征く日々を踏み越えろ

文化祭が来月に迫っていた或る日のことだった。
放課後特有のゆるゆるとした雰囲気が続く中、演出隊が教室の前方で、バンド隊が窓際、ダンス隊が後方ドア側で話し合っていると突然聞き慣れない女性の声が弾けた。


「今日は」


バンド組から聞こえる録音されたドラムやギターの音よりは幾分か心許ない声は、演出隊くらいにしか聴こえていなかったのかもしれない。
開け放たれていたままのドアの近くにいた切島が顔を上げると、そこには肩口に金ボタンを一つだけつけたブレザーを着ていた女子生徒が立っていた。ということはつまりヒーロー科だということになるが、まるで面識がない。
色の白い肌に切長の赤い瞳。ミルクティー色とでも形容すべきか、薄い色素の髪は項が見えるほどの短さで切り揃えられていて、すらりと伸びる長い首筋が眩しい。可愛いというよりは綺麗という言葉が似合う人だ。――何処となく、爆豪に似ている気がする。
おそらく上級生と思われる彼女は、切島と目が合うないなや「あ、切島君!」とまるで知り合いに再会したかのような笑顔を浮かべて手を挙げてきた。全く知らない先輩だったが、あどけない表情に爆豪と似ているだなんていう思考は吹き飛んだ。


「えっ、どなたっすか…?」
「あ、ごめんね! 勝己といつも仲良くしてくれてるっていうからつい――」
「ええ!?」


勝手に親近感が沸いて、などという彼女の言葉に覆い被さるような声をあげてしまったのは切島だけではなかった。勝己と呼び捨てる彼女は一体、とバッと当の彼がいる窓側の集団に勢い顔を向けると、演出隊の声に驚いたクラスメイトたち全員の目がこちらを見ていた。


「――あ、名前さん! どうしたんですか?」
「出久君」


振り付けの確認をしていた緑谷が彼女に気づいて小走りに寄ってくると、親しげな顔で肩を叩かれていた。彼が下の名前で呼び合うような仲のようだ。名前さんというらしい彼女の横顔は、柔らかくて朗らかな表情を浮かべてる。――いや、矢張り爆豪に似ている。彼が笑えばもしかしたらこんな風なのかもしれない。
誰だあの先輩、とどこからともない声がざわめき始めるも、当の彼女は然して気にも留めずに緑谷と談笑していた。


「え、なに、緑谷知り合い?」
「知り合いっていうか、かっちゃんの――」


がた、と背後で派手に椅子を引いた音がした。音の正体は、爆豪だった。
彼はズボンのポケットに手を突っ込んだまま心底不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら、彼女の隣を通り過ぎざまにぎろりとひどい目つきで睨みつけると、教室を出て行ってしまった。仮にもヒーロー志望だろうに、彼の目は宛らヒール顔だ。相変わらずの酷い顔つきに、けれども謎の先輩は面白おかしそうに肩をすくめて笑っていた。
かっちゃん、と緑谷の呼ぶ声だけが、ぽつりと落ちる。


「あの…爆豪とはどういった…?」


瀬呂がワクワクとした顔を抑えきれずにそう問い掛ければ、彼女はこちらに向き直ると眦を細めた。


「あ、初めまして。勝己の姉の爆豪名前です」
「――姉!!?」
「爆豪っておねーさんいたんだ!?」


驚きで弾けた瀬呂の声に、姉だと名乗った彼女は「口が悪い弟でごめん」と、眉尻を下げて笑っていた。――緑谷の姉だとでも言われた方が納得できるほどには、彼女の顔は緩んでいる。
お騒がせしました、と手を振った彼女は、最後に緑谷の肩を叩いて頑張ってねといった。
爆豪の背中を追いかけるように彼女は身を翻すと、騒然とする教室内を置いて去って行ってしまった。


