足跡を辿る旅がしたい
窓から見える世界が全てだった。泥まみれで駆け回る同じ年頃の少年少女のつむじを見下ろしながら、いつも溜息を飲み込んでいた。羨望にずぶずぶと心が沈んでいくのをまるで見計らったかのように、荒々しい足音とそれを諌めるような声が廊下から響いてくる。それが、あの頃の名前にとってどれほど輝いていたものであったかなど、この足音の持ち主たちはいつまで経っても知り得ないのだろう。
――あれから十数年。あんなにも小さかった区切られた世界は一変した。
下町の宿屋兼酒場の箒星は、夕方も近づくと一仕事を終えた男たちで賑わい始める。木製の簡素なテーブルに所狭しと押し込む彼らは見慣れた顔ぶれが揃っていて、天井から吊り下がるガスランプの揺らぎが足元に薄暗い影を落としていた。
さあこっからだよ、とキッチンの奥から掛けられた声に負けないように、腹から精一杯に返答を絞り出した。
「はい、麻婆カレーです!」
夜道を灯すものは風に煽られる灯火で、水場まで地下水を汲み上げているのは手押しのポンプだ。暮れ泥む窓の向こうに、結界は何処にも見当たらない。
――数ヶ月前の或る日、空に禍々しいほどの触腕のような異形の何かが現れた。あれから幾日か、魔導器の喪失と引き換えに得た世界の安寧に、誰もが現実を受け入れて笑っている。
お世辞にも品の良いとは言えない豪勢な笑い声が酒場に響いていて、ここ最近でようやく聞き慣れた他大陸地方の地名に如何にして名前の知っていた世界が小さいかを思い知らされた。最早冒険譚ではない商談などの入り混じる会話を耳に流しながら、テーブルに置かれた陶器の器を盆に乗せ、反対の手でグラスを鷲掴みにする。それらをカウンターに下げてから用意されている定食を盆に乗せてを何度も繰り返せば、次第に夜も更けていった。
「――名前さん」
窓の外はどっぷりと暮れていて、酒場の客の大半が既に酒に酔っていた。
カランカラン、と乾いたベルの音にいらっしゃいませと振り返ると、其処には重苦しい鎧を脱ぎ捨て軽装をしたくたびれた顔を浮かべた金髪碧眼の彼がいた。疲労の滲む顔色をさせながらも依然として爽やかなかんばせに、自然と眉が垂れる。
「フレン、お疲れ様」
騒々しく廊下を踏み抜いていた足音は鎧の硬い音に様変わりした。見下ろすことの多かった彼の蒼い瞳はいつの間にか顔を上げなければ視界に入らないようになった。ふんわりと微笑む柔らかな表情に思わず年齢を思い浮かべるほどには、随分と大人びた。
テーブルを拭いていた手を止めて、チラリと奥の席を横目見る。
フレンは体動に合わせて跳ねるしなやかで細い髪を右手でぐしゃりと掻き上げると、案の定いつも座るカウンターの奥の座席に腰をかけた。
「名前さん、ついこの間臥せっていたばかりじゃなかった?」
中身が並々と注がれたグラスをフレンの前に差し出して、曖昧に一笑。彼は胡乱な目つきで名前を見ると、はあと溜息を吐いた。
「…お願いだから、無茶はしないでくれ」
「そんなことないの、本当」
彼のこぼした溜息にまた笑って仕舞えば、疑わしいユーリを見る目を向けられた。それから逃れるように配給された制服の裾を翻しながら、湯気のたつ大皿を運ぶ。
箒星で働くようになってまだ一年と経っていない。それまでの名前は真白いシーツに包まれながら窓の外を眺めるだけの日々を送っていた。それが崩れたのは結界が消失して彼が騎士団長として再びこの下町に顔を出した頃のことだった。
魔物に脅かされる街を守るため、騎士団の任務は激化した。騎士団やギルドが手を組み合ったとこでより多くの商隊が大陸間を移動することが可能になり、そうして物の流通が栄え、物価に変動が生じたことで名前の必要としていた治療薬が手に入りやすくなったのだ。自分の身体のことくらい、幼馴染である彼らの世話にはなりたくないのだと突っぱねていた意地で衰えていた機能が回復するくらいには、魔導器がなくなったとしても世界は前を向いていた。
とは言いつつも、こうして毎日働くこと自体に不慣れな故に体調を崩しやすくはあるのだが、以前ほどには長引かなかくなった。少々の熱くらいなら薬に頼らずとも自己治癒に任せられる。フレンたちが守ってくれているからだねと僅かな熱に浮かされながら笑った言葉に、彼は名前の胸が詰まるような思いをさせる顔をした。
閉店の時間が近づいていくにつれて客足が減っていく。テーブルに転がる酔っ払いを女将が叩き起こしてその最後の一人を見送ると、閑散とした店内にいる客はフレンだけとなった。
「送るよ、名前さん」
「いつも律儀ね、フレンは」
「…そういう言い方をするところは、ユーリに似てきたよね」
明日も仕事なのだろうに、時折こんなふうに最後まで居残っては家まで送り届けてくれる。騎士団長という立場からそんなに頻回ではないにしろ、そのために時間を作らなければならないのだろうことくらいは想像できた。それが、少しばかり擽ったい。フレンは昔からそういう優しさのある人だ。ユーリとはまた違う優しさで、名前の隣に立っている。だというのに名前さん、と対して変わらない年の差でそう呼ぶ彼との間には、距離があるのかないのか、未だに計り兼ねている。
