企画 2
ヤムライハの魔法がシンドリアを形作っていると大言しても過言ではない。彼女はシンドリアにとって、ひいては魔導士という界隈において絶対的な存在であるというのは最早周知の事実だった。その界隈をナマエは知らないが、黒秤塔の魔導士たちがそんな話をしていたのを漏れ聞いている。つまりはそれほどまでに偉大な彼女の飽くなき探究心を満たす行為を誰が一体止められるというのだろう。
「……申し訳ありません…」
ヤムライハの知的欲求は止まることを知らない。こんな魔法理論など、一体どれ程の命令式を構築すればなせる技なのかナマエには到底理解できそうもない。
八人将と何故かナマエも召集された紫獅塔の一室には、黙っていれば深窓の令嬢や佳人などといった言葉が似合いそうな女性が、座り込むヤムライハの前で仁王立ちしていた。形相は鬼と評するが相応しい。何事かとよくよく彼女を見ていれば、文官の官服に柔らかな銀糸の髪、雀斑の散った頬に青翠の瞳――何処となく、かの政務官を彷彿とさせる顔立ちをしている。それでも、胸の膨らみはしっかりとついていて、背だって低い。
まさかな、とシャルルカンと顔を合わせた刹那、ピスティの笑い声が弾けた。
「あっはははは!!! ジャーファルさんってばすっごい美少女!!」
「ピスティ」
「はい、すみません」
腹を抱えて大笑いしていたピスティも、彼女――改めジャーファルの凄んだ笑顔――笑顔を凄むという違和感が拭えないけれど本当にそう――に押し黙るほかなかった。次いで、揃った八人将とシンドバッドを睨むような眼差しで見渡してから、はあと重苦しいため息を吐いた。
「…見ての通りです」
「本当にすみません、ジャーファルさん…」
「まあまあジャーファル、一生そのままなわけではないし――」
「あんたは黙ってろ」
ぶふ、とピスティの耐えきれなかった笑い声が響いた。思わず右隣の彼女を見下ろせば笑ってなどいないとばかりに真顔を作っていて、あまりの真顔への豹変ぶりにナマエがふっと笑ってしまった。
ひんやりとした視線を感じてジャーファルの方を向き直すなり、彼の瞳はシンドバッドの方を向いていた。
「…実はこの魔法、魔力の消費が激しくて、もう少し魔力が安定しないと失敗するかもしれないんです」
「――というわけで、今日は一日このまま仕事をします」
「あんな複雑な命令式、流石に自然には戻らないよね」
「そうなのナマエ!! 二日、いえ三日寝ずに考えたこの命令式なんだけど、」
「ヤム、静かにしてた方が……」
組み込まれていた魔法に興味を持ったような発言してしまったナマエも大概ではあったけれど、当のヤムライハがそれはもう嬉々として話し始めたところをジャーファルが黙認しているはずがない。彼女の背後に立つ最早修羅に、急いでヤムライハの口を塞ぎにかかる。そろりとナマエがジャーファルを見上げると、やはり目を逸らされた。
彼――彼女、いや彼は、ずり落ちた肩を直しながら、長くなった前髪をかきあげる。ふうとため息をつく様は本当に綺麗だった。見目麗しいと性差など大した問題にもならないようだ。
「まあそういうことで、今日も一日頑張ろうな」
シンドバッドの言葉選びには、悪意しか存在していないと思う。案の定ジャーファルの冷たい視線に射抜かれて、シンドバッドは肩を竦ませていた。
* * *
ジャーファル様がヤムライハ様の魔法に巻き込まれて女になったらしい。
赤蟹塔の中はその話で持ちきりだった。全隊の軍事演習の日であった今日は全隊員が揃う日ということもあって話が広まるスピードは早かった。この分だと昼過ぎには王宮内の全員の知るところとなりそうだ。午前の訓練を終えて食堂で昼食を摂っていると、セレスタとアルサスが隣にやってきた。
「ジャーファル様、毎回不運だな」
「毎回?」
「前々から何度かヤムライハ様の魔法の餌食…巻き添え…影響を受けてんだ」
「…セレスタさんって八人将の前だと態度変わり過ぎませんか」
「ンなのどうでもいいだろーが」
彼は大皿に盛られた魚と共に煮炊きされた米を掻き込んだ。
