柔らかで温かい、そんな話

足元をさらっていく風が冷たい。巻きあがる枯葉がタイルを撫でていく。
バンドの話、心霊迷宮であった話、相澤の話。断片的にぽつりぽつりと零していく言葉に、爆豪は短い相槌を返していた。端的な応酬では数歩歩くだけで沈黙が降りかかる。
斜め前を歩く爆豪の顔をそっと伺うと、少しばかり鼻頭を赤くさせながら眉根を寄せていた。ランニングを途中でやめてしまったせいで引いた汗が寒いのだろうに、彼は名前の歩幅に合わせて歩いている。
いつも前を歩くのは彼の役目ではあったけれど、それも小さな頃の話だ。中学時代は会話らしい会話もなく、三年生に至っては剣呑とした空気を隠しもしない程には仲の悪さは顕著だった。それが、今やこうして隣を歩いている。彼の志を殴りつけておきながら、何度も何度も救けられている。零すばかりの涙を以前であればうざったいと一蹴するどころか気にも留めなかっただろうに。
相変わらず血のりで固まる前髪を梳いた。直前に触れられた手を思い出す。爆豪の背中は随分と大きくなった。線が太く、よりたくましくなった。背だって伸びた。
――あの夏の夜。敵に囲まれて逃げ場のない倒壊した更地の中で、ずっと掴まれていた手を思い出す。文化祭の準備で挟み込んだ掌。個性の所為だけではない厚い皮膚の下は、いつも爆豪のその身の内に秘めた熱に似つかわしくない穏やかな血を湛えている。炭谷の声のような、穏やかな昼下がりに似た熱。
どれだけ敵が恐ろしくても、オールマイトの救けもない絶望感に苛まれていても、爆豪のあの掌の熱に不安は霞んでいった。彼の言葉の一つ一つに心を揺さぶられながら、それでも、あの熱だけはくずおれそうな名前の足を叱咤する。そうして、出久たちに救けられた。
名前。名を呼ばれ、腕を引かれた。――雪崩れるように思い出してしまった。今まで敵やヒーローのこと、個性のことなど思考することは際限なくあって、しかもあの日は頭を殴られていたせいか判然とした記憶ではなくて。
――咄嗟に首に抱き着いた。あの瞬間はあれが最良であったと思う。あの時の名前にあんな爆発力は持っていなかったから。


「…オイ、お前熱でもあんじゃねぇのか」
「! っえ、な、なんで」
「顔、赤えぞ」


ぴたりと踏み出した足が止まる。そんなことないよ、なんて上ずった声に爆豪の不可解さを窺わせる母音が弾けた。思わず下を向いて頬を抓る。
物心がついた頃から傍にいた爆豪の、若しくは爆豪への胸中の変容に、思っていたよりも理解が追い付いていなかっただけだ。彼は一年前とも半年前ともあの六月とも夏合宿の時とも、きっと昨日とも、違うものになっている。吐き出す言葉の粗雑さに変わりはないけれど、腹の奥に積もる何かが変わっていくのが分かる。出久のようにと思う反面、彼と同一ではない変化。それがヒーローとしての自覚なのか爆豪勝己としての受容と変容なのかは分からない。


「――っわ、」
「着とけ。ンなクソ寒ィ格好してっからだろ」


ばさりと頭から投げかけられたジャージから顔を出せば、彼の方がよほど寒いように見えるだなんて言うのは野暮というものなのだろう。半袖のシャツから伸びる黒いインナーがせめてもの肌の露出を遮っているばかりで、薄いことに変わりはない。
冬は苦手だとよく言っていた声を思い出す。雪の積もる朝の気だるい背中。ランドセルで背中の暖を取るように、珍しく丸まる後姿。
ランドセルも詰襟ももうなくて、ただ今はポケットに手を突っ込んでは、丸まることも許さない背筋を伸ばしている。
そろりと腕を通せば、案の定袖も丈も一回り以上大きかった。スカートの裾まで覆えそうな丈の長さが彼との体格差を物語る。――詰襟を着たばかりの頃は、名前と大して変わりもしなかったというのに。


