狡くて優しい大人

バンド隊の漏れ聞こえていた音が追いつけない勉強への阿鼻叫喚――特に上鳴から発せられる――に様変わりし、ブレザーの下にカーディガンを着込むような時期になっていた。十一月も下旬に差し掛かる頃、A組の担任である相澤消太がエリを連れて寮を訪ねてきた。エリという推定六歳の女の子は、九月頃に世間を騒がせた敵連合と死穢八斎會の事件での被害児童だという。詳細は伏せられているが、おそらくは事件の核であったことに間違いはなく、最初こそ笑いもしなかった彼女が穏やかに目を細めて些細な疑問を口にするようになったのは先日の文化祭のあたりからだと、事件に関わっていた緑谷がそんなことを言っていた。
エリの個性は生物に対するもので、扱い方が難しいのだそうだ。そんな込み入った事情から抹消の個性を持っている相澤が彼女を預かることとなり、共に教員寮で過ごすようになってややもしない土曜日の或る日。
男子勢は早起きが苦手な人たちばかりなので気を抜いてそこそこに柔らかいソファに埋もれるように沈み込み、両膝を折りたたみながら携帯をいじっていた。裏起毛のパーカーの程よい温もりに瞼が重だるい。ショートパンツを履いたおかげで転寝をするには少しばかり寒いので、辛うじて頭は起きている。そんな具合であったので、足音にも全く気がつく余地などなかったのだ。


「――名字だけか、珍しいな」
「あ、相澤先生!?」


ガチャリと前触れもなく開かれたドアの向こうには、適当に前髪を掻き上げて乱れた髪を後ろに一つでまとめる相澤と、黒いタイツにボアのパーカーワンピースを着るエリがいた。
平日とたいして変わらない時間に起きていたのは名前の他にも芦戸や耳郎、蛙吹もいたのだが、三人はランドリールームについ今しがた行ったばかりで、名前だけが朝のまだ冷たさの残るリビングに残っていたのだ。珍しいなという相澤の言葉にしどろもどろになりながらもランドリールームを指させば、何か疚しいことでもあるのかと訝しげに、ただほんの少しばかり笑いながら問いかけられた。そんなことは、と濁しながら突然の訪問に驚いた弾みで落ちた携帯を拾い上げ、忙しない心臓を隠すように息をついて腰をあげる。平常心と舌先で転がせた言葉を飲み込んで二人と向かい合うように立つなり、相澤の眉間に皺が刻まれた。なんというタイミングだろう。恐らくは名前の何かしらに起因しているとは思うのだが全く計りかねる。「相澤先生…?」と尻込みしながら呼ぶと、彼は一瞬言葉を飲み込んでからああと生返事を吐いてエリを見た。眉間の皺はなくなりこそしたが、彼は弁明の一つもしなかった。


「おはようございます、名前さん」
「お、はよ、エリちゃん」


薄らいだ眉間の皺の理由を探していたので一拍遅くなった返事に、相澤がチラリとこちらを見た。休みの日だからなのか、平日では滅多に見ないこざっぱりとした髪型に絶えず視線が頭と喉仏を行き来する。実は見目の整っている人なので、不意にこういうことをされると直視することもままならなくなるのでやめてほしい。


「…お前、足寒くないのか」
「――はい!? え、あ、寒くないです、全く!」
「……そうか、風邪引くなよ」


十一月とはいえ室内でしかも暖房も効いているのだが、剥き出しの膝を彼は見ていて寒いと思ったらしい。耳心地の良い低い声にかけられた心配りに何度も頷いて仕舞えば、相澤は目を眇めていた。


「ど、どうしたんですか、こんな朝から、エリちゃんも」
「――ああ、俺がこのあと仕事があってな。お前らにエリちゃんを任せたい」
「あ、なるほど」


落ち着く素振りもない心臓を宥めながら、彼女の前にしゃがみ込む。
――ふわりと柔軟剤の香りが鼻腔をついた。同じ柔軟剤の香りだ。主張の激しくない、仄かに漂う石鹸のような、そんな香り。エリちゃん、と決して柔らかくはないどこかちぐはぐさを携えながら弾ける声に、これは教師の顔じゃないよなあと薄々気づいている。
顔は、上げられなかった。


「…エリちゃん、今日は何して遊ぼっか」


へらりと笑いながら首を傾げれば、彼女は相澤の背後から身を乗り出して名前の方に寄ってくる。彼女は大層温かそうに着込んでいて、相澤の私室でやりとりされたのだろう会話を想像して吹き出した。


「ふふっ…相澤先生、今日そんなに寒いんですね」
「お前らの元気が良すぎるだけだろ」


それに、今日は寒いぞと付け足された言葉にもう堪えることなどできそうになく、両手で口元を覆って笑い声を上げた。今日は一番の冷え込みだって言ってましたね、と朝に見たキャスターの言葉を借りれば、相澤は片眉を釣り上げてそんなに笑うことかと腰に手を当てて些か不服そうな顔を浮かべていた。


