世界を語るには、まだ足りない
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「少し見ていきませんか?」
 唐突にかけられた言葉に首を傾げた私に、アレンが静かに目を細めて笑った。
 無邪気なその笑顔を引き裂く様に走る赤い呪いが少し歪んで、どこか痛々しく見える。
「ローイクラトン、知りませんか?」
 聞き馴染のない音に素直に首を横に振れば、また楽し気にふふ、なんて笑う彼は随分と上機嫌であるらしい。
 任務の中継地点で立ち寄ったタイのとある町で、人々が何かを持ちながら川へと向かっているのをみて、なんだろうと思っていた時に提案された言葉だったが、どうやらアレンはあの人々がなにをしに行くのかを知っているらしい。
「水の女神に祈りをささげるお祭りですよ」
 宙を浮くゴーレムを一瞥し、うんともすんとも言わないことを確認して一歩足を進める。それだけでこちらの意図が伝わったのだろう、笑みを深めて誘導するようにアレンも足を群衆の方へと進めた。
 夕日がかなり低い位置にあるため、見上げた空は随分と茜色が遠のいていて淡いブルーのずっと向こうに一等星が主張を始めている。疎らに浮かぶ雲を背景にして名前も分からない鳥が群れを作って飛んでいる、なんてことはない平穏な一日の終わり。
「アレンはこのお祭り、来たことがあるの?」
「師匠と一度だけ」
 師匠って、と聞き返そうとしてその人物を思い出して辞めた。アレンの師匠であるクロス元帥は良くも悪くも教団の中では有名な人だ。酒、金、女すべてを溺れる様に貪り放浪する。唯一、二つのイノセンスを所有し敵を屠る姿は悪魔のようだとか……悪いところしか出てこなかった。
 そんな人なのでアレンは酷く苦労させられたようで、教団へも放り出される様にして向かわされたらしい。そのお陰で敵だと誤認され神田に殺されかけたなんて不憫すぎる。
 気を遣って元帥の名前をお互いの口から出さぬようにしたが、それでも遅かったようでアレンの顔が少しげんなりとしたものに変わっていた。
「お祭りっていってたけど、出店とかはあんまりないんだね」
 メインストリートといってもいいくらいに大きな通りを歩いているが、ぽつぽつと点在している路面店では、白い大きめの筒のようなものが置いてあるばかりでお酒や食べ物に関しては見当たらない。
「日が落ちたらきっと出始めますよ」
「お腹空かない?」
「まだ平気です」
 本当かなぁといぶかしげにジッと見つめれば観念した様に「少し」と白状された。アレンが見るからに楽し気に見に行こうなんていうものだから、てっきり大食い大会があるだとか、特産品が沢山出店にでるだとかそんなことだろうと思っていたのに違うらしい。
「あれって皆持ってるけど、なに?」
 丁度横を通りかかった出店で、少女が大切そうに抱えて持つ白い筒を指させば「コムローイです」と答えが返ってくる。が、そのあと言葉が続くことはない。
 あからさまにお祭りの事に関して詳しく話そうとしないアレンをいい加減不審に思いながら、言及は避ける。珍しくはしゃいでいるように見える彼に水を差したくなかった。
 二つほど歳が下であるはずのアレン・ウォーカーという少年は、周りの大人たちに遜色しないくらいには酷く子供らしさが欠落していた。教団にいる人間は総じてその傾向が強いとはいえ、アレンのこれは度を越している。そうならざるを得なかったのであろう過去が垣間見えてしまうほど、彼の人生とやらは壮絶で、凄惨だ。それが最近やっと、ほんとうに少しずつではあるが年相応の表情が見える様になってきたのだ。僥倖と評していいことだろうが、それを指摘してしまうとまた猫を被り直してしまう、そう確信もあったからこそ内心で微笑ましく思うだけに留める。
「二つください」
「買うの?」