「……変わったねえ、勝己君」


ふわりと、甘いような苦いような香りが鼻腔を掠める。やはり、窓際に差す木漏れ日のような温かさがそこにはあった。



   *     *     *



C組の寮まで見送ってから、またランニングを始めた。指先まですっかり冷えたせいで動きも鈍いが、五分も走れば身体も温まってくる。自身の腕の長さに合った袖をたくし上げて、いつもより大きな一歩で走り続けた。
A組の寮に戻ってきたのは夕飯時も近く、リビングに入るなり炒めた油の匂いが充満していて、空腹の脳を刺激する。
リビングには殆ど全員が集まっていて、大概の話題が今日の文化祭に終始しているようだった。やっと帰ってきたな、と切島の声に適当に返事をして奥の洗面台までスリッパを鳴らす。思っていたよりも数段冷たい水に手を晒しながら、なんとなく先程の名前の姿を思い出していた。
結局いつだかのペンキが落ちなかったのか、鮮やかな色のついたジャージを羽織って座り込んでいた。ボロボロに泣くばかりではなかった。切島の呟いた言葉に、彼女は悲しいばかりで涙をこぼしているわけではなかった。
――高校に入って、こんなふうに名前の隣に立つことが増えたと思う。中学までは隣に立つどころか目を合わすことさえ避けあってきたというのに。隣に並んで、変わらない声音で名を呼んで、そうして最近笑うようになった。
蛇口を捻る。ぱたりと、水滴が掌に落ちる。
だぼついた袖口を垂らしながら変わったねと、小さく呟いた声は、思いのほか柔らかかった。

数日経って、文化祭の名残もなくなった或る日。
生物基礎の授業で視聴覚室へ移動をしようと教室を出た瞬間、次が体育なのかジャージを着たC組の集団が横切った。最後尾を歩く名前と見覚えのある金髪の女生徒がドアから出かかる爆豪と上鳴に気づいた。


「うげ、バクゴーだ」
「――あァ? ンだてめえ、モブのくせして上等だオラ」
「二人とも何で喧嘩腰なの…」


金髪モブの中指を抑え込む名前の目が、爆豪の目を見上げてからハッとしたように瞠ると視線が左右に泳ぎ始めた。
昼時を過ぎた太陽は既に西に傾いていて、彼女の高く結わえられた碧の髪に薄っすらと鮮やかに差し込んでいる。ゆらゆらと挙動に合わせて毛先が揺れていて、体育祭の頃より長くなったなとふと思った。
早く行くよと金髪の背中を押す名前が、一瞬の思案の後何故だか恐る恐る手を振って去っていった。


「やっぱポニーテールに限るよなぁ」


峰田のいつもながら下卑た声は考えるまでもなく先程の名前を指していて、ぴきんと一気に汗腺が燻った。


「気色悪ィこと言ってんじゃねえ、ぶっ殺すぞ!」
「別に減るもんじゃねーんだからいーだろー! 大体お前の――もごぉ!」
「ほら、もう授業始まるし、行こうぜ二人とも!」


瀬呂が峰田の口をテープで巻きつけて、急かすように時計を指さした。切島が勢い良く爆豪の肩に腕を置いたことで時計の針が見えなくなったが、始業まで余裕はあるはずだ。ただ、これ以上の会話は峰田を爆破しかねない。彼の言動も目線も気に食わない。
盛大な舌打ちを一つ、それから燻った掌ごと握りこんで、切島の腕をほどいて歩き始めた。

午後の授業も終わり、相澤の精彩に欠けるホームルームも二学期末に向けてのカリキュラムの話をするとすぐに解散になった。出入りするために開け放たれたままのドアの先をなんとなく視界に移すと、ジャージのままの心操と名前が壁に寄りかかって話しているのが僅かに見えた。
心操の隣に並ぶ彼女は良く笑っていた。気を許しているのが分かるほどに、彼女の笑い顔は緩んでいる。それから教室を出て行った相澤に気づくと、壁から背を離して二人で彼の許に近づいて話始めた。
体育祭のあたりから続けているのであろう個性訓練。名前の個性も、火傷の痕も、炭谷のことも、そのほかのヒーローのことも。心操は知っているのだろう。彼女もあんなふうに笑って、あるいは泣いて、話しているのかもしれない。


「なァ爆豪、さっきの課題なんだけどさあ…ってすげえ皺、どーした?」


プリントを片手にやってきた上鳴がけらけらと笑いながら眉間を指さした。
相澤が廊下の陰に消えていく。残された二人は、腕時計を見やりながらまた笑ってC組に引き返した。


「おーい爆豪?」
「――チッ、毎回毎回テメーでやれや」


がたりと席から立ち上がる。まじで頼む、と食い下がる上鳴の古典の出来の悪さは折り紙付きで、中間試験の時から進歩していない。クソ、と吐いた悪態に彼はそんなに嫌かとしおらしい真似をし始めたのを置いて帰る。どうせこのまま引き下がる奴ではないことくらい知っている。
――知っている。彼女が元来良く笑うことも。漸くその片鱗を爆豪に見せ始めたからといって、拭いきることのできない隙間があることも。それを、どうこうしたいとは思わなかった。――思っていない。ただ、笑うことも、泣くことも、不安なことも、怒ることも、塞ぐことも、それ以外の何であっても、爆豪の手の届かない知らない所で見せているということが、腹の奥をざわつかせていた。

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