「…猫は炬燵のほうが好きですもんね」
「くだらないこと言ってると課題増やすぞ」
「? 猫さん、いるの?」
「おっきい黒猫がね…ふふっ」
「…名字」


尚更に笑い転げるような勢いで肩を震わせていれば、エリちゃんが困惑した顔を浮かべながら名前のパーカーの裾を掴んでいる。黒猫さん、と呟かれた言葉に余計に眉を顰めた相澤がそれはもうおかしくて、終いには目尻に涙が溜まった。お前のツボはよく分からんと不意に見上げてしまった顔があんまりに優しくて、違う意味でも涙が溢れそうになった。


「相澤先生! それにエリちゃんだ!」


ランドリールームから帰ってきた三人は、どうしたんですかとエリの元に集まった。名前はエリのパーカーの裾を掴む手を包み込み、立ち上がる。


「相澤先生がお仕事なので、エリちゃんと夜までこっちでって」
「よろしくお願いします」
「そうだったの、よろしくね。エリちゃん」


しゃがみ込んだ蛙吹に、エリがうんと頷いた。


「すまないがよろしく頼む。何かあればミッドナイトさんを頼ってくれ」
「分かりました。お気をつけて、相澤先生」


イレイザーヘッドとしての仕事がどういうものかを知っている。心配は、どれだけしても足りない。目指すべきヒーローとして尊敬の眼差しを向けるたびに、目の前にいる相澤消太というこの人がどうか遠くに行かないようにと祈っている。だから、いつも顔が歪むのに気がついている。ただ、どんな言葉も一生徒として妥当ではないということも知っている。それに気がつかないような目をしてはいないのだろうけれど、相澤が何かをいうわけもなかった。
これはあんまりに一方的で言葉にすることさえ憚れるような、そういう類のものだ。
相澤はああと僅かに含みのあるようなたった一言を残して、リビングのドアを閉めた。
刹那。


「いつの間に夫婦になってたの!?」
「な、な、に言ってるの芦戸ちゃん…!!?」
「今のはそういうアレでしょ完全に!」


ドアを閉めたばかりで、しかも彼女のよく通る声では確実に彼に聞こえている。というよりも分かって言葉を選んでいる。芦戸はそういう性格だ。その証拠ににやにやとした意地の悪い笑みを浮かべていて、隣で耳郎に呆れられていた。


「そんなんじゃないってばあ!」
「完全に出張に行く旦那さんを見送る奥さんだったよ! 風邪引かないようにしないとね!」
「え待ってそこから!? もうほんとそういうとこ!」


芦戸の肩を掴んで揺すったところで当人はけらけらと笑っている始末だ。だって邪魔するのもねえ、なんていう機を狙うふりをして様子を見られていたなんて、穴があったら入りたい。


「面白いのは分かるけどやめときなって。名字、顔が茹で蛸になってるよ」
「フォローになってないよ耳郎ちゃん!」
「さ、エリちゃん何かあったいものでも飲みましょう」


蛙吹がエリの肩を押しながら、ソファに向かう。その後ろをついていく耳郎は、いいじゃんお似合いで、とくつくつと喉を鳴らせていた。
――あの人が同じヒーローを目指す隣の席の男の子であったらなと、思うことがある。言語化さえしていないものを、芦戸や耳郎はあっけらかんと言葉にしてしまう。いいじゃん言ったって、と屈託なく笑う彼女たちには、だって先生なんだよと否定をしたところで大丈夫だよと返ってくるのだ。


「ほんと、名字は一歩引くよねえ」
「あんまり揶揄ってはよくないわ、三奈ちゃん」


大丈夫だとは私も思うけれどね。
蛙吹の柔らかな丸い目に、また涙が溢れそうになった。

 * * *



夕方頃になって、寮にある備え付けの電話に一本の連絡が入った。発信は相澤からのようで、受け取った芦戸がいくつかの会話をした後受話器を戻した。


「名字、教員寮までエリちゃんを送りにいくよ!」
「え、うん、分かったけど、相澤先生は?」
「事務手続きあるなら寮来るより私たちで行った方が合理的ですよって話してみたら受理された!」
「そうなん、だ……ん? どういうこと?」


テーブルに広げていたクレヨンやスケッチブック、カードの類を片つけて、トートバックを提げたエリと共に意気揚々とした芦戸に手を引かれて寮を出た。何事も挑戦あるのみ、と状況に相応しくない言葉と突き出された親指に、最早返す言葉もなかった。

そして何故か、教員寮の前のベンチで芦戸は座っている。行ってらっしゃいとひらひらと振られた手に、思わずエリのトートバックを掴んでいた指先に力がこもる。分かりきっている想いを言葉にしない理由を知っているというのに――。


