僕が食べてあげるから
目が覚めたら、真っ暗な空間にいた。
「…なに、ここ」
右も左も、果てには上も下さえも分からないような黒一面の世界だった。座り込んでいる地面が本当に平面なのかも分からなくなるような場所で、名前の声は反響することなくそのまま落ちていく。瞬きを二度、頭を振って目を凝らすと、誰かが目の前にいた。
「ンだよここ…」
「その声、爆豪か?」
「勝己君…轟君?」
「お前、緑谷の…」
先程までは何も存在していなかった黒い空間に、光源もないというのにやけにはっきりとした輪郭線を持った爆豪と轟の姿があった。お互いが目を合わせて数瞬の後、この事態に陥ったきっかけを思い出した。
――たしか、文化祭の準備で名前が新しいペンキを運んでいた時だった。階段を中頃まで上っていた先で、偶然爆豪と踊り場で遭遇したのだ。その後ろには轟と八百万、芦戸、上鳴、峰田が並んでいて、さらにその上の階層にはほかのA組の面々もいた。目が合ったまでは、よくあることだと思う。名前の両手は合計四つのペンキを三階分を運んだ重みに耐えかねて震えていて、それに気づいた爆豪が顔面を歪めながら一歩踏み出して手を伸ばしたのだ。大丈夫、と首を振りながら一段踏みしめた――と思ったら、上履きが階段の縁を捉え損ねた。身体がぐらりと大きく傾き、爆豪の手が名前を掴むけれどペンキの重量もあるせいか勢いは止まらず、次いで爆豪をすぐ後ろにいた轟が掴んだものの、そのまま名前の背後にいた男子生徒に思い切りよくぶつかって共々階段から転落した。――そう、階段から落ちたはずだ。
二人も状況を思い出したのか、はっとした表情をした後に周囲を見渡した。もしかしたら、これが稀に遭うという個性事故というものなのだろうか。
爆豪が立ち上がって数歩歩いてみたが、すぐに身の危険を感じるような状況ではないようだ。それから彼は真っ直ぐに名前の許にまでやってくると、しゃがみこんで敵顔負けの吊り上がった両目で睨みつけてきた。
「毎度毎度テメェほんとに学習しねェな、ああ゛!? 一人で持てねえもん持ってんじゃねえ! ちったァ考えろ薄ノロ!!」
「あれくらいいけるかなあって…」
「無理だったから落ちてんだろーが!」
「「おい二人とも、こんな状況なんだから少しは落ち着け」」
胡坐をかきながら静観していた轟の声が何かの音と重なった。例えるなら機械音、ノイズ、もしくは反響音。とにかく、肉声ともなんの声とも表現し難い声だった。ぞわりと背筋が粟立って、爆豪が見えもしない何かに神経を研ぎ澄ます。轟も同様に立膝をついて辺りを窺っていた。
「おやすみなさい。良い夢を」
ぽん、とまるでどこからか吐き出されるようにして現れたのは、猪とも違う生き物だった。背の低い四足歩行の獣を模した姿。長い鼻の両脇に、鋭くそそり立つ牙がある。
それは海の中を泳ぐように短い手足をばたつかせて、三人の頭上を動き回っていた。
「テメェ…一体なんのつもりだ」
「何とは心外。ここはただの夢の中。幸せな夢を、忘れたい夢を、満たされたい夢を、壊したい夢を、ただ、夢を見る場所」
くるりとそれは一回転してみせると、景色が一気に変わった。
コンテナが積み上がっている。薄暗い倉庫。窓から漏れる僅かな夜の光。かと思えば夕方の鮮やかな赤が積み上がるそれらを染め上げる。その生き物は、廃材の隙間を縫うように泳いでいた。
火傷痕が疼く。胸を圧される閉塞感に、息が詰まる。いや、もう大丈夫だと決別したばかりだ。下を向かないと決めたばかりだ。だというのに、刺々しく、そして溶岩の掌の残像がぶれる。
「名前」
爆豪の手が、首をくくっていた手首を掴んだ。嫌な汗がこめかみを伝う。
「…ここ、あの倉庫の…?」
「倉庫? どう見ても神野だろ、オールマイトが最後に戦った、」
「俺には、実家の修練場に見えるぞ」
どうやら三人とも違う景色を見ているようで、爆豪が掴んだ手に力がこもったのが分かった。
じろりと彼の鋭い双眸が、生き物を映す。それに表情があるならば、恐らく笑っていただろう。
「僕は夢食いの獏。悪夢も全部、僕が食べてあげる。――君の、怖いものはなに?」