「折角なので」
 ふらりと横道に逸れたと思ったらコムローイと呼んでいた物をしっかりと手に持っていて、差し出されるままに一つ受け取る。ついでとばかりに同じ店で売っていた軽食をテイクアウトしていて少し笑ってしまった。匂いにつられてこの店を選んだらしい。
 店の看板を見ると本来は飲食店のようで、そんな店でもこの白いものが売られているということに更に混乱を覚えた。周りを見れば他の飲食店や靴屋、魚屋にも平等にコムローイは売っていて、町全体でこの謎の白い物体を売りに出していることが伺えた。
「食べますよね?」
「ライス?」
「カオマンガイですよ、美味しいです」
 紙でできたバケツのような箱に入れられていたそれを覗き込めばライスの上に鶏肉が乗っている料理が詰め込まれていて、早速と言わんばかりにスプーンで食べて見せたアレンが幸せそうに笑う。
 その場で一箱開けてしまって追加で四つほど買おうとするアレンを見て店主が豪快に笑いながら大きい箱にたっぷりと料理を詰めてくれた。止める間もなく大量の料理を抱える羽目になったアレンから、そっとコムローイを引き取る。少し厚めの紙でできたそれは、よく見れば薄らと透かしの模様が入っている。下側には紐で吊るされた受け皿、その中央に短い蝋燭がちょこんと鎮座していた。薄らと、花の匂いが鼻腔を擽る。余計にこれがなんなのか分からなくなった。
「あっち、丘の方なら人が少ないので行きましょう」
 傾斜の緩い道をのんびりと歩く。丘の向こうは川が流れているのだろう、せせらぎの音が薄らとだが耳に届いた。
「あ、始まりましたね」
 もうすぐで川を一望できる場所に辿り着くであろう前に空を見上げたアレンが今日一番明るい声を上げた。釣られて上を見上げれば、ぽつんと何か、明かりの灯ったものがふわふわと浮いている。
いつの間にか空は紺色に染まり始めていて、煌々と輝くそれがとても近い場所にある星にも見えた。
「見せたかったんです」
 先に歩いていたアレンが、今度は川を見下ろしながらそっと呟く。静かな空気に倣って音を立てない様に隣に立って川を見下ろして。
 息を、飲んだ。
 真っ黒い川の水、その上に数えきれないくらいの星がまたた瞬いていて。ふわふわと水の上を流れている物もあれば徐々に空に浮かび上がってきているものもあるが、そのどれもがちらちらと温かい灯を放っている。
「コムローイ?」
「ええ、こうして灯をつけて空に飛ばすんです」
 いつの間にか足元に料理を置いたアレンが、私の手からコムローイを受け取る。ポケットに入れていたらしいマッチを擦って、蝋燭に火をつける様子が何だか神聖なものに見えて、揺れる火の光が照らす穏やかな顔がとてもきれいだと思った。

 穏やかな日常。
 なだらかな当たり前。
——私は、そんなものの為に戦いたくはなかった。
 教団から逃げれば、イノセンスを手放してしまえば手に入れられるものの為になんて死ねないと、そう思っている。何のために命を懸けているのか、何のために血反吐を吐き出して喘いでいるのか。どうか私の護っているものがとても美しく、かけがえのない特別なものであってくれといつも、いつも思っている。
「綺麗なもの、好きですよね」
 穏やかに微笑みながら手渡されたものをしっかりと受け取る。明かりのついたコムローイは、想像していた以上に美しく透かしの模様を浮かべている。
「せーので離しましょう」
 私の茫然とする顔をみれたのがよほど楽しかったのだろうか、悪戯っ子のように笑うアレンに首を縦に振った。世界が都合よく美しいものばかりでないことを私は知っている、こんなものに命を削りたくないと思う程醜いものだってあるだろう。
 でも、そうだね。こんなにも美しいものの為になら捧げてもいいかもしれない。
 アレンの横顔を見つめながらそんなことを思った。

20220321