とっても短いお話
mha hqは専らTwitt
▽2020/05/24(18:53)
喰種 長編予定だった1話珈琲の香りが鼻腔を擽る。透明なお湯が濃い黒に染まる。白いカップに映えるその色を眺めることが当たり前になっていた。普通の人間が彼が淹れた珈琲を片手に談笑する様をぼんやりと眺めていれば、後ろの扉からエプロンの紐を後ろで結いながら出てきた彼女が片方の瞳でじろりと彼を睨みあげた。
「なにサボってんだよ」
彼女、トーカは相変わらず理不尽だった。足が出ないだけまだマシだと、最近はそんな言葉にさえも慣れてくる。彼はサボってないよ、と苦笑いじみた笑みを浮かべながら、カップを真っ白な布で磨き始めた。
――ひどく、穏やかな昼下がりだった。土曜日ということもあってか、少しだけいつもより賑わう店内にふわりと微かに鼓膜を揺らす音楽が愛おしく思えた。つい先日まで、白鳩だ美食家だと張り詰めていた糸が緩やかに弛んでいくのがわかる。願わくば、明日もそのまた明日も、こんなふうに穏やかであればいい。心臓の裏に潜む感情に目を閉じて、手元はカップを磨き続けながらひたすらに逡巡していれば、また一人、新しい客を知らせるベルが鳴った。いらっしゃいませ、と条件反射よろしく言葉が口からこぼれ、ふ、と視線を入口の方へ向けた。隣にいるトーカと同じ年ほどの女性が大きなスーツケースを引きながら、躊躇いなくカウンターの方に歩み寄ってくる。彼の知らない常連だろうかとトーカを見やれば、彼女は少しばかり険しい表情を浮かべてその客を見つめていた。
黒い髪が柔らかな照明に照らされほんのりと赤みを帯びている。肩につくほどの髪は癖毛なのか緩いウェーブを描き、ブーツの音が鳴るたびに風に揺れていた。
「久しぶり、トーカちゃん」
にこにこと愉しげに微笑む彼女に対し、トーカは変わらず顰めっ面をしていた。彼女の態度に一瞬目線を下げ、怒ってるかと恐る恐る問いかけた彼女は気まずげに両手の指を組み合わせている。なんとも言い難い雰囲気に彼は居た堪れなくなり、テーブル拭きでもしてこようと一歩横に踏み出した瞬間、苦々しい声が真昼の喧騒に埋もれた。
「…どこ、行ってたのよ」
目線を彷徨わせた彼女は「…きょ、京都観光でもしようかと」と本当のところを言うつもりがさらさらないのか、あからさまな嘘をついた。――今時の小学生でも、もう少しうまく嘘が吐けるだろうに。
「夏休み入っちゃうと人が増えちゃうし、その前に遊びに行こうと思っ――っいたたた、ごめん、ごめんってばトーカちゃん!」
「毎度毎度どんだけ私が…!!」
「ご心配おかけしましたごめんなさ――」
「誰も心配なんかしてないから!」
ぐぎぎ、と身を乗り出して柔らかな両頬をこれでもかというほどに抓る彼女は、店内の目に名残惜しそうにゆっくりと離し、彼を睨むそれの比でない眼差しで睨みつけた。
「…死にたいわけ?」
トーカの、やけに真剣な声に思わず二人から逸らしていた視線を戻した。彼女は苦く笑ったあと、「おかえりって言ってくれないの?」とおどけたふうに呟く。重苦しいのかなんなのか、事情が全くもって飲み込めない彼は散々悩んだところで声をあげた。
「…二人共奥に行ってきていいよ、こっちは僕一人でもなんとかなるから」
そこで、漸く初めて彼女の瞳が彼を捉えた。やや細めの、焦げ茶の瞳が驚いたように見開かれる。数度瞬きを繰り返した後、彼女は柔和な笑みを浮かべて会釈をした。
「初めまして?」
「はい、カネキといいます」
「男の子が増えてよかったねえ、私は#名前#です。しばらくはここにいると思うのでどうぞ宜しくお願いします」
初めまして、を疑問文で聞かれたのはそれこそ初めてだ。宜しくお願いします、と返そうとすればトーカがぶっきらぼうに「あんた部屋ないから」と告げた。
「…そ、想定内だよ勿論…」
「目が泳いでんぞばか」
「……」
彼女、改め#名前#は柔く握った拳を唇に押し付けて、それから背の高いカウンターの椅子に腰掛けた。視線は机上で絡ませる指を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「…お腹、すいちゃった」
――トーカと親しげに話をしている時点で気づいてはいた。その言葉に無言で返し、見たことのある赤褐色の角砂糖を三つだけ小鉢に入れて彼女に差し出す。それから手早く珈琲を淹れ、本当に、重苦しい声で彼女は言った。
「…上に店長がいるから、ちゃんと話してきなよ」
湯気の立つ珈琲を眺める#名前#は、うん、とか細い声で頷いた。口など挟める状況でもなく、カネキは磨きすぎたカップを棚に一つ戻してから、どうしたものかと息を吐いた。
それから彼女は店長である芳村と話をしたのか、翌日に見かけることはなかった。ただ、二階で過ごしていたヒナミがトーカの家に移り、暫く二階に近づくなという言葉でああきっと何かが起こるのだとなんとなく想像がついた。
喰種