催花雨
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 その男は、雨の降り注ぐ中で途方に暮れて軒下に逃げ込んできた。気候で分類するならば春島であるその島では、この時期に雨が降ることは常識だ。すっかり濡れ鼠となり佇む様は突然降られてどうしたものかと物語っており、家主である女は野良猫を思い出してしまいつい笑う。その呼吸がわずかに聞こえたのだろう、機敏に振り返った様は尚のこと猫のようで女は思わず声をかけてしまった。
「水も滴るだね」
「……そりゃどうも」
 女のいる位置は二階のベランダ。高低差のある位置からではハットを被る男の顔は見えやしない。タバコを燻らせながら曇天の空を一度見上げた女は、煙と共に助言を零した。
「あと二十分もすれば止むよ」
「へぇ、なら居座らせてもらうかな」
「どうぞ」
 ぷか、と女の口から煙の輪が上る。しとしとと、雨音が二人の間に横たわる。春の気候とはいえ雨に濡れて居れば流石に身体が冷えるだろう。普段であれば世話を焼いた女だが、目下の男にはそうするつもりがなかった。また、男も決して女の間合いには入らない。緩やかな雨と速度を同じくして、ゆったりとした会話がポツポツと落とされる。僅かに滲んだ警戒が産むテンポであることを互いが認識していた。
「この島は雨が多いな」
「そうかも」
「この前に来た時には花が全部雨のせいで散ってた」
「ああ、流」
「ナガシ?」
 なんだそれはと男が女を見上げる。横顔がキリリとした、やや冷たい印象を与える女は男に一瞥もくれることなく己が吐き出す煙を目で追っていた。
「文字通り花を『流し』て土に還す雨。道も河も海辺も、色とりどりな花弁で覆われる」
「聞く分には絶景だが、花を殺す雨か」
 男の感想に今度は女が男に目を向ける。考えるように視線を目前の雨へと向ける男の口元だけが女の目に映った。薄暗い曇天の中、似合う空気がそっと入り込んでくるような肌寒さに女はブルリと身体を震わせた。男が言うように、島では「流《ながし》」のことを「待死《ながし》」と文字ることもある。待たずして死す、老人などはこの雨を嫌って少しでも当たれば命を持っていかれるなんて思い込んでいるものも少なくはない。
「次のための雨だと思うけど」
 苦笑と共に己の考えを知らずに零した女は、男からの「どういう意味だ?」という問いかけで言葉を口にしていたことを自覚する。己の迂闊さに今度こそはっきりと顔を苦くした女は、タバコの火を意図して注視しながら口を開く。
「枯れて朽ちても土に還って養分になる、豊かになった土からまた次の芽が出る」
 自然の摂理には無駄が少ない。人間よりもずっと長く生命としてあったからこそ進化の過程で今の形に収まった。個々が生き残るために他者を食い荒らすことを当然としている人間よりもよっぽど建設的だと女は思う。人間にはくだらない争いがあまりにも多く、同種での殺し合いが常に隣り合っている。
「死んで実になるなんて羨ましいよ」
 頂上戦争に召集された女の弟は死体すら残らなかった。やや棘のある言葉を吐いてしまったと後悔した女は、ため息と一緒に最後の煙を吐き出してタバコを潰した。目下の男の兄弟は、まさに死んで実になったのだ。そして次の土壌になったのが雨に濡れた男であることも今や周知の事実だった。
「綺麗な考え方だな」
 だから、男から朗らかな音で発せられた声に女は戸惑った。花の話だ、けれどそれを羨ましいと言える女の切望するような声を男は馬鹿にもできなかったし綺麗事だと嘲笑もできそうになかった。意味のある死なんてあってたまるかと、男は思っている。けれど残された実に縋って食らったとき、確かに悲しみと共に歓喜も覚えたのだ。受け取れるものがあってよかったとそんな考えに吐き気を催したのも一度ではない。雨に似つかわしくない笑みを浮かべて男はそうかとまた笑う。彼の実を植え付けた己の身体を養分に、育つものがあるのであれば悪くはないかもしれない。
「そういえばこの雨は流じゃないのか?」
 すっかり毒素が抜けた様子の男が女を見上げて問いかける。今度こそ目が合ってしまった女は頭が痛いとばかりに顔を顰めて目を掌で覆う。その手の甲にはカモメと錨の意匠が彫られている。見なかったことにしたらしい女は新しいタバコを取り出して口に咥えた。
「蕾に刺激を与えて開花を促す雨」
「お、本当だ枯れてんのかと思ったらまだ咲いてないだけなのか」
 無邪気なほどに警戒心なく視線を少し先に投げた男は、雨脚が柔らかくなってきたことに気が付いて軒先から掌を覗かせる。触れる雨粒がほとんどなくなっている、確かにおおよそ二十分だったと笑い男は楽し気に小雨に身を投じた。能力でずぶ濡れの状態から脱することもできたが、女の話を聞いた後ではそんな気にもならなかった。
「そんじゃ、今度はちゃんと雨の名前教えてくれよ『海兵さん』」
「もう来るな」
 絶対に見てなるものかと海兵の女は見向くことなくタバコを持った手でシッシ、と男を晴れ間と共に追い払った。


20230806
OP覆面企画提出
サボ、雨