不定型の台詞で埋め尽くしたい

「好きや。俺と付き合うて」


全国大会出場もしている稲荷崎高校バレー部のレギュラーで、テレビでも話題の最強ツインズとして取り沙汰される片割れの宮治。一年の頃から同じ教室で、今年の四月から隣同士だった席が七月に入る頃に廊下側と窓側で大きく離れてしまった。それを機に、めっきり話す機会は少なくなっていた。それが、七月ももう終わろうとしている今日。ベタついた空気を凪ぐ風が、スカートの裾をはためかせている。
目の前にいる宮治は、少しばかり垂れさせた眉の下の、いつもと変わらない瞳で名前を見ていた。


 * * *

好きなスポーツは特にない。強いて言うなら何となくテレビで見ることが多い野球くらいなら、という程度。稲荷崎高校はバレーが強いことで有名で、大会前に行われる壮行会でも圧倒的にバレー部の声援は大きい。特に見目麗しい双子がいることも、それを大きくさせている一因なのかもしれない。だからといって、バレーの試合は見たことがなかった。そんな名字名前がかの双子のうちの一人である宮治と話をするようになったのは、いつの頃だっただろう。一年の頃は周囲の高校デビューとでもいうような空気についていくことに必死で、宮治どころかバレー部など遥か遠いそもそも次元の違う人のようなものだった。それが二年になって初めて隣の席になって、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになった。言葉といっても取り留めもないような挨拶や課題や朝に起きた双子戦争の様相を聞くくらいなもので、カースト上位に君臨するような彼とコミュニケーション能力が悉く低い名前が楽しく会話を続けられることなどできるはずもなかった。
黒く真っ直ぐな髪を後ろで緩く団子にまとめているばかりで、華やかさとは程遠い地味な見た目だとわかっている。容姿も、勉強も、運動も、平均的だ。いわゆる所のモブと評するのが相応しく、ゲームでいう所の村人NPCだ。おはよう、お疲れさま、部活頑張ってと同じ台詞をローテーションさせながら繰り出している。


『好きや』


そんな名前に向かって彼はけろりとした顔で言ってのけた。いや、もしかしたら名前の背後に学年一綺麗な女子生徒が立っていたのかもしれない。――壁を背に、立っていたと思うけれど。
宮治から突然の告白の後、どうやって家路についたのか定かではなかったが、気がついたら自室のベッドで仰向けになっていた。ぐるぐると巡る思考回路に、熱に浮かされたような気分だった。


「…そんなわけ、ないじゃん」


罰ゲームかもしれない。そういう質の悪いものを、彼はするとは思えない。
気の迷いかもしれない。きっとそうだ。何がどう転んで、バレーを好きでもなんでもない名前が彼のそういう対象になるのだろう。
――宮治は、凄い人だ。対照的に、抜きん出た何かを持たない名前。
もしも本当に、あの宮治が名前を好ましく思ってくれていたとして、好きだと告げてくれていた気持ちが世の中に溢れる付き合うための一言だったとして。そんな宮治と、名前が釣り合いなど取れるわけもない。


『ご…ごめん、なさい』
『…好きなやつ、他におるん?』
『そういう、わけじゃ、ないけど…』
『じゃあ、なんでなん?』
『……宮くんは、凄い人だと思う。バレーも強くて、色んな人に好かれとるし、かっこいいし、』


その時の宮治の顔は覚えていない。驚きで見上げてしまった後は、終始下を向いていたと思う。彼のスラックスの裾ばかりを見ていた。綺麗な折り目の角に、僅かにくたびれた上履き。気温は三十度を越していて、額から汗が滲み出る。体育館につながる外廊下の日陰の中に立っていたのに、ジリジリと捲った袖から伸びる腕が焼けていくような感覚を覚えていた。


『…私は、何にもないんよ』


そう言って、逃げた。混乱した頭の所為で、訳も分からずに涙が目尻に溜まっていた。
――例えば、ぱっちりとした二重の瞳だったら。腕も脚も細くて長くて綺麗だったら。ふんわりと柔らかい髪だったら。何か一つでも、誇れるものがあったなら。
彼の言葉に、素直に頷くことができていたのだろうか。
ベッドに沈む身体は重い。
学校に行きたくないなと思ったのは、席替えをした日以来かもしれない。宮治と席が離れてしまったことに胸が空いた。これでもう、たわいない言葉を交わすことさえなくなるのかと、目を伏せた。所詮真面に言葉など続きはしなかったけれど、毎日繰り返すだけの台詞だったのかもしれないけれど、本当は嬉しかったのだ。


