取るに足らない朝になれ
その日、季節外れの雪が降った。
沿道を彩っていた桜は細い枝をしならせながら、見頃というにはまだ少しばかり早い実をちらつかせていた。先週までは日中であれば汗ばむような陽気の日もあったというのに、今週に入ってからは四月も中旬とは思えないような寒気が上空を冷やして、そうして昨日の日付も変わる時分に引き連れてきた雨雲からちらちらと白い雪が舞ったかと思えば、翌朝にはすっかりと薄紅色を覆い隠してしまっていた。
カーテンを開けた先にあった景色に、思わず声をあげる。締め切った窓越しにも感じる外の空気感に息を吐きながらも、隣で穏やかな寝息を立てていた轟をゆすり起こした。
「焦凍君、焦凍君」
「……ん、…」
幾日ぶりかの休みの朝は、彼には早すぎたようだ。てんで起きる気配のない彼に仕方ないかと息をこぼして、轟にだけはしっかりと首元まで布団をかけてから窓の鍵を開ける。寝相で端に寄せられていた名前用の小さなブランケットを引っ張り上げ、肩に羽織って意を決して窓を引けば一気に冷たい空気が室内に流れ込んできた。
ぞわりと全身の毛が逆立つような感覚に身震いをすると、隣で焦凍が身動ぎをした。
「……寒ィ」
「焦凍君起きた?」
「……寝てる」
「ねえ、見て、雪だよ」
うっすらと雪を被る景色は真白とは言い難いが、それでも陽光を反射させてはきらきらと輝いていた。
後ろを振り返るとそんな眩しさに瞼を開ける気力が削がれたのか、轟は殊更きつく目を閉じたまま唇を引き結んでいる。
「……」
「寝たふりしないでよ」
窓枠にかけていた手を彼の前髪へと伸ばすと猫のようにぐりぐりと頭を押し付けてきてかと思えば、此方を伺うようにゆっくりと瞼を押し上げて、薄ぼんやりとした瞳で名前を見上げた。
「…なんで、そんなに元気なんだ」
寝起き特有の掠れた声は非難がましい音を滲ませていて、吹いてしまいそうな笑いを堪えながら、だってと続ける。
「雪が積もってたし、焦凍君がいるし」
いつも通りの朝日が差し込む寝室で目が覚めたとき、隣にはまだ轟がいた。それだけがどれほど珍しくて嬉しかったことかを、彼は知らないのかもしれない。昨日の夜、眠りにつく前にカーテンの隙間から見えていた雪に明日は積もるのかなと話したことも、もしかしたら夢の中に置いてきてしまているのかもしれない。仮令知らなくとも、置いてきてしまったとしても、それでもいい。彼があどけない顔でおはようと漏らす朝が来るなら、それがいい。
轟はただ瞬きだけを数度繰り返すと、もぞもぞと布団の中で身体を動かして両腕を伸ばした。そうして窓に向かって座り込んでいた名前の身体を引っ張ると、再び温い布団の中に引き摺り込む。足だけが布団の外に放り出されたのをすかさずに巻き込ませた。だぼついたスウェットを履いていた両足が器用に名前の足に絡みついて、これでは身体の向きを変えることもままならない。
「雪は、後でいい」
「お昼になったら溶けちゃうよ」
「お前と寝るほうが大事だ」
布団で名前を包むように抱き寄せた彼は、名前をすっぽりとその胸の内に閉じ込めることに満足したようで、またうとうと瞼を閉じかけ始めた。開けっ放しの窓から容赦なく冷たい空気が入り込んでいるので布団からはみ出る顔だけが寒い。起きあがろうにも手を伸ばそうにも彼の腕が邪魔をしてくるので、どう足掻いても二人の間に隙間ができず、諦めて轟の左胸に頭を埋めた。右側は何処となくひんやりしているのだ。ただそうするためには頭を僅かに浮かせていないといけないので、どうにかうまいポジションはないかと画策していれば頭上で笑い声が漏れた。
「…何してんだ」
「寒いの」
「窓開いてるからな」
「だから、焦凍くんの左側の方が、あったかくて」
しばしの思案を挟んだ後、焦凍は徐に名前の真上に乗ってきた。うぶ、と情けなく潰れる声をあげる。脱力した成人男性の重さに最早息も吸えない。精一杯肩を叩いて抵抗すれば、渋々といったように名前の右側に滑り落ちる。そんな可愛らしい体格じゃないだろうに。
「温かかったろ」
「その前に死んじゃう」
「大丈夫だ」
「どこが?」
名案だったとばかりの顔を浮かべるせいでついぞ堪えきれなくなった笑いをこぼせば、轟も釣られて息をこぼすように一笑した。
窓の向こうから、雪にはしゃぐ子どもの声が弾けている。車が走るたびに水分質な音がして、道路側はおそらくはもう随分と溶け始めているのだろう。
溶けちゃってるねとこぼせば、また来年降るだろと彼は言った。桜と雪はもう見れないかもしれないよと言葉を継ぐと、彼はぎゅうと強く名前を抱き込んで口を噤んだ。
温かい胸に寄せた頬。心臓の音が鼓膜を揺らしている。彼が息を吸うたびに、胸が膨らむ。名前、と呼ばれた声が頭上と、それから彼の身体を通して響いていた。
「そんなことねえ」
「そうかな」
「これからあと何十年だってあるだろ、いつか見れる」
だから今はこっちの方がいい。
轟は名前の耳の縁を親指でなぞると、不意に額に唇を落とした。
それから思い出したように轟は目を細めると、その色の違う双眸に名前を映した。
「名前、おはよう」
――泣きたくなる。彼の穏やかな声が朝を告げる。冷たくはないシーツに包まれている。彼の目は、紛れもなく名前だけを見ている。
「…おはよう、焦凍君」
胸を詰まらせながら返した言葉に彼は首を傾げていた。
この先何度も繰り返す朝に彼の姿があることが、もしも数えるばかりであったとしても。折り重なっていく日々の隣にあれることが、轟にとって疑いようもない未来の話であると微笑んでくれるのであれば、今はそれでいい。
「――焦凍君、今日は何しよっか」
「ん、今日は決めてんだ」
「え、珍しいね、いつも私が行きたいところって言うのに」
「そう言うのは良くねェって言われた」
「ふふ、それは言わない方が格好ついたんじゃない?」
そうか、と目を瞬かせてからようやく理解したかのような口ぶりに、声をあげて笑う。そのアドバイスの差出人は元A組の誰かなのだろう。もしかしたら芦戸かもしれないし、上鳴かもしれない。思い出せば会いたくなってきて、元気にしてるかなあと呟けば彼奴らなら大丈夫だろと矢張り彼は少しだって疑わない声音で言ってのけた。
「そっか、焦凍君が言うなら、きっと大丈夫だね」
「ああ」
淡く微笑んだ彼はもう一度額、瞼、頬それから唇と掠めていくような口づけを落としていきながら、名前の首筋に額を埋める。起きたくねェなと溢された囁きに、支度しなきゃ外に行けないねと轟の柔らかな髪を撫でながら言えば、分かってると不貞腐れたような声が返ってきた。
開かれた窓から風が流れ込む。揺れるカーテンに誘われるように花弁がひらりと舞い込んできて、轟の頬のあたりに滑り込んだ。
布団から起き上がった頃には、沿道に並ぶ桜は僅かに露を纏っているばかりになっていた。また来年かなと見上げた名前に、轟はそうだなと名残を惜しまない眼差しで同じ景色を眺めていた。