ヤムライハの魔法は意図せずして八人将の誰かを被験者とすることで確立されているようだ。何度目かもわからない被害となると、今朝のジャーファルのような鬼の形相にもなるのかもしれない。
「でも凄い美人だって文官たちが話してたね」
「…うん、綺麗だった」
「見たのかよ」
「今朝、私も呼ばれまして」
緑斜塔で支度をしているとロゼに急いで紫獅塔へと背を押されたのだ。何事かと思えばあの事態で、ジャーファルからすれば最悪なのだろうが、側から見るとどうにも締まりきらない思いになってしまうのはやはり彼が存外に綺麗すぎたからだ。
魚の腹を解して口に運ぶ。
「でも残念だなナマエ」
「? 何がです?」
ニヤついたセレスタの顔に見当がついたのか、アルサスがすかさず止めなよと顔を顰めた。
うまく察することができずにひとまず嫌な空気ごと飲むようにスープの入った器を傾ける。それから彼は午後の演習について至って真面目に話し始めていた。
すっかり先程の会話など忘れて食器を片して赤蟹塔に戻っていると、セレスタが突然前後の脈絡なく言葉を吐いた。
「男じゃなきゃできねーもんもあるだろ」
「セタ、不敬罪だ――!? ナマエ!」
右隣にいたセレスタの左足を踵がついた瞬間に払い除け、体軸が傾いた腕を引いて腰を床に叩きつけた。あまりにも唐突な攻撃にセレスタは受け身を取りそびれて素直に床に転がった。
「イッ…てェなテメェ!!」
「どう考えても貴方が気色悪い!」
転がせた彼を跨いで、走るようにして赤蟹塔に向かった。
――ジャーファルとは、一度だってそういう行為をしたことはないのだ。彼の意味が分からないほど初心ではないし、否定をするわけではないけれど、それにしても下世話にも程がある。大体見知った他人に、しかも男性にとやかく言われるような話題でもない。腰を落としただけで済んだのだからむしろ褒めてほしいくらいだ。
午後の訓練では都合よく彼とは小隊が離れたので、ここぞとばかりに彼の陣営を突き崩したところ、清々しいほどにやり返してきたセレスタを小隊長同士の再戦でも完膚なきまでに叩き潰した。
「馬鹿だけど許してやってくれナマエさん…」
演習を終えた後アルサスが壁際でセレスタを嗜めてから、明日の海上訓練の打ち合わせを行った。三隊にとって大切な話を流石に私情で荒らすわけにはかなかったので静かに聞いていれば、ドラコーンを訪ねに渦中のジャーファルがやってきたのだ。
長い髪は適当にバッサリと切り落としたようだが、遠目から見ても女性の後ろ姿をしていた。
「――以上。何か質問は?」
噂だけを聞いていた隊員たちのざわめきを一喝するセレスタの張った声に、何もありませんと全員が顔を強張らせた。
「では解散」
蜘蛛の子が散るようにその場を離れていった隊員たちの興味関心はジャーファルで、彼はドラコーンとの話を終えると彼らの好奇の眼差しから逃れるように出ていってしまった。
いつもであればナマエが業務を終えて赤蟹塔を出るまでは待っていたり待ち合わせたりとすることもあったのだけれど、この状況を考えると難しいだろう。なんとなく肩を落としてしまいそうになるのは、用があってここに来た時はそれが当たり前のようなものだったからだ。
「…あんなに騒がれたら嫌だろうなあ」
「…まあ、そうですよね」
「俺だったら、やっぱりナマエさんにも見られたくないだろうし」
いつの間にか隣に立っていたアルサスが、ナマエの手の中から刃引きの剣をさらった。
「…私、今日一回も目も合わせてもらってません」
「そういうものですよ」
そういうものですか。
片方だけに笑窪を作って柔らかに目を細めたアルサスは、片してくるよと剣を持って去っていってしまった。
きっと彼は食事も摂らないで私室に戻っていることだろうと思った。
そういえば互いにゆっくりと話もしないということに気がついたつい先日から、私室に足を運ぶようになった。眠るまでの短い時間を過ごすようになり、そのまま彼の部屋で寝落ちてしまうこともないわけではなかったが目が覚めても隣にいる彼は綺麗な人であった。
