三つ並んだ箸と皿
※ 大学五年生
高校を卒業して、静岡の実家から都内の大学に通うことを決めた。電車で四十五分を超える道程は高校の頃より少し遠くはなったものの、突然の寮生活になって母を置いてきてしまったあの家に、また一人にさせるのも物寂しかったのだ。出久は事務所の関係で卒業と同時に一人で暮らし始めていたので、母との二人暮らしにももう随分と慣れた頃のことだった。
電車に揺られながら日課のヒーローニュースを読み漁る。こうして大学生として過ごしていると、ヒーローである爆豪や出久と直接会うことも少なくなっていた。彼らは彼らで日々ヒーローとして日本中を走り回っては研鑽を積んでいる。かたや大学五年生として臨床研修にすり減らしている名前とは、互いにすれ違うばかりだった。こんなふうに画面に表示される記事が、彼らの現状を知るツールに成り果てている。本人たちの口から、敵関連の話が精細に語られることなどまずない。大丈夫だったと結果論だけで笑うのだから、その笑みの下にあるはずの傷を知ることさえやっとだ。
朝からの記事を振り返りながらページを送っていれば、太ゴシックで書かれた文面が目に飛び込んできた。携帯を落としかけて、慌てて両手で握り締める。
――昼頃に起きた大型敵との交戦中であろうスナップ写真。半壊したビルを背景に、彼は立っていた。
『逃げ遅れた一般人の救出中に負傷。現在搬送先の病院にて治療を受けているとのこと』
深呼吸を一つ。見計らったかのように、メッセージを一件受信した。一番上にあったメッセージボックスを開き、キーボードをタップする指が止まる。
途中まで打ち込んでいた文面を削除して、メッセージボックスの一覧画面に戻るとその二つ下にあった名前を選択して簡潔な一文を送信する。
ちょうど仕事に一区切りついていたのか、すぐに既読がついた。返ってきたメッセージを確認すると次の停車駅でホームに降りて急いで反対路線の快速電車に乗り換えた。
メッセージで指定された駅に着いたと同時に、ポケットに仕舞い込んでいた携帯が忙しなく振動する。着信画面を見やれば、言わずもがな彼だった。
「もしもし、今、着いたよ――」
『――、――』
「うん、学校終わって、明日休みなんだけど――うん、わかった」
通話終了のボタンをタップして再びポケットに仕舞い込む。初めて降りたホームに足を迷わせながらも改札を出ると、ロータリーにはバスと人でごった返していた。送迎用のロータリーをキョロキョロとしながら探し当てて、適当な場所で立っているとややもしないうちに黒の軽自動車が目の前で停車する。助手席から運転していた彼が見えたので、躊躇わずにドアを引いた。
「お疲れさま、急にごめんね」
「ううん、僕もちょうど終わったんだ。それよりこれでしょ? 見たの」
運転席の彼――出久は、ハンドルに凭れながらスタンドに立て掛けられていた携帯を指さした。その画面には先程名前が見た記事の少し後に掲載されたものが表示されていた。そう、と薄く笑ってから、開口一番の台詞がどんなものか二人で予想する。何しに来たんだと邪険にはせずに、世話などされたくもないなどというのだろうなと重なった意見に頷いた。
ドアを閉めて緩く発進した車に流れる曲は大抵二人とも好きなもので、時折ふんわりと香ってくるのは車載用品に無頓着な出久に買った消臭剤だった。ケースカバーは中古市場で唯一あったオールマイト仕様のそれで、ルームミラーにも彼のキーホルダーがぶら下がっている。
「お母さんは元気?」
「うん。あ、この間いずがトンネル事故の救助に行ったのあったでしょ、ああいう記事をお母さんちゃんと取っといてるの、知ってた?」
「ああ、それ前に帰った時見せてもらった…。卒業してばっかのとかも」
「いずもヒーローノート作ってたくらいだから、二人して同じだね」
高校を卒業してから五年間、出久が活躍した記事を母はスクラップ帳にしてまとめている。彼女なりの折り合いの付け方だったのだろう。名前も母も、出久も変わらずに前へと進んでいる。
