貴方は獣じみていて、綺麗なひとだ

※ 小説版は読んでおりません。


慣れた人間でないと抜け出せないほど迷うくらいには、深い森に住んでいた。そんな場所で母と双子のイズクとともに田畑を耕しながらのんびりと悠々とした生活を送るには森を歩くことが不可欠で、その心得としては、正しく帰ってくることができるように目印となるものを見つけておくことだ。それは自然物でもいいし人工的な傷でも紐でも何でもいい。とにかく、迷ったが最後、命は尽きると思えという今はどこかで旅をしているという父が残した言葉である。
今日は偶然にもイズクが町に所用があるというので、共という名の興味本位でついていった。途中までは良かったのだ。あまり町には降らない生活を送っているせいか目新しい風景に気を取られながらも、イズクが立ち止まって名前がいるかどうかを常に確認して進んでいたので何ともなかった。
――それが、いつの間にやらこうなった。
手をついている巨木に刻まれた傷は新しい。というよりも、先程名前が自分でつけたものだ。


「…もしかしなくても、迷子、…?」


拝啓、家で帰りを待つ母へ。あるいは今頃顔を真っ青にしているであろうイズクへ。もしくは何処とも知れない父へ。骸さえ残すこともできずに森で果てる名前を許してほしい、とでも認めておこうか。笑えない。
ちょうど収まりの良さそうな木の洞に座り込んで、膝を抱える。編み上げのブーツの泥を手持ち無沙汰に払い落としながら、モスグリーンのスカートの裾を握りしめた。森に同化しそうな色だなと、最早これを最後の落ちに笑うしかないだろう。
道も分からなくなると途端に腹も空くらしく、ぐうと盛大な音を鳴らせたものだから余計に虚しくなって膝頭の間に額を埋めた。
一体どうしてイズクを見失ったのか、頭の中で反省会をしていたところで謎は深まるばかりだ。


「――! っわ、」


がさりと垣根が揺れる。風が葉を揺らし、不気味な生き物の声が鬱蒼とした森に響く。
びくりと肩を震わせて、目を凝らして周囲を見渡したところでなにもいない。
――あと二時間もせずに日が沈む。既に傾き始めた日差しが翳り始めている。このままでは直に夜と差が無いほどには暗くなってしまう。


「…イズ、見つけてくれるかな…」


下手に動き回らない方がいいことはつい今し方学んだばかりだった。それも手遅れではあったけれど。
――夏の盛りも終えた森は薄ら寒く、縮こまるようにして肩を抱き締めた。
心細い音が溢れている。
ふらふらとしていた名前が一番悪いのだから、涙などこぼしたところでと言い聞かせて下唇を噛み締める。それでも一向に、名を呼ぶ声さえ聞こえない。
イズ、と震える声が骨を通して反響するせいで、尚更に今は一人ぼっちなのだと自覚を促すだけだった。


ガササッ。


茂みをかき分ける音がした。何かが小枝をぱきりぱきりと踏みつけている。勢い顔をあげると、聞き慣れない唸り声が耳に届いてきた。


「っ、」


――獣だ。剥き出しの牙の隙間から唾液を垂らして、こちらを伺うように身を屈めている。鋭く獰猛な双眸が、無力な名前を品定めするかの如く少しずつ近づいてきていた。
名前には何もない。イズクのような剣も、身を守る魔法も、なにひとつ。
立ち上がることさえできずに口元を両手で塞ぎ込む。息を殺して死んだふりをなどと聞くけれど、そんなもの新鮮な肉を放り出すだけだ。


「グルルルル…」


枝、石、枯れた葉と目だけがぎょろぎょろとあたりを見渡す。わずかな距離でもと逃げるように背中を強く木に押し付けたとき、硬いものが腰に当たった。
獣の前足が落ち葉を踏む。地面にスレスレになるほど頑丈そうな顎を下げて、前足に力を溜めている。


