敵わない程強いひと
入学試験の時、なんて強い人なんだろうと思った。両手から氷を繰り出してロボットを次々と氷漬けにしていく彼女――名字名前の背中は、緑谷などより遥かに小さいというのに酷く大きく見えた。
ゼロポイント敵を前に確か名字も飛び出そうとしていた気もするが、正直そのあたりはよく覚えていない。試験開始直後の、あの大きな背中だけが、ずっと印象に残っていた。
A組に彼女の姿もあったことが、なんとなく嬉しかったのを覚えている。彼女の背中はヒーローに近いと思っていた節もあったからか、授業ではいつも目で追っていた。轟が大味な使い方をするタイプだったので、名字の小器用に出力を変化させて使い分ける姿も見ていて面白かった。
『轟君の相手は私がする。その間に緑谷君は梅雨ちゃんを救けに行って』
『そうだね、それがいいと思う』
名字は個性と人の使い方を知っている。彼女とペアになる時は意見が食い違ったことはなく、どちらかというと同じ思考回路をしていたことの方が多かった。だからこの時も、人質となっている蛙吹のもとには緑谷が行く、と決めたことに異論はなかった。何せ、彼女の背中はあの頃よりも更に大きく見えていたからだ。
結果、その日は時間差で投入された上鳴が、名字の氷と轟の炎で濡れたアスファルトに通電させたことによって彼女は膝をついたという。曖昧な表現になるのは、蛙吹を安全域に届けてすぐさま戻ってきた緑谷が見たものが、既に上鳴を捕らえて轟と目下応戦中の姿だったからだ。講評のために後から確認した映像には、確かに彼女が歯噛みして膝をついていた姿があった。そこからの猛襲はまるでそんな弱さなど許さないとでも言いたげで、授業が終わった後、誰もいなくなった教室に残っていた彼女に思わず話しかけた。
『名字さん、その、今日は、――』
『なにそれ』
彼女は、怒っていた。肩を萎縮させそうになるのは長年の癖で、地面を彷徨っていた視線を上げると名字は正しく泣きそうだと形容すべき顔をしていた。
『時間差が予想外だったけど、上鳴君には負けなかった。轟君だって、もう少し時間があったらうまくやれた。緑谷君が間に合わなくたって、梅雨ちゃんを救けられたなら絶対負けない』
『…ううん、多分もっとしっかり勝ちを取るなら、蛙吹さんの救出は名字さんがすべきだった』
『人質救出は時間勝負が鉄則でしょ』
『蛙吹さんを救けても、あれじゃ名字さんが救からない…と思う』
選びながら告げた言葉に名字はぎゅうと目を瞑って、息を長く吐いていた。
『…緑谷君から見たら、弱いかな、私は』
『えっいや、僕なんかよりずっと名字さんの方が強い――』
『緑谷君の方が、ずっと強いよ。それは絶対』
彼女は、最後にごめんと言った。爆豪のように圧倒的な強さに拘る彼女が、そんなふうに他人を評価したところを初めて聞いた。同時に、自分の方が下だと位置づけしたところも初めてだった。
名字は唇を強く引き結んだまま、教室を出ていってしまった。
――大きい人だと思っていたのだ。揺るがない強さを身につけた、自信に満ち溢れた人だと思っていた。だから、こんなことを言いながらもきっと彼女は一人でも大丈夫だと言い切るのだろうなと心の何処かで思っていて、けれどそれではもっと先を想像した時に――ステインと戦っていた飯田のように、一人でなんでもできるからと突っ走ってしまいそうな未来がありありと目に浮かんで、それが怖かったのだ。だから、そんな背中を守りたかった。いや、それは今降って湧いた情動だ。
――告げた言葉は彼女を責めてしまったのだろうか。
教室を去っていく背中は、あんなにも小さかっただろうか。
その日から、彼女の背中は依然として身長に相応の小さいままになった。
* * *
俗に第五世代と呼ばれていた名前の世代は、大多数がありとあらゆる個性を持って生まれてくる。例に漏れず、名字名前も父と母の個性を見事立派に上位互換して引き継いだ。四歳の頃に個性が発現してからと言うもの、ゆくゆくはヒーローになる以外の道はどこにも存在していなかったのだ。それ以外は名前にとって相応しくないとさえ思っていた。
それが、中学三年の冬に亀裂が入った。
雄英高校で行われた入学試験はより多くの敵を模したロボットを破壊すること、だった。筆記試験で既に手応えを感じていた名前にとって、実技試験は恐るるに足らずといったもので、両手から大氷塊を繰り出しては破壊の限りを尽くした。何せ相手はロボットだったので、出力の調整などする必要性がなかった。これはもう実技試験の合格も堅い、そう思った時。目の前にあまりに巨大なロボットが出現した。立ち向かう気力を容易に削ぐそれに、名前は初めて、会敵すべきそういった事象に背を向けた。
いったぁ、と背後で僅かに聞こえた声に、足を止める。反射的に振り向いて、踏み出した一歩を押し留めた。迫る巨大なロボットを、止めることが果たしてできるのだろうか。一瞬、けれど確実に、これまた"初めて"自分の能力を疑った。頭の中の逡巡を嘲笑うように敵は侵攻を続ける。
