赤い糸の先に辿るのは、運命の人。
なんて、そんなばかげたことを言っていたのは誰だっただろうか。運命の赤い糸などと、そんなものは目に見えなければ存在などしているはずもないというのに。
酷く冷たい。外気の気温はこの国が南に位置する所為で生温いのにもかかわらず、それはどうしてかひやりと氷のように冷たかった。
雪のように白い肌に白い髪は、窓から差し込む月明かりに煌めいて酷く儚く見えた。女性かと見紛うほどの整った顔立ちを羨んだ事はないが、彼の鋭く真っすぐな瞳だけは強く惹かれた。
彼女は一つ瞬きをして、目を細める。
「……月が綺麗ね、ジャーファル」
彼の瞳から目を逸らし、遠く輝くそれを見やる。高過ぎて手も届くはずのない月は眩しくて、また目を閉じた。首筋にあてがわれた鋭利な刄が震えるわけでも弱まるわけでもなく強く押し付けられる。今彼がその手を横に引けば、赤い鮮血が散るのだろう。
「だったらなんです、名前」
言葉は至って冷静そのものだが、何よりも先程逸らした視線の先にあったものは微かに揺れていた。ばかみたいね、と彼女の声がいやによく響いた。
シーツに沈む体を身じろぎさせ、右腕をのばす。指先がジャーファルに触れた瞬間、がぶりとそのふっくらと紅い唇に噛みつかれた。白い歯を食い千切らんばかりに突き立てるものだから、彼女は目を細めて痛いよと呟く。まるで喋るなとでも言うように、彼は切っ先を僅かに滑らせた。ぴりと鋭い痛みが走り、切れた皮膚から温かいそれらが流れるのを感じた。
ジャーファルは咥えていた指を抜いて刄に舌を這わせるように、熱い首筋の傷口を舐める。ざらりとした感触が肌を這い、唇からもれる吐息に臓腑を指先で撫でられるような感覚を覚えて目を瞑った。
艶めかしい音が耳元で響くのにどこか遠くのように聞こえ、噛み付かれた指先を彼の白い髪にのばす。瞼を閉じていても彼が目を細めたのがわかってしまうのは、好きや嫌いなどという淡くて仄かな想いからではない。指先からあふれる想いは、昔に比べれば酷く錆付いて重く、それでいて鈍く光るように愛おしいものに変わってしまった。
クーフィーヤをするりと外せば尚更それは月の光に反射して眩しかった。ふわりと落ちた前髪が頬を掠めてくすぐったい。ん、とこぼれた声に彼は一瞬動きを止めて、眷属器を首筋から放すと枕元に手を置いた。
さして深くはなかった切り傷の出血は収まったようで、彼は傷口と目蓋、鼻筋にキスを落としてくすと笑う。
ゆっくりと目蓋をあげれば唇を紅に濡らして猫のように目を細める彼が、いかにも愉しげに彼女の名を一つ呼ぶ。
「名前」
「なあに」
少し擦れた彼の声が、愛おしかった。
「名前」
唇だけで囁かれた声に浸る。水に溺れたようにぼやぼやとする感覚が、脳内を緩慢にさせていった。
冷たい右手が頬を撫でる。目元をなぞり耳の後ろに指を這わせて、彼女の黒髪を梳いた。
「…どこにもいかないわ、ジャーファル」
小さく上体を浮かせて彼の首に腕を絡めて抱き締める。
少しだけ香る赤いにおいに、目を瞑った。