「っ来ないで…!」


獣が地面を蹴る。迫りきた尖る歯列に目を瞑る。なりふり構わず腰からペティナイフを取り出して、両手で眼前に突き出した。
刹那、鈍い音がした。


「――そんなんじゃ刺さりもしねえわ」


キャウ、と甲高い鳴き声が上がる。
のたうち回るような音のあと、駆け出していった四足の足音に恐る恐る目蓋を開けようとして視界に何かが映るよりも先に、がしりと大きな手でナイフを握る両手を捕らえられた。無遠慮な手に連想されたものは良くないもので、反射的に再び硬く目を瞑ってしまう。ぎゅうと固めた身体を、引き上げられるように両手を持ち上げられた。


「ッやだ、」
「――あァ? ざけんな俺だわ、目ぇ開けろや雑魚名前」


――松明の明かりだろうか。瞼の裏を刺す柔らかなオレンジに、強張らせていた顔の筋肉を緩ませる。ぼやけた視界に、惜しげもなく晒された胸板と赤い外套が飛び込んできた。


「カ、カツキくん…?」
「気付くのが遅ェわ、分かるだろ」
「知らない、人かと思っ、た…!」


彼は名前の手からペティナイフを奪うと、ぐいと優しくはない手つきで目元を拭った。


「…来てやったんだから泣いてんじゃねえ」


泣いてない、と否定するにはもうすっかり頬は濡れていて、地面に垂れるカツキの赤の外套を握りしめる。
このまま生きたまま食い散らかされてしまうかと思った。救けを呼んでもきっと誰も来てはくれないのだろうと心臓まで震えていた。
松明が明るいと思うほどにはあたりはもうどっぷりと夜に浸かっていて、彼は松明を右手で握りしめたまま、ひっきりなしに溢れる涙を掬うことを諦めて名前の頭を引き寄せた。


「うぜえ」
「っな、んで、カツキ君が、」
「てめえンとこの片割れが森ン中探してんのをエイジロウが見つけたんだよ」


もこもことした毛皮に顔を埋める。温かい匂いがして、余計に涙が溢れそうになって息を詰めた。
こんな夜だというのに彼の身体は少しも冷たくない。そろりと外套を掴んでいない左手を脇腹に回せば、冷たいとどやされたが離せとは言われなかった。


「…イズ、は?」
「家。アイツが探したところで、お前を先に見つけた試しがねえ」


ずび、と鼻を啜る。
葉の重なる音も、鳥の声も、変わりはないというのに何処も怖くないのだから、不思議だ。彼がいればこんな森は小さく思えて、あんなにも恐ろしかった獣が出てきたとしても食べられてしまうなんて想像もつかなくなる。
泣き止んだか、とカツキの無骨な手が頭を叩くように撫でていて、うん、と掠れた声を上げた。


「見つけてくれて、ありがとう」
「どうせよそ見して歩いてたんだろ」
「…ほんとに、いつも何で分かるの…?」


近所に住んでいた小さな頃から、隠れん坊でも彼から逃げ果せたことがない。繰り出した町で迷子になったとしても一番乗りは必ずカツキで、その度に迷子になった瞬間でも見ていたのだろうかとさえ思うほど的確にその原因をついてくる。
彼は頭を寄せていた名前の腰に手を置くと難なく立ち上がった。肩の毛皮に埋もれていたけれど身長差で今度は彼の肌に頬を寄せることになって、思わず下を向く。防御力がゼロに近いのは、攻撃を受けないと思っているからだろうか。彼がではなく現状名前が攻撃を受けているのでやめてほしい。
そんな心情など知るわけもなく、カツキは上空に向かって降りてこいと声を上げた。
つられて空を見上げると、大きな影が降り落ちた。びゅお、と狭い隙間を風が巻き込んでいて、激しく靡く髪を耳の脇で止めながら細目でそれを振り仰ぐ。
――赤。炎に揺らめく、カツキの瞳と同じ色。
大きな翼を器用に折り畳むと、それはこちらを真っ直ぐに覗き込んでいた。