――救けなきゃ。何せ名前はヒーローになるのだから。足は、意思に反して動かない。
倒れ込む彼女にロボットが迫った刹那、後ろから風が吹いた。鮮やかな緑色が視界を横切る。彼は地面を穿つような一歩を踏み込んで、高く跳んだ。ロボットの顔面にまで跳び上がった背中。右腕を振りかざし、強く振り抜いた。
鮮烈だった。今までずっと、圧倒的な個性を持って生まれた名前にとって実現不可能なことはないと思っていた。
個性の反動でボロボロになった彼を見て、試験開始直前に同級生に叱られてペコペコと頭を下げていた人だったとそこで気がついた。知らない他人に脅かされるほど気が弱くて、あれではとてもじゃないがヒーローなんて、とさえ思っていた人だったのだ。
――憧れていたヒーローは揺るがないオールマイトただ一人だった。それが、そうではないのかもしれないと、塗り変わった瞬間だった。
そんな衝撃にしばらく頭を殴られたままだった名前が、晴れて入学して編成されたクラスに入るなり彼――緑谷出久がいたことは幸運以外の何者でもなかった。ヒーローになるために、緑谷出久は避けては通れない道だと思ったのだ。
「今日も、よろしく、名字さん」
USJ、体育祭、職場体験と、ことある毎に緑谷はより強くなっていた。
強く、疾く、誰にも追いつくことができないほどのスピードでのし上がっていくのを感じていた。先日の戦闘訓練で、自覚してしまった。緑谷であれば、より確実に勝てるのだろうと。膝をついた瞬間、思ってしまった。それが許せなかった。彼が凄いことは十分に理解していたというのに、それに託けて負けてしまいそうになった自分の意思は到底受容できるものではなかった。八つ当たりのように放った個性で上鳴を捕らえ、轟の左手の炎よりも押し切ろうと最大限を出し続けた。結果は、勝った。勝ったというのに、他でもない自分自身に負けた。
そんな先日の訓練を思い出しながら、グラウンドβの大通りで隣に並ぶ緑谷を見上げていた。今日も彼とはヒーロー役としてペアを組むことになった。
あの日から、緑谷とはなんとなくうまくいっていない。もともと人にヘコヘコして笑う彼とはタイプの違う人間ではあったから、こんなものかとも思った。それは、なんだかとても胸が空いた。
敵側の切島と爆豪の準備がまだのようで、開始のブザーは聞こえない。よろしく、と一瞬だけ視線を交わらせた後、前を向いた。
「…名字さんの個性ってカッコいいよね」
「っな、なに、突然…!」
彼は軽く身体を動かしながら、最後に伸びを一つするとへたりと眉尻を下げて笑う。
「名字さんの個性は確かに元々強いものかもしれない。けど、個性制御のレベルがかなり高い上に最大限の威力は轟君にだって引を取らないし極め付けに精細なコントロール能で足場を作るのも死角から凍らせるのも小細工を仕掛けるのも見ていて本当、いつも凄いなって思う。ただ出力が上がるほど出し切った後のラグだったり、緻密にコントロールしている時は周囲の注意が散漫になったり、個性の連続使用で動作が鈍ったり、だんだん改善されてきてはいるけど実戦になると結構そういう面が出やすかったりするよね」
だんだんと思考回路が深くなってきたのか、下唇を指で挟む癖が顔を出す。このまま終いには個性トレーニングの内容にまで話が飛躍しそうな勢いを、緑谷自身が我に返って堰き止めた。
「――はっ、そうじゃなくて、えっと、そういうところは生まれ持った個性云々じゃなくて、それをどう扱うために努力したかってところが名字さんの凄いところだし、良くないところだとも思う」
良くないところ。
――これが、緑谷ではない他人に言われたところで、だからなんだと思っていたかもしれない。彼の言葉はいつも真っ直ぐで、そして何より、名前は彼に勝てないことを悟っている。
緑谷はフェイスガードに顎を埋めながら、瞬きを数回繰り返していた。
「…なんていうか、名字さんって、こう、大きかったんだよね」
「大きかった…?」
「そう。こういう背中がヒーローなんだなって思うというか、兎に角、カッコよかったんだ」
彼の科白にかぶさるように、漸く開始のブザーが鳴り響いた。指定された住所に駆けながら、彼の言葉が続くのを待っていた。
――彼の言葉はいずれも過去形だ。今の名前を表しているわけではない。
生まれた頃から、名前は常に誰かよりも上に立っていた。個性は言わずもがな、成績も身体能力も、もし何か劣るものを見つけたならば、勝てるまでやるというのが信条だった。
それが緑谷にだけはどう足掻いても勝てないのだ。勝てるまでという気持ちですら、小さくなっている。
