君とならずっと大丈夫
※ 息子の名前は変更可能です。
夏の盛りも終わり、季節はゆったりと秋に移ろうとしていた。秋晴れというに相応しいほどの青い空が広がっていて、ベランダの手摺りに思わず手をついて見上げていた。
街路樹の銀杏も生い茂る緑の中に色をつけ始めている。
この場所に移り住んでから、彼此四年が経とうとしていた。
「おかーさん」
保育園の服に着替えて黄色のカバンを肩にかける徹が、とてとてと小さな足音を立てながら窓際にまで寄ってきた。色素の薄い短髪の下にある丸みを帯びた赤い目が幼い頃の勝己を彷彿とさせながらも、彼よりも柔らかな眦はどちらかといえば緑谷家の遺伝に近い。表情もコロコロとよく変わる。今はといえば、むくれているような顔をしていた。
抱えていた最後の一枚だったTシャツをハンガーに干してから、ベランダ用のスリッパを脱いで徹の目の前にしゃがみこむと窓枠に腰掛けた。それから、腕の中に収めている人形を見つけて思わず唇を歪ませる。それを見越したように廊下から唇を尖らせた勝己がやってきて、堪えきれずに吹き出した。
「おとーさんが、いずくんもってるのおこる!」
「怒ってねえわ」
「おこってたもん」
勝己は眉間に皺を刻みながら窓際にまで歩み寄ってくると、手に持っていたカーディガンを名前の肩にかける。冷えんだろ、とここ最近は心配性がすぎる――それはまた別の話として、徹の持っている可愛らしいデクの人形を見下ろす目は確かに子供に向ける目ではなかった。相変わらず、彼はこと出久のことになると負けず嫌いが酷いのだ。
五日ほど前に、出久の事務所で新しくデクの人形を発売するのだと、家に遊びにきていた出久が何の気無しにした話に徹が欲しいと声を上げたのだ。僕のでいいのかと困惑を隠せないながらも、甥の要求に素早く対応してくれた彼が人形を届けてくれたのが昨日のことだった。昨日は勝己の帰宅が遅かったので、実物を初めて目の当たりにしたようだ。名前もわざと彼には伝えていなかったので、あの顔は拗ねているそれに近い。
徹の前髪を梳きながら、デフォルメされた出久の人形をまじまじと見やる。黄色のカバンには勝己の事務所から出ている彼のコスチュームをモチーフにしたキーホルダーがぶら下がっていて、胸が詰まる思いがした。
「――お父さんのお人形、持っててほしかったんだって」
「いらない!」
「…いい度胸してやがんなァ、徹」
「だって、いつもいるもん」
ぐ、と言葉に詰まらせた彼は、ついつい飲み込めなかった一笑をした名前をジロリと見やる。謀ったなとでもいいたげで、口の代わりに勝己の大きな左手が名前の両頬を挟み込んだ。
「いずは一緒にいれないからねえ」
「いなくていいわ」
ぎゅむぎゅむと頬の弾力で遊ぶような指先を解くと、間に入り込んできた徹が首に巻きついた。もうすぐ四歳にもなろうという子を膝の上に抱え直して、両手で締め付けられているデクを優しく掴み直させる。人形といえど、首が苦しそうなのは見ていて物悲しい気持ちになる。
「あんまりぎゅーってしたらいずが痛いって」といえば「いずくんいたい?」と返ってきたので、そうだよと笑った。すると不意に勝己の大きな手が頬に添えられ、彼の親指が目尻の少し下を撫でるように行き来する。徹から視線を上げれば、目を細めてこちらを見ていたのでどうしたのと頬を寄せながらいえば「別に」とそっけない一言をこぼしながらも変わらず頬を撫でていた。
「…勝己くんは今日一緒にご飯食べれる?」
惜しむようにするりと離れた手が徹の脇に突っ込まれ、彼は軽そうに肘のあたりに尻を置かせて抱え上げた。
「ん。夕方には帰る」
「うん。待ってるね」
「徹の迎えは俺が行くから、家で大人しくしてろ」
「…今日は調子いいから、動きたいなあ」
勝己の差し出された左手を支えに腰を上げる。
ちらりとねだるように見上げてみたところで、答えは分かりきっていた。
「一人で動きまわんなアホ」
「過保護」
「うるせえ、転ばれるよかマシだわ」
まだ膨らみ切らない腹を撫でて、彼は小さく笑っていた。
* * *
徹を保育園に送り届けた後、事務所に向かった。午後からイベントに参加しなければならず、午前中は前日の被害の報告書の作成とパトロールに費やして、終了後はそのまま直帰しても良いとのことだったので自家用車で会場まで移動した。イベントの内容は未就学児の個性教育の一環として、自身の個性を知ろうというものだった。
ヒーロー側として要請を受けたのは勝己の他に切島――おそらくは相応の年齢の息子がいたからだと思われる――その他ビルボードチャートの上位に乗っているような顔ぶれが揃っている。それなりに大きなイベントということもあり、二人一組でのペアで各ブースを見守るそうだ。切島と同じ担当に配属され、間に休憩を挟みながら二時間半の長丁場をこなした。