「うっわあ、ドラゴンだ…! すごい、ドラゴンと友達? ――なれるの?」
「は? 何言っとんだ、奴隷だわ」
「…」


空からやってきたのは鱗の赤が鮮やかなドラゴンで、そこまでどうやら大きくはないそうだ。彼――?――は右目の上に傷を負っていて、何処となくエイジロウを思い出す。賢そうに首をもたれたドラゴンの頭をそっと撫でると、瞼がスッと細まったのでドラゴンにも表情があるのだと知った。


「あなたは頭がいいんだね。それなら、カツキ君の友達になってあげてね、怖いけど」
「ああ!? てめえ頭沸いてんのか!?」
「満月の日くらいにはきっと優しいかも」
「次は見つけてやんねえからな、覚えとけゴラ」


カツキはそう吐き捨てると、足で土を軽く掘ってから松明を投げ入れた。がつがつと乱暴に土をかけ踏みつけて火を消すと、一瞬で暗くなった世界にひゅっと喉が細くなる。――わざとらしく、彼も口を閉ざしている。指先が冷えていく感覚が悔しくて静かにドラゴンの硬い皮膚に身を寄せると、鼻先でとんと肩を軽く押された。すぐ後ろにはカツキがいて、暗闇で覚束ない足では再びぽすりと背中が埋まる。
それを降参したと取ったのか案の定、彼は鼻で笑った。


「ビビってんじゃねーか」
「…性格悪い」


どこが、とカツキはまた小馬鹿にするようにふっと笑うと、前置きもなくひょいと名前を横に抱え上げた。なにして、と疑問を上げる前にスカートが捲れそうになって裾を掴む。興味ねえわと言われたことに非難をしようと思えば、肩を掴んでいた左手が突然抜かれて咄嗟に首に腕を回した。
そろそろ彼の暴挙に怒っていいのかもしれない。
彼はドラゴンの翼の付け根に抜き取った片手を置くと、身軽にその背中に飛び乗った。


「森なんかちまちま歩いてっから迷子になンだよ」
「え、ちょっと、待っ――!?」


ドラゴンの両翼が羽ばたく。目も開けていられない、木々を薙ぎ倒すような風に振り落とされないようにとただカツキにしがみつくほかなかった。ふわりと感じたこともないような浮遊感に背筋がぞわりと総毛立つ。
地べたに座り込んで四足の獣に喰われるかと思えば空を飛んだり、今日はもういっぱいいっぱいだ。涙を拭ってくれた彼の月周期の珍しい優しさの片鱗を唐突にどこかに置いてくるものだからほとほと困る。しかも名前が堕ちないように脇を閉める腕がもっとずっと細かった頃から、ずっとだ。


「名前、目ぇ開けろ」


無理だよと首を振ったところで認められるわけもなく、獣などより余程怖い彼を前に目の周りに沢山の皺を寄せながら恐々と瞼をこじ開ける。吹き荒ぶ風は変わらずに凄まじいものではあったけれど、滑空をしている間は驚くほど静かだった。
ドラゴンの翼の下に広がる町は通りを埋め尽くすランプの灯りに揺れていて、どこもかしこも光に溢れていた。陽気な人の笑い声までも聞こえてきそうで、身を乗り出しそうになる。こんなにも賑やかだというのに、森の中までは届かないものなのだなと、初めて気づいた。


「――友達どころじゃなかったね」


この翼があれば、見たこともない海というものを見ることもできるかもしれない。世界は広いのだと父は言っていたそうだ。その広い世界ですら、ものの数日で巡り終えてしまうのかもしれない。
そんな場所に連れて行ってくれると言うのなら、奴隷だと言葉選びと諸々が最高に下手な彼が浮かべた顔にも得心がつく。


