怖がらない方法

北信介という男がいる。稲荷崎高校バレー部の主将であるその男は、全ての物事において隙がなく"ちゃんとやる"と言う言葉を体現しているような人だった。そんな彼に、どうやら妹がいるらしいというのを知ったのは二年のクラス替えをしてからやや暫くが経った日のことだった。
口を開けば次第にくだらない喧嘩へと移行していく侑と治にとってそれを制裁する役割を持つ北には頭が上がらず、そうは思いつつも毎日同じことを繰り返していた。二年の廊下にそもそも北が来ないという大前提、同じチームの角名や銀島は基本的に見物担当になるので、今日も今日とて何が理由に始まったかも最早忘れた口喧嘩が昂っていく最中だった。


「はァ!? あん時はお前がしょうもないミスしよるからやろ!!」
「何も見てへんくせによう言えるな!? 何処に目ェつけてんのや――」


ぴたりと治の動きが静止した。開きかけた唇もそのままある一点を見つめたまま瞠られた瞳に、胸ぐらを掴み上げながらまさかと侑もつられて振り返る。これはよもや騒ぎでも聞きつけて北がやって来たのでは、と取り囲んでいた野次馬の中から治の視線を辿って彼の姿を追いかける。群衆に紛れてしまうほど彼は小さくはない。だと言うのに、治の目に映っているはずの姿が一向に見当たらなかった。


「サム、何見とんねん」
「北さんが――」
「は? おらんやろ、目まで腐ってほんまポンコツやなお前」
「ポンコツはお前じゃ! よう見てみい――」
「またお前らか宮兄弟!! 性懲りもなく騒ぎよってからに、反省文書かされたいんか!!」


侑の視界に治の言う北が映るよりも前に、背後から一組の担任が忙しない足音を立てて近づいてきた。わらわらと蜘蛛の子が散るように野次馬も捌けていく。
矢張り、何処にも北などいるわけがない。大体、彼がいるとしたならば教師よりも先に冷たい視線を寄越して何してるんお前らと声をかけてくるだろう。角名などこの場に残らず一目散に教室に避難しているはずだ。
襟ぐりを離して互いに制服を正しながら腕を組む教師に適当に返事をする。
治の目は、四組のあたりを眺めていた。


 * * *

兄――信介と同じ高校に入学をしたことに、大した理由などない。信介は妹である名前からしてみてもよく出来た人で、それを時折怖いと思うくらいには一切の隙の無い人であった。それだけ憧れと尊敬と安心が入り混じり、そんな兄のいる学校であれば怖いものなどないと思わせた結果が、これだったのかもしれない。
一年生だった頃、その頃はまだ信介はユニフォームを貰ってはおらず、応援などいらないと薄く微笑むばかりだったので、それでもこっそりと練習試合を見に行けばそこにあった熱量に気圧された。選手のものもそうであったけれど、観客席にいた生徒のものが大きかった。
よくよく聞くに、中学の頃ベストセッター賞を受賞しているような選手が同学年にいるようで、それが何ともイケメンなのだという。宮という双子の兄弟らしく、髪色が違うだけで同じ顔をしている二人を応援する黄色い声に、名前は観客席の隅で丸まっていた。
もともと大きな声も、バレー部のような背の高い威圧感のある男の人も苦手で、さらに拍車をかけて女子生徒の勢いにも飲まれ、それ以来何となく体育館にすら近づけなくなった。学校内で信介に用向きがあることなど殆どなく、余計な詮索をされたくもなかったのでバレー部にも近づかない方がいいという危機感を覚えたおかげで一年の間はそれはもう静かに過ごしていた。北という姓も、レギュラーではない兄のことを知る人も多くはなかったために誰からも関係性を問い質されることもなく日々を送っていた。
それが、二年生に進級してからひと月と経っていない頃。偶然廊下でいつも通り喧嘩をしていた双子の近くを通りかかってしまった。見つからないように人混みに紛れながら廊下を駆け抜けたつもりだったがその時に、治と目が合った。あれは確実にこちらを視認していた。
ぎくりと肩が飛び跳ねて、違う階にでも逃げればよかったのだろうが見つかってしまったという焦燥にそのまま自分のクラスに駆け込んでしまったのだ。それが、運の尽きだった。


『ほんまや、女版北さんや』


自分の机で黙々と課題をこなしていた休み時間に、突然教室の前方ドアからそんな声が弾けた。顔をあげてはいけないと分かっていながらも、紛れもなく自分にかけられている話題だと思えば手元から視線を上げざるを得なかった。そこには、ドアにもたれるようにして立っている宮兄弟がいて、サッと顔面の血の気が引いていくような気がした。
クラスメイトの目が集まっているのが分かる。その目の中に、宮兄弟に声をかけられるに至った事情を知っているものはどれだけあるだろうか。
逃げればよかったのかもしれない。そう思った頃には、目の前に巨大な男二人が立ち塞がっていた。
信介も平均身長からしたら高い方ではあったけれど、それよりもさらに大きい。じとりとした双眸が爬虫類か猛禽類か、いずれにしても捕食する側の動物を彷彿とさせた。