「…爆豪のおねーさんもヒーロー科なのか」
「うん、今年の体育祭は四位だったって言ってた」
「姉弟揃って才能マンか、すげえな」


瀬呂がこぼした何気ない言葉に、緑谷はそうだねと何故か少しばかり苦い顔をしていた。



   *     *     *



爆豪名前には、二つほど歳の離れた弟がいる。
両親の個性が掛け合わされて発現されたそれは名前と同じ爆破だった。名前よりも威力の強い個性と幼い頃から何でも小器用にこなしていた失敗を知らないが故に積み重なった自信。そして周囲の期待の一切を裏切らずにあらゆる才能を伸ばしていく勝己は、同じ歳の子どころか小学校、中学校まで年上にだって負けたことはなかった。それが彼を恐れを知らない激しい自尊心の塊へと変貌させていたのには知っていた。近所に住んでいた幼馴染の緑谷出久と馴染み合えない日々を送っていることにも薄々気づいていたけれど、勝己は初めから姉である名前のいうことに素直に首を縦にしたことなど皆無に等しい。事ある毎に勝己に問いただしたところで彼は「うるせェ」の一点張りで、出久も出久で「大丈夫」だと笑ってばかりいた。そんな日々を過ごしていた頃は、まだ名前もヒーローの眩しさに疑いようもなく惹かれていた。


「何の用だよ」


教室を出てから漸く閑散としていた階段で彼は足を止めた。
クラスメイトの雰囲気を見るに、姉の存在など話したこともないのだろう。そんな空気感の中で会話などしたくもなかったことくらい、想像がついた。
くるりと正面を向いた彼にブレザーのポケットから取り出した携帯を眼前に突き出す。昨夜に母と交わしていたメッセージの一端に、勝己の表情は変わらず苛立たしそうであった。


「お母さんが返事しろって。一言くらい返しなよ」
「ンでわざわざババァに逐一連絡しなきゃなんねーんだよ」
「逐一だなんていってないでしょ。来たメッセージにくらい返しなって言ってるの」
「わざわざそれだけのために来たのかよ。ハッ、インターン辞めて随分暇みてェだな」


――名前たち姉弟の仲は、確かに世にいる姉弟に比べれば純然とした睦まじさとは言い難い関係性ではあった。


「……お母さんが心配してるのくらい、分かるでしょ」


――ガンッ。
壁を殴りつけた音に、心臓が逸る。
同じ薄い色をした前髪の隙間から睨みつけられる赤い瞳に、まるであの日のように胸倉を掴まれているような気分になった。


「ああ゛? テメェが中途半端なことしてっからくだらねェ被害食らっとんだろ」


盛大な舌打ちをこぼすと、これ以上の会話は無駄だとばかりに彼はスタスタと名前のすぐ脇を通り過ぎていった。
――中途半端なこと。言い返す言葉もない。意味もない。名前が一番、よく分かっている。
どうしたものかなあと、ため息を吐いてから背後の壁に背を凭れた。
勝己は大丈夫かという、母からのメッセージ。ご飯はちゃんと食べてるのと続いた言葉に、目を伏せた。
――勝己が敵連合に誘拐される前までは、まだよかった。言動は粗暴ではあったけれど、勉強のことやヒーロー科の授業のことなんていう有り触れた会話が家の中にはあった。それが崩れた理由が名前にないとは、一欠片だって思っていない。
一年生の三学期頃から世話になっていたインターンを辞めたのは、夏休みが明けた九月初旬のことだ。勝己が敵連合に攫われて、警察が何度も家を訪ねてきて、全寮制になり、環境が変わったのを感じたのと同時に辞めた。
インターン先の上司も、担任も、友人も、名前も――そして、おそらく弟も。
爆豪名前はヒーローになるのだと信じて揺るがなかった。それを無責任にも投げ出してから、勝己は名前を鋭い眼差しで睨みつけるようになった。


『…ヒーロー辞めて進学するだァ? テメェが何目指そうがクソほど興味もねぇが、散々ヒーローになるっつっておいて今更ビビってんじゃねえよ雑魚が!!』


入寮の数日前にリビングで互いに個性を制御させるのに精一杯になるほどに手のひらをジリジリと焦がしながらした喧嘩の後から、彼とは言葉を交わしていない。今日のこれが面と向かってした唯一の会話だ。


「…ビビらないわけ、ないじゃん…」


はあと重苦しい溜息を吐いてしまわないと、情けなく涙なんて溢れそうになる。私の言うことなんか昔から聞いてくれないよと母に返信をしてから、階段を降りて帰路についた。



   *     *     *



爆豪のおねーさんって綺麗な人だな。
教室に戻るなり名前のことで盛り上がっているA組の居心地の悪さは最悪だった。美人で強いとか最強かよ、と上鳴が惚れたから連絡先を是非と胸に手を当てながら喚く声を気色悪いと両断して、早々に寮に戻る支度をした。顔面は整っているせいで無駄にそういう輩がわくのは小さい頃からだ。本人は至って無自覚らしい。そういう疎いところも腹が立つ。
――彼女の全てに、今はずっと沸るような怒りを抱えていた。

