貴方が作ったチキンライスに私が作った卵を乗せた
最近、気がつくと家に帰る時間が十二時を回っている。仕事先の病院から家までバスと電車を乗り継いで一時間程かかる道程をふらふらと重い足取りで帰りながら玄関のドアを開ければ、今日も変わらず真っ暗だった。朝の空気のまま固まっている玄関を抜けて、リビングのソファに倒れ込んだ。
――緑谷から爆豪に名字を変えてかれこれ一年が経つ。初期研修が落ち着くまでは籍を入れるだけにしようと、同棲を始めた頃にそんな話をしたのがもう随分と昔のように感じる。ヒーローとして着々と地位を築き上げている勝己は去年の暮れ――いや、同棲を始めて半年と経ったあたりだっただろうか、そこから長期出張や復興支援の遠征、突発的な敵への対応と、多忙を極めていた。名前も名前で毎日あらゆるものと向き合いながら勤務をこなしていく日々に、最早時間の感覚も忘れそうになる。最後に寝る前に面と向かって勝己におやすみと挨拶をした日でさえ朧げだ。
漸く明日は休みの日だ。勝己の予定はどうだっただろうかとぼんやりとし始めた頭の中でスケジュールを漁ってみたが思い出せない。明日が休みだからとソファに直行してしまったのがいけなかった。
(…眠い…ここで寝たら、怒られるだろうなあ…)
想像する彼のそんな刺々しい声でさえ懐かしさを覚える。かろうじて凭れていた頭をずるりと肘置きに乗せ変えて、閉じかかる瞼に抵抗することをやめた。
眩しい朝日に焼かれて、薄らと意識が浮上する。陽射しがもう昼近いそれであるのだろうとは知りながら、連日の疲れの所為で起きることもしたくないと寝返りを打った。肩口にかかる布団を手繰り寄せてから、じわじわと疑問が湧き立った。
――ソファではない上に、布団だ。
ぱちりと目を開ければ、すやすやと穏やかに寝息を立てている勝己がいた。枕元に置いてあった彼の携帯の画面を触って時間を確かめると、やはり十時を回っている。ということは、彼も休みなのだ。
「…起きて待ってればよかったなあ」
何時に帰ってきたのかは分からないが、ソファで寝ていた名前を見兼ねてここまで運んできてくれたのだろう。化粧も落とさずに寝たために顔が痛かった。
このまま勝己の胸に埋もれて眠ってしまえる柔らかさと、風呂に入りたい欲求が緩慢な脳内で天秤にかけられる。
もぞもぞとしている名前にまだ起きる気配も見せないくらいには彼も熟睡していた。これはさっさとシャワーを浴びてまた布団に戻るという選択肢を選べばいいのではないだろうか。
どちらにも傾くばかりの天秤に妥協をやめて、上半身を起こす。そろりと静かにベッドから降りようとしたところで、腹に腕が回った。振り返るまでもなく再び布団の中に引き摺り込まれて、今度はしっかりと勝己の胸に収まってしまった。
「…風邪引くから、ソファで寝んなっつったろ」
想像通りの台詞だったけれど、怒るというよりは嗜められている声音に近い。あくびを噛み殺しながらだったので、声がまだ覚めきれない頭に追いついていないだけなのかもしれないけれど。
まだ片足の先を夢の中に置いてきているような顔だのに、腰に回る腕が少しの隙間さえ許さない。化粧で顔が痛いと訴えれば、自業自得だと返ってきた。
布団もシーツも洗濯して、家の掃除をいくらかして、腹も減り始めたので昼食の支度をして、それから――。やることは沢山あるというのに、カーテンから差し込む陽気に、勝己の腕の確かさに、なんだかもう動く気力も無くなってしまった。
「勝己君」
「ん」
「おかえり」
「…ん」
おはようとここしばらく聞いていなかった起き抜けの気だるそうな声。朝とも昼ともつかない光が勝己の薄い色素の髪を透けさせる。心臓の拍動に合わせて揺れる毛先。肩口に落ちる目の覚めている呼吸。シャツ越しに伝わる体温。呼びかけに応える返事はそっけない。口数が少ないのは面倒だからではなく、こうしていることにおそらくは今、彼も名前と同じような気持ちを抱いているからなのだろう。