雀斑や幼い顔つきを彼自身はあまり好んではいないようだけれど、それらは彼の魅力の一部であると思っていて、長い睫毛や白磁の肌も、柔らかな髪も――触れたいと、思う瞬間がある。何度も唇は重ねておきながらそれ以上を望むわけでもないジャーファルに安心を覚えていることも確かではあった。
騎士団では感じていなかった性別という括りを、ここにきてまざまざと意識をしている。男だらけの武官で働くことも、あの船上での一件のことも、女性性であることが弱みになることがあると、何度も突きつけられている。だからこそ、自覚してしまうのが嫌だったのかもしれない。
食事の乗ったトレーを抱えて、私室の前で立ち止まる。
息を吸ってドアをノックするよりも先に、ガチャリとノブが回された。
「…お疲れ様です。夕食、食べてないですよね?」
同じ高さに瞳があるというのに、ジャーファルはこちらを見ていなかった。彼はドアを開け放つと、どうぞ、とやはりナマエの目は見ずに入室を促した。
「すみません、気を遣っていただいて」
「いえ、あれだけ騒がれたら居づらいだろうなとも、思います」
トレーを書簡の散らばるテーブルの上に置く。コーヒーの香りがふんわりと漂っていて、意識的に吸い込んだ呼吸に、まるで初めて息をしたかのような感覚を覚えた。
彼はナマエの後ろに椅子を置くと、自身も向かいの椅子に腰を下ろした。
「…私は、今日はいない方がいいですか?」
「そんなことは、」
「…目を、合わせてくれないのは、その…寂しいです」
ちらとジャーファルを見やると、彼は考え込むように眉間に皺を寄せていた。
そういうものですよとアルサスは言っていたけれど、中身がジャーファルであることに変わりはないというのに。
沈黙が二人の間には落ちていて、ナマエは癖のように左耳のピアスを撫でていた。
朝の時点では大した問題――というと彼には失礼かもしれないが、そもそも時限式の問題であった――ではないと考えていただけに、彼の意識的な拒否が身に堪えていた。空気はいつもに増して刺々しく、それも尚更にこの物寂しさを助長していた。
どれもこれも分からなくもない。ただ、と頭の中で否定の接続が並ぶほどには納得していないのだと思う。
カタリとジャーファルが身動ぎした。椅子から立ちがった彼は、ナマエの目の前に立つと手を引いていつものように抱きしめてくれる。同じ背格好になってしまったので、互いの首筋に鼻を埋もれさせていた。いつもは感じない特有の胸の柔らかさも、なんだか不思議ではあったけれど、抱きすくめる両腕は間違いなくジャーファルのものだった。
「…すみません、あまり見てほしくはなくて」
「……ジャーファルさんは、見た目が変わってもジャーファルさんですよ」
「そういう問題では、ないでしょう」
ぎゅうと強く回された腕は細かった。彼も華奢な方だと思い込んでいたけれど、それとはやはり全くの別物だった。
彼の静かな心音を聞きながら、そういう問題ではないと言った彼の本心を考えていた。セレスタの言っていた言葉は彼のものであって、ジャーファルがそうであるとは思わない。ただ、なんとなく彼に聞くこともできずに思考しているということは、もしもそうであった時の逃げ道だったのかもしれない。どうだろう。この皮膚の隔たりをなくすような抱擁だけで、ナマエにとっては十分だった。息をこぼすような安心がここにはあった。それを、まだ崩してしまいたくはなかったのかもしれない。
「…そうですね、」
ナマエがもしも魔法で男になったとしたらとも思う。ナマエは生まれた時から女性性であって、この肉体で剣を学んで生きていきた。今更男であればと思う必要はなかった。もちろん彼らの予め備わっている腕力や体力を羨んだことはなかったかと言われれば全く否定はできない。それでも、ナマエは変わらずに女性性であった。
ジャーファルにとっても同じだっただろう。そういう問題ではないですよと言った彼の根底にはナマエと同じように否定や肯定という概念にすら上がらない肉体がある。