「大丈夫だよ、名字」


だからよろしく。
けろりとした顔でいう。ほら早く、と教員寮のエントランスのドアを開けて押し込まれた。さあエリちゃん案内してあげて、と任された仕事を成し遂げようと相澤の部屋まで一直線にエリが先導を切っていて、こっちだよと促す声にひどい手汗をかいている。
――あんまりだ。相澤が近くにいるときは朝のように軽口に似た揶揄いをしてくるというのに。こういう時ばかり、情けない心臓を奮わせて行けと笑うのだ。ひどい人だ。名前の馬鹿みたいに早鐘を打つ心臓と歪な顔を知ってから、芦戸は容赦がなくなった。


「相澤先生!」


エリの声が一つのドアの前で弾ける。中から施錠が外される音が漏れる。捻られたノブ。ドアの先で、怪我ひとつない相澤が、髪を括って立っている。


「名字か、芦戸はどうした?」
「え、あ、いや、なんか、外で…えっと」
「――名字、熱でもあるのか?」


顔が赤いぞ。
仕事終わりのせいでいつもよりも充血した双眸が細められる。
思わず下を向きながら、そんなんじゃないですとか細い声でこぼした。体調管理くらい、と叱られるのかもしれない。そうしたら、はいと声を振り絞って、それで終わりだ。芦戸のところに戻って、たわいない話をしながら寮に戻って眠ればいい。明日の朝になれば、この心臓は別物のように静かになるはずだ。
相澤の一向に吐き出されることのない声にいい加減息が苦しくなって恐る恐る顔を上げようとすると、頭に軽い重みを感じた。


「――仕事先に、猫がいてな。ヒーターの前で丸まってたよ」
「……は、い?」
「お前も大概似たようなもんだろうな」
「……私猫より犬派です」
「そうか」
「…でも猫も好きです」


エリのこちらを見上げている目に、芦戸を重ねた。大丈夫だよと何度も何度も弾ける声。
指の一本一本が頭を捉えているような感覚に、吸い込んだ息が肺にまで届いていく。


「……、黒い…猫、が、好きです」


意を決して顔をあげて、へらりと笑った。
うっすらと目尻に熱いものが浮いているような気がして、慌てて俯いて指先で確認をするも濡れてはいなかった。頭の重みがするりと消えて、視界の端で彼の体側で右手が揺れるのが視界に入る。
ドアに寄りかかるようにして立っていた相澤の息を詰める音を聞いて、それからふっと小さな微笑を溢した声を拾った。


「…そうか」


言葉を継がなかった。彼はそれ以上を言わなかった。
大丈夫だよと笑う彼女たちのように笑ってしまったのは、逃げたわけではなかったのに。
どうしようもなく泣いてしまいたくなったその視界に、エリが映っている。静かに事を見ていた彼女が、名前のパーカーの裾を掴んだ。


「相澤先生と名前さんは、夫婦なんですか?」


――朝の話だ。思い起こされて、また泣きたくなって、堪えるのに必死で上手な否定の言葉が出てこない。


「…卒業したら、なるかもしれないな」


弾かれるように顔を上げた。口元を手で覆い、どこか罰が悪そうにはしながらも名前を依然と射抜いている。


「っ……それは、ずるいです…すごく、ずるい」
「大人で、先生だからな、俺は」


それじゃあ、おやすみ名字。
最後にもう一度頭を撫でたあと、エリを中に連れてドアを閉めた。
――階段を一段ずつ降りていく。照明が足元を疎らに照らしている。
エントランスを抜けると、湾曲した視界で桃色が揺れ動いた。


「お! おかえりー…ってなんで泣いてるの!?」
「っ……卒業するまで、あと何日ぃ…?」
「え、私らまだ二年にすらなってないんだけど…」


ベンチから立ち上がった彼女に肩を掴まれながら、ちょっとだけ進展したけど停滞が確定した、とだけ伝えると芦戸は心底微妙な顔をした。それは嬉しいのかと傾げられた首に、涙を湛えた瞳を弛ませる。


「…うん、わたし、先生が好き。だから、卒業まで頑張る」


吐き出してはいけない。形にしてはいけない。そうだというのに、大丈夫だという声があんまりに容赦がなく、頭を撫でる手が狡かったのだ。否定も肯定もされない言葉の中に、それでも確かに未来がある。遠くはなく、けれど約束されたものではないそれがあんまりに柔らかくて苦しくて、帰りながらにまたぽとぽろと堪えきれずに零れ落ちた。
相澤先生。明日も微笑みながら呼びかけるその声に、心配と期待を織り交ぜる。卒業証書を手渡されるその日まで。
翌日、狡い大人の腹いせに携帯のカレンダーにつけた印をつきつければ、分かってるよと薄らと眦を緩めた相澤にバインダーで頭を叩かれた。

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