私は私を携えて進んでゆく
鳴り止まない通知音に、ベッドに腰をかけていた勝己が舌打ちをこぼしていた。なんなんだよアイツら、と口では悪態を吐きながらも、グループメッセージの画面に目を通して返信をしているあたり、苛立たしくは思ってないのだろう。
明日のために芦戸からもらっていた美容パックをきっちり染み込ませてから、寝室に入るなり目に入った勝己のそんな光景に笑うほかなかった。ドアに肩をもたれて彼の姿を眺めていれば何しとんだと目を眇められるので、なんでもないよと首を緩く振って彼の隣に腰をかける。
ついこの間まで高校生だったのに、いつの間にか大学を卒業して、研修医として二年目も終わろうとしている。入籍だけは先にしていたので、爆豪さんと呼ばれるたびに一拍の間を置いてしまう未だ慣れそうにない名字に彼は目を細めて笑う。その顔を高校生の、あるいは中学生の頃の自分が見たらどう思うだろうかと、きっと悪い物でも食べたか個性事故にでも遭ったのかと身を引いてしまうのかもしれないなと思うほどには、勝己は柔らかくなった。粗暴な口調に変わりはないが、選ぶ言葉も怒気の強い語調も随分落ち着くようになった。勝己も名前も気がつけば"大人"と呼ぶべきカテゴリの仲間入りをしているのだから、そうでもしないといい加減出久が怒りにくるかもしれない。事ある毎に大丈夫かと声をかけにやって来るのだから、余程勝己を信用していないのか、彼も大概心配性だ。いや、そういえばそんなようなことを出久を前に以前ぽろりとこぼした時には、かっちゃんの信用云々じゃないんだよとあっけらかんとした顔で返ってきたので、彼が果たして何をどう考えているのかは双子であっても分かりそうにもない。勝己曰くシスコンだというが、それもどうにも腑に落ちないがそういうものにしておこう。出久の婚約者が知っている誰某であれば、つつきたくもなるのかもしれない。
くだらないことを考えながら勝己の肩口に頭を寄せてなんとなく賑やかなメッセージ画面を眺めていれば、不意にチェストに放っていた名前の携帯が振動した。
どうやら母からのようで、明日を楽しみにしていますと慣れないスタンプが添えられて送られてきていた。
――明日、勝己と結婚式を挙げる。もう長く、それこそ生まれたばかりの頃から近くにいた爆豪勝己という男は、今やテレビでその顔も名も見ない日はないほどのトップヒーローとして活躍している。あんなに嫌いだった彼と、よもや同じ姓を名乗り、こうして褥を共にする日々を送るなんて誰が想像しただろう。
気をつけて来てね、と返信をした指が画面を掠めて下にスクロールされる。いつだかに送ったお色直しに選んだオレンジのドレスが写った写真で画面が止まり、気がついたら肩を触っていた。
「――痛むんか」
「え? あ、ううん。全然」
こちらを見下ろしていた勝己に慌てて手を離せば、勢い余って携帯が床に滑り落ちた。彼はそれを拾い上げると画面に表示されていたドレスを見つけたようで、名前の手の中に携帯を戻しながらぐしゃりと頭を撫でた。
「今更ンなって悩むなや」
「悩むというか……お母さんにも、炭谷さんにも、ちゃんと、見せたことない、から」
首の火傷痕に比べて、肩口のそれは色濃く残った。もともとそう言われていたのもあって全く消失することなど大して期待もしておらず、ましてや名前にとってこれは恐怖や忌避すべきものではなくなっていた。だからこそ、ウエディングドレスもカラードレスも、好きなものを選んだのだ。
凡そ四ヶ月前にドレスの試着に行った日から、揺らいでいない。
『――こちらのデザインでしたら、別のタイプのものもございます』
『大丈夫です。ね、勝己君』
カタログを見た時からビスチェタイプのドレスに惹かれていた。もしかしたら自分自身に対する反骨精神だったのかもしれない。あの頃からずっとこの火傷痕は存在していて、だからこそ負けたくなかった。隠すという行為は、この痕に関わる――いや、勝己の救けようとしてくれたあの瞬間を否定してしまうような気がした。彼の後悔の一端にだってなりたくない。あの瞬間の名前は確かに、爆豪勝己によって救われたのだ。
鏡の前でくるりと裾を翻せば、彼はくっと喉を鳴らして笑っていた。
『好きなの着ろや』
『言葉が足りないです』
『背中出てなきゃいいわ』
『その基準は何…?』
自分で決めた。下も向かない。――ただ、これはそういう不安ではない。
炭谷にとって、この痕はどういうものだろう。高校生だったあの頃、彼のフォロワーであった男によって残された痕。炭谷はあれから何度も彼の面談に行っていたと聞く。裁判も最後まで傍聴していたそうだ。そして、毎年欠かさずに彼の母親の墓参りに行っている。
母も多くは話さないけれど、彼女は昔から心配ばかりしてくれる人だ。病室で痕が残るだろうと医師から話をされたときも、名前よりショックを受けていたように思う。
