月明かりは真昼より優しい

上階に名字が住み始めて五日が経った頃。緑谷は彼女とのコミュニケーションに難渋していた。というのも最近になって漸く女性ファンとの距離の取り方や女性アナウンサーとの会話の仕方を学んだばかりで、元来口が上手い方ではないのだ。しかも名字は雄英で出会ってきたクラスメイトやファンとのどれとも雰囲気が異なっていて、事務所で彼女が帰ってくるのを待ちながらいつも脳内でシミュレーションを繰り返していた。
我ながらにあの提案は思い返せば何という無謀なものだったかとも思う反面、彼女の躊躇なく死を選びそうな顔にえも言われぬ恐ろしさが胸を過ったのだ。それに気付きながら、あのまま公園で背を向けることが正しかったことだとは今でも思えない。
――傲慢だと思う。これから先で出会う全てのそういった人に同じような選択肢を用意できるわけでもないというのに、目の前にいた名字を捨て置くこともできなかった。
彼女は今日も仕事を終えて重たい瞼をぶら下げながらあの事務所に帰ってくるのだろう。死にたくなる時があるかと問うた声はあの時きりだったけれど、今だって彼女の胸に巣食っているはずだ。そう思うと、少しだけ足元が落ち着かない気持ちになる。


「――デク君? どうかした?」
「!! あ、ご、ごめん…! ちょっとぼーっとしてて」
「緑谷君は最近独立したばかりだろう? 疲れも溜まってるんじゃないのか」


たまたま現場が重なった飯田と麗日とで、夕食というにはまだ少し早い食事を摂りに手近な飲食店に来ていた。それなりに顔も知られるようになり始めてからは個室席を選ぶようになった、この年に数回の同期会で近況を報告し合っていた。


「デク君がもう独立かあ、どんな感じ?」
「ヒーローは僕だけだし、依頼もまだ全然だけど、事務員さんが何とか上手くやってくれてて、今年いっぱいは知名度上げて頑張んないとなって」
「小さなこともコツコツとってやつだね!」


味噌汁を啜りながらそれこそヒーローの本質だと笑った飯田に相槌を打ちながらカツ丼を頬張った。
麗日は黒酢あんのかかった鶏肉を口に放り込むと、思い出したように携帯を取り出した。画面を操作して一つの写真をタップする。
ほの暗い青い光。水槽の向こう側に映る魚の群れは影になっていて、反射する水面や珊瑚の彩りばかりが目に飛び込んできた。


「そうそう、これ! ほら、うちの父が建築だったから定期的に仕事の手伝いに行ってるんだけど、そのつながりでこの間運送系の依頼が初めて入ってきて、水族館の改装に立ち会ったんだよー! 都内の水族館なんだけど、結構季節ごとに改装してて、夏が終わったから秋仕様になってすごい綺麗なんよ!」


何枚か右にスクロールして映し出される水族館の写真はどれもこれも薄暗い照明のせいか、まるで本当に海の中にいるような景色を切り取っている。
――鮮やかな魚の群れ。煌めく珊瑚。揺蕩う水面。緩やかに日差しを生み出す照明。


「――麗日さん、ここってどこの水族館?」


目には見えないものばかりだ。
言葉では推し量れない胸臆も、ふとした瞬間に曇らせる面差しの奥に紛れる生き死にも。そういう彼女の揺れてばかりの胸のうちに、柔らかな何かが積もればいい。
捨て去っていくことを選んでしまった名字の道を誤りだとは思いたくはなかったけれど、そうすることしか選べないのだとしたらそんなものはあんまりだ。
麗日はメッセージアプリからURLをコピーペーストして送ると、サイトを開きながら上目でこちらを見やった。


「誰かと行くん?」
「ぅ、え! いや、その、誰かっていうか、その、し、知り合いが! こういうの好きだといいなあって思って!」


咄嗟の反応でどもる癖はどうにもならなかった。こればかりは生来の気質というか、或る意味彼女たちには気を許してしまっているからこそ治らないものだ。
飯田が白米を飲み込んでから、小さく笑った。


「まあ、緑谷君は大丈夫だろう。上鳴君のこの間の週刊誌も酷いものだったぞ」
「うーん、この間たまたま会ったけど、身に覚えがないことばっかりって泣いとったよ」
「彼は行動言動がいいネタにされるんだろうな…」


知り合いというのがなんだかそういう人だと言葉もなく察されたような会話に、苦笑いを禁じ得ない。いや、間違いではないのだが、二人が思うようなそんな淡いものではないのだ。どちらかというと少し焦っている。一日でも早く、何かで引き留めないと目の前にいるのにもかかわらず救けられないのではないかという恐怖が薄っすらと胸腔を漂っているのだ。
明日も早くから各々が仕事があるというので食事も終えたら解散した。
早めに入店したおかげで帰りの電車に乗ったのが八時を少し回ったところで、事務所にはもう着いている頃だろうかと明かりのついた窓を想像した。
案の定、事務所の曇りガラスは薄ぼんやりと明かりを透過させていて、鍵のかかっていないノブを引いた。受付を通り過ぎて引き戸を開けると、ふんわりと紅茶のような芳しい香りが鼻腔を通る。
いつものデスクに腰かけてミルクティーのパッケージが印刷されている小さなペットボトルを両手に収めていた彼女は、こちらに気づくとお疲れ様ですとそれをデスクに戻して立ち上がった。


