逸らされない碧
空はどんよりとしていて、雪でも降りそうな天気だった。マフラーに埋めた唇の隙間から吐き出した呼吸が白く染まる。住宅街を抜けて、寒々しい木々が並ぶ並木道を歩く。あとひと月もすれば枝の先に蕾を付け始めるのだろう。その頃には、もうこの道を通うこともなくなっている。グラウンドの脇を通り見慣れた校門を曲がる。三年の下駄箱に、緑がかった髪をマフラーに埋める彼女を見かけて思わず奥歯を噛んだ。その隣には当たり前のように似たような顔をぶら提げた男がいる。――朝から、最悪な気分だ。二人は視界の隅でこちらに気づくと、顔を歪めて早々に靴を下駄箱に仕舞うと教室へと向かっていった。
一昨日、自宅に雄英高校から郵送物が届いた。手紙の封を開けると、そこにはポケットタイプの投影機が仕込まれていて、薄暗がりの部屋の中でボタンを押せばオールマイトが笑っていた。
おめでとう。君は個性も身体的センスも素晴らしいものを持っている。この雄英高校で、一緒に頑張ろうな。
ずっと、憧れていた。追いかけて追いかけて、漸く憧れていたあのオールマイトにかけられた言葉。ここはゴールじゃない。そんなことはわかりきっている。それでも、これでまた一つ、爆豪勝己が踏み越えるべき階段を踏みしめてやったと、そう思っていた。
翌日教室に入るなり聞こえた言葉は、思いもしていなかったものだった。
『緑谷雄英受かったらしいぜ。しかもヒーロー科!』
『さっき職員室で聞いてよ、センセーたちもありえねーって』
――爆豪だけが、その称賛を受けるはずだった。こんなクソみたいな平凡な学校から最高のトップ校への入学も、拍車をかけるヒーロー科への合格も、爆豪だけで良かった。いつもいつも、彼奴は視界のどこかに必ずいる。愚図で愚鈍で無個性の緑谷出久が、必ず。
緑谷の席の周りは誰もいない。そうだというのに、クラス中の話題は緑谷が雄英高校ヒーロー科に入学したことでもちきりだった。
『…なんなんだよ』
『――よお、爆豪。何してんだ』
扉の前に立っていた爆豪の背後から、いつもつるんでいた刈り上げた頭の男がやってきた。学ランから漂う煙草の臭いが鼻を衝く。
『何でもねェ』
肩に乗せられた手を振り落とし、ポケットに手を突っ込んだまま大股で自分の席まで歩く。何も言えないくせに視線ばかりは寄越してくるモブに腹の奥がざわつく。
言いたいことがあるなら言え。くすぶる両手に怯んだ声を上げるくらいなら見てくるな。
右斜め後ろの席で俯いたままの出久は何も言わなかった。爆豪にも、クラスメイトにも。ただ、静かにそこに座っているままだった。――腹が立って仕方がない。俯くことも、黙り込むことも。これでヒーローを目指すなんて目標ばかり夢見たままで。
吸い込んだ息の全てが淀んでいる。
授業のないただ卒業までの時間を浪費するだけのカリキュラムは午前中で終わった。放課後に担任から呼び出された先で何を言われるかと思えば手垢のついた賛辞で、くだらない三十分間が過ぎた。出久も呼び出されていたのかその後からやってきて、奇跡だなんだと中身のない話が続いた。――あの国立雄英高校のしかもヒーロー科に、奇跡で入れるわけがないだろう。
職員室から出るなり、出久の胸倉を掴んで校舎裏に連れ出して問い詰めれば、初めて反論する言葉が返ってきた。
『どんな汚え手使やあ無個性が受かるんだ、あ!?』
『いっ…言ってもらったんだ…君は、ヒーローになれるって…! かっちゃん…!! 勝ち取ったんだって!』
だから、僕は行くんだ。
無個性で気弱で後ろをついて回るような、そんな出久の言葉に、払うように胸倉を突き飛ばした。校舎に背をぶつけて、それでも爆豪を見上げて逸らさない目に、また腹の奥がざわついた。
そして今日も、卒業式の準備だなんだとくだらない時間を潰すための半日が終わった。