獏――夢を食べて生きるという中国から伝わったとされる伝説の生き物。
チ、と隣で爆豪が盛大な舌打ちを零した。
「どーでもいいからこっからはよ出せや」
「無理だよ。僕は"僕"が寝ているときにだけこうして出てこられる。寝ている間は僕の世界。だから、君たちもまだ出られない。大丈夫。だってここは夢なんだから」
くるりとまた宙返りをした。今度は雄英高校のどこかの教室に景色が変わった。
「起きるまで、鬼ごっこをしよう。鬼はね、秘密。――捕まったら目が覚める。君たちの潜在意識の底に眠っていた"本当"に気づけないまま、目は覚める。でももし、何かを覚えていたまま目が覚めたとしたら、夢食いの獏はすべてを食べることができないってことになる。それが食べてはいけないものなのか、食べることができなかったものなのか。もしくは、忘れてはいけないものだったのか。……僕の力はただの夢路。君たちの通い路。嘘も虚勢も、なんにも要らない。ここは、好きなように忘れられる世界」
瞼のような、暗い幕が下りてくる。抗いようのない瞬きに、声を上げる暇もないまま真下に落ちていった。
* * *
爆豪はどさりと尻から叩き落された。触れた床はひどく冷たく、空気は何処か張りつめていた。ぼんやりとする思考を振り払うように頭を振って、それから手近な机に手を置いて立ち上がる。どうやら雄英高校の教室のようで、窓の外は月の満ちた静かな夜を湛えていた。音が一切ない。異様な静けさが足元から這いずってくる。教室のドアは閉め切られていて、どうやら名前や轟を見つけに行かないといけないようだ。
そういえば、捕まったら目が覚めるといっていた。そうであれば大人しく見つかりに行った方が早い気もするが、相手がどんなものなのかもわからない以上鵜呑みにはできまい。一応個性としては夢を見させる能力、ということで間違いはないのだろう。
爆豪は息を吐いて、それからゆっくりとドアに手をかけた。引き戸を引く音が世界の全てのようで、一瞬誰かに見つかってしまったような気配がして身を屈めた。廊下は眩しい月明かりに照らされて突き当りまで目視できた。ひとまず、何もいないようだ。思わず生唾を飲み込んで、教室を後にした。
――好きなように忘れられる世界。とういうことは、轟も名前も爆豪も、消し去りたいと思うような何らかを抱えているということになる。名前ならば分かる。轟も、体育祭の時に立ち聞いた家庭の事情からそういうこともあり得るだろう。爆豪は、どうであろうか。消し去ってしまいたい過去などない。過去は過去として存在するしかない。記憶から消えたところで、なかったことになるわけではない。いや――どうでもいい。首をごきりと鳴らして、突き当りの階段を上った。
* * *
「君は、だれ?」
気がついたら、教室にいた。通い慣れた小学校の教室ではなく、机も椅子も、随分と背が高い。きょろきょろと辺りを見渡すと、白と赤のツートンの髪色をした小さな男の子が床に座り込んでいた。
彼はびくりと肩を震わせると、小さな手でズボンの裾を握りしめた。
「…しょーと」
「私は、名前。しょーと君は、どうして、ここに?」
分からない、とふるふると頭を振った彼は、大きな瞳をゆらりと震えさせながら縮こまっている。
――名前だって、怖い。ひどい静けさの中、時折遠くから聞こえる気がする足音。夜の教室はすべてが不気味で、思わずグランファ、とこぼしてしまってから心細くなっていく心臓に唇が震えた。
「…でも、逃げなきゃ」
何かからは分からないけれど、はっきりとその感覚だけは頭の中に残っていた。
* * *
何とはなしに上階にやってきたが、二人の姿はどこにもなかった。ただ、この夜更けの学校という景色に、不用意に名前が動いているとも考えづらい。轟に関しては知らないが、彼女ならば落ちた場所の隅で蹲りでもしているだろう。
横合いから何かしらが出てきてもおかしくはない雰囲気ではあるが、そうなったら瞬時に爆破させればいいだけの話だ。なんたって夢の中だというのだから、爆破したところで問題はない。