『席、離れてしもうたな』


席替えをした翌日、下駄箱に向かうとそこには制服を着た宮治がいた。大抵は朝練でジャージ姿が多いというのに珍しい出立ちと掛けられた言葉に何を優先して良いのか分からず、吐き出た言葉は『お、はよ……?』とNPCの如く毎日の挨拶だった。
余程困惑した顔をしていたのか、彼はぶっと吹き出して何やねんその顔と笑っていた。


『おもろいなあ…まあ、おはよう、名字。教室行くで』
『え、あ、うん…今日は、朝練なかったん?』
『おん。なんや電気系統の整備とか言うとった』
『そっか、じゃあ、朝よう寝れたね』
『いや、それ忘れとったツムに朝っぱらから叩き起こされて、ほんま最悪やった』


げんなりした顔に、小さく笑った。
朝に下駄箱で出くわすなんていう偶然はこの日限りではあったけれど、席が離れても時折こうしてすれ違った時やふとした時に話をするようになった。
嬉しかった。顔には出さないように気をつけた。宮治を好きな子はたくさんいて、その中にはあまり敵対したくはないような女子もいたので、波風を立てないように、それでもこんな風に話をするためには誰かに悟られてはいけないと思っていた。気の利いた言葉なんて相変わらず言えなかったけれど、それでも笑ってくれる彼の隣に立つことができる人になりたいと――思うことは、分不相応なのだろう。
――私は、何もないんよ。
彼は、そう言った時どんな顔をしていたのだろうか。

告白されてから二日間、風邪を理由に学校には行かなかった。二日も経てば冷静にもなれるだろうかと思っていたけれど、いざ教室を前にして足が竦んだ。気の迷いだと決めつけておきながら、なんともない顔をされたら苦しくなるのだろうと想像する思考が浅ましく利己的で、それでも、彼の言葉を受け入れられる自信は何処にもなかった。
宮治の机は教室の前の方にあって、足早に後ろのドアから静かに教室に入り込んだ。


「あ、名前! 風邪大丈夫やった?」


後ろの席の友人がひらひらと手を振っていて、どきりとする。いつもと変わらない声量を大きいと思ってしまうくらいには、今の名前はまるで隠れ忍ぶ犯罪者のようだった。カバンの紐を握りしめて、へらりと頬を緩ませる。


「うん、ちょっと、頭痛かって。ありがとう、もうへーき」
「そら、良かったなあ」
「! ――…み、宮、くん」


足音もなく突然に頭上から振り落とされた声に喉が萎む。
ポンと肩に置かれた手は大して力も篭ってはいなかったけれど、最早挙動の全てを掌握されたような心持ちがした。


「おはよう、名字」
「お、はよ…う」


振り返ればぬらりと大きな壁が立ちはだかっている。平均身長の名前に覆い被さるような上背の彼に微笑まれると、見上げながら固まるほかなかった。
「ちょこっと話あんねんけど」と始業まであと五分もないことを理由に頭を振れば、じゃあ昼にと約束を取り付けられて彼は自分の席に帰っていった。


「…何したん、名前」
「……うん」
「まあ、なんやよう知らんけど、宮君が怒っとるの新鮮やんな」


怒っている。心当たりは一つしかない。けれど、怒るという感情は何故だろう。ごめんなさいと明確に突っぱねた。その理由は自分自身の劣等感でしかなかったけれど、だからこそ彼は納得か呆れるべきであって怒るとは異なるのではないだろうか。
頭の中は二日前のことで一杯になっていて、午前中の授業は二日も休んでいたおかげで置いてけぼりをくらい、小テストは散々だった。
四限の終わりに答え合わせをしたテストの解答用紙を眺めながら終わった授業は、一気に騒々しさを増していた。それらの声の合間を縫ってやってきた宮治は、机の上に広げられたままだった解答用紙を視界に映すとくしゃりとした顔で笑った。


「ひっどい点やな」
「…全然、授業分かんなくて」
「昼、時間もらう代わりに俺が教えたる」


ぺらと攫われる解答用紙。宮治の左手には大きな弁当箱が握りしめられている。


「逃げんといてや」


囁かれた言葉に、立ち上がるほかなかった。
逃げ道のように教科書を胸に抱え込んで、先に移動を始めた彼の背中についていく。友人の奇妙な眼差しに、眉尻を下げて唇を引き攣らせてしまったのには、どうしたって否定をしたかったからだ。だから、宮治から離れるような距離を歩いてしまう。隣に並んで歩いてしまえばそういう目を向けられる。胸も張れないのに、この距離を埋めることなどできるはずがないだろう。
適当な空き教室を見つけると、彼はドアを開けてから後ろを歩いていた名前を見やる。急がなければ名前を呼ばれそうな気がして、重たい足を走らせて彼の後ろに続いて教室に身を滑りこませた。背後で聞こえた会話の一端に、名前がいませんようにと祈りながら窓際の席へと進もうとしたところで、一度立ち止まって開けっ放しのドアを後ろ手にそっと閉めた。
ドアにもたれるようにしながら、窓際に座る宮治との間にある机を見つめる。