閉店作業のためにフレンには外で待っていてもらいながら簡単に掃除を済ませて服を着替えて店を出ると、彼はぼんやりと空を見上げていた。つられて見上げる星空には、凛々の明星が輝いている。
「綺麗な星空」
「ああ、うん、そうだね」
「…空を見てたわけではなかった?」
今気づいたとでもいうような相槌に、フレンを見上げる。灯りの消えた看板の下に立っていた彼の顔は星灯りで陰影を落とし込んでいて、相変わらず様になる顔立ちだなとその輪郭を辿るように見つめた。こちらを見下ろした彼は数度目を瞬かせてから、頬を緩める。
「名前さんは、よく窓から空を見ていたなと思って」
「――それぐらいしか、することはなかったもの」
「こんなふうに仕事先から家まで送る日が当たり前になっていくのが、その、なんというか、」
本当に嬉しくて。
息をこぼすように呟いたフレンの柔らかな金髪に気がついたら手を置いていた。背伸びをしながらでは格好もつかないけれど、髪を指に絡めて撫でるようにすれば彼は目元を赤くして、頭を下げた。まるでしおらしい子犬のようにも思えて、吹き出して仕舞えば締まりのない照れた目で睨むというには柔らかすぎる目を向けられる。
「――大きくなったね、フレン」
「…一体いつの話をしてるんだ」
「ついこの間まで、こんなに小さかったのに」
するりと指を離して腰のあたりで手のひらを振ると、彼はそれこそもう何年前だとふっと息を吐いて笑った。あんなに小さかった少年が騎士団に入って、段々とその名前が広まっていって、気がついたらこの国を動かすほどの肩書きを有してこうして立っている。
――本当に、大きくなったなあと、窓の向こうで子どもたちを見ているしかなかったあの頃と同じ胸の空くような感覚が通り過ぎる。
名前さんと掛けられた声は、あの頃よりも低く落ち着いた男の人の声となって変わらない音を紡いでいる。
身体が冷えるといけないからと手を引いて歩き始めたフレンの後ろを辿る。名前に合わせられた歩幅に、唇が緩んだ。
「ねえ、フレン」
「? どうしかした?」
箒星からの緩やかな坂を登る。疲れたのかと慌てたように立ち止まって身体ごと振り返るフレンに首を横に振れば、彼は再び首を傾げた。
フレンの背にはあんまりにたくさんの星が輝いていて、思わず瞳の縁が揺らぎそうになった。
「…今度、ハルルに連れて行って」
蔵書で溢れかえるアスピオ、海というものが見られるのだというエフミドの丘、活気あふれるノール港やトリム港、ユーリたちが拠点とするダングレストや闘技場ノードポリカ。まだまだ世界は果てしなく広がっているそうだ。行ったこともないその土地にも同じ人が住んでいて、反対に人の住んでいない大陸にだって彼はバウルに乗って旅をしていた。
――窓から見える世界が全てだった頃よりも、この足は遠くまで、フレンの後ろを辿っていくことができる。
彼は繋いでいた手に柔く力を込めると、目を細めて頷いた。
「もちろん。ハルルだけじゃなくて何処まででも。名前さんの調子がいい時にね」
「…最後の一言が余計じゃない?」
「長く動けるようになったのは嬉しいけど、無理無茶をするところまでユーリを真似ないでくれ」
「真似なんてしないよ。自分の身体のことくらい、自分でわかるもの」
「名前さんのそれはあんまり信用ならないからね」
フレンの甲冑に包まれていない無骨な指が額をさらう。
「今だって顔色があんまり良くないだろう?」
「…それは、さっきの仕返しのつもり?」
「フフ……僕だってもう、子どもじゃないんだから」
皮膚を滑る指先が、頬を撫でる。掠めるようなそれに瞬きを一つ落とすと、フレンはハッとした顔をして視線を外すと背を向けて歩き始めた。――星が明るい夜で良かったと、口にして仕舞えば彼はむくれるようにして怒るのかもしれない。
「フレンは、もう一度行きたい場所とかはないの?」
「え、あ、そうだなあ…」
少しばかり上擦った声。緩い足取り。繋いだ手の温かさ。時折吹く冷たい夜風。何処からか聞こえる人の声。
そんな夜に、二人分の足音だけが響いている。結界もなくなってしまった街でたった二人だけ取り残されてしまったみたいねと、そう言えば彼は笑うだろうか。そんなことはないよと家々にひっそりと灯る明かりを指さすだろうか。どちらにしても、今この瞬間だけはあの少年だったフレンが隣にいる。
――騎士団長だなんて遠いところに行ってしまった彼と、同じ場所に立っていたいと思うのは傲慢なのかもしれない。それでも、ただただベッドの中でフレンの話を聞いているよりは、彼の辿った道筋を追いかけながらする話の方がずっと寂しくない。
フレンは頬を指で掻きながら、確かめるような微笑をこぼした。
「うん、名前さんと行く場所は初めてだから、何処に行っても楽しそうだ」
あどけない顔をする彼に、ひとつひとつの思い出話を聞いて回ろう。彼らが救ったこの世界は彩を放ちながら進んでいるのだろうから、そうしながらに、何者でもないフレンとくだらない夜を明かしたい。
「――それじゃあ、楽しみにしてるね」
見下ろすだけの窓はない。
どう巡ろうかと計画を立て始めた彼の隣で、名前は同じ歩幅で歩き続けていた。