※ シン←夢主←ジャーファル
ただ愛おしかった。触れ合うだけで何か大切なものを共有できたような気もしたし、たかだか私の名前をその唇が紡ぐだけで酷く温かく自分の物ではないような感覚さえも起こさせたのだから。ただこの心臓の奥に沈んだ想いに色を付けるには、きっと重すぎたのだ。
彼の指先が頬を撫でる。やわらかく透き通るような白い肌はほんのりと紅く、造り物のように形の整った唇が気恥ずかしそうに緩んだ。
「シンドバッドさま」
鼻に掛かるようなどろりと甘ったるい声に、彼は目を細めて彼女の名を呼んだ。
私は彼らに背を向けるように壁にもたれ、ずるずるとしゃがみこむ。インクの匂いが染みた官服に顔を埋めて、吐き出せない声を飲み込んだ。
――知っている。彼がどれほど女性というものが好きで、彼のその容姿がどれほど麗しく人目を引き付けるものであるということくらい。そしてなにより、それに釣り合うわけがないほど私自身の容姿が平凡すぎていたことも。それでも、私だけの名を呼んでくれる彼の声に淡い期待をしていたのだ。
「ばかみたい」
乾いた唇が笑った。隣で散らばる巻子本を視界に映し、目を瞑る。
ただの紙切れのように、彼の熱情に焼かれて死んでしまいたい。骨の欠けらも髪の毛一本も残さずに、欲を言えば私という人間すべて。消えてなくなってしまえばいいのに。
「名前?」
私の名は、もう輝くこともしない。
「……ジャーファル様」
足音もなく近づいた彼は左隣に散らばる仕事に溜め息を洩らすこともなく、ただ無言でそれらを拾い上げた。壁の向こうにいた甘い声は、そういえば聞こえなくなっていた。
「大丈夫ですか?」
両手で抱え込むように収まった巻子本は、私が持っていたときよりも酷く小さく見えた。彼の覗き込むような視線から逃げるように立ち上がり、頭を下げて手を伸ばす。ジャーファルの腕の中のそれを奪うように抱え込めば、するりと音を立てて一本の巻き物が落ちた。
「すみません、書庫整理行ってきます」
すべてきっちり抱え、もう一度頭を下げて踵を返した。大丈夫なわけが、ない。今にも目尻から溢れてしまいそうで、喉から漏れてしまいそうで。少しでも早く一人になりたかった。
「名前、!」
それなのに、ジャーファルの腕が私の体をとらえたせいでどこにも行けなかった。放してください、と抑揚のない声で言えば尚更腕の力が強まって息が詰まった。――インクのにおいが鼻を掠める。そういえば彼はいつも品のいい香を体にまとっていたなあ、なんて遠い昔のことのように思い出せば心臓が悲鳴を上げた。
「どうして、あの人なんです」
「放してくださいジャーファル様」
「名前、名前…っ」
例えるなら月と太陽のようなものだったのかもしれない。月は太陽の光がなければ底無しの暗闇に沈むだけだ。――こんな私を月と例えることもおかしな話だけれど。
ジャーファルの口から何度も零れ落ちるのは紛れもない私の名前だけれど、あの時の輝きと比べればなんて鈍くて陳腐なのだろう。
「ジャーファル様」
緑色のクーフィーヤが視界を遮る。この時私の顔がまるで作り物ように整っていて透き通るような肌に瑞々しい唇でもって彼の名を呟けば、あの人は焦がれた声で私の名を呼んでくれるのだろうか。
背中の壁に縫い止められるように腕を掴まれれば頭の中がちかちかとするような口付けが落ちてくる。あの人がこんなふうにしてくれたことなどなかったから、目を閉じたところで頭の中でそれが入れ替わることもなかった。ぎゅうと抱き締めた巻子本の束を挟んでジャーファルが体を押しつけてくるものだから、背骨が軋みをあげた。
「っじゃ、ふぁるさま」
まるで求めているかのような自分の声が気持ち悪かった。頭の中が白くなっていく。その白さは、どうしようもないほど焦がれていたものだった。今はもうずたずたに切り裂かれて目もあてられないような色をしているに違いない。
「どうして」
どうしてと繰り返す彼も、もしかしたら私のように壊れてしまっていたのかもしれない。どちらとも分からなくなった唾液が顎を伝い落ちた。首筋に顔を埋めて震える彼を、ぼんやりと歪む視界を眺める私を、誰が癒してくれるというのだろう。
深く抉れた傷口に、何の意味もない牙を突き立てた。