隣に在り続けるということ

今日のシンドリアは燦々と輝る太陽にジリジリと灼かれていた。気候の変動があまりないシンドリアに季節という概念はそもそも存在し得ないが、一年を通して特に気温が高くなる周期はあり、最近は日毎に暑さを増している。
白羊塔は仕事に根を詰めている者ばかりで体調を崩す者が後を立たず、つい先日王から休暇日数を増やせとの命令が発出された。おかげで密度の減った執務室は幾分か過ごしやすくもなったように思う。
ジャーファルは書簡の束を小脇に抱え、午前の業務の報告を兼ねてシンドバッドの執務室を訪ねた。ドアの両脇に立つ武官と数言の会話を済ませて中に入れば、上階に位置しているためか涼しい風が頬を撫でた。


「――生きてるか、ジャーファル」
「ええ、まあ。貴方も元気そうで何よりです」
「…お前に言われると仕事が滞らなくて済むなんていう裏返しにしか聞こえないな」
「日頃の行いの結果ですよ」


否定も肯定もせずにどんと机の上に書簡を重ねる。怒ってるのか、と何故か恐々と聞いてきたシンドバッドに怒られるような記憶でも、とつい目をすがめて問うてしまったのは本当に彼の日頃の行い故だ。
全く、と顔を勢いよく横に振るので、余計なことで脳を使わせないでほしい。涼しげな顔をしているなどとよく言われるが、体感温度は皆と同じだ。暑いものは暑く、ついでに頭も鈍る。シンドリアという国に強いて不満を挙げるならば、この気温くらいだろうか。こればかりは慣れそうにもない。
午前業務の報告をつらつらと並べ立てると、シンドバッドは一際難しい顔をしてジャーファルを見上げた。――何か不備でもあっただろうか。


「…ジャーファル、最後にちゃんと休んだのはいつだったか覚えてるか」
「……、……いつでしたっけ」


回転の緩い脳内で記憶を漁っても、一向に出てきそうにもない。常々仕事をしていないと気も休まらないという気質もあって元々休んでいたこと自体がないのだが、それとは別の事態を思い起こしたのだ。
名前には日に一度は必ず会うように心がけているが、ここ暫くは顔を見せ合うくらいなものだ。――暫く、だっただろうか。いや、彼女とゆっくり話をするなどという時間を取ったのも本当にいつだっただろう。
名前も名前で三隊に所属しているために日中の大半は海に出ている。海兵は仕事量も多いので、彼女とて忙しい。週一から二日の休みはあったと思うが、以前に休みは大概シャルルカンやマスルールと手合わせをしているという話は聞き覚えがある。――それも三隊に勤務したばかりの最初の頃の話だ。
逡巡に口を閉ざしたジャーファルに、彼は呆れたため息をこぼした。


「お前ら働きすぎだ」
「……」
「恋人らしさの欠片もない」
「余計なお世話です」


お前ら、とシンドバッドの言葉の中にも名前が出てきたのではてと疑問符が浮上した。
余計なわけがない、と珍しく強い語気で迫られると、思わず言葉に詰まる。納得を仕掛けてしまっている本心も否めない。


「ジャーファル、今日はもう働くな」
「は?」
「今日は一日彼女も休みのようだ」
「――は?」


だからお前ら、というわけだ。
褐色の肌で笑う顔を見た。これはどうにもロゼが一枚噛んでいる気がする。二人は思考回路が似ているのか時折子供じみた突飛な行動をし始めるのだ。
良い休暇を、と手を挙げたシンドバッドにもう一度母音を発せば、女性の心は繊細だぞと訳知り顔で見送られた。
パタリと後ろ手にドアを閉める。両脇の武官が足を止めたままのジャーファルを不審に思って声をかけてくるが、適当な返事をしてその場を後にした。



     *     *     *



目が覚めると、太陽は随分と上の方にあった。
昨日の海上訓練と海賊討伐、さらには沖に出た南海生物の討伐と盛り沢山すぎたのが流石に堪えたのか、身体は疲労を訴えている。瞼は開けたものの、身体がベッドから起きあがろうともしてくれない。そうは言いつつももう昼時も近い時分のせいか腹は空いていて、渋々ベッドから這いずりでた。のそのそと服を着替えて顔を洗い、髪を梳きながらバルコニーからぼんやりと空を眺めていると、控えめなノックが響いた。
武官の誰かだろうか。思い当たる節は全くない。
頭の中でノックの音の主を想像しながらドアを開けると、そこには予想だにしていなかった彼が立っていた。