おおよそ四歳から六歳までの子どもの集まりだ。イベントの趣向からか攻撃的な個性を多く見かけ、それに伴うように使い方もなかなかに乱暴なものだった。みんな良い個性だよなァ、なんていう切島の呟きに、思い起こされたのはどうしようもなく名前の顔だった。
全行程を終わらせて控室のパイプ椅子で腰をかけていると、仮設テントに後からやってきた切島がテーブルを挟んでお茶のペットボトルを投げて寄越してきた。
「おう、お疲れさん」
「ああ」
「なんやかんや俺が一番爆豪に会ってるかもな」
元A組の卒業生の中で、切島とは互いの活動事務所とに距離はあるものの、何故か遭遇率は高かった。いつだかの飲み会で瀬呂が、まあ組ませ易いんじゃんと含み笑いをしていたが、爆豪としては勝手知ったる相手の方が気楽ではあったので何をいうこともなかった。
彼の言葉にそうだな、と返してから、携帯のメッセージボックスを漁る。『お米がピンチです』と残り少ない米びつの写真が送られてきたので、帰りの買い物の項目に脳内で米を追加した。買い物くらいは行っていいだろうかという要求が言外に隠されていることくらい、想像に難くはない。どうしても買い物に出たいなら準備して待っていろと送れば、顔の緩い柴犬のスタンプが間も置かず画面に現れた。
「そーいや、徹は個性出たのか?」
――イベントを開始して間もない時の切島の言葉で彼女のことを考えたのは、紛れもないその個性というものについて思う節があったからだ。
個性は四歳までに発現すると云われている。徹は再来月で四歳の誕生日を迎えようとしているが、未だに個性は発現していない。個性は親から子へ受け継がれるもので、言わずもがな両親のそれが大きく関わってくる。――彼女自身が生まれた病院で出産すると決めた日に看護師に言われた何気ない一言を、名前は今でも気にしていた。
ペットボトルの半分ほどを飲み干して、キャップを閉める。
彼の息子の個性も、硬化だったそうだ。
「出てねェ。けど――」
その後に続いた言葉に、切島はぶはっと吐き出すように笑った。
* * *
保育園に行く前に家に一度帰れば、準備万端にしてソファに座っている姿に笑う他なかった。本当に今日は調子がいいらしい。昨日までは随分顔も青ざめて食べ物も見たくもないというふうであったので、このまま体調も落ち着いてくれれば願ったりだ。高校の頃に個性を使って無茶をしたせいで、特に季節の変わり目は風邪を引きやすい。体力のないところで拗らせでもしたらと思うと、人の多いところに連れて行くことさえ憚れた。だというのにこちらの不安など知ってか知らずか、少しでも気力があれば動き回りたがるのはどうしたものだろうか。積読本でも読み耽っていてほしい。
保育園の玄関先でカバンを肩にかけて駆けてきた徹を抱き抱えると、名前がいいと駄々を捏ねられた。俺のが高えだろと肩車に変えてやれば機嫌も良くなるので、こういう単純さはどことなく出久の雰囲気を感じられて複雑な気持ちになる。彼女に言ったところで、勝己くんに似たんじゃないのと笑うのだろう。この性格はどちらかというと緑谷の血に近しいものを感じてはいるのだが、平生共にいるのが名前なのだからそれもそうなるのだろう。
買い物を済ませて、夕飯を三人で囲み、徹を風呂に入れてやればそのまま寝かしつける役目も終わらせた。
十時も少し過ぎたところでリビングに戻ると、ソファで膝を抱えて埋もれる名前はタブレットで本を読んでいるようだった。彼女の隣に腰を下ろすと、画面から顔を上げるへたりと笑う。
「ありがと」
「ん、お前もはよ寝ろ」
「…ちょっとだけ、お喋りしませんか」
勝己が眠そうだとでも思ったのか、少しばかり遠慮がちな目でそう訴えられた。
彼女の膝に置かれていたタブレットをテーブルの上に片しながら、風呂上がりで血色の良い温かな唇に噛みついた。柔らかくて、甘い味がする。名前の個性もあって、深くなればなるほど甘苦さが増してくる。空気を求めて開いた唇の隙間から舌をねじ込めば、一層味が濃くなっていった。息を詰める声が微かに聞こえて、彼女の腰を引き寄せながら口中を貪る。未だ慣れないのか最早癖なのか、硬く両瞼を閉じる名前の睫毛に涙がうっすらと乗り始めたので、唾液の糸を残しながら唇を離した。
開かれた瞼の下にあった瞳を泳がせて、彼女は勝己のシャツを握り締めて胸元に額を寄せた。
「っ…お喋りって、いった」
「あ? 文句あんのか」
「……ないけど」
鼻で笑ったのが聞こえたようで、名前の短い両腕が胴を一周して力を込められる。残念ながら苦しくともなんともない。彼女の乾いた髪を指で梳いていれば、反応がないことに飽きたのかだらりと力なく抱きついてくるだけになった。
