その痕は痛むか
文化祭も終わり、季節は冬に差し掛かろうとしていた。
マフラーをしてくればよかったと今更にどうでもいい後悔をしながら、口から溢れる白い息を目で追いかける。前後左右、出歩く他人で埋め尽くされていた。
――ほんの数十分前のことだ。鳴りを潜めてしばらく経つ敵連合に、教師陣からやっと護衛をつけないでの外出許可が降りた。近場であれば今までも護衛がなくとも出歩くことはできていたが、雄英高校から離れると一人は必ず付くことになっていた。その対応をされるのは普通科では名前だけで、何せ夏合宿でのことがある。ヒーロー科の家族ということも相俟って拐かされたのだという一つの事実に念には念をという形で続いていたのだが、十一月に入り随分と規制も緩み始めていた。
そういう経緯もあって、全寮制になって漸く柚希たちと初めて電車を使っていくつかの駅を越えた場所に来ていた。
久しぶりの遠出に浮き足立っていたのが悪かった。駅前をふらふらと四人で歩いていれば、いつの間にか左右に見知った友人の影はいなくなっていたのだ。
『名前どこ行ったー!!』
ぽこんと軽い通知音に携帯の画面を見やれば柚希からで、目ぼしい何かはないかとあたりを見渡していた。ひとまず手近にある店の名前を入力して送信すれば、其処から動くなとスナイパーのようなキャラのスタンプが送られてきた。申し訳なくも笑ってしまいながら返信をして、携帯をポケットに滑り込ませる。それから店舗の壁に身を寄せて、三人が来るのを流れていく人混みを眺めながら待っていた時だった。
「――呑気なもんだな、雄英生」
音もなく、気がついたら隣に男が立っていた。かけられた声には聞き覚えがある。急速に渇いていく喉に無理やり生唾を流し込み、ゆっくりと右隣に顔を向けた。
――黒のジャケットのファスナーは口元まで引き上げられている。目深に被ったフードの下には、爛れた顔面が隠されていて、皮膚と皮膚を繋ぎ止める金のピアスが僅かに差し込む陽光に反射して煌めいていた。
「…あなたは、」
ニヤと目を細めて口角を引き上げた男は「夏以来か」と独りごちた。
オールマイトが引退をして雄英高校が全寮制度を取るきっかけとなった、あの神野の悪夢。その裏側で、爆豪と名前は敵連合に連れ去られていた。頭を強く打っていた所為もあって名前の記憶は曖昧な部分も多いが、彼の顔は覚えていた。名前は知らない。ただ、その火傷痕がひどく印象的だったのだ。
――いつもであれば、雄英高校の教師兼ヒーローの誰かがついている。まるで図られたようなタイミングだ。
肌を刺す冷たい風が首元を攫っていくというのに、握った手はじっとりと汗を掻いている。
男はそんな名前の様子を面白がっているのか、不意に視線を前方の人たちに向けた。
「…今俺がここで暴れても、どいつもこいつも頭の中にはいつかヒーローがってことばっかだ。反吐が出るよなァ」
「……何が、したいんですか」
「いや? たまたまこっちに来てみれば見知った顔の奴がいたんでな。ところでお前のヒーロー嫌いは治ったのか?」
彼はくつくつと喉の奥で笑いを含ませながら、名前を見下ろしている。
今でも、断片的に思い出す。
狭苦しいバー。色とりどりの酒瓶が床を彩る。倒れ込む爆豪の背中。
『どうして俺たちの暴力は悪くて、ヒーローなら許されるんだ?』
生温い空気の中、彼の周りだけが冷えているような感覚を覚えていた。いや、色も温度も伴っていないような感覚の方が近かったかもしれない。彼は、まるで無垢だとでも言いたげな顔で首を傾げていた。
そんな死柄木に誘拐されるに至った理由が、ヒーローがいるこの社会を嫌っているのではないかという一方的な共感を押し付けられたからだった。――あの頃の名前は、というにはまだたった数ヶ月前の出来事だ。A組のステージで笑ったエリの顔。夕日に染まる炭谷の顔。救けてくれて有り難う。そういった言葉に続いた表情を、鮮明に思い出せる。