最後の週に回ってきた掃除当番のおかげで体育館倉庫前のゴミ捨て場にまで、然程詰まってもいないゴミ袋を一つ提げながら向かう。職員の駐車場を抜けて体育館脇のコンクリートに囲まれたゴミ捨て場のネットをめくる。適当に奥まで放り投げれば、背後で砂利を踏む音が聞こえた。
振り返ると、そこには見たくもない顔があった。
「……捨てたなら早くどいてよ」
爆豪を叩いた女。あの日の噂は瞬く間に広がって、一週間近く周りが囁く声にこめかみの青筋が収まらなかった。ただ、あの日から、あのヘドロの事件から、この二人は変わった。あのいかにも虚弱そうな体躯が今や見る影もないほどに太くなった。その隣で、この双子の片割れだけは、いつも何かに怯えているような不安そうな顔を浮かべるようになった。
緑の防鳥用ネットから手を離して、スニーカーを彼女の方に向けた。
「お前も受かったんか」
「……普通科」
早くどいてと弾けた二度目の言葉。逸らされない目。周りのモブと違って、双子の出久と違って、昔から彼女は目を逸らさない。ずっと。夏の生い茂った葉の重なりに似た深い碧の双眸が、不機嫌さを微塵も隠さずに爆豪を睨みつける。
「――なんで、クソデクが受かってんだよ」
「頑張ったから」
「んなもんで無個性がヒーローになれるわけねェだろ!」
「個性あったって必ずヒーローになれるわけじゃない!」
努力は誰にだってある最低限のハードルだ。個性はそれよりも前にあるスタートラインに立つ資格だろう。
突然個性が出現したなんて馬鹿げた話があるのだろうか。個性は皆等しく四歳までに発現するもので、しなければ永遠と手にすることはないはずだ。個性がなくても受かるような実技試験の内容ではなかった。いや、工夫すれば難題ではないのかもしれないが、今の出久にそんな力業ができるはずもない。万に一つの可能性もない。出久は落ちて然るべきで、間違っても同じ土台になんてなれるはずがない。
――違う。個性があったとしてもヒーローになれないというのなら、それは本人の努力の話だ。個性は努力で手に入らない。大前提、彼女の話はずれている。
そうだというのに、身の内に湧く感情を持て余すように、肩で息をしながら手に持っていたゴミ袋の口を握りしめている彼女に、どうしてだか言葉に詰まった。
「…無個性が、無個性がって、個性持ってるのがそんなに偉いの? 持ってたって傷つくだけなら、傷つけるだけなら、そんなの要らない」
わなわなと震え始めた唇からもらした声は濡れていて、あと一度でも瞬きをすれば目の際から涙がこぼれるのだろう。
右手に掴んでいたゴミ袋を爆豪の足元にまで投げるように放りだして、彼女は背中を向けて走り出した。スカートの裾の翻りも気にせずに、疾走していった背中。
――苛々する。届きもしない夢を追いかけて、突き放しているのに後ろにいて、早く死ねと吐き捨てたのにかっちゃんと呼んではそこにいる。出久への苛立ちは、こんなにも言葉にできるというのに。
彼女に対する沸きあがるこのざわついた鉛は何なのだ。言葉にできない。理解にならない。けれど確実に、腹の奥にいる。
「…クソッ」
名前が置いていったゴミ袋を拾い上げて、ゴミ山に向かって投げおろす。
――昔から名前はとかく迷子になる。突然いなくなったかと思えば木陰の隙間か木の洞だかに潜んでいて、何かあればその双子然とした丸い目に涙を浮かべるのだ。出久よりも泣き虫で、だというのに堪えてみせて、小さい頃は手を引いて歩いていた。そういう、ふうだった。それがいつからかこんなふうになった。いや、きっかけが爆豪にはないとは思わない。出久が目障りなのは変わらない。それを隣で応援している名前も気に食わない。
気持ちが悪い。言語化できない靄を吐き出せない。
ヒーローになんかなれるわけない。
名前が泣きながら叫んだ声はまだ耳に残っている。
――上等だ。誰よりも凄いヒーローになってやる。
この靄は、無個性のくせにそんな戯言を吐かれた苛立ちなのだろう。ならば彼女が思うよりもはるか高く、強く、揺らがないヒーローになるまでだ。
腹の奥の靄が行き場もなくうねっていた。