「…今日、イベントって言ってたけどどういうのだったの?」
「――発現したての個性ぶっ放す会」
ピクリと肩が震えた。
――彼女はずっと、個性に怯えていた。個性に脅かされていた。それでも、そういうものから逃げることをやめて、付き合い方を覚えようとしたあの日々は未だ鮮烈に脳にこびりついている。名前が今、あの頃のように怯えているわけではないことくらい分かる。
『ヒーローらしくてとっても素敵な個性のお子さんですね、きっと!』
彼女の一言は、有り触れている。それが仮令どんな個性であったとしても、素敵な個性だなんていう言い方をするだろう。第六世代になって尚更無個性の割合は減っている。教室どころか、学校中を探し回っても一人を見つけられるかどうかという確立だ。寧ろその一人さえいない可能性の方が高い。無個性を見たこともなく成長していく大人が大半だ。彼女も、彼女の人生のどこにも無個性はいなかったのだろう。凡庸な個性だと自分自身で思い込み、ヒーローあるいは敵の個性は一線を画すものだと誰もがそう感じてる。個性がまるでヒーローや敵をも決めている。そういう空気は、今も存在している。
「……もしも、徹の個性がとても眩しくて、強い、個性だったとしたら」
勝己の個性は爆破だった。名前の個性は口から火を吹き、更にはその炎をコントロールすることができるものだった。混ざり合えばより個性として強力なものになることくらい、想像がついた。
「…もしも、無個性、だったとしたら」
――個性がついて回っていると思う。
出久が無個性として生まれ、勝己はそれを貶めて、その隣に無個性と偽る名前がいた。
そして、出久も勝己もヒーローを続けている。
毎日毎日、誰よりも疾く駆けつけるための個性だ。勝つための、救けるための、守るための、個性だ。それ以上でもそれ以下でもなく、手足と等しく存在しているもの。
勝己の胸に倒れ込むようにして顔を押し付けている名前の身体を引き剥がす。案の定碧の瞳の縁を震わせていて、頼りなく唇を歪めている。
「どーでもいいわ」
切島は、それもそうだと笑った。名前にも言ってやれよと背中を押されたが、言われるまでもない。これからだって、そう言い続けるだろう。
名前は飲み込みきれない言葉を咀嚼するように、目を瞬かせていた。
――高校一年の、あれは確か文化祭の前の頃だったと思う。状況は今でもよく覚えている。
名前が物理講義室の前で、立ち尽くしていたのだ。不自然に止まったままのドアを開けることのない手と、戸惑い泣きそうになりながら、微かに紛れる怒りに似た感情を浮かべる表情で、そこに立っていた。
『個性が、あるから、ヒーロー、だから、凄いとか、そうじゃない、とか、そんなの、ない』
ひどく掠れた声だった。耳にまだはっきりと残っている。ガサガサで喉が擦り切れそうな声で、そうなるまでに個性を使った事実。ヒーローにもならないのに何故そこまで彼女がしなければならないのか、理解ができなかった。個性などもう使う必要もないだろうと思っていた。使うことなどないように、勝己が守ってやればいいと思っていた。
そうではなかったということを知ったのは、それから随分経ってからだ。
彼女は何者かになりたいために個性を飼い慣らしていたわけではなかったのだ。彼女は他でもない"名前"になりたくて、個性と向き合い続けたのだ。それは出久であろうと勝己であろうと切島であろうと皆同じで、自分の身の内に宿した個性というものが等しく自分であるという認識を持つための行為だったのだと思う。勝つことも救けることも守ることもあるいは逃げることも、それらは全て副次的なもので、名前は特に、個性というものを肯定することができなかったが故に受け入れることもできなかったのだ。それを、溶け込ませるために必要なものだった。
今も、同じだ。何も変わらない。
「個性があろうがなかろうが、ヒーローになろうがなるまいが、どーでもいい」
――なりたいものになるために。
そこに、個性は関係がない。それでいい。それが、いい。気難しい隣人なんだと、昔にそう笑っていたけれど、そんなくだらない隣人に振り回される必要など何処にもない。
それらによって、本質が揺らぐわけではない。偽っていた個性があろうと名前に変わりはなかったように、あの人の個性を手にしようと出久に変わりがなかったように、徹にだって、そう思っていいはずだ。
名前は瞬きの数を段々と減らしていくと、最後にぱたと大粒の雫を目の縁からこぼした。
「……っ言葉は、選んでって、言ってる、でしょ…っ」
「それもどーでもいいっつってんだろ、いつも」
嗚咽ごと飲み込むように口付ければ、彼女は大好きだと泣きながら笑っていた。