確かあれは十八の誕生日を迎える数週前のことだったと思う。私はあのとき、水に溺れて死ぬのだと自覚しながらに息を止めた。心臓の弱くなる鼓動の音に合わせ吐き出したあぶくを見上げては、濃い青に沈んでいく意識を覚えている。
私は人だった。親に決められた見合いを目前にした、そこそこに裕福といえる家庭のしがない三女であった。その親の顔も己の名前もどうしてか思い出せないが、私はあの頃確かに"私"だったのだ。それならば今の私はあの頃と同じ"私"なのだろうか。
「ねえ」
この隔絶した辺境の村を繋ぐ唯一の橋を向こうから渡り切った少年が、私を見上げた。異人を思わせる髪をした彼はざんばらな前髪を指で払うと強い日ざしを避けて木陰に座り込んだ。私は変わらずに彼を見下ろしたまま、恐らく立ち尽くしていた。
「あんなに多かった氾濫がこんなにも穏やかになったって、みんな喜んでるよ」
手近な名も知らぬ草花を撫でるように指先を動かしてから、彼はどこからともなく葉巻を取り出す。煙が立ちこめてはいるけれども私にはそれが何の匂いかはわからなかった。
「彼女の赦しが効いたってことさ」
彼の形の良い唇から吐き出された紫煙が私の体を通り抜ける。ゆらりと水面が風に波立つように、私という意識がわずかに揺らいだのを感じた。私は彼を知らないはずなのに、彼の言葉が私を通り抜けていくたびに"私"という何者かの意識を思い出せるような気がするのだ。水の中にいるように重たく、それでいて軽いような右腕を持ち上げ、彼に少しでも近づこうと指先を伸ばす。刹那緩やかな風が木漏れ日の形を変え、指先が淡い光に照らされた。見覚えのある光の反射に、もう錆びれた心臓が軋みを上げた。ああ、私はずっと、この光を知っていた。
「君はまだ、探してるの?」
透明な指先を見つめる彼の瞳が、長い睫毛の影に隠れる。私は彼とのこの距離感に、初めて疑問を抱いた。
「君がこの地を忘れなければ、ここは変わらずに君に守られる。折角覚えた自己の感覚を捨てるか身につけるか、答えは一つじゃない」
優しいのね、と頭――どこが頭なのかという認識も定かではないけれど――のどこかで響いた声は口には出さなかったような気がしたけれど、彼はゆっくりと立ち上がって私を見上げた。
「仕方ない、約束しちゃったし」
はあとため息を吐いて肩をすくめた彼は楽しげに、柔らかく、少し目元を歪ませて笑った。約束、と唇が形を作る。暖かな日差しも通り抜けていくというのに、体がちりちりと焼けるような気がした。私は、彼を知っている。
「忘れなければ、覚えていれば、繋がりは消えないものだよ」
「つ、ながり」
声が、弾けた。喉の奥からひゅうと確かに空気が通る。彼の旋毛を見下ろしていた視線はゆっくりと下がり、細くしなやかな首筋を見上げた。
素足の指先を葉の先がくすぐる感覚を覚えた。湿り気を帯びる土の柔らかな反発と、鼻を抜けるさわやかで少し刺激のある匂いが鼻腔を衝く。私は"私"を知っていた。
「探し物は、一人より二人の方がいい」
流れる水面を撫でるような穏やかな声が降り注ぐ。先程までの反響したくぐもる声はなく、音が鼓膜を揺らしている。――確かに、あの日暗い水の底で息を止めた"私"は、ここにいるのだ。
「わ、たし…私は、名前、でした――」
見上げても浮かぶあぶくはない。肺を押しつぶす水圧も、光の屈折も。
「昔も今も、それは真名だよ。それは君である証だ、君がいる証だ。名など呼べば容易いが、思い出すなら真実さ」
彼の言葉は十八であった"私"にはひどく難解で、それなのに耳に馴染む声が愛おしかったのだ。
「名前」
ぱちんとシャボン玉が割れる音に似たそれが木々の間でこだまする。残り香だけを色と匂いに残して消えた葉巻を挟んでいた手を翻し、彼の僅かな温もりに相対して冷たい私の手を掴んだ。
「帰るよ」
頬を水滴が伝う。雨もなく、川もないのに、とめどない水滴が頬を濡らしていく。それは"私"が飲み込んだ水より温かく、塩辛い味がした。