「…すみません、突然――」


パタン、と静かにそっとドアを閉める。
――いやまさかこんな昼時に彼が立っているはずもない。立ちながらに夢でも見ているのだろうか。
ぐいと頬を抓ってみたものの明確な痛みを訴えていて、くだらない思考を切り捨てるかのようにドアが勝手に開かれた。
やはりそこには彼、ジャーファルの姿があり、しかもドア枠に寄りかかられて閉めることもできないようにされている。
ひくりとさせた口角に、一歩後ずさった。


「す、すみません…」
「いえ、急に押しかけた私にも非があるので」


言葉と表情が合っていない。
すみません、と口をついた二度目の謝罪はもはや無意識だった。


「こんな時間に会えるなんて思ってなかったもので、夢かと…」
「…もしかして、さっきまで寝てました?」


寝癖が、とゆったりと伸ばされた手が前髪を撫でる。
いつもは冷たい彼の指先も今日ばかりは暑いのか確かに温度を持っていて、目を伏せた。こんなやりとりでさえもう随分と久方ぶりで、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。
さっき起きたばかりで、と素直に漏らして仕舞えば、ジャーファルは申し訳なさそうに眉尻を下げていた。


「――特に用があったわけではなくて。貴女も疲れているでしょうし、戻ります」
「!」


官服の袂を握った。仕事の合間なのか、彼がどういった経緯で今ここにいるのか見当もつかないが、言葉の雰囲気からして急いているようではないことくらいは伝わった。
あの、と適当な常套句さえ思い浮かばず、白のサンダルを履く自身の足元ばかりを見下ろしてしまう。要約すればまだ話していたいだけなのだ。それだけが言えずに、唇をまごつかせる。
ジャーファルは小さく笑って、袂を掴む名前の手を取った。


「…中に入っても?」


こくりと頷いて、彼の音のない足どりを目に映していた。
――絡まった指先が熱い。めっきり静かになったジャーファルはドアを閉めても動こうとしないので覗くように見上げると、彼は珍しく言葉を探すように目を泳がせていた。


「…ジャーファルさん、お仕事はどうされたんです?」
「半休をいただきまして、名前も、休みだからと、」


いつだったか、ロゼと話した記憶がある。最後にジャーファルと会ったのは、とそんな類の話だ。日に一度は顔を合わせるようにはしているので、全く会っていないわけではないのだけれど、そんな事務的なものをロゼが言っているわけではないことくらい百も承知だ。そうだとしても、何せそんな記憶がすっぽりとないのだから答えようもなかったのだ。下手をすると二、三ヶ月ほど前の謝肉宴以来なのではないだろうか。彼と二人きりで会ったのはそれくらいだと思う。
名前も三隊勤務で多忙を極めているなんていう言い訳じみた状況も相まって、更には休みが重なることもなければ――というかジャーファルに休むという感覚がない――体力さえあれば手合わせに奔走する次第なので、それもそうかとその時は笑っていた。笑いながら、少しでも話ができたらいいのだろうけれどとは、言ったのかもしれない。覚えてない程にはただの願望に過ぎなかったのは、この関係性に不満があったわけではなかったからだ。
しかしながらその結果が、恐らくこれだ。ロゼはジャーファルとシンドバッドの諜報役であるので、シンドバッドと結託してもおかしくはない。気を遣わせてしまったのだろう。
名前は零すように笑うと、ジャーファルの指先を持ち上げる。


「…では、一緒にお昼にしませんか?」


正午を報せる鐘の音に、視線をバルコニーの方に移す。午前勤務を終えた武官たちも食堂に集まる頃だろう。
ふんわりと果樹園の甘い香りを含ませた湿った風が入り込んできて、外を歩くのも楽しそうだと言葉を重ねようと彼の方を向き直ると、彼の左手がそっと耳のあたりに添えられた。ついで振り落ちてきた唇に目を閉じることも忘れて、ジャーファルの細まった瞳から少しも逸らせないでいた。驚いて後ろに退こうとした身体を、繋いでいた手を腰に回して引き寄せる。ぴたりと隙間のひとつもなくなり、続かなくなった呼吸に胸を押し返したところで深くなるばかりだ。息が持ちそうにないと身体を強張らせると――くうと、腹が忘れずにしっかりと空腹を知らせた。
唇だけをようやく離して、ジャーファルの瞬きを繰り返す目から逃れるように胸に額を埋める。