翌日、今まで全くすれ違ったこともなかったというのに、食堂でわざわざ上鳴が名前の姿を見つけてしまった。彼女のクラスメイトたちと話をしているのだろうところを上鳴は後ろから声をかけて、それに律儀に名前は振り返って話をしている。あまつさえ彼は携帯を取り出して連絡先を聞こうとしているようだった。


「ヒーローにならねェ奴のなんざ、聞いたところで無駄だろ」
「えっそうなんですか? 強いのに?」


上鳴の一言に、名前は「強くないよ」と目を伏せた。
腹が立つ。似たような顔で緑谷のようにヘタれた表情を浮かべてばかりで、無性に腹の奥でどろどろとした怒りが渦を巻く。巫山戯るな。吐き捨てそびれた言葉を飲み込み、代わりに盛大な舌打ちをこぼして背を向けて歩くと切島が「そういう言い方ないだろ」と、食器を片しながら諭すような口ぶりで垂れてきた言葉にただ返事をすることさえもう面倒だった。

――爆豪勝己には二つばかり歳の離れた姉がいる。
姉も同じ爆破の個性を宿していた。姉として育てられた家庭環境のおかげか面倒ごとには自ら頭を突っ込むような性格で、しかしながら大抵物事は良い方向に転がっていた。人好きのする笑顔と分け隔てない交友関係、スポーツや学業の成績、芸術、ありとあらゆる面で姉は他人より優れていた。できないことなどこの人には何もないのだと、彼女の弟として育つ勝己でさえそう思っていた。姉と比べられることは多くあったが、勝己自身も他人より圧倒的な力でねじ伏せていたので姉弟揃って個性も能力もヒーロー向きだと評されてきた。異論はなかった。勝己の憧れはオールマイトただ一人ではあったけれど、姉は身近に体感していた凄い人で、倒すべきライバルで、乗り越えるべき象徴だと思っていた。同じ雄英高校に入学を果たしてからより感じる経験の差というものに、姉とはまだ勝負がついていないのだと分かっていた。
それが、ある日を境に翳っていったのを知っていた。理由などわざわざ聞くこともなかった。どうでも良かった。姉はそういう挫折も含めて上へ上へと目指していくことのできる人だと思っていたからだ。


『…私、大学に進学しようと思う』


入寮が決まった数日前。夜半に水を飲みにリビングに降ればソファに沈み込む姉がいた。何しとんだと声をかけて唐突に返ってきた言葉に耳を疑った。
ヒーローとして培われるべきは知識ではなく経験だ。大学を卒業してからヒーローにという人生設計が無駄骨だと批難するつもりはないが、彼女のそれはどうやっても逃げ道を探しているようにしか見えなかったのだ。


『ヒーローには、ならない』


――勝負はついていない。姉の背中を掴んでいるままだった。それが突然失速して、勝己が勢い前に躍り出るような、こんな不完全な勝利でこの人に勝ったなどと言える訳がなかった。


『――ふざけんなよテメェ…! ああ!? 逃げとんじゃねえぞ!!』


爆破しそうになった手のひらをかろうじて押し留める。焦げ付いた臭いは、どちらのものだったか分からない。
姉は――いや、名前は、グッと涙を堪えるような面差しで、言った。


『私はヒーローになれない』


姉のことを凄い人だと一瞬でも思っていた自分に、鈍い衝撃が走った。
敵連合なんかに連れ去られて、オールマイトを終わらせて、戻ってきた日常で追い越すべきライバルだった人も終わりにしたいというのだ。
名前が二学期が始まる少し前にインターンさえ辞めていたことを知ったのは、神野の悪夢から抱えるこの煮え切らない思考で緑谷を殴りつけた日から暫く経った後のことだった。
ライバルだと思っていたのは、勝己だけだった。名前とは良好な関係性を続けていた彼奴から「名前さんインターンやめるんだってね」と、どうしてだと詰め寄った問いに「インターン中に救けそびれた子どもが怪我しちゃったんだって、痕が残るくらい酷い、怪我、だったみたいで」と、初めて聞く事実にまた頭を殴られた。
名前はちらともこちらを見ていなかった。だというのに、勝己ならヒーローになれるから頑張れと無様に声までかけられた。
――クソみたいな気分だ。最悪だ。その日までの姉は確かに、爆豪勝己にとって越えるべき一番身近なヒーローだったというのに。あれからずっと、名前は情けない面で足元ばかりを見ている。それが一番、腹立たしかった。

