逸らされない赤
リビングにある二人掛けのソファの上で何度か船を漕いでいた。無音の空間を作りたくなくて適当につけていたテレビは深夜の面白くはない番組を垂れ流していて、下卑た笑い声にぱちりと意識が持ち上がる。木目調のテーブルの上に置いていたチャンネルに手を伸ばして電源ボタンを押すと、夜特有の静けさが襲い掛かった。
暖房の乾いた空気に咳を一つして、それからテレビの脇にある置き時計に目をやれば、深夜の二時を回ったことを報せていた。
ソファに投げ出していた携帯には着信が一つ。それから、メッセージが一件入っていた。
おもむろに画面をタップして開こうとした瞬間、玄関の方で足音が聞こえた。革靴がコンクリートの通路を叩く音。金属がこすれる音がして、ガチャリと鍵穴が回される。
眠い瞼をこすりながらリビングのドアから顔を出すと、短い廊下の先でスーツを着崩した爆豪が靴箱に肩を預けて眉間に皺を寄せて立っていた。
「――ンで起きとんだ。先寝とけっつったろ」
「おかえり…丁度、目が覚めたの」
先の尖った革靴を脱いでワイシャツのボタンを適当に外しながらこちらに歩み寄ってきた爆豪は、ドアの隙間からリビングを一瞥して名前の頭をぐしゃりと撫でる。
「寝るならベッドで寝ろ。すぐ風邪ひくだろ」
視線は首の痕を見下ろしている。後遺症の所為で、今年で二度は熱を出していた。それの看病もさせられていた爆豪はそんな小言を吐いてから、洗面所に向かう。水が流れる音を聞きながら、無傷を装う背中に息をのんだ。
――雄英高校を卒業してすぐに、爆豪はヒーロー事務所に入社した。名前は大学に通うことに決めていたため、社会人と学生という身分の違いのおかげで四年間はまともに会った記憶は薄い。彼が仕事の合間を縫って当時一人暮らしをしていた名前の家に訪ねてきたかと思えば、二か月以上音信不通になることもざらにあった。新人ヒーローは何かと実践あるのみということなのか、事務所の周辺だけではなく各地へ派遣されることが多かったのだ。
そうして名前が大学卒業を控えた去年の暮れ、一つの鍵を手に三か月ぶりに家にやってきた。
『卒業したら、俺んとこに来い』
寒さのせいか鼻の頭を赤く染めて、マフラーに口元を埋めながら玄関先での開口一番がそれだった。背後にちらついていた雪に肩を震わせて思わず長く息を吐いてしまったのは、彼との今までを思い出しながら喉を震わせる音を探していたからだ。
今度は俺が守る。そう、爆豪が何度も繰り返していた言葉が、こんなふうになるだなんて思いもしなかった。
あれから一年。爆豪はビルボードチャート上位にも名を刻むヒーローとなっていて、出久や轟たちも同じように毎回順位を競い合うほどになっていた。
爆豪勝己がヒーローとして輝いてく背中を、眩しいと思うようになった。遠いという感覚は、高校を卒業した頃には既に芽生えていて、こうして家に帰ってくる姿を見るたびに物理的な近さが身に染みた。
そんなある日のこと。爆豪は敵との交戦で大怪我を負った。救出中だった一般人にも被害は及んだそうで、彼の回復を待つより先に今日のうちにその被害者への見舞いに赴いていた。幸い一般女性の傷は浅く、一週間もすれば退院して日常生活に戻れるとのことだった。スーツを着ていたのはそのためで、こんな時間になってしまったのは事務所に一度寄っていたからなのだろうと見当がついた。
そのまま風呂に入ったようで、名前は再び携帯のメッセージを確認する。差出人は言わずもがな爆豪で、十二時を回るより前に遅くなるから先に寝ておけとの簡潔な一文が送られてきていた。ソファで睡魔と格闘していたあたりだったので、恐らく一瞬意識を取られた隙間に送られてきていたのだろう。冷蔵庫の中を適当に漁りながら、夕食に作ったスープを取り出して温め直す。お腹は、減っていないかもしれない。
――背中に負った傷は、交戦中に落ちた瓦礫から彼女を守るためにできたものだという。剥き出しのコンクリート片が背中に広範囲の裂傷を、それから突き出る鉄筋が、僅かに腹をかすめた。貫通しなかっただけよかったなと、搬送先の病室の前で誰かがそう言っていた。
スリッパが床を滑る音がしてコンロから顔を上げると、乾ききらない髪のままに部屋着に着替えた彼がいた。
「…なんつー顔しとんだ」