「一日中一緒にいられるのは、すごい久しぶりだね」
「ああ」
「…今日くらいは、何処も平和だといいなあ」
「呼ばれてもデクに行かせりゃいいだろ」
「…今日だけだったら、わがまま聞いてくれるかな」
こんな布団の中のような温かな世界が、一日でも長く続きますように。そうしたら、日々何かに追われている勝己も、出久も皆も、朝の溢れる光に目を覚ましながらほっと息をつく時間ができるのだろう。
――勝己君と呼ぶと、なんだと声が返ってくる。
「…おかえり」
「さっき聞いたわ」
「さっきは昨日の分。今のは、その前の分」
「…そーかよ」
彼の長い両足の間に名前の足を滑り込ませて、黒いシャツに頬を寄せた。ファンデついちゃうねとくすくすと笑えば、もういいわと一等優しい声が返ってきた。それになんだかひどく胸が締め付けられるような思いがして、勝己の傷だらけの身体を抱きしめる。名前、と掠れた声に言葉が詰まって、何も言えない代わりに顔をあげてへらりと口元を緩めた。
安心するねといえば、ぎゅうと不意に込められた力に潰されそうになる。苦しいと呟けば、力も抜いてくれない上に容赦のない唇が降ってきた。思ってもみなかったそれに容易くねじ込まれた舌が歯列の裏をなぞる。歯の凹凸を確かめるように、そうして喉奥に逃げ込んでいた舌先を捕らえた。縁を辿るような柔らかな感触に背中が震える。見透かされたのか、なぶるように絡まる舌に飲み下しきれなかった唾液が口角からこぼれそうになる。熱い口の中に息をこぼして、酸素を求めて首を逸らそうとするも枕にしていた彼の腕が頭を抱え込むようにするので逃げ場を無くした。
背中に回されていた右手がいつの間にかブラウスの裾を手繰り寄せている。性急な手つきで下着にまで上り詰めたところで、勝己の腕を両手で掴んだ。
「っ、ま、って、シャワー、浴びた、っ」
交わった彼の赤い瞳がそんなことよりと物語っている。一瞬離れた唇が、どんな言葉も必要ないとぴたりと重なる。左手で名前の肩を引きながら頭から抜きさって、覆い被さるように腹のあたりで跨ると、一層深くなるばかりだった。
必死に彼の右手とせめぎ合いを続けていれば、痺れを切らした勝己が胸をあげる。ようやっとまともに吸い込んだ空気に肩で呼吸をしながら、すかさず枕を二人の間に挟ませた。
「やだ、無理、絶対やだ」
「却下」
「シャワーもそうだけど! だって…絶対、私、したら寝ちゃう、し…折角勝己君いるのに、勿体ない、というか…」
目が覚めてこんなふうに隣にいたことなど、思い出すのがやっとなほどだ。二人の部屋だというのに、眠ることも起きることも、一人でしていることの方が多い。最初の頃よりはいくらか改善されたとはいえ、だ。
「……、……。はよ入ってこいや」
たっぷりの間に勝己が何を考えていたかは分からないが、うん、と勢い顔が綻んでしまったのは明日の自分の体力を鑑みたからだ。
盛大なため息をつきながらベッドから降りた彼は、ただしと言葉を付け加える。夜は覚えておけよと相変わらず表情と言葉の選び方が正しくはない。
「そのあと寝んなら問題ねェだろ」
「……鬼」
「譲歩してやったろ」
夜になる方がもしかして辛かったのではないだろうか。微妙な顔をしていたのだろう。名前の表情に勝己ははっと鼻で笑うと、唐突に名前の腰を掴んで持ち上げた。
「次の休みはお前の行きてェとこに行くから、考えとけ」
「勝己君は、ないの?」
「ねェ。名前がいりゃあいい」
真っ直ぐな赤い瞳は、名前から少しも逸らさない。昔から変わらない。これからも。こんなふうに近い場所でその赤に映るのは名前がいい。
「…じゃあ、北海道から行こ。それで、最後は沖縄ね」
「何年かかる話しとんだ」
「だって、終わりなんかないでしょ」
僅かに瞠らせてそれからすっと細められた瞳に、きっと締まりのない顔をしていることだろう。確かになと言った勝己と、同じ歩幅で歩む日々があるといい。
そのあと二人で向かい合って食べたオムライスは、いつもより温かくて美味しい味がした。