貴方の肩だけが濡れている
タイムカードを切って、バスロータリーまでの短い距離を歩く。最近はすっかり夜風が冷たくなってきていて、もうすぐ秋も終わろうという気配に外気に晒した首を竦めた。
定刻通りにやってきたバスに乗り込んで、携帯のメッセージアプリを開く。未だに慣れないその名前に指先が躊躇するのは、都合のいい夢を見ているのかもしれないと思うからだ。
自宅の最寄り駅の着時間を計算して送信する。その前にある言葉のやり取りを遡りながら、いつもこれは夢ではないのだなと自覚をする。こんなくだらない確認を実は帰り際にしているのだと彼に告げれば、どんな顔をするだろう。きっと息をこぼすように笑ってくれるのだろうなと思う。夢が覚めても変わらないねと、そう言ってくれる人だともう分かっている。
バスを降りて電車を乗り継いだ頃に携帯が数度振動した。
少し遅れるだろうから構内で待っていてと返ってきたメッセージに、否定の言葉は続かない。大丈夫だと告げたところで彼は引かないのだ。
大人しく改札を出て近くのベンチに腰をかけながら、電車で漁っていたニュースの続きを読み始めた。いくつかの記事を素通りして、それからデクの名前を見つけて指を止める。記事に添えられた写真には、あの日の傷がまざまざと残っていた。電車の広告にはない、彼の朗らかな笑顔とともに歪む傷跡。右の瞼と頬に残る引き攣れた痕は、薄くはなるだろうが消えないだろうとつい先日話しながら彼は苦い顔をしていた。
「――名字さん」
耳馴染みの良い声に顔を上げれば、今しがた見ていた写真よりもふやけた顔を浮かべた緑谷が小走りに寄ってきていた。相変わらずマスクと黒縁眼鏡で自称変装をしているようだけれど、これもいつ知られることになるのだろうなと心配をしているのは存外に名前だけのようだった。彼はずれた眼鏡のブリッヂを押し上げて、目を細めた。その腕には透明なビニール傘が一本、引っかかっていた。傘やレンズにうっすらと水滴が付着していて、雨が降ってることを初めて知った。
「お疲れ様、名字さん」
「有難うございます、緑谷さん…雨、降ってるんですね」
「あ、やっぱり持ってなかった?」
今更に構内の窓を見ればしっかりと濡れている。鞄の中にいつも入れていた折り畳み傘も今日は忘れてしまっていて、眉尻を垂れ下げるほかない。
「ごめんね、二つ持ってくればよかった」
「そんな、私が忘れちゃったので…」
「強くならないうちに、帰ろっか」
当初よりも随分自由に動くようになった瞼が、左目と同じだけ柔らかく細められた。
構内の階段を降りれば、思ったよりもしっかりと雨が降っていた。ばさりと広げられた傘に誘われて、肩を寄せながら歩道を歩く。案の定、右側にいる名前に傾けられた傘のせいで、彼の左肩は濡れそぼっていた。
「…風邪、引いたら困りますから」
冷たい風に当てられて濡れる肩は寒いだろう。傘の柄を僅かに押し返そうと添えたところで、動くわけもなかった。
「僕、滅多に風邪ひかないから」
「…そういう問題じゃ、ないですよ」
大丈夫だよと笑う緑谷に折れるわけもないかと諦めて、後でコンビニに寄りましょうと言えば彼は唇を引き結んだ。
「…実は一本だったのには理由があったり、なかったり…」
曖昧な表現に見当がつかないほど、思考回路は幼稚ではなかった。彼の左上を見やる視線に小さく笑いを漏らした。
「…風邪を引いたら、怒りますからね」
少しだけ左側に寄れば、彼も同じように吹き出していた。
陸橋を越えて住宅街に差し掛かると、暗がりに入り込んだからか彼はマスクを顎下にまでずらして細く息を吐いていた。マスクをする時は大概そんな呼吸を挟んでいるので、息苦しくて苦手なのだろう。
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら等間隔に立つ街灯に照らされる足元からふと頭上を見上げると、その視線に気がついた緑谷が首を傾げた。
頭の中で先程のニュースやテレビ番組の雑多な音が不意に沸き起こった。