「――名字さん、紅茶が好きなの?」


おかえりともただいまとも言えないこの間柄で、たった一つ「お疲れ様」とだけまるでビジネスマンのようなやり取りをしたあと、名字の目の前に置かれているホット飲料を見た。殆どなくなっているペットボトルを持ち上げて、彼女は数度の瞬きの後にそれほどには、と曖昧に言葉を落とした。


「…帰り道、寒かったので」
「あ、確かに。風が肌寒かったね」
「その割には、半袖ですね」
「え、いや、名字さんが寒がりなのもあるんじゃない…?」


残暑というには幾分気温の低い日が続いていた。彼女は薄手のカーディガンを肩にかけていて、青白い顔通りに寒がりの人なんだなと知る。そうかもしれないですねと矢張りぼかした返答を最後に沈黙が降り注いだ。会話の話題を探りながら、シンクで両手を泡立てる。
――麗日の携帯に収まった水族館。一緒に行こうというには親しい関係には収まりきらない。気分転換に行ってみてはどうかと提案したところで頭を横に振られる以外のイメージがわかない。
一日でも早く。そう思うのは、彼女があまりに持っているものに対して未練がないからだ。少しだって惜しんでいない。この間の部屋の荷造りも然り、彼女が作った段ボールはたったの五つだ。一人暮らしといえど、服やら雑貨やらと詰め込めばもう少し荷も増えるだろう。段ボール箱が五つというのは、彼女がこれから先を生きるための最低限のもので、尚且つ終わりを何処かに見出しているような、そんな気がした。いや、これは気などと不明瞭なものではなく、いつだって彼女はそういう機会をうかがっている。あわよくば、とその瞬間がもしも目の前にあれば拒むことなど忘れてしまうかもしれない。
――ただ、そんな彼女にたかだか一介の見ず知らずのヒーローである緑谷が出来ることなど本当にあるのだろうか。
何故と、その段ボールを前に問いかけることすらまだできていないというのに。


「あったかいお茶、飲みますか?」
「お茶、ですか?」


少しばかり目をぱちくりとさせた名字に笑って、ケトルに水をためる。電源を押せばすぐに温度の上がっていく音がした。足元の戸棚を開けると白のカゴの中にお茶の葉のパウチが並んでいて、手前から一つ取り出して封を開ける。基本的には来客用で、それ以外飲む機会はあまりなかった。それにしても量は多いので、少しずつ使ったところでなくなりそうもない。
急須に茶葉を振り入れて、自身のマグカップを取り出してから来客用のティーカップを並べた。


「…綺麗なカップですね」
「え? ああ、高校の友達が、独立祝いにくれて」


こういうところもかわいいと印象変わるよ、と麗日がティーカップセットを紙袋に提げてやってきたのが随分と昔のように感じる。
パチンと沸騰をしらせるスイッチが鳴る。急須にお湯を足して、蓋をして茶葉を蒸していく。隣に立つ彼女はパウチの裏面を手持ち無沙汰に見下ろしていて、耳元で揺れるシルバーのスティックが照明の光をまるで涙のように反射させては溢していた。
――いつも、その横顔は泣いているように見えてしまう。瞳の縁が震えているわけでもなく、こらえるように唇を引き結んでいるわけでもないのに。


「…デクさん、何か…?」
「ぇえ、あ、いや! ごごめん…!!」


そろりとこちらを見やった瞳に慌てて視線を手元に戻す。急須を持ち上げて湯気立つ緑を注ぎながら、またちらと隣を見下ろした。名字は、茶葉が波間に揉まれる様を見つめていた。


それから、名字と二人きりの奇妙なお茶会が始まった。来客用のティーカップを使ったのは初日のその日だけで、何故か翌日からは紙コップになっていた。使って良いのにと言った言葉に、彼女は綺麗過ぎて、とこぼしたきりだった。
デクさんのご実家って静岡なんですね。何日目かのお茶会でパウチを片手に振り向いた彼女のその一言が何故だかひどく嬉しくて、名字さんはと返した声に一拍開けて、神奈川だといった。雄英高校が窓から見えていて、と目を細める彼女は記憶の隅をなぞっているようで、ああまだ懐かしむために思い出すこともあるのだと安心したのを覚えている。
だからだろう。どうして荷物を置いてきたのだと、ようやく言語化された疑問。捨てる為の道を往く彼女がまだ捨てていないものを持っていることに安堵して、かけた問い。すると名字は、置いていきたいのだと言った。
身軽になれば死を乞う足取りも軽くなると思っている。本当にそうだろうか。彼女にあらゆる何かを積み重ねたところで、留めてくれるような重さになるだろうか。重くなった足は自由落下で加速度を増していく。
――貴女の頑なな足場を作りたい。絶え間ない雪が降り積もって、厚い氷の層を成していくような。


「名字さん、今週の土曜、空いてる?」


彼女の心にいつも冷えた水面が揺れている。それは彼女の死を願う波紋を呈していて、砂浜でそれをたった一人で眺め続けている。
そんな波紋ごと凍って仕舞えば、貴女はその上を歩いていくことだってできるのだろう。落ちない氷の上を、あわよくば、柔らかい月の光に足元を照らされながら歩いてほしい。
――現地集合をした水族館の土産物屋でふいに視界に入った白のカップを漂うクジラが、なんとなくそんな姿を連想させた。

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