「話、って?」


相変わらず、彼の目も見られない。弁当箱を呑気に開く宮治は、ん、と曖昧な音を一つこぼした。
それからかちゃかちゃと音を立てて開けられた蓋に、焼けた肉の香ばしい香りが教室中に漂った。


「腹減らんの?」
「…え?」
「教科書なんか食えへんやん」


もしかしたら笑えば良かったのかもしれない。あまりに意識の外からやってきた言葉に頓狂な声を上げてしまった。
そんな名前を横目見ながら、宮治は背筋を伸ばして両手を合わせると白米をこれでもかと掬い上げては大きな口に放り込んだ。
正直、このよく分からない空気に腹も減りようはなかったのだけれど、彼を見ていると分からなくなっていた腹の虫も鳴りかけそうになる。
もぐもぐと何度かの咀嚼をした後、ごくりと喉を唸らせて飲み込んだ。彼はいつも、美味しそうにご飯を食べる。それが菓子でも何でも、食べるという行為をひどく嬉しそうに遂行するのだ。
宮治はパチンと箸を弁当箱に渡して、机の脇に提げていた弁当袋の中から焼きそばパンを取り出した。


「名字、食ってええよ」
「……え」
「ほんまは飯足りんし腹減ってまうんやけど、名字が食うてへんのは嫌や」


彼は名前に焼きそばパンを向けている。受け取らない限りは、引く気はないようだ。彼にとって大切な食を分けるなんて――いや、一体何に期待をしているのだろう。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいに、ずるずると期待を引きずっている。終わらせなければ、こんなもの苦しい。焼きそばパン一つ、噛み込んで平らげてしまえばこんなくだらない想いも消化できるだろうか。
ドアにもたれていた背を浮かせて、少しずつ歩みを進めていく。宮治の隣の席に教科書を置いて、持ち上げようか彷徨っていた両手に彼はパンを押し付けた。次いで空いた手で隣の椅子を指さして、食うて、と食を促している。言われるがままに腰を下ろして、パンを腿の上に乗せる。ゆるゆると視線が下がっていくのに気づいていた。
――食べられるわけがない。消化もしてしまいたくない。食べなければ、彼はここを動かないだろうか。そうなら、もう一生だって食べたくなんてない。そう思うのに、名前では駄目だと分かりきっている声がする。
彼は構わずに口に米を運んでは、咀嚼を繰り返していた。


「――絶対、腹は減るやんか」


タッパーに詰まっていた米の三分の二が消えている。おかずにあった肉の欠片も残っていない。敷き詰められていた卵焼きが、支えを失ってぽてんと横に倒れた。


「毎日、朝も昼も夜も飯食うやろ。何ならその間かて腹は減るし」
「…う、ん?」
「名字は、飯食う様が綺麗やった」


ぎゅうとパンの袋を握りしめて、慌てて力を抜いた。
ひたすらに下ばかり向く名前の旋毛のあたりに視線を感じている。それでも、顔は上げられない。


「毎日毎日繰り返すもんでも、名字と飯食うたら気持ちええやろなって思うたんや」


宮治は、食べることが好きな人だった。その欠かすことのできない食の一欠片に、名前の片鱗があることを、笑って仕舞えばよかったのかもしれない。そんなものをと否定すれば、彼は眉根を寄せるのだろうなと思うくらいには宮治の食というものに対するこだわりを何となく想像している。何それと、言えば良かったのに言えなかったのは、名前が似たような台詞の類しか吐けないNPCだったからだろうか。


「俺が凄いとか、バレーやってへん名字と比べるもんとちゃうし、そもそも謎理論すぎて断られた意味が全然わからんかった」
「……だ、って、私は、何の取り柄もないし、宮くんの隣に立てる自信なんか、ない…し、」
「俺は名字が好きで、名字が俺のこと好きでいてくれんやったらそんなもんいらん。好きやないって断られるならまだ分かる。けどあんな断られ方されたら、諦めきれん」


例えば、ぱっちりとした二重の瞳で、細く長い手足で、ふんわりと柔らかい髪をしていたら――。していたら、胸を張って彼の隣に並べただろうか。そうであったら、今ここにいるのは名前ではない誰かになるのだろう。それは、いやだ。