――随分精悍な顔つきになりましたねと、あの事件以降の番組に出演した際にそんなふうに声をかけられていた。童顔だからちょうどいいかもしれませんと笑った緑谷に、会場もつられていた。
「…緑谷さん」
「? どうしたの?」
動きを止めた足に半歩遅れて彼も立ち止まる。少しばかり距離の空いた隙間を埋めるようににじり寄った緑谷の持つ傘から、水滴が垂れ落ちる。それが名前の肩口をほんの少しだけ濡らしたことにさえ、彼は慌てて柄を傾けてしまう。
「――もう、傷は痛くないですか?」
「…え?」
静かな雨の音が通り抜けていく。駅を出た頃よりは小降りになった細い雨が街灯に照らし出されている。
彼の右側にある傷痕に手を伸ばしてしまってから、いうべき言葉が宙に浮いた。指先が中途半端に二人の間で止まっている。緑谷の右手が名前の手を掴んだ。まるで、触れないでといわれているような気さえした。
「もう全然、痛くない。これは、本当」
ただ、と続くはずの言葉の合間に沈黙が落ちる。
彼はすっとその双眸を細めて言い淀みながら、それでも愛好を崩さずにいる。
「……あんまり、見てても、気持ちのいい傷ではないのかもなとは、思う」
――息が詰まった。吐き出すべき言葉だけが脳を巡るよりも先に舌先を転げ落ちた。
「なんで、そんなこと言うんですか」
痛みに苛まれていたことを知っている。彼がたったの二日三日の休業中に、どんな悪夢に魘されていたのかを、少なからず知っている。精悍な顔つきに、といったあの人はそんな夜など知らないというのに。
緑谷はそこでようやく、笑うことをやめた。息を呑んだような顔をして、名字さんと困惑の声をこぼしていた。
「貴方が、痛かったねって、言ってくれたんですよ」
彼が掴んでいるこの左手の手首に、消えない一筋がある。同じになどなるはずもないこんな傷を、彼が肯定してくれたのだ。どうしてそれを、自分自身に向けてはくれないのだろう。
「貴方の傷だって、痛かったんだって、言ってくれたじゃないですか…っ」
緑谷の手を振り解いて、彼の頬を挟み込んだ。左手の親指がその傷痕の盛り上がりに触れる。皮膚の続きと同じように、温かい。血の通った熱が、そこにもある。傷痕だけがまるで別添えのように、そんなふうに存在している訳などない。
「…どうして、痛くないかって、聞いたの?」
名字さんは、この傷をよく気にするよね。
――暗い夜道に紛れるような声だと思った。雨が降っていなければ、水に沈むような声だったのかもしれない。
「――笑うたびに、引き攣れるから、本当は痛いのを我慢してまで、笑ってるんじゃないかって、思ったから…」
"デク"はいつも笑っている。その顔が求められている。もしも彼が何かに堪えながらその表情を剥がすこともできないでいるのだとしたら、そんなのあんまりだ。
緑谷はゆっくりと瞬きを数度繰り返してから、肺の奥底に沈んでいた空気を吐き出すようにはあと長いため息をついた。
「――そっか」
「……どういう、納得ですか」
「いや、名字さんちょっと難しい顔して傷をよく見るから、実は嫌なのかなって、思ったりもして、」
矢張り、瞼が引き攣れている。緑谷は安堵のような息をもう一度だけこぼして、傘を左手に持ち替えると名前の左手を取った。
「そうだよね、ごめん」
頬に反して、冷たい指先。傷痕から離された手が、二人の間で曖昧に繋がっている。
「痛い時は笑わないから、大丈夫だよ」
「……約束です」
「うん、約束する」
するりと離れた手で傘を持ち、雨に濡れた足音を一つ響かせた。相変わらず右側に傾けられた柄に濡れた彼の左肩を、どうしたらいいのだろうなと考えたところで答えなど出そうにもない。こんなところでさえ自己犠牲の塊のような人だ。――同じ傘の下に入るのならば、こんなふうな優しさなどない方がいい。どうせなら二人一緒に濡れればいいのにと、思考した一端を彼にはうまく伝えられそうにもない。
――彼と同じ傷を背負えたら、この右肩は濡れるだろうか。
蛍光灯を反射する水溜りを踏み越える。雨は、しとしととまだ降り続いていた。