出久と面と向かって会うのは三週間前に帰って来た時以来ではあったが、その前は確か数ヶ月と期間が空いていた。家族である彼でさえ、いつも会えるわけではない。だからこそ、今日のように思い立ってすぐに返信が返ってきてそれを行動に移すことができるのは年に数回あるかないかと珍しいことだ。そういう時でないと、会うことすら侭ならない。これから向かう先にいるのであろうその人の顔も、最後に確と見たのはいつであっただろうかと思い出す作業から始まる。遠いという言葉が適当なのかは分からない。ただ、寂しくはある。
途中でスーパーに寄って食材を買い込んでから、また携帯のナビに従って車を走らせる。小一時間程だろうか、目的のマンションの近くにあるパーキングに車を駐車させて、オートロック仕様のエントランスの呼び鈴を押した。
『――はい』
低く落ち着いた声に、心臓が跳ねた。
「勝己君、おかえり!」
「かっちゃん、元気してた?」
『…はァ!? 何しに来とんだ!?』
「予想当たってたね、いず」
「ね、名前」
スピーカー越しに聞こえる声は興奮冷めやらぬようだが、開錠された自動ドアに二人して顔を見合わせて笑い、ロビーの先にあるエレベーターに乗り込んだ。
ポーンと高い音の後、フロアに到着してから最早慣れた歩幅で爆豪の部屋の前にまでやってくる。ドア横のインターフォンを押すより先に、乱暴にドアが内から押し開かれた。
「テメェら何しに来とんだ、ああ!?」
怪我は軽症とのことで――。
言葉一つで終わってしまう彼の傷を、携帯の画面で終わらせてはいけない。
傷の具合などを問うメッセージを送ったところで返事などたかが知れている。出久と爆豪の事務所は近しいところにあるので、出久の仕事が終わった頃に早々に連絡を取ればすぐに向かえると思ったのだ。一人で行くには怒鳴られるのは目に見えているので、そうならずに且つ母にも心配をかけさせない最善手だった。
四つの手に収まる買い物袋を掲げてにっと笑えば、爆豪は吊り上げていた目の際を引き攣らせた。
「ご飯作りに来たの」
「同じく」
「ンな世話される程怪我してねェわ!」
まあまあと爆豪の肩口を押しながら玄関に乗り込めば、彼は呆れた溜息を吐いていた。
「予想二個目も当たってたね」
「うん、かっちゃんの語録って想像しやすいもんね」
「突然押しかけといて喧嘩売っとんじゃねェぞゴラ」
お邪魔しますと出久と声を合わせると気色悪いから止めろと背中越しに言われたが、彼此二十数年分の今更だ。
短い廊下を抜けてリビングに押し入れば、初めて少しばかり服が散らかっている様を見た。散らかっているというよりは、確認しているに近かっただろうか。スーツの上下とワイシャツがソファに掛けられていた。
キッチンに出久と並んで買い物袋を置いて、冷蔵庫を開けて中身を詰め込む。相変わらず自炊はきちんとしているようで、作り置きのタッパーが並んでいた。こういう面では心配の欠片もしていない。
「…勝己君、明日は?」
「事後処理で午後出勤。…明後日、見舞いに行くんだよ」
一般人女性の怪我は全治一週間と軽症だったそうだ。どんな傷や相手だろうが救助活動中に起こった一切については見舞いに行く、というのがベストジーニストの方針だった。
名前、と出久が眉尻を下げながら名前を呼ぶ。彼に釣られるように、名前も笑った。何かを言いたくて、或いは察してほしくてここにきたわけではない。笑っていようと決めた。だから、ここにいる。
「…というわけでキッチン借りるけど、何が食べたいですか?」
「テメェで作れるわ」
「じゃあカツ丼」
「ンでテメェらの好物になんだよクソかよ」
「言ってくれないと分かんないよ。ね、いず」
オープンキッチンのカウンターに身体を寄せながらこちらを凄んだ目で見る爆豪に、冗談だよと木綿豆腐を取り出した。彼には遠く及ばないかもしれないが、プルスウルトラの雄英で培った料理スキルで人並みのことはできる。あとは心を込めればいいのだと何処かの料理研究家の人も言っていたので要はそういうレベルだ。料理の味は、ひとまず今は置いていい。