『北さんの妹なんやってな』
『よう似とるなぁ、中身は全然違そうやけど』


もしもこの時携帯を握っていたら、すぐさま信介に連絡をしていたのかもしれない。年甲斐もなく頼ってしまうくらいには、この状況はあまりに名前にとって壮絶すぎた。誰にどんな弁解を立てれば平穏な日々は約束されるだろうか。
唇はピッタリと張り付いていて、喉から干からびていく感覚に呼吸すら忘れていた。


『なあなあ、北さんて弱点とかないんか』


目の前の空いた机に腰を寄せて、唐突にそんなことを言い始めたのはおそらく侑の方だ。金髪が侑で銀髪が治だと誰かが言っていたのを何となく覚えていて、だからといってどちらの名前も呼べるはずもなく、ただただ涙をこぼすまいと顔面を取り繕うことに精一杯だった。


『…あ、俺が治でこいつが侑や。北さんに妹おるなんて知らんかったから、つい話しかけてもーた。すまんかったな、行こやツム』
『は?』
『もう予鈴鳴んねんで、北さんにバレたらまた怒られる』


治が侑の肩口を叩くと、彼は一瞥もくれずに立ち去っていった。その後ろを侑が何やら声を上げながらついていっているが、正直これでようやく息が吸える。ぶすぶすと頭から焼け焦げた煙でも立ち上りそうだ。『北さんって、あの北先輩の妹だったの?』なんていうここにきて初めてクラスメイトから聞いた兄の存在に、嬉しさよりも面倒さが勝ってしまったのだからあの宮兄弟は厄介この上ない相手だった。

それから、宮兄弟は週に何回か四組の教室にやってくるようになった。


「――そったらカバンから裁縫セット出てきたんやけど、北さんってほんま四次元ポケット持っとんの?」
「……二人が、しょっちゅう喧嘩するんやって、この間言うとったんはそれのことやったんね…」
「ボケつまんなすぎて拾われてすらないで」
「うっさいねんサム! ボケとらんわ!!」


治と侑は目の前で椅子の背もたれに腕をかけながら跨いで座っていて、信介に関する取り留めのない話をしていた。
――二回目にやってきた時は治が先に座ることを選んだ。隔たっていた壁が、一つ消えた。三回目、侑も椅子に座っていた。見下ろされる威圧感は無くなった。四回目、クラスメイトもバレー部主将の妹と宮兄弟という関係性に慣れ始めていた。
何回経っても会話の内容は大抵信介についてだ。二人は信介の弱点を知りたがっていて、というのもどうにかして彼を打ち負かしてやりたいという子どもじみた発想からくるもののようで、信介にそんなものがあるわけがないだろうと言えば半ば納得しかけていた。あるとするならば祖母に関するあれそれだろうか。あとは静電気かそれくらいしか思い浮かばない。
昼休みの終わる頃にふらっと現れた二人は予鈴の音にガタガタと立ち上がると、来た時と同じような適当さで教室を出ていった。相変わらず、彼らは何が面白くてここに来ているのかは分からないが、二人から聞く兄の話は楽しそうで、この時間も嫌いではなくなっていた。
五限目が終わりややもすると、信介からメッセージが一つ入っていた。どうやら今日の練習は監督の都合で短時間で終わるようで、帰りに祖母から頼まれている買い物に出かけようとのことだった。男手なだけあっておそらくは沢山の品を頼まれているのだろう。それに、それらは名前の腹も満たすものだ。断る理由はないので了承の旨を返せば、六時頃に終わると返ってきた。
終わった頃合いを見計らって体育館に行こう。試合でもない普通の練習であれば、気圧されるほどの声もないだろう。

図書室で時間を潰しながら六時になる少し前に体育館に向かった。校舎から続く外廊下を歩いていると体育館からボールの跳ねる音がしているので、どうやらもう少しかかるようだ。正面の鉄製ドアから顔を覗かせると、手前に並ぶ広い下駄箱のその更に奥のドアの隙間からバレーボールの高いネットが見えていた。


「ラストォ!」


ここ最近で聞き慣れた声。ドンと強い足音に続いて、ドアの隙間からネットに向かって跳び上がる人を見た。銀色の髪が暖色の照明に反射する。信介と同じ視線でコートを見るのは久しぶりで、こんなに跳んでいたんだなと、思わず声を漏らしそうになって慌てて噤んだ。
ボールを打ち下ろして着地をした治が、ギョロリとこちらに目を向けた。大きくもない声を拾うほどの集中力だと思えばいいのか、咄嗟にドアに身を隠した。
あざっした、と言葉にもなっていない声が響く。監督の話し声が途切れた頃、ソールが床を滑る音を立たせながらドアから誰かが顔を出した。


