雨露に濡れる花弁に傘を

春の穏やかさが段々と熱量を帯び始める季節になってくると、毎年これはやってくる。
二年前のこの時期に、話に決着はついたはずだのに。どうしても、九歳だった頃の名前がひっそりと後ろに立っているような気がするのだ。
初夏、梅雨。夏になりきれず春とも言えないこの日々は、景色が青くなる。
今日も湿った空気が肌にまとわりついている。空はどんよりと曇っていて、雨が降りそうな薄灰色の雲が広がっていた。
学校の全授業の終了を告げるチャイム。図書館で二時間近く参考書を漁りながら寮に戻るまでの帰路で、溜息が何度も抜けていく。
――火傷痕が痛む。ジクジクと、疼いている。
寮を通り過ぎて、緑化地区の通りを突き進んでいく。草の青臭い匂いが鼻腔を衝いて、これならいっそ早く夏になってくれればいいのにと、そう思いながらもやはりそうなってはほしくないとも首を振る矛盾に、左に曲がった其処にあるベンチに腰掛けた。
高校一年の文化祭から、ここは名前の気の抜ける場所になった。寮から幾分か離れているせいか、あまり人は通らない。ただ、何故かここにいると大抵ランニングをしている彼に出会す。いや、彼からすればいつものコースを走っているだけなのだろうけれど。


「何しとんだ」


背もたれにくたりと首を置いて空を見上げていれば、不意に影が落ちてきた。頭を持ち上げて右隣を見れば、今日も今日とて既に汗だくの爆豪が立っていた。


「……勝己君、」
「あ」


黒いシャツの裾を握る。へらりと笑えば、彼の眉間に皺が増えた。


「…ちょっとだけ、お喋りしませんか」


通りを抜けていく風が彼の柔らかな髪を攫っていく。爆豪は何も言わずに、ガタリと荒々しくベンチに腰を下ろした。裾を掴んでいた指先は弾みでベンチにずり落ちたけれど、その上から爆豪の節くれだった大ききな手が乗せられた。
手を繋ぐというよりは、本当に乗せるという表現に近い。僅かに空いた手の甲の隙間に、彼の熱がこもっていく。
組んだ膝に肘を置いて頬杖をつく彼は今しがた走ってきた通りの方を見ていた。


「――もう六月だね」
「ああ」
「ベストジーニストさんのとこ、忙しそうだね」
「別に、あんくらい普通だわ」


そっか。
爆豪との会話は、いつもこうだ。特段話が盛り上がるわけではなければ、口数だって多い方ではない。ただ、波紋を呈していた水面が凪いでいくような感覚がある。それはひどく心地が良かった。
言葉は落ちない。湿気をふんだんに含んだ風が草木を揺らせるたびに、葉が掠れ合う音が沈黙を埋めていく。


「…なんか言いたいことあんじゃねェのか」
「……ううん」
「お前去年もこんな感じだったろ」
「……そうかなあ」


言われてみれば去年の今頃は、出久の部屋に理由もなく遊びに行っていた。ヒーローの話を聞きながら、笑っている出久に安心していたかった。それだけだ。
今年は彼に頼るのもなんとなく気が引けて――何せ互いに三年生ということで、やるべきは山ほどにあった。名前とて左に詰んだ参考書の束を無視できるほど明晰ではなく、大学入試まで努力はしても足りないことを知っている。爆豪もこんなふうに足を止める時間など本当はないことも、分かっている。


「――ごめんね、走ってたのに」
「うぜェからそれやめろ」


手の隙間が消えた。指先までこもった力に、いつの間にか下がっていた視線をあげる。彼はこちらを見ていた。


「後悔するくらいなら言えや」
「…、」
「溜めとけねェくせに溜めンな」


爆豪勝己は、優しくはない。柔らかくもない。選ぶ言葉は粗暴で横暴、自分にかける鋭利な自信に俯くことを良しとしないひと。それでいて、言葉のない声に、足を止めてくれるひと。


「…違うの、花が――」


アヤメが咲き誇る。次いで、紫陽花が群れをなす。雨露にそれらが濡れそぼるたびに、喉が渇いていく。
ぱたりと、スカートの上に染みが一つ落ちる。それだけを零して、目の際は乾いた。


「……大丈夫だって、分かってるのに、」


――九歳だった頃に起きた全てから目を逸らさないと決めた。向き合い続けるということは、どうしてもこの胸の痛みからも逃れられないということだ。いや、逃げたくない。彼らには背負わせたくない。背負いたい。そうして、自分の足で同じ景色を見ると決めた。そのための努力を積み重ねている最中だ。その足場には、いつもあの日のことがある。


「怖くなる。何がって、言えないけど…怖くて、」
「――去年の三月。あの大規模な暴動、あったろ」


世界の終わりのような光景だった。今でもはっきりと覚えている。名を連ねるエンドロール。病室で目を閉じる二人の姿。廊下に溢れる涙に暮れる声。
爆豪は名前の手を掴んだままに立ち上がった。反対の手をポケットに突っ込んで、正面に回る。シャツの肩口から伸びる腕に、傷痕が増えていく。彼が蔑ろにする傷の一つ一つを、覚えている。


「倒れねェってのと覚悟をするってのは別だ」


生きていてと、願った。オールマイトがいつか死んじゃうとしたら。そう震える声で電話をかけてきた出久も、願っている。明日もそうであれと、祈っている。
願いながら、祈りながら、頭の片隅では理解している。ヒーローではなくとも、仮令それがどんな人であろうとも平等に訪れるものがあると、気付いてはおきながら。
――爆豪の手は温かい。
彼はくっと喉で笑うと、ポケットから出した指で名前の眉間を弾いた。


「けど、絶対ェ倒れねェ。覚えとけウスノロ」
「っ、……何、それ」


スカートを握っていた手を解く。弾かれて鈍い痛みを訴える額を覆う。手のひらが、かすかに湿り気を帯びた。


「…っ、痛いんだけど」
「知るか」


ず、と鼻を啜って、長袖のシャツの袖で目尻を拭う。
何処も、なんの解決にすらなっていないことを彼は知っているのだろうか。きっと分かりきっているのだろう。あの三月の暴動を最前線で戦っていたという爆豪が、無謀なことなど口にするはずもなかった。
――高校三年生。卒業したら、彼は誰もが振り返るプロのヒーローになる。誰よりも疾く、強く、圧倒的な一番になるために、前を向いていく。
刻まれ続ける傷。強くなることと傷を負わないことは比例しない。
するりと手が離れていく。代わりに最後にぐしゃりと掻き撫でられた頭に、顔をあげるほかなかった。
爆豪は、背筋を伸ばして立っている。俯くことを許さない彼は、顔を上げるまで、其処で待っていてくれるのだ。


「…頑張るね、勝己君」
「空回ンだから気張んなバカ」


参考書の入ったカバンの紐を掴んで肩にかける。ベンチから腰を上げて、へたりと頬を緩ませた。


「勝己君、走りながら勉強教えて」
「お前俺についてこれねェだろーが」
「…電話?」
「あ? やるからにはできねェとこ徹底的に潰すに決まってんだろ」


彼の背中に追いつきたい。幼い頃の"爆豪勝己"を背負いながら走り去っていく彼のように。
いつかこの夏になりきらない季節が特別なのだと笑える日が来るように。
今年の夏は例年よりもゆっくりとした足取りでやってきたけれど、それ以来火傷痕が痛むことはなかった。

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