そんな心理面が影響したのか、マンションに立てこもった敵役の二人を相手に奇襲を許してしまった。案の定緑谷とはうまく連携が取れず、一人先走った氷の壁に視界を奪われて爆豪からの先制攻撃に後ろ手に組み伏せられ捕縛された。対する緑谷は切島を捕獲したのちやってきて、黄色のテープで降参させられた各々の相方を前に器物損壊の一つも考慮しない戦闘が繰り広げられた。結果は時間切れというなんとも収集のつかない終わりに、無線から流れたオールマイトの焦る声に漸く二人――主に爆豪の手が、止まった。
終礼を終えた後、名前は保健室に向かっていた。
今行けば、途中で治療の済んだ緑谷とすれ違うだろう。なんとなく足取りが重いのは、今日の散々な結果のせいだ。
階段をいくつか降りた後、手すりの向こうから碧の髪が上がってくるのが見えた。
「あれ、名字さん? え、どこ怪我してたの?」
「ううん、……私は、緑谷君がヒーローの人だと、ずっと思ってる。だから負けたくなかった。緑谷君と同じくらい、強くなりたかった」
でも勝てない。
歯噛みするほどに、悔しいと思っている感覚に、勝てないと思考している自分をより自覚する。
緑谷はリカバリーガールからもらったお菓子を握り締めながら、階段をのぼった。名前の一段下で歩みを止めて、背比べをするように彼自身の頭上に手のひらを置いてみせた。
「階段一つ分も違かったんだね、身長」
「…縮んでないけど」
「えっあ、ごめん…そうじゃなくて、ほら、授業中話してたやつ。大きかったんだよねって。そうじゃなくて、多分、名字さんって圧倒的に凄い人っていう感じだったんだよ」
彼は雀斑の散った頬をかきながら、照れ臭そうに視線を左右に泳がせている。
「だから、そんな名字さんも悩んだりとかあるんだなって、思ったというか…」
「……緑谷君に追いつけないから、今悩んでるんだけど」
「えっいや、そんな、僕なんかは、全然…っ!!」
彼の強さを知っているというのに無自覚の謙虚さで否定されるのも腹が立つものらしい。意図せず寄ってしまった眉間の皺に緑谷は視線が痛い、と苦い顔をしていた。
「…えっと、だから、何が言いたいかって、名字さんの良くないところって、多分そういうところで、名字さん自身が強いって思ってて僕も君のことは強いと思ってて、だから一人でも大丈夫なのかもしれないって、そういうのが良くないんだろうなって思う。保須で、いろいろあって…本当に一人でやらなきゃいけないことって、多分そんなに多くない、んだと思う」
それじゃあいつか、名字さんがキャパオーバーになっちゃうよ。
目の前で、碧の双眸が揺れている。気が弱くて、すぐに肩を竦めて人の顔色を伺うようにしていた最初の頃の彼は、もう何処にもいない。思うに、彼のそういう気の弱さは、他人に容赦のない優しさから滲み出ていたものなのかもしれない。それが、きっと優しさの形を変えてきているのだろう。緑谷のそういうところは、あの巨大なロボットを相手に麗日を救けに向かった日から、何一つ変わっていない。あの、一番のヒーローが塗り変わった瞬間から、ずっと。
「……うん」
そうであるならば、一生だって勝てるわけがなかったのだ。彼はいつも名前の前を我武者羅に直向きに、不特定多数の誰かのために走り続けることができる人だ。人の弱さを知っている人で、それを蔑ろにしない人だ。揺らがない一番であり続けたい名前には、どうしたって持ちようのないもので、それは彼だからこそ効力のある、彼だけの感覚だ。
だから、きっとそんな背中に惹かれたのだろう。持ち合わせることが出来ないヒーロー然とした背中に、憧れたんだろう。
「――私、緑谷君のこと好きだよ」
「うん……っ、え!?」
「だから、ラグっちゃう時とか、注意が散漫なってたりとか、直す…けど、緑谷君がいてくれるなら、安心だ」
去年までの唯一絶対、何よりも自分が凄いなんていう頃であれば、緑谷のことなど気にも留めなかったのだろう。
勝ち負けにずっと拘って、一番であることに固執して、そうなれなかったら足掻いて足掻いて、何事にも常に一番である自分以外は許せなかった。そうであるべきだと思っていた。
それが為せそうにもないなんて、自分に負けてしまっているというのに。
天井に向かって伸びをする。いつも笑ってばかりいる緑谷につられたように、息を吐くように笑った。
「っふ、まあ、気にしないで。じゃあね、緑谷君――」
「待って、」
階段をのぼろうと身を翻すと、ぱしりと彼は腕を掴んだ。同じ目線に並ぶ顔は初めて会話をした頃のように真っ赤で、それがなんだか面白くてまた笑った。彼に負けるとこういう気分になるらしい。
緑谷は何度も目を泳がせては、はくはくと口を動かしていた。
「僕も、その、名字さんのこと、好き、です」
「…うん?」
「だから、名字さんの背中は、僕が守りたい」
茹だった蛸のような締まりのない顔で言われても。そう揶揄うのも良かったのかもしれない。
「――二人でいたら、どんな敵にだって勝てる気しかしないね」
「うん、僕もそう思う」
同じ歩幅で階段を上り切ると、未だに赤さの残る耳を隠すように反対の手で顔を覆いながら、それでも確かに笑っていた。