「やっぱ名前や、どないしたん?」
「お、さむ君、お疲れ様」
「おん――てオイツム! なんでお前までくんねん!」
「お前が掃除サボってこっち来よるからやろ――お名前やないか! どないしたん?」


団子のように上下に顔を分かれて出している様が可笑しく、しかも問いかけてくる中身まで同じともなれば笑いそうになってきゅっと唇を横に引いた。


「し…兄と、一緒に帰るから、待ってたん」
「ほーか。北さーん!」
「っ終わるまではここにおるから、呼ばんでも…!」
「――何しとう、お前ら。最後までちゃんと掃除しいや」


ドアの向こうから聞こえてきた信介の声に、隠れているわけにもいかずおずおずと身を乗り出せばそこにはモップを片手に汗を拭う彼の姿があった。
僅かに目を瞠らせた信介は、ふんわりと微笑んでいた。


「名前、なんや俺が教室まで行ったんにすまんな。待っててくれてありがとうな」
「ううん、まだ片付けあるやんな、終わるまで外おるね」
「もう終わるし、中におり」


柔らかな彼の言葉尻にうん、とつられて頬を緩める。信介は隣にいた侑と治に行くで、と声をかけるとモップを引きづりながら館内に戻っていった。


「…北さんの前やと笑うんやな」
「え?」


ゴムのようなシートが貼られた三和土を踏んで、一段高くなった床板に腰を下ろす。カバンをすぐ脇に置いたところで、治が一メートルほどの距離を空けて目の前でしゃがみ込みながらそういった。
折り畳んだ膝に肘をついて頬を置く姿は面白くはないという様な顔をしていて、意図を測りかねて何度も目を瞬かせる。侑はといえば一瞬思案したあと治の頭に一度手を乗せると、不意にそのまま彼の右頬を粘土のようにむぎゅっと捻り上げたり挟み込んだりし始めた。


「何やねんツム!!」
「いや、折角やからサムで笑いをとったろうと思うてな」
「其処におんなじ顔があるやろ!」
「侑、治。いい加減にせえよ」


再度顔を覗かせた信介は床にしゃがみ込んでいる二人の姿に微かに驚いた後目を細めて、「自分で使うたもんくらい自分で綺麗にしいや。礼儀やろ」と諌めるような口ぶりで言った。治と侑はへしあいながらも立ち上がって館内に戻ると、キュッと高いソールの滑る音を上げてモップをかけていく。
ボールカゴのキャスターや、ポールのハンドルが軋む音。ケラケラと笑う声。その中に混じる信介の密やかに緩んでいる声音を拾い上げて、瞬きを一つした。北さん、と侑が呼ぶたびに、なんやと名前にかけるような温度で応えている。あの人は侑や治にとっても兄になっているのかもしれない。なんとなく、悔しいといおうか胸が空くといおうか、何とも言い難い胸臆をぶら下げながら、外廊下に飛び出した。見たことのあるバレー部員が一人二人と体育館の中から溢れ出てくる。侑と治、それから大耳が出てくるとバチンと派手な音がして、照明が消えた。
信介と監督が施錠の確認をして、それじゃあまた明日と影が少しずつ減っていく。
夕方の薄暗い体育館の周囲では、誰彼の顔も暮れ泥んでいてよく分からなくなっていた。
治と侑が手を振っている様を眺めてから信介は名前に向き直る。


「待たせたなあ、名前」
「信兄、お疲れさま」
「おん。…あいつら、図体でかいしで怖かったやろ」


小さい頃からよく大きいものに怯えてばかりいたのを、彼は未だにずっと覚えているのだろう。ぽん、と同じ髪色をした頭を撫ぜるように乗せられた。


「…でも、しゃがんでくれるんよ」
「せやな、見てたで」


たまにうるさい時もあんねんけど、可愛い奴らやろ。
ふふと息をこぼす信介に、少しの間を開ける。


「信兄は、みんなのお兄ちゃんになってまうんかな」
「おもろいなあ、俺は名前のお兄ちゃんにしかなれへんで」
「…侑くんと治くんに取られてまいそう」
「はは、双子が弟やったらえらい賑やかになるやろなあ」


翌日、ふらりとやってきた侑と治は矢張り早々に椅子に座って目線を落としていて、可愛い奴らやろ、と嬉しそうな兄の声を思い出していた。
それから、北の妹にくだらない漫才――のように見えるだけ――を繰り広げる宮兄弟という構図が出来始めたのは暫くも経たない日のことからだった。

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