「相棒だね、カツキ君」
「…頭ン中花畑かよ」
「うん、だって、こんなに綺麗だよ、カツキ君」


遮る木々は存在しえず、真っ直ぐに降り注ぐ月明かりに照らされたドラゴンの鱗や彼の瞳や髪があんまりに眩しかったから、綺麗だねと頬を緩ませた。
カツキが珍しくゆったりと選んでいた言葉が吐き出されるよりも前に、町とは反対の火山の方へ旋回する。もうすっかり夜空の空気に慣れた頃には、火山の熱を感じるほどには山に近づいていた。
麓でドラゴンの背中から降り立つないなや、翼を広げてどこかに飛び立って行ってしまった。そのうちまた戻ってくるとカツキは目もくれずに名前の手を引いて森を抜けていく。
次第にごつごつとした岩場が増えはじめた場所に現れた彼の家の前に、イズクはしゃがみこんで待っていた。
イズ、と思いの外大きな声が岩場に響いて、カツキの手を離して彼の元に駆け寄った。イズクはばちんと名前の頬を挟むと、目に涙を浮かべながら怒っていた。


「名前、もーほんと何処行ってたんだよ!!! どうしていつも急にいなくなるんだ…!」
「ごめんね、もうよそ見しない」
「できねえだろ」


間髪入れずに返ってきた言葉に答えあぐねて努力と返しておいた。努力の意味を知っているかと額を指で叩かれたので、本で読んだままを伝えると保って五日とそれらしい日数を告げられた。否めない。


「お、良かったなー見つかって」
「エイジロウ君! 知ってた? カツキ君がドラゴン連れてるの」
「お? そりゃーまあな?」
「すごいエイジロウ君に似てて、次に会ったらそう呼んじゃいそう」


はははと笑いながらカツキの方を見るエイジロウは、両手に荷物を掲げてひょっこりとやってきた。それからその重そうな荷物を掲げてみせる。


「安心したし飯でも食おうぜ! 今日は賑やかだし、な!」


息巻いたエイジロウに、作んのどうせ俺だろとカツキが溜息を吐いて家に戻っていく。彼の後ろをついていき、台所の木のテーブルにエイジロウが持ってきた荷を解くと中から肉やら野菜やら果物やらとゴロゴロと広がった。
四人で手分けをしながら食材の下準備をしている間、笑い声が止むことはなかった。ランプの炎が揺れて、焼いた具材の匂いが立ち込めている。きっとここも、それはもうあの景色に劣るはずもないほどに綺麗なのだろう。見知らぬ誰かの笑い声よりも、彼らが隣にいて笑っている方が比べられないほどに綺麗なものだ。
大皿に乗せられたご飯を平らげて、エイジロウの遠い地方の話を聞いて、気が付いたら床に転がって眠ってしまっていた。
夜半にふと目を覚まし、もぞもぞとかかっていた何かを引き寄せる。鼻をくすぐる毛皮に殆ど閉じかけていた重たい目蓋を開けると、カツキの外套がかけられていた。彼はやはり寒くないのだろうか。寒くても寒いだなんて言わないだろうなと思う。そういう人だ。優しくはないけれど、柔らかくもないけれど、温かい人だ。ぱさりと外套の半分を肩にかける。


「…いらねえ」


彼の方ははっきりと起きているようで、半分が返ってきた。
火山が近いからなのか、ここはずっとぬくぬくとしていて頭が起きそうにない。返ってきた半分が身体にかかっていて、目蓋を擦りながら彼の近くににじり寄る。かけたら返ってくるを繰り返せるほど目は冴えていない。今にも意識を手放してしまいそうな中で、カツキの放り出した腕に頭を乗せた。外套がいらないのなら、寒くない距離に詰めればいいのだと浮かんだ思考の末だった。


「…これなら、いい、よね…」


寒くないよねと、きちんと言葉に出来ただろうか。


「…喰われても知らねえぞ」


彼ならきっと痛くないようにしてくれるだろうかなんて、主語が人間になっているのだか大概名前の頭も回っていない。美味しくないよと言えばいいだろうか。いや、


「…ほねは、のこして…」


一人ぼっちで寂しいことだけは、嫌だ。
最後に、ふっと溢れるような笑い声が聞こえたような気がした。


「残すかよ」


獣なんかより、やはりひどくて怖い人だ。
もうぴったりと合わさった瞼の裏ではなにも見えないけれど、彼の素肌に包まっている感覚だけは、微睡みに落ちる瞬間に分かった。

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