「っ……だから、ご飯って、言ったじゃないですか…」
「ふ、ふふ」
「…どうせならもっとちゃんと笑ってください」


しばらく彼の忍ぶような笑い声を耳元で聞いていると、つられて名前も飽きるまでくすくすと笑っていた。

私服に着替えて部屋の外で待っていたジャーファルの前に出るなり、彼は僅かに瞼を持ち上げて頭から爪先まで眺めていた。


「…変でした?」
「全然。むしろよく似合ってますよ」
「…私だってお休みの日に着る服くらい持ってます」


足首まで垂れるワンピースを指先で摘むようにして揺らせた。腰までの深いサイドスリットの中に、膝丈の薄桃をしたスカートが揺れている。ゆったりとした肩口も似た色の釦で留められていて、傷痕を気にしていた名前にピスティが選んでくれた服だった。防御力が心許なくなるので短剣はしっかり腿に潜ませている。こればかりは最早職業病のようなものだ。
彼が私服の類を一切持っていない話は知っていたので、せめて名前は持っていようと提案されたのがつい先日の話だった。もうしばらく出番はないだろうと思っていただけに、気恥ずかしさと嬉しさで顔が熱い。
ジャーファルが裾を摘んでいた指先を攫う。可愛らしいですね、と二撃目の爆弾を落とされたので、早々に彼の腕を引いて歩き始めた。
王宮の中を最短経路で通り抜け、聳える門をくぐる。
箱型に積み重なる家々の白さに目が焼けそうだ。太陽も一番高いところにあり、立っているだけで汗が滲むほどに暑い。
肩あたりの髪を左にまとめて頸を手で仰いだ。この長さに落ち着いたのでもう伸ばすことはやめたのだけれど、降ろしていると首筋が蒸れるのだ。
ジャーファルはこんな暑さの中でも――流石にクーフィーヤは外していた――平然とした顔で文官の服でいられるので、つくづく不思議だ。体温が人より低いわけではないのだろうに。ジャーファルは暑いですねと言動に反した顔つきで雀斑の散った頬を歪ませていた。
中央通りを歩いていると、八人将の一人であるジャーファルの姿にすぐに周辺は人集りになった。名前も十三隊であった頃の顔見知りに声をかけられては、背中を叩かれていた。


「あんた最近見ないから、心配してたんだよ!」
「有り難うございます。三ヶ月前に海兵所属になって、」
「海兵! そりゃすげえ、こんな細っこいのに。もっと食いな! ほら、イカの燻製!」


いつも守ってくれてるんだから、とそのまま手を振られてしまった。
通りから外れた路地に身を寄せながら、ジャーファルを眺める。彼はまだ抜け出せそうにはない。
日陰だからか幾分か涼しく、名前は壁に背をもたれながら空を見上げた。何処までも澄んだ青い空に、思い出す景色は多すぎる。
この国は笑顔ばかりだ。国も民も軍人も、遮るほどの壁は薄い。それは名前の目の前にまだ父や小隊長が映っていた頃に思い描いていた理想で、フレンたちが法を整備したら、こんなふうになっていることだろうと思う。今頃、という時間感覚が正しいのかは分からないけれど、彼らは笑って生きているだろうか。――そうだといい。それ以外の想像なんてつきそうにもない。なにしろ、ユーリたちは名前よりもはるかに強いのだから。


「名前、こんなところにいた」
「――お帰りなさい。ジャーファルさんは、人気者ですねえ」
「貴方もでしょう?」


名前の手の中に収まる串に刺されたアバレヤリイカの燻製を見た。彼はそれから名前の顔をじっと見ると、不意に頬に手を添えて親指で目尻を撫でた。
どうかしましたかと眉尻を下げて微笑むジャーファルの口に燻製を放り込む。


「ジャーファルさん、私、シンドリアが好きです」
「む、」


噛みちぎったイカを咀嚼するジャーファルは、食べかけのイカをそのまま名前の口に突っ込んだ。


「何です、急に」
「むぐ、ふ」
「食べ終えたら、聞かせてください」


聞かせてと、彼の選ぶ言葉が優しくて、悲しかったわけではないというのに胸の奥がつんとした。
それとは裏腹にふんわりと香ばしい香りにお腹が盛大に鳴りそうなのを堪えて、弾力のあるイカに歯を突き立てる。むぐむぐとなかなか千切れずに格闘している名前を、彼は細まった瞳で見下ろしていた。
懸命に噛み込んで漸くイカを食べ終えた後に、路地裏をそのまま進んでいく。


「――向こうのみんなを、思い出したんです」


その一言で、ジャーファルは名前の吐き出したいとは思わなかった言葉の意図たちを汲んでくれた。いつか彼にも話せたらいいと思っている。ただそれは押し寄せる目まぐるしい感情に心が揺れ動かされてしまうもので、こんな往来で軽率に語るべきものではない。唇を引き結びながら不格好に笑った名前の頭を、彼は梳くように撫でていた。
それから名前がよく世話になっている鍛冶屋に寄った。飯処に立ち寄るにはジャーファルがあまりに無防備すぎたのでやめておくことにしたのだ。幸いにアバレヤリイカで腹は膨れていた。
鍛冶屋への道すがら、最近潮水を浴びるせいか剣が傷みやすいのだとそんなことをこぼせば、ジャーファルは相変わらずですねと言っていたけれど、何に対してそう言ったのかははぐらかされた。
店に入って長剣を眺めては手に取るたびに、店主から何か物言いたげな顔をされている。