「何遍も言うけど、俺は名字が好きや」


名字は、ほんまはどう思うとるん。
視界の端に、宮治のスラックスの裾ばかりが映っている。今日も、折り目が綺麗だった。
――あの日も足元ばかりを見ていた。彼がどんな顔をしているのか想像ばかりはするくせに、顔をあげようともしない。好きだと伝えてくれている彼に、それはきっと――卑怯だ。


「……、」


口をついて出てくるのは、今までで散々思い知っていたはずの彼との差異だ。それを、宮治は"そんなもの"という。"そんなもの"よりも、名前の胸に巣食っていた想いは勝るものだろうか。彼がこれから進んでいくのだろう華やかな過程に、押し潰されないようにできるだろうか。
焼きそばパンの袋の口を摘んで引っ張ると、軽快な音が響いた。ふわりとソースの匂いが鼻腔をついて、鼻を啜ってからかぶりついた。乾いた口の中にコッペパンと焼きそばが混ざり合って、飲み込めきれずに何度も何度も噛み込んだ。
脈絡のない行動に呆然とした顔を浮かべていた彼の瞳は、窓から差し込む日差しに薄い灰色を反射させている。初めて隣の席になって、『初めまして…?』と一年の頃クラスメイトだったことを覚えているか定かではなかったのでそう言えば、『初めましてとちゃうやろ、去年もクラス一緒だったやんか』と彼は不思議そうに笑っていた。あの日も柔らかな日差しが彼の瞳を透過させていて、なんて綺麗なんだろうなと舌先を転げそうになったのを堪えていた。
あの日から、彼は名字名前を知っていてくれていたのだろうか。その透明度の高い瞳で、話すたびに名前を見ていてくれていたのだろうか。名前はといえば、その日以来何となく目を合わせることさえ出来なくなっていたというのに。
あんまりに大きな一口をしてしまったせいで頬袋はパンパンで、彼のように噛み込んで飲み込んで、喉の奥で詰まっていた言葉ごと腹に落とし込む。
それから二口めに歯を立てて、食べ進めていく。彼はしばらく瞬きばかりを繰り返してから吹き出すように笑うと、机に向き直って弁当箱を突き始めた。
黙々と食物を掻き込んでいく。宮治の隣に座って、彼の食べている横顔を眺めている。
彼が楽しそうに話している声が好きだった。その話す声も笑う声も、できるなら全部聞いていたい。宮治の隣に立って、彼のスラックスの裾ではなくその透明な瞳を見ていたい。本当は、好きだと言ってしまいたい。
最後の一口を飲み込んだ頃には目尻はすっかり熱を帯びていて、宮治は弁当箱を片付けていた。


「いい食べっぷりやな」


くつくつと笑う彼は、名前の方に足を向けて座り直すと、椅子の背もたれに寄りかかるようにして背を丸めていた。背の高い彼なりの優しさなのだと、気がついたのは席替えをする少し前の話だ。


「…私、バレーも数学も、分からんくて」
「おん」
「焼きそばパンみたいなんは、食べるのが少し苦手で」
「ん」
「……宮くんと、席が離れて、寂しかった」


目尻を袖口で拭う。少しばかり湿った袖を、反対の手で握りしめた。
段々と下がっていく視線をもう一度上げると、彼は何処にも逸らさずに名前を見ていた。


「ほんとは、宮くんと、ご飯食べるんも、お喋りするんも、帰るんも、一緒にしたい」


でも、と続けそうになる声を飲み込む。彼が"そんなもの"というのであれば、"そんなもの"は胃の中で焼きそばとコッペパンと綯い交ぜになりながら胃酸に溶かされて仕舞えばいい。


「…私も、ほんまは宮くんのこと、好き」


袖口をぎゅうと握りしめた名前の手の甲を、彼のその細くて長い指先が突く。また自然と落ちていた顔を持ち上げると、宮治は少しばかり眉尻を垂れさせながら眦を緩めていた。


「俺、双子なん知っとる?」
「え、うん…?」
「どっちか知っとるやんな?」


彼の真意を計りかねて、ぎこちなく頷く。
宮くん言うのやめてくれへん、と小首を傾げるような仕草でそう言うので、何度も音に躓きながらも名前を呼んだ。


「……お、さむ、くん」
「ええなあ、俺も名前て呼んでもええ?」


頬を緩めさせた彼の顔に、どうしたって否定などできるはずもなかった。そうする必要もなかったのだけれど、好きやと放った言葉がほんの少し質量を伴っていた。


「なあ、今度は、名前の好きなもん教えて」


予鈴が響く。彼の――治の、名前を呼ぶ声が弾けては溶けていく。定型文以外の沢山の言葉を探していくたびに緊張していた所為で掠れた声に、治はまた笑っていた。

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