「…ちぐはぐさが嫌なのはわかります。でもやっぱり、貴方は貴方なので、私はどこも変わらないですよ?」
肩口から顔をあげて、ジャーファルの脇腹のあたりに溜まった裾を掴む。首を逸らして彼の正面に顔を向ければ、ようやく視線が交わった。鼻先がつくほどに隙間もわずかしかないことで、ジャーファルが息をこぼしたのがわかった。
「ただ、ジャーファルさんらしくはないので、早く戻れるといい、です」
これだけ顔が近いと、瞬きをする瞬間もよく見える。瞼が下ろされるのと同時に、唇にかすかに触れた。夜の静けさに紛れないリップ音が響いてしまったような気もして、ジャーファルの肩口に再び埋もれようとしたけれど、彼の左手が後頭部をさらったので逸らすことも叶わなかった。
吸い込んでいた息も食べてしまうかのような口付けに思わず固く瞼を閉じた。角度を変えて柔らかな唇に責め立てられるたびに、行き場のない空気が漏れる。するりと入り込んできた舌先が歯列をなぞって、引っ込めていたナマエの舌先を絡め取る。
「ん、…っ、ジャ、ファ、ルさ、」
膝が震えて勢い後ろの椅子に腰を落としながらも、彼は止めてはくれなかった。同じ高さにあったのに、ナマエが座り込んだことでいつものように首を逸らした。飲み込みきれなかった唾液が口角を伝う。顎まで落ちた唾液をざらついた舌が掠め取ってから、離れていった。
「…私は、貴方が思ってるほど、綺麗じゃないし優しくないですよ」
後頭部から落ちた腕が、ナマエの右手を取ろうとしてやめた。後退りしようとしたジャーファルの袖を掴んで引き留める。
「…はい」
「貴方は、もしかしたらこの方が安心するのかもしれないと、思ったんです」
「…どうしてですか?」
「言ったでしょう、私は綺麗でも優しくもないって」
目を細めた彼は、空いた片方の袖を口元を隠すように持ち上げた。
一つ、ふたつと瞬きが落ちる。どんなふうに言葉を重ねるべきか、喉の奥で燻った。
船上で奴隷狩りとの戦闘の後、ヤムライハから何度も何もされていないかと聞かれた。そういうことはなかったのかと、心配する声はおそらく状況的にナマエの服が乱れていたこともあったのだろう。実際に、ジャーファルの到着が遅かったら現実になっていたことだと思う。ゆっくりと時間をかけて触れてきていたのは、彼の中でもその記憶が色濃かったからだったのかもしれない。
ジャーファルは綺麗な人であった。そう思っていた。時折シーツに埋もれながら手繰り寄せ合った指先の熱を、彼は笑ってお休みと言ってしまえる人だった。
「…ふふ」
「…何笑ってるんですか」
「私は、ジャーファルさんが好きですから」
大丈夫です。
袖を引くといとも容易く彼はナマエの胸に収まってしまって、まるであやすように後ろ髪を撫でた。
「…手酷くしてしまうかも」
「それは、お手柔らかに、お願いします…」
「…どうだろう」
くつくつと小さく笑った彼は、ナマエの目尻にくすぐるように口付けた。
眩しい朝日に起こされて、薄らと目蓋を開けるとすぐ隣にあどけない寝顔を浮かべたジャーファルがいた。腹に巻きつく細い腕に残る無数の縄票の痕を撫でながら、指先を絡めるように握った。そっと顔をあげて、ジャーファルさんと名を呼んでみても目が覚める様子はない。少しの間彼の睫毛を眺めてから、目の下に唇を落とした。すると、握っていた指先がひかれて彼の胸元に手繰り寄せられる。起きてたんですか、と柔い胸に埋もれながら不満の声をあげれば、彼はそうですねと言って笑った。
朝議の前にヤムライハによって元の姿に戻ったジャーファルは平生と少しも変わらぬ顔で仕事にかかった後、食堂で夕食を終えたナマエを見つけると私室にまで連れ立った。
ドアを閉めるないなやきつく抱きしめられた両腕は昨日とは比べ物にもならないほどに太く筋肉質で、応えるように背中に腕を回したナマエにジャーファルが安堵の息をこぼしていて、大丈夫ですよと笑えば少しだけ乱暴な唇が降ってきた。
(企画 2 了)
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