出久と食材を分けながら、車内で探していたレシピを開く。左側に立った出久は袖を捲って包丁を構えた。
カウンターにいた爆豪の不信感の漂う目に大丈夫だよと二人でへたりと頬を緩ませれば、小さく、それでも確かに笑って、彼はリビングを片しに背を向けた。
彼を見送って下準備を始めて数分。
「――…いずってそんなに不器用だったっけ」
「えっその期待どこから? 僕いつもそんなにしてないけど」
まな板に散らばる人参の無惨な姿に、思わずフライパンを握る手を離して一欠片をつまみ上げた。
「ふ、ふ…! すごいガタガタしてる」
「…断面積増えるから味染みるよ、きっと」
「そうだね…っ」
笑いすぎだと非難の目を受けたが、どう見ても人参の形状が悲惨だった。
出久は不貞腐れたように頬をむくれさせながらにそれらをバットに寄せて、長葱、占地、舞茸、白菜、水菜、豆腐と最後に格闘していた鰤を小分けに切り終えると鍋に水を張る。出汁昆布を底に浮かべて、彼の作業はひとまず終わったようだ。
名前は甜麺醤に豆板醤を合わせた調味料をフライパンに流し込む。ひき肉をパックからぺたりと落とせば一気に肉の香ばしい匂いがキッチンに広がった。木べらでほぐしながら炒めていれば、片付けを終えたようで爆豪が手持ち無沙汰にカウンターに寄ってくる。肘は置かずに、その両手はスウェットのポケットに突っ込まれていたままだった。
「――デクは何がしてェんだそれ」
「鍋の下準備だけど」
「ねえこれ見て」
バッドの隅に乗る人参に、爆豪がハッと鼻で笑った。
「名前も似たようなもんだろーが」
「かっちゃんからしたら皆同じってことだよ」
「私もうちょっと綺麗に切れるのに」
「名前、目ェ離すな」
はい、と返事をして固まりかけていた挽肉を散らす。大方火が通ってきたところで角切りにした豆腐を真っ赤な挽肉の中に投入し、水溶き片栗粉を流し入れながらかき混ぜて火を止めた。
「美味しそう?」と正面に立っていた爆豪に中身を傾けて見せびらかせば、まあまあと満足げな顔で返事をされた。
出久の鍋も煮立たせて、いつだかに切島たちに買わされたという炬燵に皿を運ぶ。
長方形のテーブルのそれぞれの辺に、箸と皿が一つずつ並んでいる。中心に鍋を、白い大皿に盛られた麻婆豆腐を隣に置いてから、漸く腰を下ろした。
テーブルの短辺に座ろうとしていたのだけれど、何故か直前になってソファの反対側に誘導された。こういう座席を指定される時が高校の頃から間々あるのだけれど、今一つ真意を計りかねている。疑問符を浮かべながらも座ると、冷蔵庫に入っていた作り置きのおかずを手にやってきた爆豪が「まだやんのかそれ」と眉を顰めた。まだというからにはこの席順の意味が二人にはあるようだけれど、態々はっきりとさせなくとも三人でこうして囲んでいる事実があるだけでいいか、と対照的ににっこりと笑う出久を横目見ていた。
「いただきます」
三人で手を合わせる。いつもより合わせる手の位置が低い爆豪の所作の理由など、考えるまでもない。彼の目の前にある小皿を奪って鍋の中身を移せば、不服そうな目をしていた。
「はい。早く治してね」
鰤の乗る器を差し出しながら、笑う。不揃いな具材も、彼の腕には及ばない麻婆豆腐も、等しく彼を構成していくものだ。爆豪が噛み込んで飲み込んだ一つ一つが彼を形作る素地になるというのなら、いくらだって祈ろう。名前の役目は、其処にある。紫陽花も、シュークリームも。怪我を厭わない彼らへの尽きない願いに溢れている。そんなこと、彼は少しだって知らない――いや、知らないふりを、しているのだろうけれど。
すぐ治るわこんなもん、とぶっきらぼうに返ってきた言葉に、そうだねと眉を垂れさせた。
口数の多くはない爆豪も出久がいるとよく舌が回るようだ。箸を口に運びながら絶えない言葉の応酬に、笑い声が弾ける。
「つか、お前らほんと何しに来とんだ」
鍋の底が見え始めてきた頃に思い出したように爆豪が言うと、出久は瞬きを一つしてからテーブルに両肘を置く。高校生の頃よりもずっと大人びた顔で、あどけない子供の目を細めた。