「名前」
「なに――っか、つき、くんっ?」
呼ばれた名に伏せていた瞼を持ち上げると、勝己の大きな手が頬に添えられる。彼の柔らかな唇が首筋をなぞり、空いた手で器用にボタンを外して露になった肩口にそのまま唇を滑らせた。痕のある皮膚は感覚が鋭敏になるせいで、往復するたどたどしい感触に思わず漏れそうになる声を飲み込む。彼は撫でるように優しく火傷痕を這っていくと、最後に鮮やかな赤い瞳で名前の目を捉えた。
――彼の瞳と交わるたびに、これから食べられるのだと錯覚する。
瞬きの隙間もなく、深い口付けが落とされた。
角度を変えて混ざり合う唾液が一層甘苦さを増していく。お前のせいで口が甘ったるいのだと大抵文句を言われるが、思うに彼も似たような個性なので気がついていないだけでいつも甘苦い味がしているのではないだろうか。
名残惜しそうに離れていった彼の唇は艶かしく、ひくりと喉がひきついた。
「お前が笑ってりゃそれでいーんだよ」
ぐいと引き寄せられ、勝己の胸元に額を埋める。
名前にとって揺らがない一番のヒーローはグランファのままだ。そんな彼なら確かに、名前がこの痕に臆さず、そして隠さずに笑っていることこそが彼にとっての、または心配性の母にとっての救いになるのだとも信じられる。
――ああ、きっとそうだ。なにせ、炭谷硬史というひとはそういうヒーローだ。
瞬きをすれば、もう既に薄らと眼球に張った膜が剥がれ落ちそうになる。
「うん…っ」
勝己君も笑っていてねとわざわざ口にすら出さなかったのは、恐らく名前が笑っていれば彼もそうしてくれるのだろうなと漠然とした自信があったからだ。この結婚式の準備をする期間で、彼は面倒の一言も言わずに寧ろ名前よりもスケジューリングを完璧にこなしていた。それを今更どんなふうにも疑うべくもなく、一心に名前に向けられているあれそれを受け入れられないほど卑屈でもない。それが、心地が良くて少し擽ったい。歳を重ねていくたびに、勝己から滲み出るのは陽だまりのような好意で、それだけで、この涙腺は緩み切るのだ。
「…いっぱい、泣きそう」
「ざけんな、笑ってろ」
「絶対無理」
切島の結婚式でさえ、彼らの肩を組み合う姿を見て胸が締め付けられた。そこに出久が混ざっていれば、もう堪えられるものなどなににもなかった。
明日も出久は隣にいる。名前を間に挟んでいつものように頭上で仕様もない悪態の応酬をさせるのだろう姿は、想像に難くない。それを笑っている名前も思い浮かぶ。なんて温かい光景だろうなと、あの中学三年生だった自分にいつか見せてあげたいとも思う――いや、あの日の緑谷名前は、いつまでも爆豪勝己のことを許さない目で見ていてほしい。あの激情に任せて頬を叩いた緑谷名前もまた、正しく許せなかった自分自身だ。
「勝己君」
「なンだよ」
「……ありがと」
「何がだ」
「ん、全部?」
そーかよ。
ぶっきらぼうに、けれど多くを含ませて返ってきた言葉に、濡れた瞼を擦ろうとして掴まれた。目の赤い新婦などいてたまるかと叱られて、ティッシュに染み込ませるようにして涙をさらわれる。母にもよく言われていたなと思い起こされて、笑ってしまえば何が可笑しいんだかという目を向けられた。
「…勝己君」
「うぜェはよ寝ろ」
濡れたティッシュをゴミ箱に投げ入れた彼は、そのまま名前の肩口を押し倒して布団を被せた。閉め忘れていたボタンもきっちり留めてくれるあたり、彼の世話焼き具合も年々増している。
息を吐くように笑えば、彼に仕返しとばかりに鼻を抓まれた。
チェストの上に乗っていたリモコンで電気を消すなり、また彼の携帯の画面が振動して明るくなる。おめでと、と送られてきた切島のメッセージに気が早えわと笑った勝己の腹に、そっと腕を回した。
――ヒーローの隣に立つことのできる彼らを、ほんの少しだけ羨ましく思う時がある。彼らと同じ景色を見るために選んできたこの道で、それでも戦友のように互いの背を押し合う姿に必要もないのに憧れてしまうのは、彼らを見る勝己の眼差しに焦がれてしまうからだ。その役目は名前ではないことくらい、疾うに分かっているけれど。彼らが勝己にとってのどんな一番であるかはわからない。ただ、なれるものなら、一つだけ。
「…私、勝己君の一番の倖せになりたい」
「何言っとんだ。――もうなっとるわ」
アラームのセットをして携帯を枕元に置くと、勝己はこちらに向き直って頭の下に腕を通した。撫でるような手つきで髪を梳いていく。
――きっと明日は際限なく泣いてしまうだろうけれど、彼の体温は真夏のように熱いので、涙に触れるくらいがちょうどいいのだろう。
おやすみと呟かれた掠れた声音に、明日のおはようを期待してゆっくりと目を閉じた。