「…名前ちゃん、休みにうちきてくれるのは嬉しいけどな。服と持ってるもんが合ってねえのよ。ジャーファル様もそう思いません?」
「そうですね、でも、剣があった方が貴女らしい」


そうきたか、と店主のどっと弾けた笑い声が店いっぱいに響いていた。
自前の長剣を加工をしてもらえるとのことで、次回の約束だけ取り付けて店を出た。
そろそろ日も傾き始め、鮮やかな色が混ざり合う様を眺めながら二人で人通りの少ない道を歩いていた。バオバロブの生い茂る葉の影を踏みながら、段々と暮れていく辺りにランプが徐々に灯り始める。
ジャーファルの無味な白い髪がほんのりと染まっていて、いつ見ても綺麗な人だなと何度目かも分からない息をこぼした。
月明かりの下でも、朝焼けでも、彼の白は何処にいても映える。
どうしましたかと視線に気づいたジャーファルは小首を傾げていて、なんでもありませんと緩く頭を振る。手を伸ばせば届く位置に指先があることが、どうしようもなくもどかしくもあって、ただそれ以上に、ひどく安心を覚えていた。
海を望む海岸線まで歩き終えると、三隊の船も港場に停まっていた。積荷も降ろし終えたのか、セレスタが船の傍で最後の号令をかけて散開していくのが見える。手すりに手をついてぼんやりと眺めていると、こちらに気づいた彼がギョッとした顔をしてぎこちなく拳を手のひらで握り込んていた。ジャーファルが隣にいたので彼に対する挨拶をしておいた、という反応だ。隣にいたジャーファルを横目見てから手を振ると、セレスタはやはり胡乱な顔を浮かべてそのまま船に戻っていった。


「――さっきの彼が次期副隊長でしたね」
「はい。口は悪いですけど、何かと気遣いの人ですよ」
「…仲がいいんですね」


目を瞬かせる。こちらを射抜いているジャーファルの表情は、どんな言葉で形容するのが妥当だろう。


「……他意、は、ありますか…?」
「そうですね、少しは」
「ジャーファルさんでも、そんなことがあるんですね」


暮れていくばかりの足掻くような夕日の残り火が差す頬に乗る唇を僅かに引くと、ジャーファルは一瞬目線を船の方に向けてから名前を映した。


「――訂正します。…結構、ありますよ」


官服の袖口で口元を覆う彼の瞳ばかりは真っ直ぐで、彼でもそんな子供じみたものを胸の内に秘めていたりするものなのかと思いもよらなかった思考を飲み込むのに時間を要した。
喉元を通った彼の言葉を消化して、手すりに腰をかけて王宮を見上げる。
――名前にとってこの世界はシンドリアと周辺諸国くらいしか知らないけれど、仮令世界中を昔のように旅をしながら巡ったとしても、こんなふうに隣に並んでいるだけで安心するような人など何処にもいない。
だからこそ、彼とこうしてたった半日だけしか隣にいることができなかったとしても、不満だとも思わないのだろう。寂しいと思うのは、隣に在れる幸福を知っていて、それを期待することができるからだ。


「ふふ、…ジャーファルさんよりいい人は、なかなか見つからなそうですねえ」


知らぬ文官に妬いてしまうことだってありますよと伝えるべきだったのかもしれない。いや、他人が比較のベクトルに乗ってしまうくらいに想ってくれているのだと自負してもいいのであれば、そもそもそんな言葉など伝えなくてもいいのだろう。
手すりから腰を離してくるりと身を翻す。


「…名前、」


ジャーファルは継ぐはずだった声を飲み込んだ。
それはもしかしたら必要な言葉だったのかもしれないけれど、少なくとも今ではないとジャーファルが思った末に噤むことを選んだのだとしたら、それもまた、今度の話でいいのだろう。ルフの宿る名前の身体にもジャーファルと同じように世界の欠片が流れ込んでいて、そうなったあの日から、名前の居場所はジャーファルの隣にあるのだ。
言葉は、常に隣にある。


「帰りましょうか」
「――はい」


王宮への道を辿る。帰り道を、ジャーファルと共に歩く。
海岸線から市街地に入り込んで来たところで、彼は名前の右手を握りしめた。

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