再び階段を上ると、明らかに他の階とは異質な空気を感じた。ポケットに突っ込んでいた手が汗ばむ。足を誰かに捕まれているような感覚だ。思わず、後ろを見やる。誰もいないことを確認して、前を向いた。
「ッ」
――男が立っていた。やせこけた頬。垂れ下がった金髪。青く燃える双眸。
オールマイト。名前を呼ぼうとした次の瞬間、ふっといなくなった。
心臓が早い鼓動を刻む。クソ、と息を吐き出すように悪態吐けば、ギィと何かが動く音がした。
先程よりも早い足取りで廊下を進んでいく。こんな馬鹿みたいな夢など早く終わらせる。名前を見つけて、ついでに轟も探して、それで終わりだ。
物音のしたあたりの教室を片っ端から開けていった。乱雑に開け放っていく音だけが響いている。端の教室まで来たところで、中から高い声が聞こえた。
ガラッと一切の躊躇なく開け放つ。教室の隅に、二人はいた。――記憶よりも、随分と小さくなった状態だった。
「どういうことだ」
「――か、つき、くん?」
信じられないものでも見るような眼差しを向けてきた彼女は、明らかに小学生と思しき姿をしている。隣で怯える轟など低学年かもしくはまだ未就学児ですらあり得る。
「…名前、お前いくつだ」
「きゅ、九才」
「おいチビ、お前は」
「…五つ」
九才ということは、炭谷の話から推測するに誘拐のあった年だ。そして、顔に火傷痕のない轟。
――それぞれが何らかのトラウマを抱えている年、ということだ。
対して爆豪は十五歳のままだ。脳裏に、先程のオールマイトが浮かんだ。
幸せな夢、忘れたい夢、満たされたい夢、壊したい夢――。
とにかく、捕まるにせよ捕まえるにせよ、このままでは埒が明かない。爆豪は仕方なく名前の手を繋ぎながら、当て所なく彷徨うことになった。轟は名前の方がいいようで、彼女の腕にひっしりと掴まっている。こちらを見上げる目が腹立たしいが、恐らくはエンデヴァーと重ねているのだろう。あの話を思い出すに、父親こそ彼の柵そのものだ。
名前も名前で動揺と猜疑を隠しもしない顔面をこちらに向けてくるものだから、そろそろ青筋が浮かびそうだった。最低限、もう少しまともな会話ができる状態でいてほしかった。
「……勝己君は、もう大人ですか」
「は? まだ高一だわ」
「…いずは、無個性のまま?」
僅かな期待を孕んだ瞳が、揺れている。彼奴は無個性のままだった。無個性のまま、個性を譲り受けたに過ぎない。あのヘドロの日から――。
ガシャン、と今しがた通り過ぎた教室から窓ガラスが割れる音が響いた。Aと書かれたドアを開けると、窓枠に足をかけた出久の姿があった。彼はちらりとこちらを見ると、薄っすらと笑いながら、窓から飛び降りた。
「ッオイ!」
声を上げた爆豪を笑うように、黒い影が月の光に反射しながら落下した。名前の手が離れていく。彼女は彼が落ちた先の窓に縋り付くように張り付いて、足元を凝視していた。困惑した顔が上がる。
夢だ。質の悪い夢。出久の死体などそこにあるはずもない。彼は生きて、燻る爆豪の隣を今も追い抜き去っている。
瞬きを一つした。教室の中央に黒い男が立っていた。体中から棘をむき出しにした男。どろりと、名前の身体に突如現れた傷口から止め処ない血が流れ始めた。
「――っ、――」
グランファ。そう唇が動いたのが分かった。
男の鈍く光る瞳が名前を捉える。彼が動くよりも先に、爆豪が机を飛び越えて右手を振りかぶった。瞬間、右方面から炎が吹き荒れた。男を燃やし尽くさんばかりの炎は確かに彼女から吐き出されていて、そうしながら、彼女自身の身体も燃えていた。血のにじむ傷口からあふれ出る炎に肌を焼きながら、蹲っている。
「もういや」
炎に巻かれた黒い影は動かない。爆豪は名前の許に歩み寄ってから、燃え盛る両手を握った。
「名前」
――壊したかったのかもしれない。九歳の頃の彼女はあの事件の後からずっと、自分自身も、敵も、何もかも、消し去ってしまいたかったのかもしれない。
足元で薄氷が床を覆っていた。彼女の炎を食い散らかすように、冷たい氷が足先から忍び寄る。振り返ると、轟が教室の中央にいた煤けた黒い影の傍でへたり込んでいた。