「……自己犠牲の塊のような人ばっかりだから、嫌いなだけ」
睨みつけるように彼を見上げた。
敵連合はヒーロー社会を壊したいのだと声をあげていた。全てが正しいのだとは名前も思わない。ヒーローがいれば、と願う声を飲み込むことは容易ではない。それでも、笑うことを選んだ。隣にいることを選んだ。出久も爆豪もどんどんとヒーローになっていくのだ。
名前ができることは、その足を引き留めることではない。
彼は名前の言葉に瞬きを一つしてから、不愉快とも愉快とも何とも言いがたい瞳を浮かべていた。
柚希たちが迎えに来てくれる前に、どうにかしなければと心臓がはやる。敵連合は他者を傷つけることを厭わない。もしも、彼女たちに何かがあったらと思えば余計に背筋に脂汗が浮かんだ。
何も言わなくなった彼から目を逸らさずに思考だけを回していれば、突然ポケットに入れていた携帯が振動した。おそらくは着信がかかっているのだろう。彼はそのバイブレーションの音に気がつくと双眸を眇めて、それから可笑しそうに腹を抱えるようにして頭を擡げる。
「個性がなけりゃ、あんたも痛くなかったのになァ」
彼は名前の首にそっと手をかけた。喉を潰すような手つきのそれに、呼吸が詰まる。
「毎日毎日、爛れた皮膚が疼くだろ。気色の悪い目を向けられてよ」
ざらりと彼の指先が火傷痕を辿る。撫でるなどという優しい手つきとは程遠く、今にも爪を立てられそうで喉が引き攣る。
熱い息が唇の隙間から溢れた。
――この痕は、可哀想なものなどではない。それだけは確かだ。
「…そう、ですね。でも、私は痛くない」
ぱしりと彼の手を弾いた。
「個性があるから傷付きもするけど、でもそんなこといったって個性は無くならないし、ヒーローは相変わらず傷を厭わないのなら、私が私なりに変わっていくしかないって気付いたの。だから、もうヒーローが嫌いだなんて言わない」
「…そうかよ。敬虔な信者にでもジョブチェンジか、つまんねェな」
「いつまで経っても痛いのは、きっと貴方だけです」
もし、ここにいたのが出久であったのなら彼を捕らえるための策を講じるのかもしれない。そんなものは名前には出来ようはずもない。
ポケットに入れていた携帯を取り出して、応答ボタンをタップする。
「私いくから、今どこにいる?」
一歩踏み出した足を、彼は引き留めなかった。変わらずに壁に背をもたれかけさせたまま、フードの奥で笑っている。
「こんなの全部嘘っぱちだぜ、雄英生」
電話口で柚希が早口で言葉を継いでいる。横目で彼に一瞥をくれながら、タイルを蹴った。
人波に紛れながらそうっと後ろを振り返った時、黒のフードを被る姿は何処にも見当たらなかった。
寮に戻ったあと、彼と会った話を誰にもしなかったのは、危害を加えられたわけでも敵連合の動向を探ることが出来たわけでもなかったからだ。
――同じ火傷痕を抱えた人で、おそらくきっと、この焼ける痛みをいつも独りで抱えている人。いつかヒーローが暇を持て余すような社会になった時、彼の痛む傷が少しでも癒えているといい。
「緑谷さん、行こう」
「うん」
寮の前に立っていた心操の背中を追いかける。
名前も知らない彼の傷を同じだと頷いてしまうことがあれば、今頃こんな風に心操の隣に立つこともなかったのかもしれない。個性によって魘されるこの痛みを否定してしまえば、進む先は彼らと同じだったのかもしれない。
「今日も頑張ろうね、心操君」
「? うん、そうだね」
へらりと笑えば、心操は目を瞬かせながらも頬を緩めた。
いつか彼の傷を再び見る日が来るとしたら、瘡蓋になっているといい。
そんな、或る日の話だ。