、息もしにく難そうだ。それなのにどうしても、頭を過るのは夜の化け物になってしまったという、彼の事ばかりだ。
 とんでもない裏切りだった、やってはならないことだった。そのせいで親のように慕っていた師匠は腹を斬り酷く苦しみながら死んでしまった。長く血を流したのであろう、苦悶の表情で息絶えていた師匠の顔が寝ても覚めても瞼の裏に張り付いている。
 だからこそなのか。もう殺すしかなくなってしまった彼の事を回顧してしまうのは。親の仇である彼の最後に、せめてなんて言葉が出て来そうになるのは。

 善逸の羽織の中で埋もれている針に思う。
 そんなになるまで頑張ったのだから、最後はどうか柔らかい場所で。

20220320