名前の手から手鍋をさらうと、用意していた深皿に中身を移す。肘が上がるたびに僅かに表情を曇らせてしまうのが分かるほどには、隣に立っていた時間は長かった。
大きめのスプーンを手に、今度は名前がその深皿を奪ってリビングのテーブルに運んだ。後ろでおい、と不服そうな声が弾けたけれど、今更そんな声を出されたところで躊躇うわけがない。
テーブルに置かれた湯気の立つスープを前に、ソファに腰かけた爆豪がちらとこちらを射抜いた。その隣に同じように座った名前の手は反射的に服の裾を掴むのをやめて、目を伏せる。
「…誰も死んでねえだろ」
「……知ってる」
「じゃあその辛気臭ェ顔やめろ」
「心配は、してもいいって…言った」
仕事から帰るたびに、おかえりと笑う言葉の裏に不安を抱えている。大丈夫かと問われることは爆豪が嫌がるので口にはしないけれど、あんまりに顔に出やすいようで最早彼も諦めたようだった。
尻すぼみになった語尾に、爆豪は何も言わなかった。ただ瞬きをいくつかした後に、ゆっくりと皿を手に取って腹に流していった。
――今までで散々、思い知った。炭谷も出久もオールマイトも、そして爆豪も。総じて怪我を厭わない。無傷でいろという願いが、現実的でないことくらい分かっている。爆豪のこういう怪我も、何も今回が初めてなわけではない。出久も、久しぶりに会うときが病室で、なんてこともある。分かっている。高校の頃、そんな気持ちと折り合いをつけようとした。大学に入って疎遠になっていく爆豪に安心も覚えた。同時に、沸き立つ不安が毎日のヒーローニュースを漁る日課を作った。
かちゃりとスプーンが空の器を叩く。爆豪は立ち上がると食器をキッチンで洗い流してから、いまだ座り込んだままの名前の腕を掴んで立ち上がらせた。
「名前、お前本当に――」
言い淀んだ。こんなにもはっきり言葉を出しておきながら、明確な部分を飲み込んだ爆豪を見たのは初めてかもしれない。
腕を掴んだまま名前の目から視線だけは逸らさずに、それでも続くべき言葉は吐き出さなかった。赤い瞳の縁が揺れていて、深まっていく眉間の溝が、飲み込んだそれが何か割れそうなほど慎重なものなのだと知る。
窓の外でバイクが走り去っていく音が聞こえる。温風を吹きだすエアコンが、長時間の使用のために勝手に電源が切れた。
爆豪の手ばかりが、温かい。泣きたくなるくらいに優しい熱が、腕をつかんで離さない。ここで暮らし始めてから――いや、彼と向き合うようになってから、意外と脆い人なのだということに気づかされた。その脆さを、支える一端でありたいと思えた。飲み込んだ言葉が、どんなものであるかなんて分からない。出久でさえ、言葉がなければ分からない。ただ、言葉にしたくない時があることも、分かる。
「…勝己君は強がってばかりいるから、傷が痛いことなんて、すぐ、忘れちゃうし」
彼の長い睫毛が震える。
「だから、私、いくらだって心配する。心配してないと、勝己君が無茶ばっかりするから」
腕を掴んでいた手を握り返した。この手に、名前は救われた。見舞いに行ったその人も、救われただろう。爆豪は口が悪くて粗暴なところがあるのでマスコミに悪評を叩かれる時もあるけれど、その実優しさを目に見える形で吐き出せない不器用なだけの人だったのだ。だからこそ、彼の支持率は高まっていくのだ。
「いつも、皆を救けてくれてありがとう。でも、勝己君の傷が痛いことも、忘れないで」
怪我を厭わないヒーローは嫌いだ。負った傷の深さでヒーローを推し量ることも、喝采を送る他人も。
それでも、彼はヒーローだった。爆豪勝己はヒーローの人で、こうして手を繋いで目の前にいるときだけは、ただの爆豪勝己だ。遠くなっても、こうして傷を思い出すたびに、ヒーローではない爆豪に帰ってくる。
「――名前、幸せか」
真っすぐに、名前から少しも逸らされない赤。
ひどく、遠回りをしてきたように思う。過去の彼を赦せるはずもないけれど、それはもう随分と昔の話で、出久は今も笑って「かっちゃん」と呼ぶ。爆豪と仕事で手を組んだ日にはやっぱりかっちゃんは凄いや、なんていう言葉から始まる電話がかかる。爆豪は、相変わらず凄い人だ。出久にとっても、そして、名前にとっても。
「幸せにしてくれるって、約束したでしょ」
爆豪は微かに目を見開かせた後に、「たりめーだろ」と小さく笑った。