名前が教室に唐突にやってきたあの日から、三日が経った。金曜の午後の授業はヒーロー基礎学が連続で入ってくる。
その日の授業は三年A組との合同授業だった。
二クラス分の人数の確保が取れたことで仮免試験を模した演習をしようと三年の担任が言い出したようで、くじ引きによって救助者役とヒーロー役、そして敵役が決まった。名前はヒーロー役で、勝己は敵役だった。くだらない弱さに取り憑かれた名前に救助される役になどならずに済んで心底良かった。
倒壊した家屋、炎上する周囲、敵十人に対してヒーローは五人だけ。その他二十五人の要救助者たち。
いっそここで名前を散々に打ち負かせてしまえと思ったが、これで勝っても果たして積年の敗北を覆す勝利になるだろうか。
救助者を背負った名前にいの一番に攻撃を仕掛けた。
彼女はそれすら想定していたようで、手首の腕輪から飛び出たリールで勝己の背後にあった電柱を支点に方向を変えて、救助者を家屋の屋根に一度避難させると目にも留まらぬ速さで勝己の目の前にまで飛んできた。体格面で劣る彼女に近接格闘で負けるはずがないという自信があった。
身体のバランスをフォローする軽快な爆破、蹴りを重くさせるためのタイミング、視界を制限する硝煙の使い方、リールアイテムで補う自由移動。気が付いたら、捕獲用の手錠が掛けられていた。
――これでヒーローを目指さないなどと、屈辱のほかなかった。
演習は圧倒的に敵側が敗北を喫した。大多数が一年で構成されていたからこその人数によるハンデだったにも関わらず、負けた。
敵の制圧、瓦礫を爆破によって撤去し、救助者を背負いながら最短ルートを確保する。無駄がない素早い対応を、相澤はこれが二年間の差だろうなと言った。
――背中を掴んだままだ。立ち止まることなど許さない。同じ個性だからこそ、その扱い方を見ればどれだけ努力を積み重ねてきたか分かる。こんな姿をまざまざと見せつけておきながら、一人逃げるだなんて選択肢を許せるはずがない。


「オイ」


授業が終わり、クラスメイトと教室までの道のりを歩く後ろ姿を呼び止める。彼女は友人に先に行っていてと笑いかけてから、また困ったような顔を浮かべて腰に手をかけていた。
一番になりたい。誰にも負けない一番だ。そのためには、どうしたって――。


「俺がテメェを負かすまで、辞めんな」


名前は、珍しく眉を顰めている。


「テメェの気持ちも、挫折も、どーでもいいんだよ! 俺ァ一番になるって決めてんだ。俺の前に立っとんだ、ヒーローになれねェわけねェだろーが!!」


まだ敵わないと思っているのに、彼女はちらともこちらに見向きもしない目でそんなことはないよと、強くはないよと否定する。だからずっと腹が立っているのだ。この人はヒーローになる。絶対そうなる。それ以外は許さない。他でもない勝己が、許せない。ヒーローになりたい勝己の前を颯爽といくのだから、この人がヒーローになれないのだと不可能を理由にするのなら、一生だって勝己もヒーローになどなれない。この屈辱を、この人は知らない。知り得ない。知らなくていい。ただ、揺るがない強さで前を征く背中を、焼け焦げる手で掴んでいる。いつかその背を追い越す日まで。


「勝ち逃げだきゃァ許さねーからな!!」


この人のヒーローとしての背中を、知っているからこそ腹が立つ。一生だってこんな想いなど、姉に知られるわけにはいかないが。
誰かの傷も自分の不甲斐なさも、全部背負ってそれでも真っ直ぐに立つ姉の姿が、見たい。この人ならそうなれる。知っている。これは、信頼や希望などという曖昧なものじゃない。
息巻いた勝己に、姉は下を向いた。くつくつと肩を震わせて笑いながら、小さな雫を床に落としている。


「…そっか。私、まだ負けてなかったかあ」


目尻に溜まった水滴を指先で払い落として、はあと息をこぼすようにした一笑。


「…弟には、負けらんないよね」
「たかが二年先に生まれたくらいで調子乗んなクソ姉貴」


わざと立てた中指に、姉は「勝ててからいいなよ」と赤い瞳を弛ませてぐしゃりと勝己の頭を撫でた。

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