「三人で最後に会ったの、いつだったかなって思って」
――幼馴染という枠で収めてしまうには、あの頃はこの隙間にあるものはあまりに歪だった。
一瞬の沈黙に、出久は肘を上げて背筋を伸ばすと後ろに手を置いて身体を逸らせる。
「あと、二人ともあんまり会ってないでしょ。僕が久しぶりなくらいなんだから」
「…三ヶ月ぶりらしいよ?」
メッセージアプリが通知を知らせる頻度は疎らだ。一日と開かない時もあれば、気がつけば返事もなく三日が経っていることもある。一週間以上開いたことはないけれど、その間に交わしていたメッセージのやり取りを会話だというにはあんまりに短い。
知るか、と言いながらも僅かに目を伏せていたので、なんとなく考えてはいたようだった。思わず息をこぼすように笑ってしまったのは、彼が見た目以上にいろんなことを考えている人だと知っていたからだ。
「僕はまあ現場でも会うからよかったんだけど、名前を放ったらかしたらそりゃあ怒るよね」
「じゃあテメェ帰れやクソが」
「そうしたら名前も一緒に帰るに決まってるじゃないか」
「言ってること矛盾してんだろーが」
ソファに寄りかかりながら悪態吐く爆豪に、出久が怪訝な顔を浮かべている。
――寂しいとは言わなかった。時間が経つにつれて一覧画面の上からどんどんと下がっていく名前にも、長くは続かない言葉のやり取りも。出久を通して聞く爆豪勝己についての端々を、本当は本人から聞きたかったなんていうことも。言わないだろう。これからだって、おそらくは言葉にしない。
「――ねえねえ、今日いずも一緒に泊まっていこうよ」
「は? 勝手に決めんな」
「あ、賛成。僕も午後出勤だし、それに炬燵から出れそうにない」
「私たち床で寝れるからいーよ」
「どうせ風邪引く奴が何言っとんだオイ」
爆豪の目が、どんなふうに出久や名前を映しているのかを、知っている。
出久と目を合わせてへらりと笑い合ったこの同じ顔を何処が同じかと足蹴にする限り、爆豪には少しだって寂しいのだなんて言わないだろう。ただ、たまには我儘の一つをこぼしてしまってもいいだろうか。不特定の誰かを守るために駆けつけていく爆豪の足を、片時だけでも引き留めてしまってもいいだろうか。自分の傷を振り返らない彼に祈るばかりの心臓は彼よりもいつも少し速く刻んでいるのだから、年に数回だけでも逸る心臓を慈しんでくれてもいいだろう。
彼の強くはない反論を是と取って、平らげた食器を出久と二人でシンクに運ぶ。序でに買ってきていた安いチーズケーキを三等分に切り分けて、小さなフォークで角を突く。
生温い炬燵の中で邪魔だなんだと三人の足を折り重ねながら更けていく夜に、足らない言葉を積み上げていく。うとうととし始めた出久と名前に、寝るタイミングまで同じかよと爆豪の喉で弾けた笑い声を聞いた。
ぱちりと消されたリビングの電気。熱を失っていくホットカーペット。寝息を立てる出久に乱暴にかけられた毛布。彼がいつも使っている厚手の毛布が、名前の身体に乗せられる。目を閉じてしばらくすると、頭の縫った傷を辿るような指先で撫でられた。
怪我をしているのは爆豪の方なのだから温かくしてベッドで寝てくれれば良かったのに、こうして隣に入り込んできた気配に気がついていないとでも思っているのだろうか。
「……いたい、よね」
軽症だなんて、傷の深さを勝手にはからないでほしい。傷の程度で痛みを推し量ってしまわないでほしい。
薄ぼんやりと開けた瞼に彼は僅かに驚いたような顔をしたあと、くるりと名前に背を向けた。
「……覚えとけや」
この広い背中にできた傷が、いつか癒えて痕すらなくなったとしても。
「…うん」
息をゆっくりと吐いて、目を瞑る。
ちゃんと覚えてると笑うと、彼は密やかに安堵の息を溢していた。
――明日の朝、目が覚めたら同じ寝顔をしていたかと聞いてみよう。全然、とそう言って彼は眦を緩めてくれるのだろうから、それだけで、十分だ。