act.8 Shinn


 


『人魚姫の話を知ってる?』

知っている。
声の代わりに足を手に入れ、恋した王子に痛む足で近づいた愚かな娘。
陸に住む者、水に住む者。
住む世界が違うのに。

そして王子に思いは届かず、泡となる。
王子がもうその思いを知っていればどうなる?

あの人は一緒にいられるのに思いを告げられない。
俺は思いは告げていても一緒にいられない。
どうしてこうもうまくできているのか。
なんて、思うだけ。
この束の間の夢には綻びがあった。お伽話にすらならない。

王子はいてもお姫様がいないんだ。


「……こんばんは」

暗がりの海を眺め、湿った砂浜に座る彼女に話しかけた。
彼女は振り返って笑った。今は短い髪は昔のように風に靡く事はない。
手招きされて隣に座ってみる。
彼女は満足そうに笑った。いっそ悲しんでくれれば、このまま連れ出せるのに。
今はただ夢が終わるのを待つだけ。彼女の笑みを消したくはないから。

「寒くない?」

上着も羽織らず、二の腕がさらけ出されていて寒そうに思えた。寒い季節でもないが暑いとも言えない。夜の海ならなおさら風が冷たく感じる。
彼女は首を振った。

「そっか……って、え?」

寒くないのかと思った途端擦り寄ってきていた。腕にしがみついて嬉しそうだ。

「えっと、こうするから寒くないって事?」

今度は首の動作はなかったが満面の笑みでそうなんだとわかった。
変わらない香りが鼻をくすぐる。触れる身体は温かい。
何等変わったところなどない。
だから聞いてしまった。

「……俺の名前、わかる?」

緊張でさっきよりも心臓の音がうるさい。
ジッと俺を見つめる彼女。まばたきをした瞬間にわかってしまった。

「……っ!!」

息がつまる。息をしたら泣いてしまいそうだった。
だから俺は彼女を抱きしめた。強く。彼女の腕が苦しそうにもがいても離さない。
何も変わらないはずのミーアは、俺の事がわからない。
お姫様が王子を忘れてしまえばそれはもうお伽話にすらならない。
そもそも俺は……。

「なら何でいるんだよっ」

かすれた声が漏れた。彼女に聞かれてはいけないのに。彼女には笑っていてほしいのに。

「……っ」

ここにある真実だけを見るつもりだったのに、彼女の中に俺がいないのだとわかるとどうすることもできない。
俺もあの人も壊す事なんてできないんだ。きっと互いに羨む状況が、結局同じだなんて。

このまま沈めば、彼女は笑ってくれるだろうか。

いつしかもがいていた彼女の腕が宥めるように俺の背を撫でていた。
もしかしたら誘ってくれているのかもしれない。
一緒に沈めてしまおう、と。

「ミーア……」

その名前を口にするとそれが蓋だったかのように涙が溢れた。
声が聞きたい。長い髪を梳きたい。ずっと一緒にいたい。
どれも叶わない。

今はただ零れる涙を吸い込ませて、息苦しい砂に埋もれていたいだけ。



H20.6.28



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