「おかあさん」
彼を中心に氷塊が足場を追いやっていく。女の泣き声がどこからともなく反響してきて、それを皮切りに轟もぼろぼろと目の縁から涙をこぼしていった。おかあさん、と何度も呼びかけるか細い声。お前のせいで、ぽつりぽつりと落ちていく怒りに滾る声。轟の大きな瞳がこちらを睨みつけたところで、彼の持て余す氷をどうすればいいのかも分からない。彼女を背にやると、ドアの向こうから強風が吹き荒れた。
「もう大丈夫! 私が来た!」
ふわりと現れた最盛期のオールマイトが、轟を抱えて持ち上げた。君の個性は素晴らしいねと高らかに笑う声が、氷塊を溶かしていく。
「君の力は君だけのものだ。それをいつだって、忘れてはいけないよ」
そう言って、オールマイトは徐々にしぼんでいった。轟を抱える腕の細さ、痩せていく頬、落ちくぼんだ瞳が眠るように何度も瞬きを繰り返す。
――彼のようになりたかった。どんな敵にだって勝つ姿に憧れた。彼の背中は、言葉は、いつだって誰かを救っている。
そんなオールマイトを、終わらせた自分。いつかは終わる時が来るとしても、それを早めてしまったきっかけは爆豪にあったのではないかという自責の念。
「爆豪少年」
オールマイトのように、オールマイトを超えるヒーローに。
――過去は過去だ。なかったことにはならない。敵に連れ去られた弱い自分を、あの瞬間の自分の脆弱さを、なかったことにしてはならない。踏み越えろ。圧倒的な強さでねじ伏せろ。これは、忘れたい夢でも壊したい夢でも願望でも、なんでもない。
オールマイトがゆっくりと歩み寄ってきた。ぽん、と爆豪の肩に手を乗せる。
「君の怖いものは、なんだ?」
くらりと浮遊感のある眩暈がした。
ぎゅうと、名前の手が爆豪の手を強く握り返す。
――怖いもの。
「――」
彼女の揺らぐ強い碧の瞳に睨みつけられながら言われた言葉がある。
オールマイトを終わらせてしまったあの日から、たった一つだけ。それだけが、頭から離れない。
* * *
息を吸い込んだ。瞼の裏を差す橙の光が眩しく、ゆっくりと重たいそれを持ち上げた。白い天井に、揺れるベージュのカーテン。部屋のベッドよりは幾分硬い感触のマットレスから身を起して、冴え切らない頭に何度も瞬きを繰り返した。
――なんだか、夢を見ていた気がする。それがどんなものだったか全く覚えていないけれど、ただ、少し胸がざわつくような感覚だけは残っていた。隣を見やると見知らぬ男子生徒が眠っていて、頭を持ち上げると応接セットのソファに轟と爆豪が横になっていた。
呆然とする思考回路で夢の名残を探していると、不意に爆豪がハッと目を覚ました。素早く身を起した先で、名前と目が合った。
「お前、」
そういえば、夢に彼が出てきたような気もする。
お互いに言葉もなく、ただ脳の表面を揺蕩う残滓に思考を擡げていた。長いとも短いとも分からない沈黙の末に、爆豪がおもむろにソファから立ち上がる。
「……なんも、覚えてないんか」
「?」
小首を傾げた仕草に、彼は目を眇めて、身を翻した。どこに、と聞けばリカバリーガールを呼んでくるとのことで、静かに閉じられた保健室は再び静けさに沈んだ。
彼は、何を覚えているのだろう。名前は何を忘れてしまったのだろう。
とても大切なものだったような気もする。忘れてはいけないものだったような気もする。
ん、と身動ぎをした後、轟も次いで意識を覚ましたようだ。むくりと起き上がった彼の髪は寝ぐせがついていて、がしがしと髪を掻きながらぼんやりとこちらを見やった。
「…お前、緑谷の…」
「名前だって…?」
似たような会話を思い出して、それは彼も同じなようで、数拍の間の後悪いと言った。
「俺たち、階段から落ちたんだったよな」
「うん、」
「…なんか、すげえ長え夢を見てた気がするんだが…」
思い出せない。
しばらく二人で状況の確認をしあってみたけれど、これといって何かを思い出すようなことはなかった。
リカバリーガールを連れて戻ってきた爆豪に何を覚えているのかと問いかけたところで、彼は黙り込んだきり一切教えてはくれなかった。